其蜩庵井蛙坊

井戸の底より見たり聞いたり喋ったり

チャペックの夢について

2008-01-24 15:11:32 | 文芸
カレル・チャペックの「長い長いお医者さんの話 岩波少年文庫」は、むかし知り合いの小学生へのプレゼントのつもりのでした。ところが、面白かったので、いまも持っています。勿論五十年ほど前の本ではありません。中野好夫訳ですが、その後に買ったものです。この童話集は、1931年つまり私が生まれた年に、出版されました。
今読んでいるのは、「カレル・チャペックのごあいさつ 田才益夫訳」です。「お医者さんの話」でもそうですが、挿絵も又よろしいのです。これは童話でなく、エセッイ集です。
夢という言葉は、曖昧な使われ方をしていると思います。夢と希望は、前途への良き期待をする場合に使われますが、希望はいいのですが、人類の夢などの表現には、首を傾げます。
「ごあいさつ」のなかに、「夢について」があります。
チャペクの言い分です。
○一二年の間に二つか三つの夢なら思い出すことかできるし、思い出すに値するが、それ以外の夢はありふれた、つまらない、通り一遍の、笑止千万な、なんの役にも立だない、愚かでいやらしい、破廉恥な、無細工な、くだらない、俗悪な夢ばかり。
○夢はすごくつじつまの合わないもので、普通はあなたか一日中やっているのと同じ仕事の夢を見るもの。
○夢について最も不愉快きわまりないのは、夢のなかで私たちがまったく受身であるということ。どんなに意思や知性や積極性を働かせても夢の筋を変えることはできず、それがどんなに私たちに意地悪なものであっても、それが(少なくともわれわれ男性にとっては)最大の恥は、つまり受身でなければならないということ。
など、彼一流の具体的で軽妙な言いまわしで述べてあります。しかし、言いたいのは、次以下のことではないかと思います。
○目覚めているということは、本当は、夢を見ることよりも面白いのです。それは充実していて、緊張感かあり、創造的です。最もファンタジックなことを私は現実のなかで経験しました。
かれのエセッイは、肩が凝らない柔軟な語り口の文章です。

お話のついでに

2008-01-22 14:42:24 | 
地元の中国留学生と会話する機会を得ました。話の中で、日本では羊の肉を食べないのかと尋ねられました。ひところは、ジンギスカン鍋が流行したことがありましたが、このあたりではいま見かけないようになりました。話が日本の捕鯨が対外的にはあまり好感を持たれていないことになりました。そこで、鯨について話しました。生物学の知識は、鯨が魚ではなく、哺乳動物であることに止めておきました。
鯨は魚扁に京と書きます。京は普通、京都などのように、都の意味で使われることが多いのですが、この場合は十兆、また一万兆と言う大きな数、つまり大きな魚を表現したのでしょう。雄のクジラを鯨、雌のクジラを鯢と書きますから、当然昔の中国大陸の人も魚として鯨を知っていたのです。
映画「白鯨」の題材になったアメリカの捕鯨は、主に鯨油採取のためでした。おそらくほとんど灯油として使われたのではないかと思います。やがて石油の産出によって鯨油が不要になり、捕鯨も終わりを告げました。けれどもそれまでに相当多数の鯨が捕獲されたことでしょう。
江戸時代の日本の捕鯨は、沖合漁業(沿岸近くに泳いできた魚を捕る漁法)で、手漕ぎ小舟での全く命がけのものでした。今の南氷洋での捕鯨船による大がかりな捕鯨とは違います。
日本では、仏教の影響と思いますが、牛馬豚などの獣類の食用が禁ぜられていました。それと明治以前の地理的環境では、牧畜業が成り立ち難かったのででしょう。そのため食肉の習慣が無かったのかもしれません。ただし猪などは捕獲され、食用とされていました。しかし鯨は魚と見なされ、食用とするのに抵抗がありませんでした。そこで様々な食品になりました。
例えば、美味である鯨の百尋とは、鯨の長い腸をボイルにしたものです。尋とは、左右に手を開くことを尋といい、一ひろの長さです。動物の腸はご存じのとおり、ソーセージなどの食品として美味です。蕪菁骨(鯨の上顎の軟骨)を酒に粕漬けた松浦漬という珍味さえあります。いわば骨までも食料にしました。
昔々のご先祖が鯨組に係わっていた旧家の仏壇に、「万霊鯨鯢成仏」と書かれたものが祀られてあるのを見た事があります。


紙のこと

2008-01-18 12:38:31 | 日常雑記
ずっと前のことになりますが、かなり余裕のあるお方の書斎を整理したことがあります。下書きは包装紙の裏紙をお使いでした。今、私は申し訳ないのですが、贅沢に、ぞんざいに紙を使っています。
紙を多量に消費するようになった一端は、複写機の普及ではあるまいかと思います。事務系の仕事場は勿論、個人的にも複写機により紙が安易に使われています。更に役所や会社の機密保持上から、排出される多量の文書量の処理に頭を巡らすと、焼却するか、溶解して再生するしかないでしょう。
あらためて再生紙の配合率のことを知りました。ただ率については全く無知でした。
「たとえば古紙配合率が高いほど環境に良いというのは間違いだ。木材から作ればパルプ繊維を取りだした残りが燃料になるが、古紙再生では別に石油など必要になる。紙の色を白くするために化学薬品も入れる。コストもかかる(槌田敦 元名城大教授)朝日紙」。
のだそうで、古紙再生にも、問題が含まれていることが判りました。同様ペットポトルの回収などにも生ずる疑問でしょう。
商品としての紙の価格にも問題があります。紙の値段が高ければ、無駄を省く知恵が出ます。さほど必要がないものまでをコピーはしなくなります。
インターネット上の情報は、紙に印刷しなくてもCDやDVDに記録して充分なのですが、紙の上に活字としないと落ち着きません(わたしだけでしょうか)。そのためいたずらに紙の消費を増やしています。
インターネットによるニュースの情報で全て賄えるとは限りません。夥しい出版物の洪水は止まらず、その出版物の基になった紙に関する資料は膨大なものでしょう。
妙に嫌な想像をします。結局無駄が繁栄の基ではないかと。
穀物でいいのに家畜を飼う、鰯でよさそうなのに飼料としてハマチを養殖する。パソコンがかなり普及しているのに、いまだに書籍がCD化されず、本屋の店頭は膨大な紙の山である等々です。

子の年

2008-01-15 13:31:21 | 文芸
十二支について、南方熊楠の注釈がある事は聞き知っていましたが、なんとなく取り付き難い気がし、敬遠しておりました。ところが軽いものばかりでは、心許ないので、図書館より全集第1巻を借用しました。
年に因んで、「鼠に関する民俗と信念」を読み始めると、文字面は難しいが、諸処に笑いを誘う表現があって、大部の著作に惑わされていたのが惜しまれました。そのうちのどれだけに目が通せるか、この歳ですから判りません。惜しまれるのはそのことです。
少々引用すると、次の通りです。
「頼まれた惚れ薬の原料をとりに中禅寺へ往ったさい、この大黒さまを篤と拝もうと滞在した米屋旅館に、岩田梅女とて、芳紀二十三歳の丸ポチャクルクル猫眼の仲居頭あり。嬋娟たる花の顔ばせ、耳の穴をくじりて一笑すれば天井から鼠が落ち、鬢のほつれを掻き立てて枕のとがを憾めば二階から人が落ちる。南方先生、その何やらのふちから溢るるばかりの大愛敬に鼠色の涎を垂らして、生処を尋ねると、」
巻末の金関丈夫の「その豊饒感からくる圧力は別としても、かの天衣無縫の文体複合によって与えられる快感を、まだいかなる日本の文学者からも、私はうけとったためしがない」、読後感はこれに尽きます。
惚れ薬は、大正十一年の夏、某大臣に頼まれてのことだとあります。大黒様は日光山にある走り大黒だそうです。

閉と言う字

2008-01-12 13:40:30 | 文芸
近頃はコンピューターゲームが、子供たちの「手遊び」の主流となっています。電車内では、携帯電話を使って「手遊び」に熱心な大人も大勢います。
ですが、とっくに忘れられているだろうと思っていた「あやとり」は、国際あやとり協会まであり、かなりの愛好者がおいでのようです。「あやとり」はコンピューターゲームにないお洒落れなお遊びだと思います。
「手遊び」の癖は、小学生のころ教室で、先生によく注意されたものでした。車内では、携帯電話の使用に、再々注意が喚起されているのを耳にします。一見して「手遊び」か通話かが分別出来ません。
故事成語の本に因りますと、大昔の中国に「閉」という、いわば知恵の輪に類する「手遊び」があったようです。閉とは、難しく結んで解けないようにした結び目だそうです。理屈としては、結ばれている以上解けない筈はないでしょう。答えはあるが、さしあたって解く方法がない、と言う事例は世間にはざらにあります。
この「閉」という字について、持ち合わせの漢和辞典を二三当たりましたが、このような「語釈」はありませんでした。



絵具屋の女房

2008-01-11 15:07:49 | 日常雑記
絵具屋の店先を眺めるのはわたくしも好きです。ことに数多くの顔料の瓶の並びを眺めると、これが自由に使えればと幾度も思いました。買って見たものの、しかし結局使わず仕舞いでした。
丸谷才一著「絵具屋の女房」は、常のように博学多識に曳きずられて面白く読みました。中でも「英雄色を好む」は時節柄いい読み物でした。著者の博学は人助けであります。
寄る年並みとともに、とみに脳の皺が伸びきり、記憶力の助けがないと駄目な外国種もあれこれ含まれ、著者の雑知識の披露は有難いと思っています。世間には、珍説愚説辞典など奇特な本もありますが、それを孫引きするのはちょっと安直過ぎます。元になる本が残念ながら読めませんから。
「英雄色を好む」のなかの「馭戎慨言」は、日本語ですから、読んでみることにしました。解題者大久保 正氏の傍注あっての覚束ない読みでした。本居宣長の国学には、大東亜戦争中であれば別として、今日日触れる機会はなかったことでしょう。しかしお弟子さんを含めた同時代の人は、どう読んだものでしょうか。
「絵具屋の女房 文藝春秋社版平成十五年十月三十日発行」の「英雄色を好む」は一読の価値があるようです。

頭寒足熱

2008-01-09 17:21:20 | 日常雑記
年のせいか明け方になると、足先が冷え込むのです。幸い今冬は、お正月三が日少し冷え込みましたが、以来それほどの寒さではありません。
しかし忸怩たる思いで、靴下を着用しています。床にいるだけではなく、手洗いに立ちますので、朝まで目の覚めることの無かった若い時分ではないと自己弁護もします。
若いころ、床に入って足袋を履いていると、火事になって足が立たなくなるぞなど、脅しとも躾けともとれる注意を受けていました。
頭寒足熱は安眠のためよいとも聞きます。ですが近頃のように、火事による不幸なニュースが多いのには、足元から臆病風が忍び込んできます。

鶯の訪問

2008-01-03 17:17:29 | 日常雑記
年々によって野鳥の訪れに違いがあります。ヒレンジャク、キレンジャク群れが数多く飛来したことがありました。以来二十年近くになりますが、その後の飛来はありません。
家の近くに榎の大木があります。そのせいか毎年の初夏にはアオバズクの番がやって来ていました。周辺に高層の建物が増え、いつの年からか、ぱったり鳴き声を聞くことが出来なくなりました。
その榎には、シメやコゲラ、カワラヒワ、シジュウガラなど、またエナガの群れが寒い日吹雪をついてやって来ました。コンクリートの建物が立て混み、自動車の往来も頻繁ですが、数は少なくはなりましたが、小鳥たちが姿を見せないことはありません。
元旦は強風と雪の寒い日でした。昨日は時折強い日射しもある日和でした。まだ雨戸を開けないころ、鶯の地鳴きを聞きました。朝食の後も聞こえましたので、庭の中央の僅かな畑に鶯がいるのに気づきました。植え込みの藪から鶯の地鳴きはよく聞きますが、姿はなかなか見せません。
珍しいので、しばらく鶯の訪問を眺めておりました。