明治維新(4)「君民令和、美しい国日本の歴史」-注釈、補遺、解説
「君民令和、美しい国日本の歴史」という本が発売されました。記載が簡明で直裁、結論を断定しています。個々の項目を塾考すれば意図は解ると思いますが、内容を豊富にするために以後のブログで個別的に補遺、注釈をつけ、解説してみます。本文の記載は省略します。発売された本を手元に置いてこのブログを見てください。
(地租改正)
政権が中央集権化されまた士族への給付という無駄な支出がなくなると、当然次に(というより併行して)しなければならない事は徴税自体の効率化と(できれば)増税による国家収入の確保です。この為の作業が地租改正です。地租とは「土地に対する課税」です。話は300年前の太閤検地にまで遡ります。豊臣氏や徳川幕府によってなされた「検知」の目的は兵農分離です。それまでの鎌倉以来の封建制は領主が土地と耕作農民を一括して支配する体制でした。検知により耕作農民と領主は分けられます。領主は町に在住して戦士専業となり、農民は農村で農耕に専従する体制が確立します。前者は(大名や藩士)土地を領有し、後者は土地の耕作権をこれも占有します。徳川幕府はこの体制を維持するために耕作にいろいろ条件を付けました。まず田畑永代売買禁止です。田畑は売り買いしてはいけないものとされました。次が分地制限令です。個々の農民が耕作する田畑は一定以上小さくはできません。安定した農家経営を維持するためです。理想とされる田畑の大きさは一町(1ヘクタ-ル)でした。第三が田畑勝手作りの禁止です。単純に言いますと農民は米以外の作物は作れない事になります。一応そんなところですが、これらの禁令はどんどん破られて行きます。先進地帯の畿内・大阪近郊では農民は米を作らず綿花を作りました。米も酒米栽培が優先です。幕府は盛んに酒米つくりの禁令を出しましたが全くと言っていいほど禁令は護られません。
先の章で述べたように、17世紀後半から商品作物の栽培は増大し、土地の生産性は上がり、農民は富裕になり、人口は増えました。17世紀の1年間で人口は1・5倍に増加したと言えましょう。まさに農業革命です。こうして農業が商業化しますと土地の売買も行われます。もうかる物は商品化され投資の対象になります。公然とは売買できなくても、質地売買という手法があります。土地を質に入れて金を借りる、返せなければ土地は流される(質屋のものになる)わけです。物の本ではそう説明してありますが、元禄時代に禁止された土地売買は吉宗の時代にはなくなり、土地の売買はかなりな程度自由になっていました。こうして田畑は売買され江戸時代末には全国の田畑の30%以上が地主により所有されていました。商品経済から農民を保護隔離する努力に併行して、武士達の領有権は曖昧なものになります。農民が勝手に(自由に)耕作営業するのですから、お上の出る余地は著しく減るわけです。租税(年貢)は石高表示ですが、実際は時価で換金し金納でした。明治に入る前に日本の農村は資本主義化されていたのです。
以上の背景下に地租改正は行われます。幕藩体制下の税制は極めて多様で複雑で混乱したものでした。全国の土地は天領、藩領、旗本領などに分けられ細分化され(特に江戸周辺と畿内大阪兼内では)それぞれ個別の領主により統治されます。例を挙げれば地方によって物差しが違います。一間(基準では6尺、1・8メートル)は6尺でもあり、それ以上でもあります。重さの秤量も土地により異なりえます。課税基準も土地と支配者により異なります。新政府はこのような弊害をなくし各土地をきちんと秤量し、全国の収穫高を確定しようとしました。肝心の地租・年貢が入らないと予算は組めません。
地租改正、統一された土地税制の確立は明治に入ってから早々に言われていました。陸奥宗光、森有礼、神田孝平などです。廃藩置県が敢行されるとほぼ同時に地租改正の作業は秩禄処分と同時に行われます。その前にあるいはそれと併行して諸種の封建遺制が廃棄されます。一応列挙してみます。明治3年から9年にかけて平民の苗字使用許可、旅行の自由、華士族と平民の通婚の許可、エタの称の廃止、宗門別帳の廃止、華族士族の職業選択の自由、人身売買の禁止、そして廃刀令です。また経済政策方面での廃絶政策としては株仲間の廃止、関所の廃止、町人の土地所有の許可、津留めの廃止、田畑勝手作りの許可、土地永代売買の許可、助郷の廃止、農民の職業選択の自由などがあります。
地租改正関係法案は1873年(明治5年)の大蔵省主催の地方官会同でまず審議可決されております。そこでは
1 土地収益を基礎として地価とし、その地価を課税基準とする
2 当分の間、地租は地価の3%とし、豊凶に関わらず増減しない
3 本来地租は地価の1%が望ましい
4 収納形態はすべて貨幣に統一する
などが決められています。地租改正の基本目的は、全国における統一された公平な課税と幕藩体制下での税額を下回らない事でした。1875年(明治8年)3月地租改正事務局が置かれ、大蔵・内務両省の下で改租事業全般を担当する事になり、同年5月に本格的に活動を始めます。ここで一番肝要な事は土地の面積の計測(地押丈量)と土地の格付け(生産力の評価)です。土地面積の計測はすべて農民に任されました。また測定に使用される道具(竿)はすべて六尺一歩、この平方を一歩(坪)、300坪一反に統一されます。この地押丈量と後に記する土地の格付けをもって地租が確定し、その土地の所有者に地券が交付されます。
地価を定めるのに自作を基準とするか小作を基準とするかの問題がありました。最終的には自作が基準となります。また必要経費として種籾代が15%控除され、更に村の入相費用(村という共同体を維持するための費用)が数%控除されます。
問題は土地の生産力の算定です。水もろくに通せない山間の僻地と水利交通の便利な都市周辺の稲では当然土地生産力も収益も異なります。土地生産力は地味の美悪、耕転の難易、水利の便否、水干害の厚薄、米質の美悪、猪鹿の患害などを考慮して決められます。土地生産性の算定をめぐって政府と農民は虚々実々の駆け引きをしました。政府は県単位、郡単位そして村単位で土地生産性のランクを付けます。上等から最下等までいくつものランクが定められました。政府としては土地のランクをなるべく上に設定したいし、逆に農民としては低く定めてもらいたいわけです。理由はランクが上に行くほど税率が上がるからです。政府は予定された地租を獲得するために上から強引に土地生産性の秤量を押し付けます。農民は抵抗します。1876年から1878年までの三年間で土地秤量はほぼ終わります。こうして地価が決定され税率は3%になりました。農民はこの数字に抵抗します。そう一揆が激しかったわけではなかったのですが、ちょうどその時分西南戦争が勃発し、農民と不平士族の結合を恐れた大久保利通の一言で税率は2・5%になりました。この税率では新旧の税額は計算方法によりかなりの差異がありますが、16%から22%の減額になります。私が教科書で習った、地租改正で農民は困窮し農民の階層分化推し進められたというのは、特定の学説に基づく偏見虚構のようです。また幕藩時代には1000種類以上の細かな雑税がありましたが、それらは一切廃止され地租一本に統一されました。
要は地租改正を行うための物的人的インフラは幕藩時代にすでに整い、新政府としてはその上に図を描けばよかったわけです。なお日本が後に植民地にした朝鮮や台湾でも地租改正と同様の事が実施されています。租税の大部分が農地から撤収される以上、地租の制定は産業振興のための必須条件です。
地租改正以後の地主制の展開に関して最近の研究結果からの報告を付記します。明治初年の小作率(全耕作地に小作地の占める割合)は30%前後、小作制度がピ-クに達した1929年では48%です。ただ日本では大地主の数は小さく、大部分は小地主でした。1899年と1908年の間に中小地主と大地主の数はほとんど変わっていません。一町未満の小地主の数は両年ともほぼ80%、五町以下まで含めると地主総数のほぼ98%になります。このような小地主の存在は農業経営の安定のためには不可欠でした。仮に農家で働き手が亡くなると仮定します。残された家族は従来自作していた農地を同村の知り合いに小作に出します。働き手が育てば自作します。このように農民同士が自作小作を交換しながら農業を営んでいました。五町以上の地主を一応大地主としておきます。その地主総数に占める割合は2%、不在地主の代表ともされる50町以上の超大地主の数はコンマ以下です。彼ら不在地主は差配人を雇って耕地管理を行いましたが、彼ら差配人は土地のある農村出身者でした。彼らは農村の慣行に従わなければなりません。ですから小作争議はあったものの、日本では小作料の徴収は円滑で平穏でした。小作料支払いに警察が関与したり、また軍隊が派遣される(中国ではそうでした)ようの事はありません。また明治も後期になりますと前田正名や石黒忠篤のような人が出て、政府も自作農育成に取り組み始めます。戦後マッカ-サ-がやってきて農地解放をしましたが、考えてみれば余計な事をしてくれたものです。すでにそれまでに小作は減っていました。元来日本の農民の耕作権は自作小作を問わず強固に保証されているんですが、それを固定化し農業における自由競争を一切奪い、農協独裁にしたようなものです。
「君民令和、美しい国日本の歴史」という本が発売されました。記載が簡明で直裁、結論を断定しています。個々の項目を塾考すれば意図は解ると思いますが、内容を豊富にするために以後のブログで個別的に補遺、注釈をつけ、解説してみます。本文の記載は省略します。発売された本を手元に置いてこのブログを見てください。
(地租改正)
政権が中央集権化されまた士族への給付という無駄な支出がなくなると、当然次に(というより併行して)しなければならない事は徴税自体の効率化と(できれば)増税による国家収入の確保です。この為の作業が地租改正です。地租とは「土地に対する課税」です。話は300年前の太閤検地にまで遡ります。豊臣氏や徳川幕府によってなされた「検知」の目的は兵農分離です。それまでの鎌倉以来の封建制は領主が土地と耕作農民を一括して支配する体制でした。検知により耕作農民と領主は分けられます。領主は町に在住して戦士専業となり、農民は農村で農耕に専従する体制が確立します。前者は(大名や藩士)土地を領有し、後者は土地の耕作権をこれも占有します。徳川幕府はこの体制を維持するために耕作にいろいろ条件を付けました。まず田畑永代売買禁止です。田畑は売り買いしてはいけないものとされました。次が分地制限令です。個々の農民が耕作する田畑は一定以上小さくはできません。安定した農家経営を維持するためです。理想とされる田畑の大きさは一町(1ヘクタ-ル)でした。第三が田畑勝手作りの禁止です。単純に言いますと農民は米以外の作物は作れない事になります。一応そんなところですが、これらの禁令はどんどん破られて行きます。先進地帯の畿内・大阪近郊では農民は米を作らず綿花を作りました。米も酒米栽培が優先です。幕府は盛んに酒米つくりの禁令を出しましたが全くと言っていいほど禁令は護られません。
先の章で述べたように、17世紀後半から商品作物の栽培は増大し、土地の生産性は上がり、農民は富裕になり、人口は増えました。17世紀の1年間で人口は1・5倍に増加したと言えましょう。まさに農業革命です。こうして農業が商業化しますと土地の売買も行われます。もうかる物は商品化され投資の対象になります。公然とは売買できなくても、質地売買という手法があります。土地を質に入れて金を借りる、返せなければ土地は流される(質屋のものになる)わけです。物の本ではそう説明してありますが、元禄時代に禁止された土地売買は吉宗の時代にはなくなり、土地の売買はかなりな程度自由になっていました。こうして田畑は売買され江戸時代末には全国の田畑の30%以上が地主により所有されていました。商品経済から農民を保護隔離する努力に併行して、武士達の領有権は曖昧なものになります。農民が勝手に(自由に)耕作営業するのですから、お上の出る余地は著しく減るわけです。租税(年貢)は石高表示ですが、実際は時価で換金し金納でした。明治に入る前に日本の農村は資本主義化されていたのです。
以上の背景下に地租改正は行われます。幕藩体制下の税制は極めて多様で複雑で混乱したものでした。全国の土地は天領、藩領、旗本領などに分けられ細分化され(特に江戸周辺と畿内大阪兼内では)それぞれ個別の領主により統治されます。例を挙げれば地方によって物差しが違います。一間(基準では6尺、1・8メートル)は6尺でもあり、それ以上でもあります。重さの秤量も土地により異なりえます。課税基準も土地と支配者により異なります。新政府はこのような弊害をなくし各土地をきちんと秤量し、全国の収穫高を確定しようとしました。肝心の地租・年貢が入らないと予算は組めません。
地租改正、統一された土地税制の確立は明治に入ってから早々に言われていました。陸奥宗光、森有礼、神田孝平などです。廃藩置県が敢行されるとほぼ同時に地租改正の作業は秩禄処分と同時に行われます。その前にあるいはそれと併行して諸種の封建遺制が廃棄されます。一応列挙してみます。明治3年から9年にかけて平民の苗字使用許可、旅行の自由、華士族と平民の通婚の許可、エタの称の廃止、宗門別帳の廃止、華族士族の職業選択の自由、人身売買の禁止、そして廃刀令です。また経済政策方面での廃絶政策としては株仲間の廃止、関所の廃止、町人の土地所有の許可、津留めの廃止、田畑勝手作りの許可、土地永代売買の許可、助郷の廃止、農民の職業選択の自由などがあります。
地租改正関係法案は1873年(明治5年)の大蔵省主催の地方官会同でまず審議可決されております。そこでは
1 土地収益を基礎として地価とし、その地価を課税基準とする
2 当分の間、地租は地価の3%とし、豊凶に関わらず増減しない
3 本来地租は地価の1%が望ましい
4 収納形態はすべて貨幣に統一する
などが決められています。地租改正の基本目的は、全国における統一された公平な課税と幕藩体制下での税額を下回らない事でした。1875年(明治8年)3月地租改正事務局が置かれ、大蔵・内務両省の下で改租事業全般を担当する事になり、同年5月に本格的に活動を始めます。ここで一番肝要な事は土地の面積の計測(地押丈量)と土地の格付け(生産力の評価)です。土地面積の計測はすべて農民に任されました。また測定に使用される道具(竿)はすべて六尺一歩、この平方を一歩(坪)、300坪一反に統一されます。この地押丈量と後に記する土地の格付けをもって地租が確定し、その土地の所有者に地券が交付されます。
地価を定めるのに自作を基準とするか小作を基準とするかの問題がありました。最終的には自作が基準となります。また必要経費として種籾代が15%控除され、更に村の入相費用(村という共同体を維持するための費用)が数%控除されます。
問題は土地の生産力の算定です。水もろくに通せない山間の僻地と水利交通の便利な都市周辺の稲では当然土地生産力も収益も異なります。土地生産力は地味の美悪、耕転の難易、水利の便否、水干害の厚薄、米質の美悪、猪鹿の患害などを考慮して決められます。土地生産性の算定をめぐって政府と農民は虚々実々の駆け引きをしました。政府は県単位、郡単位そして村単位で土地生産性のランクを付けます。上等から最下等までいくつものランクが定められました。政府としては土地のランクをなるべく上に設定したいし、逆に農民としては低く定めてもらいたいわけです。理由はランクが上に行くほど税率が上がるからです。政府は予定された地租を獲得するために上から強引に土地生産性の秤量を押し付けます。農民は抵抗します。1876年から1878年までの三年間で土地秤量はほぼ終わります。こうして地価が決定され税率は3%になりました。農民はこの数字に抵抗します。そう一揆が激しかったわけではなかったのですが、ちょうどその時分西南戦争が勃発し、農民と不平士族の結合を恐れた大久保利通の一言で税率は2・5%になりました。この税率では新旧の税額は計算方法によりかなりの差異がありますが、16%から22%の減額になります。私が教科書で習った、地租改正で農民は困窮し農民の階層分化推し進められたというのは、特定の学説に基づく偏見虚構のようです。また幕藩時代には1000種類以上の細かな雑税がありましたが、それらは一切廃止され地租一本に統一されました。
要は地租改正を行うための物的人的インフラは幕藩時代にすでに整い、新政府としてはその上に図を描けばよかったわけです。なお日本が後に植民地にした朝鮮や台湾でも地租改正と同様の事が実施されています。租税の大部分が農地から撤収される以上、地租の制定は産業振興のための必須条件です。
地租改正以後の地主制の展開に関して最近の研究結果からの報告を付記します。明治初年の小作率(全耕作地に小作地の占める割合)は30%前後、小作制度がピ-クに達した1929年では48%です。ただ日本では大地主の数は小さく、大部分は小地主でした。1899年と1908年の間に中小地主と大地主の数はほとんど変わっていません。一町未満の小地主の数は両年ともほぼ80%、五町以下まで含めると地主総数のほぼ98%になります。このような小地主の存在は農業経営の安定のためには不可欠でした。仮に農家で働き手が亡くなると仮定します。残された家族は従来自作していた農地を同村の知り合いに小作に出します。働き手が育てば自作します。このように農民同士が自作小作を交換しながら農業を営んでいました。五町以上の地主を一応大地主としておきます。その地主総数に占める割合は2%、不在地主の代表ともされる50町以上の超大地主の数はコンマ以下です。彼ら不在地主は差配人を雇って耕地管理を行いましたが、彼ら差配人は土地のある農村出身者でした。彼らは農村の慣行に従わなければなりません。ですから小作争議はあったものの、日本では小作料の徴収は円滑で平穏でした。小作料支払いに警察が関与したり、また軍隊が派遣される(中国ではそうでした)ようの事はありません。また明治も後期になりますと前田正名や石黒忠篤のような人が出て、政府も自作農育成に取り組み始めます。戦後マッカ-サ-がやってきて農地解放をしましたが、考えてみれば余計な事をしてくれたものです。すでにそれまでに小作は減っていました。元来日本の農民の耕作権は自作小作を問わず強固に保証されているんですが、それを固定化し農業における自由競争を一切奪い、農協独裁にしたようなものです。
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