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大宰府政庁はいつ

2008-11-23 20:42:45 | 歴史
都での土木事業などに使役するため、正役として、正丁に年間10日間、次丁に5日間、課する歳役があったように、政庁建設の工事には多人数の使役がなされたことと思われます。この土地に集められた人員、また稼動された牛馬や糧秣は、膨大なものであったと推測されます。それら大宰府行政府庁の記録が一片もなく、正史にないということは,不審です。
以下は年表から拾った大宰府に関係する事項です
筑紫太宰(ちくしのおおみこともち)、百済僧85人の肥後漂着を報告(紀)
663(天智2年)白村江の大敗
664(天智3年)対馬・壱岐・筑紫などに防人・烽を設置し、水城を築く
646(大化2年)改新の詔を発す。
649(大化5年)蘇我日向(石川麻呂を讒言した異母弟を筑紫太宰帥に任命、遠ざける。
661(斎明7年)天皇・中大兄・大海人那津に入港(盤瀬行宮に居す) 天皇、朝倉宮にて没す。
『斎明天皇御代某蔵 大錦上阿部比羅夫を太宰帥に任ず』
665(天智4年)百済の遺臣に、長門国の城(下関市か)、筑紫大野城・橡(基肄)城を築かせる。
669(天智8年)蘇我赤兄を筑紫率(つくしのかみ)とする。
671(天智10年)栗隈王を筑紫帥に任ず。
672(弘文元年)弘文天皇の使者佐伯男、筑紫に来り、兵を興すことを促す、筑紫太宰栗隈王、命に従わず。
675(天武3年)筑紫より唐人三十口を貢す。
676(天武4年)筑紫太宰三位屋恒王、罪に依り、土佐に流さる。
681(天武9年)新羅・高麗の使いを饗す。
685(天武13年)筑紫に遣わす防人等、海中に飄蕩し、衣服を失えるを以って、布四百五十端を筑紫に給す。
686(朱鳥元年)筑紫観世音寺に、封二百戸を施入す。
687(持統元年)筑紫大宰(おおみこともち)、新羅からの渡来人
僧俗23人を献上、武蔵国の移す。
689(持統3年)筑紫太宰栗田真人ら、隼人一百七十四人及び布・牛皮・鹿皮等を献ず。
浄広肄河内王を筑紫大宰帥に任ず。
698(文武2年)筑前国糟屋評造春米広国(かすやのこおりのみやつこつきしねのひろくに)、鐘を鋳造(妙心寺蔵)
大宰府、大野・基肄・鞠智三城を修治す。
699(文武3年)大宰府、三野・稲積の二城を修治す。
702(大宝2年)「大宝律令」を諸国に発布する
歌斐(甲斐)国、梓弓五百張を献上、大宰府の用に充てる。
信濃国、梓弓千二十張を献上、大宰府の用に充てる。
704(慶雲元年)。
信濃国、弓千四百張を献上、大宰府の用に充てる。
705(慶雲2年)大宰府に、飛駅鈴八口・伝符十枚を給う。
大納言大伴安麻呂をして大宰帥を兼ねしめ、従四位下石川宮麻呂を太宰大弐に任ず。
708(和銅元年)平城(なら)に都邑を建設する詔を出す。
709(和銅2年)観世音寺造営を急がせる。
710(和銅3年)平城京に移る。
大宰府、銅銭を献上する。
715(霊亀2年)阿部仲麻呂・吉備真備・玄(第8次遣唐使)
718(養老2年)大宰府所部の国の庸を増して諸国と同じくする。
720(養老4年)大宰府、隼人の反乱・大隈国守の殺害を奏上。
大伴旅人を征隼人持節大将軍に任命する。
新羅使来朝、元明太上天皇登遐により太宰より放還さる。
723(養老7年)満誓を筑紫に派遣し、観世音寺を造営させる
729(天平元年)大宰府、調綿十万屯を貢進する。
730(天平2年)諸国の防人を停止。
太宰帥大伴旅人、筑前国守山上憶良ら太宰官人・九州諸国守を自邸に招き、観梅宴を催す。
735(天平7年)大宰府管内疫瘡大流行、府の大寺(観世音寺)などで疫病終息を祈念して読経。
大宰府で疫死者が多く、今年の貢調を止める。
736(天平8年)大宰府管内貧疫の家に賑恤し、湯薬を賜う。
738(天平10年)観世音寺に五年に限り食封百戸を施入する。
740(天平12年)太宰小弐藤原広嗣、僧正玄・吉備真備を除かんと上奏する。
藤原広嗣が反乱、大野東人を持節大将軍とし、東海・東山・山陰・山陽・南海五道の軍一万七千を率いてこれを討たせる。
広嗣・綱手兄弟、斬殺さる。
742(天平14年)大宰府を廃して筑前国に併せる。
743(天平15年)筑前国に初めて鎮西府を置き、将軍以下を任命する。
745(天平17年)大宰府を復活する。
僧玄を筑紫に左遷、観世音寺を造らせる。
746(天平18年)僧玄筑紫にて没、世に伝えて藤原広嗣の霊の害する所という。
橘諸兄を太宰帥兼任として、諸道の鎮撫使を任ずる。
753(天平勝宝5年)鑑真大宰府に入る。
754(天平勝宝6年)鑑真、東大寺に戒壇を立て、太上天皇・天皇・皇太后らに戒を授ける。
755(天平勝宝7年)大宰府管内諸国から国ごとに兵衛・采女一人ずつを貢上させる。
756(天平勝宝8年)大宰大弐吉備真備に命じて怡土城を築かせる。
759(天平宝字元年)大宰府の防人には西海道七国の兵士を当てる。
758(天平宝字2年)大宰府に命じて安禄山の反乱に備えさせる
759(天平宝字3年)大宰府に行軍式を造らせ、新羅征討を計画。
760(天平宝字4年)官人を大宰府に遣わし、官人を大弐吉備真備に就いて兵法を習わせる。
762(天平宝字6年)大宰府に弩師(おおゆみのし)を置く。
764(天平宝字8年)大宰大弐吉備真備、造東大寺長官となる。
765(天平神護2年)大宰府、東国防人の再配置を請う。
768(神護景雲2年)筑前怡土城成る。
大宰府に大野・大野城・基肄・鞠智(くくち)三城を修治させる。
769(神護景雲3年)初めて大宰府に綾師(あやのし)を置く。
大宰府に『史記』『漢書』などを賜い、学問を興隆させる。
大宰府の綿二十万屯を毎年京庫に送ることとする。
780(宝亀11年)大宰府官人の任期を4年から5年に延長。
大宰府・対馬に表函を使いは入国させぬよう命じる。
785(延暦4年)大宰府管内九国百姓の浮浪するものの調庸を徴収する。
786(延暦5年)佐伯今毛人(さえきいまえみし)を太宰帥とする。
790(延暦9年)大宰府に鉄兜二千九百余作らせる。
大宰府管内の飢民八万八千余人に賑恤。
793(延暦12年)大宰府管内の郡司・百姓らがみだりに郡内の米を運びだし、売買することを禁じ、国司・官人の位禄・季禄を舂米(しょうまい)を京へ運送することを禁じる(三代格)
795(延暦14年)防人の東国からの徴発をやめて九州の兵士を充て、防人司を廃止する。
797(延暦16年)白丁より撰補する大宰府使部の定員を改める。大宰府に弩師(おおゆみのし)を廃止。
筑前国司を廃止し大宰府に属することにする。
802(延暦21年)大宰府、解由(げゆ)を得ずひそかに逃げる国司の処罰をねがう(後記)
804(延暦23年)壱岐島に配した大宰府管内六国の防人を廃止、壱岐島の兵を分番配置する。
907(大同2年)大宰府、唐より帰国した空海を入京の日まで観世音寺に滞留させる。
908(大同3年)再び筑前国司を置く。
ところが、このなかでは、大宰府政庁建設および修復などの記事は、全くみられません。
本日(2008.11.23)九州歴史資料館の「シンボジウム古代都市・大宰府の成立を考える」がありましたので、拝聴しました。しかし、記録されなかった点は、触れておられません。ただ、井上信正太宰府市教育委員会職員の扇屋敷・通古賀のお話は、想像を伸ばせる可能がありそうです。

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