経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、永野重雄

2011-01-30 03:06:13 | Weblog
   永野重雄

 二種類の経済人があるようです。第一は豊田佐吉、松下幸之助、立石一真、井深大、矢野恒太などのように、独自の企業を創設するタイプです。こちらの方が一般人には人気が高く、立志伝中の人物として知名度は抜群です。第二は小林中、石坂泰三、桜田武、稲山嘉浩のような人物の一群です。後者はサラリ-マン経営者として、前者的なカリスマから事業を引き継ぎ、それを伸ばし、そして財界全体の世話役に押され、あるいは引受、更に政界にも隠然たる力を持ちます。今から語る、永野重雄は後者のタイプです。前者が無学歴であるか、さほど誇るほどのない平凡な学歴を有するのに対し、後者には東大出身者が圧倒的です。後者は官僚的タイプの経済人と言うべきなのでしょうか。永野重雄の6人兄弟は、1人僧職についた例外を除き、5人がすべて東大出身という学歴エリ-トです。
 永野重雄は1900年(明治33年)、松江市に生れました。父親の勤務の都合で島根県出身になりましたが、彼の故郷は広島県、家は代々真言宗のお寺です。父法城は僧職に就く事を嫌い、判事になります。この仕事は地元との癒着を防ぐために、しばしば転勤させられます。従って6人の兄弟の出生地はまちまちです。父親は47歳で死去します。その割には貧窮に陥らず、6人の子息に満足な教育をつけることができました。長兄の護(岸内閣運輸大臣)は、経済界の重鎮渋沢栄一の子息正雄の勉強の相手役をしており、渋沢から破格の金銭を受け取り、それを故郷に送金しています。
重雄は岡山六高から東大法学部に入ります。桜田武の先輩になります。高校と大学ではずっと柔道をしていました。猛者でした。重雄は柔道着を洗濯しないので臭く、寝技に持ち込まれるとその悪臭に相手は気絶しそうになったと言います。旧制高校の柔道は講道館柔道と違い、寝技が主流です。それも気絶するまで戦います。そこで気絶しないような特別訓練が六高では行われました。詳細は省きますが、一つ間違えば確実に窒息死するようなものです。重雄は53歳まで柔道現役でした。国際親善でウィーンを訪問した時、若い三段の大男に練習試合を挑まれ、寝技で勝ちました。重雄はそれを機に現役から引退します。彼は講道館理事も務めています。
 大正13年、23歳時、卒業し浅野物産に入ります。浅野総一郎が経営する会社です。1年後辞職し富士製鋼という会社に入りました。この会社は倒産寸前でした。渋沢が経営に関与していたので、彼の引きによるものです。というより若い腕力のある猛者に経営建て直しを期待したのでしょうか?しかし若干24-5歳の若造に、本気で期待するでしょうか?重雄も危ない橋を渡ったものです。社長兼小使という毎日でした。鉄鋼の売り込みに苦慮します。契約書の価格の欄を空白にして、買手の希望に任せるという戦術も行います。昭和2年、金融恐慌が襲います。得意先に前借払いを懇請します。夜逃げもしました。東京電燈に電気を止められ、営業妨害と叫んで、脅します。戦時景気に向かう時勢のお蔭で、窮境を脱し、借金を返済します。この推移は富士鉄鋼に限りません。高橋財政プラス戦時体制のおかげです。昭和8年取締役、昭和9年合同してできた日本製鉄の富士製鋼所長、更に日鉄理事になります。日鉄から鉄鋼統制会に出張します。終戦、昭和23年日鉄に帰り常務取締役。昭和22年、1億円以上の企業の役員2200名が追放され、追放を免れた次位の者が経営陣の主力になります。この点では奥村綱雄、西山弥太郎、桜田武の境遇と同様です。(各列伝参照)
 永野重雄は経営者としては豪腕の猛者タイプです。しかし富士製鋼建て直し後は、統制経済の中でこれといって目立つ仕事はありません。ただ上の言う事を聞いていれば無難です。重雄の活躍は戦後、ですから彼45歳以後になります。戦後日本製鉄は新しくできた独禁法により解体されます。西の八幡製鉄と東の北日本(富士)製鉄に分割されました。この時問題になったのが、広畑製鉄所の帰趨です。外国に売却するという話も吉田首相から出ます。広畑製鉄所はストリップミルを備えた当時最大の製鉄所でした。これを取られれば富士製鉄は半身不随になります。六高柔道部の後輩である桜田武のボス、宮島清次郎が吉田茂のブレイン(というより経済関係方面の指南者)だったので、この線で外国売却を阻止します。吉田側近だった佐藤栄作も外国売却には反対でした。こうして富士製鉄の危機を重雄は乗り切ります。昭和25年同社の代表取締役社長に就任。
重雄の次の活躍は昭和45年の八幡・富士合併による、新日鉄の誕生です。これは独禁法に触れるとされ、両社の首脳部以外の人は官民あげて反対でした。私にもこの合併の意味は解りかねます。規模で言えばより小さい、神鋼、住金、川鉄、鋼管などは独立してやっています。前三者は関西系企業で独自の方針、日本鋼管も独自路線を追求します。(付、鋼管と川鉄は後に合併)私には新日鉄の成立は、これらの勢いのいい企業の追い上げへの防衛のようにも思えます。ともかく、日本最大の企業が誕生しました。会長は重雄、社長は稲山嘉浩です。詳しくは稲山の列伝で述べました。
 日鉄の分割、新日鉄の誕生のどれをとってもすべて政治絡みです。一私企業のレベルでこなせる問題ではありません。そして重雄の本領は、こういう場面で切れ味よく発揮されます。永野重雄という経済人を語るに、政治は欠かせません。以下彼が関係した主な諸事項を検討してみましょう。彼の経歴には昭和戦後政治史そのものの観があります。
 昭和22年、経済安定本部第一部長に就任します。経済安定本部、通称安本(アンポン)は、戦後経済の建て直しの任を帯びて、特別に創られた組織です。安本長官は閣僚級いやそれ以上の存在でした。安本は傾斜生産方式を取ります。重要な産業特に鉄と石炭に外貨を使わせ、他の不要不急の産業への投資は後回しにしようとします。道理で当時のバナナは高かった。(1本40円)戦時中鉄鋼統制会におり、鉄の専門家であり、富士製鋼建て直しで豪腕をならした、重雄の出番でしょう。乏しい資源を同業者に配分する仕事ですから。
 昭和27年東京商工会議所副会頭に就任します。後に会頭、さらに日本商工会議所会頭になります。重雄の肩書きでは富士製鉄社長に次ぐ重要な肩書きです。商工会議所は中小企業の支援が主任務だそうで、重雄は富士製鋼時代を振り返り、自分には適役だと自認しています。
 昭和35年池田内閣発足。当時財界四天王と呼ばれる人物群がいました。池田総理に親しく、経済関係の顧問のような存在であり、財界と政界を結ぶパイプ役でもありました。小林中、桜田武、水野成夫、そして永野重雄です。
 昭和36年オ-ストラリアとニュ-ジ-ランドの親善使節団長として両国を訪問しています。
 昭和40年は高度成長の中の不況期でした。それまで借金経営で猛進してきた山陽特殊製鋼が破産の危機に襲われます。主力銀行の神戸銀行は救済融資を続行しようとしますが、そのためには富士製鉄の保証が必要です。迷った末重雄は保証を拒否します。山陽特殊製鋼は会社更生法を受けることになります。もし保証していたら富士製鉄も神戸銀行も危なかったろうといわれ、重雄の非情な決断は支持されました。
 このころから万博の計画が具体的になります。佐藤内閣の通産大臣三木武夫は、会長人事に苦慮します。最初住友銀行の堀田庄三、堀田に断られて重雄が候補に上がります。重雄は辞退し石坂泰三を押します。重雄は副会長に収まります。
 昭和47年、太平洋経済委員会が結成され、重雄も深く関与します。日米、オ-ストラリア、ニュ-ジ-ランド、カナダなどが参加国です。
 昭和47年「小企業等経営改善資金融資制度」通称「マル経資金」という制度が設置されます。中小企業に対して、無担保無保証で、運転資金50万円、設備資金100万円までを融資します。好評で10年後の56年、融資残高2兆4800億円、件数は175万件になりました。背景があります。当時共産党指導下に民主商工会という組織があり、この組織が中小企業の節税対策を積極的に支援し、民商に参加する業者が多かったのです。共産党の勢力拡充に危機感を抱いた重雄以下の財界人が音頭を取って、マル経資金を創設したそうです。また中曽根通産相に「商工会議所は旦那衆の集まりではないか」と皮肉を言われ、発奮したとも言われています。
 昭和49年、日ソ経済委員会が設置され、重雄は日ソ間の経済交流に尽力しています。同時に北方領土回復にも熱心でした。蛍の光の歌詞に「千島の奥も、沖縄も、八島のうちの護りなり、いたらん国に、いさおしく、つとめよ、わがせ、つつがなく」があります。もっとも第4番の歌詞ですから、普通は歌われません。この歌詞は明治14年に作られたものです。当時から千島列島は日本国有の領土という通念がありました。日ソあるいは日露関係では、経済問題と領土問題がいつも重畳して二律背反になります。現在でも同様です。この間韓国の経済開発にも協力し、銑鋼一貫製鉄所として浦項製鉄所建設に全面的に協力しています。この製鉄所は韓国の経済発展の原動力になりました。裏話があります。製鉄所開設記念式典が催されます。関係者多数が招待されましたが、日本人は一人も招待されませんでした。
 石油ショックで多くの企業が倒産の危機にみまわれました。特にそれまで順風満帆だった造船業界はどん底にあえぎます。重雄達は造船業救済のために、設備と土地の政府買い上げを提案し実施されます。過剰設備と資金の交換、現在で言えば不良債権の買い上げです。この措置で造船業界は立ち直ります。他に佐世保重工の救済、東洋工業(マツダ)への援助なども重雄の仕事でした。
 以上の事跡はすべて政治絡みですから、政界そのものへの関与も重雄にはあります。こういう裏話の真意は解りませんが、佐藤内閣末期から田中内閣の時期にかけて、重雄は角副提携、田中角栄と福田赳夫の提携により保守政権の安定を計る、ことに熱心だったのは事実です。
 永野重雄という人は夢の多い人です。インド北西部のタ-ル砂漠にヒマラヤの水を引き込む工事も提案しました。実現していませんが、可能なプランのようです。第二パナマ運河の計画も抱きました。現在のパナマ運河の西方15kmのところに、幅200-400m、水深33m、全長98kmの運河を建設します。掘り返される土の量は18億立法メ-トルです。運河だけの総工費は83億ドル、付帯事業を合わせると200億ドルになります。それまでの運河では65000トンまでしか通過できません。大型タンカ-の出現により、30万トン級の船の通過を可能にしようとしました。以上が昭和57年・1982年現在での永野試案ですが、第二パナマ運河は建設されず夢のままに終わりました。現在タンカ-や鉄鉱石輸送船などはマゼラン海峡を廻っているようです。いかにも手狭なので現在の運河の拡張工事が予定されています。しかしこの第二パナマ運河の構想はパナマ国民に歓迎され、計画は成らずとも、提案者である重雄を記念する碑が当地に建てられています。当時の200億ドルを邦貨に換算すると、ドル250円として、5兆円、物価の上昇を計算にいれてもせいぜい10兆円から15兆円、そう高いコストとは思えませんが。なお私の試算では、第二パナマ運河の建設工事の規模は、大阪湾埋め立ての規模に相当します。私は大阪湾を埋め立て、四国と関西を一体化することが関西そして日本の経済の発展に大きく資すると思っています。
 重雄の夢は膨らみます。道州制を提案し、更に世界一国論を提唱します。後者の可否については論評をさけます。私も日米合邦論者ですので、気持ちは解ります。1983年(昭和58年)84歳で死去。勲一等旭日大綬章受賞、功なり名をとげた生涯です。

 参考文献 永野重雄、わが財界人生  ダイヤモンド社

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