暮も迫ってくると、お寺にお餅を上げに行かねばと言う気持ちになります。今日二十八日、気持ちを落着けるため菩提寺に行きました。
元々「鰯の頭も」というのは、節分に鰯の頭を串にさし、柊の枝と一緒に門口や戸口にさす、鬼遺らいの行事が本来の意味でしょうが、「何かもっともらしい事をやっておけばそれなりの功徳があるだろう」との意味で私は安直に使っております。
それは根っこのところで大いに違うのでしょうが、確たる信念を持ち合わせないので気の済むまゝにやり過ごしています。
私の本棚にはことわざ・俗信・俚諺に拘わる本があり、時によっては熱心に読んでおります。それらの警句を含む言葉として日本のみでなくまん丸な地球全体で幅広く通用しているようです。宗教ですら教示(理屈)に類似することわざを利用しているようです。
中国の同様な本を読みますと、特に解釈に苦しむものは少なく、主義主張より昔からの世俗なやりとりから生まれた慣習、それに添った建前と本音の違いを俚諺などで表現しているようです。法律や慣習は世俗の強制力を持っています。ですがこれらもいずれは「時よ時節よ」であることを世知は承知しているのではないでしょうか。
元々「鰯の頭も」というのは、節分に鰯の頭を串にさし、柊の枝と一緒に門口や戸口にさす、鬼遺らいの行事が本来の意味でしょうが、「何かもっともらしい事をやっておけばそれなりの功徳があるだろう」との意味で私は安直に使っております。
それは根っこのところで大いに違うのでしょうが、確たる信念を持ち合わせないので気の済むまゝにやり過ごしています。
私の本棚にはことわざ・俗信・俚諺に拘わる本があり、時によっては熱心に読んでおります。それらの警句を含む言葉として日本のみでなくまん丸な地球全体で幅広く通用しているようです。宗教ですら教示(理屈)に類似することわざを利用しているようです。
中国の同様な本を読みますと、特に解釈に苦しむものは少なく、主義主張より昔からの世俗なやりとりから生まれた慣習、それに添った建前と本音の違いを俚諺などで表現しているようです。法律や慣習は世俗の強制力を持っています。ですがこれらもいずれは「時よ時節よ」であることを世知は承知しているのではないでしょうか。