其蜩庵井蛙坊

井戸の底より見たり聞いたり喋ったり

彼岸花

2006-09-29 20:30:35 | 日常雑記

彼岸花は足元のそれを観賞する花ではないようです。田んぼの、土手の、墓場のあたりに点在し、また肩を並べて咲いているのを、電車やバスの車窓から、眼を遠くに放って眺め行過ぎる、ああ、秋と、袖から出た腕に風を感じさせる、そんな花ではないでしょうか。
アメリカで園芸師として働き、交換船で帰って来られた年配の方からうかがった話です。雇い主はかなりの資産家であったらしく、門から玄関まで車で30分程もかかることや、邸内に自家用天文観測所があったことなどでした。まだそのころそのようなお金持ちを切実な実感とはなし得なかった時代でした。
どんな切欠でしたか忘れましたが、戦時中、煙草の巻紙に使う糊が欠乏したので、彼岸花の根から澱粉を製造し使うことを専売局の知る辺に助言したことも話されました。彼岸花のころでだったかもしれません。穏やかな人柄と自慢話にしては、地味に過ぎますので作り話とは思えず、いまでも彼岸花のころには思い出しています。

九州探題

2006-09-24 14:50:26 | 歴史
西鉄五条駅近く県営病院があり、この敷地一帯が九州探題の城址だろうと思われます。
今川貞世は足利義満から命じられ、九州探題として赴任しました。かれの業績は歴代探題に比べて甚だよかったのですが、讒言に加え、中央政局の変化により、応永二年、二十五年に亘る職を解かれ、京都に召還されました。そして残余の人生を、和歌連歌の指導と述作活動捧げたそうです。
九州中世の政治状況は、北朝南朝敵味方入り乱れての混沌状態、親子兄弟ですら足の引っ張り合っていたようです。この時代の武士道とか忠孝の道などどのようなものだったのでしょうか。武士道は、侍がサラリーマン的になってから、出来上がった道徳じゃないかと思います。織田信長に滅ぼされた今川氏の子孫は、江戸時代高家となったそうです。
太宰府市内は遺跡調査で処々掘り返されていますが、病院敷地では手が付けられないのでしょう。しかし、筑前国続風土記附録の記載もあることから、ほぼ間違いないと推測します。

古古(グーグー)

2006-09-23 14:30:36 | 生き物
北京動物園のパンダ「古古(グーグー」の話であります。ビールをジョッキ四杯飲んだ酔っ払いは、人懐っこいパンダ風貌を早呑み込みしたのでしょう。柵を越えてパンダとの握手を試みました。ところが、驚いたパンダは彼の右足を噛みつきます。双方の取り組みは、飼育員が水をかけることによって終了しました。酔っ払いはよく思い込みをするものです。
素面でも恋情が絡むと相手の仕草を深読みし、間違いを起こします。悪いことには、迷惑条例に抵触して、人格に誤解を受けるお方もあります。心すべきことでしょう。一概にすべてを善意に解釈し、弁護しているわけではありません。(CNNニュースから)

敬老の日

2006-09-18 17:06:06 | 歴史
昨夜の嵐は治まりましたが、朝からどんよりした日和です。

足利義政が銀閣寺造営に着手した文明14年の2月、イングランドのウイニングトン村にトーマス・パーが生まれました。かれは小作農として働きたらき、80歳になって初めて結婚しました。小作地の借用契約を幾度か更新したので、その契約書によってかれの年齢が公的に証明されました。

112歳のとき妻がなくなり、その10年後に未亡人と再婚します。しかし105歳のときには、お元気なことに、近郷まれなる美女と婚姻外の子供をもうけました。このような噂を聞いたトーマス・ハワード伯爵は、かれを自分の保護下におき、ロンドンでチャールス一世に会わせることしました。1635年9月、かれはチャールス一世に謁見しました。

ロンドンでの生活は甚だしく激変しました。贅を尽くした食事は当然です。そのため同年11月14日、152歳の長寿を終えました。かれの子孫も長寿のようで、127歳の曾孫がいたと資料にあるそうです。ここでちょっとした考えも思い浮かぶのですが、
足利幕府は幕を閉じ、信長は殺され、すでに豊臣も滅び、「鳴くまで待とうホトトギス」の参勤交代の時代が始まっています。
さて、本来ならば、今宵由緒あるオールドパーでグラスを傾けたいのですが、近辺のスーパーの店頭には残念ながら無いのではと思います。

アオマツムシ

2006-09-17 13:43:47 | 生き物
昨夕、ガラス窓に止まっていた虫を調べたところ、アオマツムシであること、明治時代に日本に入ってきた帰化虫であることが判りました。樹上生活をし、夏は夜鳴くのですが、秋には昼間にも鳴くが、音は弱々しくなるそうです。足元で鳴いているとばかり思っていましたが、二階の窓近くから聞こえてくるのが不審でした。
西部劇の夜のシーンで、うるさいほど聞こえる虫の声に、外国の人が無感興なのが不思議でした。ところが近頃では、詩人アーサー・ビナード(日々の非常口の著者)、古くは小泉八雲などの例外もあるようです。
虫類を詮索した副産物として、蝶は一頭、蛾は一匹、蚕は一頭、毛虫は一匹と数えること、と知りました。どのような根拠があるのでしょうか。


川越市水路のオットセイ

2006-09-12 14:09:45 | 日常雑記
江戸時代のたとえば譚海や甲子夜話などの随筆には、常識では首を傾げる話がよく載っています。相応の学者や知識人が筆記者ですが、眉唾ものだなと思うことも多くあります。わたしの態度としては、筆記者が証言者の人格を信頼して書いたことを根拠に信じることとしています。
埼玉県川越市の水路に迷い込んだオットセイの今朝の新聞記事が江戸随筆に書かれていたとすると、信憑性は疑問視されるでしょう。
あらためて地図を見、川越が海岸線よりかなり内陸にあることから、おい、おい オットセイ君どうしたのかねと声がかけたくなりました。

上野動物園の担当者は、「野生の個体が迷い込んだのではないか」と一応野生の個体であることに疑問符はつけてはいますが、さてどうでしょうか。水を掛けられて気持ちよさそうにしている写真を見ると、あるいは飼い主から離れたオットセイ君かもしれません。


蕎麦と大根おろし

2006-09-07 16:30:59 | 日常雑記
どちらかと言えば、食い物に苦情のない方のようです。味に小煩い人は、初めての店、どうなんでしょうか。かといって嫌いなものは嫌いですし、特に砂糖の効かせ過ぎは舌先こそばゆいものです。たくあんも蕎麦汁の甘いのが当世流のようです。
江戸東京の人間ではありませんので、確かなことは云えませんが、以前は蕎麦汁には山葵でなく、大根おろしを使ったそうです。どうして大根おろしの辛いのを嫌う人が近頃は多いのでしょうか。かといって尻尾の先だけは売ってませんし。
異国渡りの鰻も頂きますが、おかずでなければ気にもなりません。そもそもは鰻が冷えないようご飯の上に載せてあったそうです。
贅沢を言えば、舌先喉元より、混み合う店は外したい、と思うのですが。



永井荷風と翁草

2006-09-01 20:24:21 | 江戸随筆より
江戸随筆を読む切っ掛けなったのは、本屋で翁草の見本を見たことによります。かなりの無理をして買いました。吉川弘文堂のではなく、歴史図書社の分厚い本でしたから通勤途上では読めませんでした。しかしこの本を読むことによって江戸随筆に馴染むことが出来ました。

 荷風の断腸亭日乗に翁草について述べてあるのを知ったのはついこの頃で、筠庭(いんてい)雑録に神澤杜口の筆を執る気構えの記述があることを知ったのもつい近頃のことです。なにしろ江戸随筆集の隅々まで目を通すなど怠け者のよくするところではありません。少々長い引用ですが時事について云々しない理由を含めて書いてみます。
断腸亭日乗の六月十五日日曜日(昭和十八年)は、病床無聊のあまりたまたま『筠庭雑録』の『翁草』についての記事を読みます。
翁草という板本を僅五冊だがもっている。北窓琑談に、よると、京都の町与力神沢与兵衛、致仕の後杜口と名乗って隠居し、翁草を二百巻著述し、その後なお近年も奇事が多いので、筆から離れられず、塵泥と名づけ、四五十巻を著している。皆近世の実録で、上王公より下庶民に至る迄の雑事を記録している。杜口齢八十四歳の時、わたしは始めて知り合いになり、時々訪ねては隔意なく物語した。温厚柔和の質にて、隠居の後は、世間とは一切かかわらない。耳聾て会話はみな筆談である。ある日余彼庵に尋て、例の筆談に、余が著作の書中にも遠慮なき事多く、世間へ広くは出し難き事有りなど謂けるに、翁色を正して、足下はいまだ壮年なれば、猶此後著書も多かるべし。
ある日余彼奄を尋て例の筆談に余が著作の中にも遠慮なき事多く、世間へ広くは出しがたきことありなどいひけるに、翁色を正して、足下はいまだ壮年なればなほこの後著書も多がるべし。平生の事は随分柔和にて遠慮がちなるよし。但筆をとりては聊も遠慮の心を起すべからず。遠慮して世間に憚りて実事を失ふこと多し。翁が著す書は天子将軍の御事にてもいささか遠慮することなく実事のままに直筆に記し、これまで親類朋友毎度諌めていかに写本なれぱとて世間に漏出まじきにてもなし、いかなる忌諱の事に触れて罪を得まじきものにもあらず、高貴の御事は遠慮し給へといヘど、この一事は親類朋友の諌に従ひがたく強て申切てをれり。云々。
余これを読みて心中大に愧じるるところあり。今年二月のころ『杏花余香』なる一編を『中央公論』に寄稿せし時、世上これをよみしもの余が多年日誌を録しつつあるを知りて、余が時局について如何なる意見を抱けるや、日々如何なる事を記録しつつあるやを窺知らむとするものなきにあらざるべし。余は万々の場合を憂慮し、一夜深更に起きて日誌中不平憤惻の文字を切去りたり。また外出の際には日誌を下駄箱の中にかくしたり。今『翁草』の文をよみて噺愧すること甚し。今日以後余の思ふところは寸毫も憚り恐るる事なくこれを筆にして後世史家の資料に供すべし。
喜多村箱庭も雑録記事に次のように続ける。翁が実録は後世にも伝ふべく思へば、善悪侵せしは其人の過なれば、たとへ高貴の御人にても、少も柾て実を覆ふ事を欲せず。此実事録の事に付て罪を得て、八十の老翁が白髪首刎らる共恨みなし。初より一命を差出して録する事也。世間高貴の人の悪は憚りてよきに取なし、下賤の人の善事は称する人稀なり。遂に世に埋るヽ事歎息すべきの至り也。足下なども呉々筆を取ては、何事によらず遠慮し給ふべからずとくり返しいはれし。誠に翁の志毅然として奪ふべからず。古への良吏の風ある人なりきといへり。此老人筆まめなる事よみすべく、其志もまたさる事ながら、板本をもて其概略をおもふに、春暉がいふ処過当なるにや。
これ以上筆を加える必要はないようです。