経済人列伝 五島慶太(一部付加)
五島慶太は東急コンツエルンを作り上げ、私鉄王と言われた人物です。経営の着眼も優れていましたが、私鉄の経営拡大は主として、株の買占めと会社の乗っ取りですから、彼には強盗慶太という仇名が付けられています。慶太は明治15年、長野県小県郡青木村で生まれました。本姓は小林、生家はそこそこに富裕な農家です。高等小学校を卒業します。成績が良いので周囲の勧めで松本中学校に入ります。卒業し、数年代用教員をします。田舎に埋もれる気はなく、一念発起して上京し、一橋大学を受けます。不合格、慶太はショックをうけます。なにくそと苦手な英語を猛勉強し、東京高等師範学校英文科に合格します。ここで校長嘉納治五郎の薫陶を受けます。三重県四日市の商業学校に赴任し、英語を教えますが、田舎に埋もれるのがいやでいやでたまりません。学生ストライキを扇動し、辞表を出して上京します。第一高等学校の卒業試験を受け合格し、さらに東京帝大法学部に入ります。この時25歳、慶太の歩んだ軌跡はかなり複雑です。
家庭教師をしていた富井家から、新たな家庭教師の仕事先として加藤高明家を紹介されます。加藤は後に総理大臣になる人で、慶太は加藤の知遇を得ます。大学を卒業し、農商務省に入ります。30歳、久米万千代と結婚、この時花嫁の父親の懇望で絶家となっていた、沼田藩士五島家を継ぎます。小林から五島に改姓します。農商務省では彼の、履歴がジクザグしているためでしょうか、うだつが上がりそうにも見えません。辞職。加藤高明の世話で鉄道院に入ります。総務課長になりますが、なかなか高等文官になれそうにもありません。彼は高文の行政科の試験をパスしているのですが。
鬱々としている時武蔵電気鉄道の経営を依頼されます。この鉄道は郷誠之助が経営していましたが、ペーパ-カンパニ-に近い存在でした。この会社の建て直し(というより実質的には会社創造)を任されます。武蔵電気鉄道の経営はうまく行きません。慶太はすでに渋沢栄一により設立されていた電気鉄道を目黒蒲田電鉄と改称し、この会社の経営に全力を注ぎます。渋沢は電鉄と同時に田園都市株式会社も創立していました。郊外での生活を先取りしていた感じです。慶太はここに目を付けます。この方針にはすでに先例がありました。小林一三の阪急電鉄です。小林は、大阪近郊の箕面・池田に田園都市を作り、そこと大阪梅田を結んで、電鉄を経営すると同時に、電鉄の集客能力を利用して、終点梅田に作った百貨店を経営していました。タ-ミナルデパ-トの第一号です。慶太はこの方針で臨みます。小林一三から直接指導を受けます。
こうして目黒蒲田電鉄は、東京市内と近郊を結ぶ交通機関として発足します。開業とほぼ同時に関東大震災が起こります。鉄道のレ-ルはぐにゃぐにゃに曲がります。慶太はみずからもっこを担いで陣頭指揮をして復旧作業に邁進します。震災は目蒲鉄道にとって大吉と出ました。震災で多くの人達は郊外へ逃げました。将来も郊外の方が、安全で健康的だと実感されるようになります。目蒲鉄道の運営は軌道にのります。この勢いで武蔵電鉄の経営にも慶太は積極的に乗り出します。社名を東京横浜電鉄と改めます。鉄道に集客するため、慶太が考え出した方策が大学誘致です。東京工業大学、慶応大学、青山師範学校、東京府(?)立高校、東京府立高等学校、昭和女子薬学専門学校などなどです。当然他の私鉄と競争になります。贈賄容疑で逮捕され半年入獄します。小林一三も正力松太郎も一度は臭い飯を食っています。慶太も同様です。無実とかのことです。この間、目蒲電鉄と東京横浜電鉄は合併し、東横電鉄になります。こうして慶太の事業の基礎ができました。
目蒲鉄道と東京横浜電鉄が上手く機能するためには、池上電鉄が邪魔になります。逆に池上電鉄を自社のものにしたら、東横鉄度の機能は飛躍的に上昇する、と慶太は考えました。こうして「強盗慶太」と呼ばれる由縁になった、会社乗っ取りが始まります。池上電鉄の次には玉川電鉄が標的になります。慶太のやり口は、経営不振の会社の株を買い占めて、経営権を奪取し---です。意図しての事でもあり、結果としてもですが、慶太の乗っ取った会社はそのほとんどが立ち直りました。戦時体制も追い風になり、とうとう東横、小田急、京浜、京成、京王の4大電鉄会社が統合され、慶太はこの大東急コンツエルンの総帥になりました。昭和19年東条内閣の運輸通信大臣に就任します。この間、南方にも商戦を伸ばし、軍の輸送を海陸に渡って引き受けます。
そして終戦。正力松太郎の項で述べましたように、戦後は凄まじい労働攻勢に晒されます。五島退陣そして経営民主化が叫ばれ労組が暴れまわります。加えて昭和22年、慶太は公職追放の憂き目に会います。この間、大東急コンツエルンは解体され、東横、小田急、京成、京王の4電鉄と東横百店が分離されます。
戦後慶太がした事業の一つが東映(映画会社)の復活でしょう。それまで経営不振で潰れかけていた東映に、大川博を送り込んで復活させます。昭和20年代後半から30年代にかけて、東映は片岡智恵蔵、市川右太衛門、中村錦之助、大川橋蔵などを要して、時代劇で一世を風靡します。
もう一つ白木屋の乗っ取りがあります。横井英樹が持ち込んできた話に、慶太が乗り、白木屋の株を買占め、経営権を奪い、役員を一掃して、会社を再建しました。慶太はかって三越をも乗っ取ろうとした事があります。三越といえば、百貨店中の名門であり、三井財閥の象徴でもあります。三井と三菱に反対され、加えて三越社長の事故死もあり、慶太は散々な不興の中で、三越乗っ取りをあきらめます。最後の乗っ取りの標的が東洋精糖です。やはり慶太は横井と組みました。その最中に慶太は死去します。昭和34年、享年77歳でした。慶太の長男昇はすぐ乗っ取り行為を中止し、以後は「強盗企業」と悪名を立てられるような商法をやめて、会社経営の方針を転向させます。堅実な経営に専心して、五島昇はやがて日本商工会議所・東京商工会議所の会頭になります。
五島慶太は口癖のように、「ぼろ企業を乗っ取って、その会社を再建する」と言っていました。その言の半分以上は真実でしょう。乗っ取りと言えば聞こえはよくありませんが、要は株式所有において、多数派工作を行い、経営権を握る、という事です。握ったあとの行動でその人の行為が評価されます。会社を再建して繁栄に導く方向もあれば、会社を切り売りして売り逃げるという方向もあります。株式の多数派工作自身は合法です。会社が潰れるまで待つより、適当な時点で不良企業は、経営権を他に譲渡する方が賢明でしょう。内部改革と言いますが、いうだけでなかなか思うような成果は出ません。株買占めそして乗っ取りは、無能経営者の排除、経営における新陳代謝の更新の手段でもあります。五島慶太がした事はこういう事でした。経営者としての一つの生き方です。
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
五島慶太は東急コンツエルンを作り上げ、私鉄王と言われた人物です。経営の着眼も優れていましたが、私鉄の経営拡大は主として、株の買占めと会社の乗っ取りですから、彼には強盗慶太という仇名が付けられています。慶太は明治15年、長野県小県郡青木村で生まれました。本姓は小林、生家はそこそこに富裕な農家です。高等小学校を卒業します。成績が良いので周囲の勧めで松本中学校に入ります。卒業し、数年代用教員をします。田舎に埋もれる気はなく、一念発起して上京し、一橋大学を受けます。不合格、慶太はショックをうけます。なにくそと苦手な英語を猛勉強し、東京高等師範学校英文科に合格します。ここで校長嘉納治五郎の薫陶を受けます。三重県四日市の商業学校に赴任し、英語を教えますが、田舎に埋もれるのがいやでいやでたまりません。学生ストライキを扇動し、辞表を出して上京します。第一高等学校の卒業試験を受け合格し、さらに東京帝大法学部に入ります。この時25歳、慶太の歩んだ軌跡はかなり複雑です。
家庭教師をしていた富井家から、新たな家庭教師の仕事先として加藤高明家を紹介されます。加藤は後に総理大臣になる人で、慶太は加藤の知遇を得ます。大学を卒業し、農商務省に入ります。30歳、久米万千代と結婚、この時花嫁の父親の懇望で絶家となっていた、沼田藩士五島家を継ぎます。小林から五島に改姓します。農商務省では彼の、履歴がジクザグしているためでしょうか、うだつが上がりそうにも見えません。辞職。加藤高明の世話で鉄道院に入ります。総務課長になりますが、なかなか高等文官になれそうにもありません。彼は高文の行政科の試験をパスしているのですが。
鬱々としている時武蔵電気鉄道の経営を依頼されます。この鉄道は郷誠之助が経営していましたが、ペーパ-カンパニ-に近い存在でした。この会社の建て直し(というより実質的には会社創造)を任されます。武蔵電気鉄道の経営はうまく行きません。慶太はすでに渋沢栄一により設立されていた電気鉄道を目黒蒲田電鉄と改称し、この会社の経営に全力を注ぎます。渋沢は電鉄と同時に田園都市株式会社も創立していました。郊外での生活を先取りしていた感じです。慶太はここに目を付けます。この方針にはすでに先例がありました。小林一三の阪急電鉄です。小林は、大阪近郊の箕面・池田に田園都市を作り、そこと大阪梅田を結んで、電鉄を経営すると同時に、電鉄の集客能力を利用して、終点梅田に作った百貨店を経営していました。タ-ミナルデパ-トの第一号です。慶太はこの方針で臨みます。小林一三から直接指導を受けます。
こうして目黒蒲田電鉄は、東京市内と近郊を結ぶ交通機関として発足します。開業とほぼ同時に関東大震災が起こります。鉄道のレ-ルはぐにゃぐにゃに曲がります。慶太はみずからもっこを担いで陣頭指揮をして復旧作業に邁進します。震災は目蒲鉄道にとって大吉と出ました。震災で多くの人達は郊外へ逃げました。将来も郊外の方が、安全で健康的だと実感されるようになります。目蒲鉄道の運営は軌道にのります。この勢いで武蔵電鉄の経営にも慶太は積極的に乗り出します。社名を東京横浜電鉄と改めます。鉄道に集客するため、慶太が考え出した方策が大学誘致です。東京工業大学、慶応大学、青山師範学校、東京府(?)立高校、東京府立高等学校、昭和女子薬学専門学校などなどです。当然他の私鉄と競争になります。贈賄容疑で逮捕され半年入獄します。小林一三も正力松太郎も一度は臭い飯を食っています。慶太も同様です。無実とかのことです。この間、目蒲電鉄と東京横浜電鉄は合併し、東横電鉄になります。こうして慶太の事業の基礎ができました。
目蒲鉄道と東京横浜電鉄が上手く機能するためには、池上電鉄が邪魔になります。逆に池上電鉄を自社のものにしたら、東横鉄度の機能は飛躍的に上昇する、と慶太は考えました。こうして「強盗慶太」と呼ばれる由縁になった、会社乗っ取りが始まります。池上電鉄の次には玉川電鉄が標的になります。慶太のやり口は、経営不振の会社の株を買い占めて、経営権を奪取し---です。意図しての事でもあり、結果としてもですが、慶太の乗っ取った会社はそのほとんどが立ち直りました。戦時体制も追い風になり、とうとう東横、小田急、京浜、京成、京王の4大電鉄会社が統合され、慶太はこの大東急コンツエルンの総帥になりました。昭和19年東条内閣の運輸通信大臣に就任します。この間、南方にも商戦を伸ばし、軍の輸送を海陸に渡って引き受けます。
そして終戦。正力松太郎の項で述べましたように、戦後は凄まじい労働攻勢に晒されます。五島退陣そして経営民主化が叫ばれ労組が暴れまわります。加えて昭和22年、慶太は公職追放の憂き目に会います。この間、大東急コンツエルンは解体され、東横、小田急、京成、京王の4電鉄と東横百店が分離されます。
戦後慶太がした事業の一つが東映(映画会社)の復活でしょう。それまで経営不振で潰れかけていた東映に、大川博を送り込んで復活させます。昭和20年代後半から30年代にかけて、東映は片岡智恵蔵、市川右太衛門、中村錦之助、大川橋蔵などを要して、時代劇で一世を風靡します。
もう一つ白木屋の乗っ取りがあります。横井英樹が持ち込んできた話に、慶太が乗り、白木屋の株を買占め、経営権を奪い、役員を一掃して、会社を再建しました。慶太はかって三越をも乗っ取ろうとした事があります。三越といえば、百貨店中の名門であり、三井財閥の象徴でもあります。三井と三菱に反対され、加えて三越社長の事故死もあり、慶太は散々な不興の中で、三越乗っ取りをあきらめます。最後の乗っ取りの標的が東洋精糖です。やはり慶太は横井と組みました。その最中に慶太は死去します。昭和34年、享年77歳でした。慶太の長男昇はすぐ乗っ取り行為を中止し、以後は「強盗企業」と悪名を立てられるような商法をやめて、会社経営の方針を転向させます。堅実な経営に専心して、五島昇はやがて日本商工会議所・東京商工会議所の会頭になります。
五島慶太は口癖のように、「ぼろ企業を乗っ取って、その会社を再建する」と言っていました。その言の半分以上は真実でしょう。乗っ取りと言えば聞こえはよくありませんが、要は株式所有において、多数派工作を行い、経営権を握る、という事です。握ったあとの行動でその人の行為が評価されます。会社を再建して繁栄に導く方向もあれば、会社を切り売りして売り逃げるという方向もあります。株式の多数派工作自身は合法です。会社が潰れるまで待つより、適当な時点で不良企業は、経営権を他に譲渡する方が賢明でしょう。内部改革と言いますが、いうだけでなかなか思うような成果は出ません。株買占めそして乗っ取りは、無能経営者の排除、経営における新陳代謝の更新の手段でもあります。五島慶太がした事はこういう事でした。経営者としての一つの生き方です。
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
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