経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

西郷隆盛(1)「君民令和、美しい国日本の歴史」-注釈、補遺、解説

2020-01-04 14:28:06 | Weblog
西郷隆盛(1)「君民令和、美しい国日本の歴史」-注釈、補遺、解説
「君民令和、美しい国日本の歴史」という本が発売されました。記載が簡明で直裁、結論を断定しています。個々の項目を塾考すれば意図は解ると思いますが、内容を豊富にするために以後のブログで個別的に補遺、注釈をつけ、解説してみます。本文の記載は省略します。発売された本を手元に置いてこのブログを見てください。

(西郷隆盛の事績年譜)
 西郷の事績を簡潔に整理しておきます。これまでの章で関連事項は何度も述べたので、ここでは西郷の人生に直結する事件を挙げます。
 1828年 鹿児島城下に生れる
 1851年 島津斉彬薩摩藩主となる。以後斉彬の腹心として活動 
 1853年 ペリ-来航
 1858年 斉彬死去、安政の大獄始まる
 1860年 桜田門外の変、井伊直弼暗殺
 1862年 寺田屋事件
 1864年 参与会議分解、禁門の変
 1868年(明治元年)鳥羽伏見の戦い、4月江戸開城
 1871年 廃藩置県
 1873年 いわゆる征韓論 西郷下野
 1877年 西南戦争、9月西郷自殺
 大雑把に言えばこれだけです。西郷の活動は大きく三期に分けられます。1851年から1858年までの6年間と、1864年から1868年までの4年間、そして1871年から1877年までの6年間です。最初の6年間は斉彬の腹心として活動します。ここでは公武合体の思想を持ちます。以後2年間は井伊の追及を避けて島流し(ある意味では保護軟禁?)生活を送ります。過激浪士の活動に手を焼いた島津久光に呼び返されて活動しますが、対処方法で久光と衝突し再び配流生活を2年間送ります。この件で西郷が久光を無視したのは事実です。公武合体論が行き詰まり再び呼び返され、久光側近の大久保利通とコンビを組みます。この時期西郷は明白に討幕を目指します。この時期が、西郷の一番光った時期であり、また西郷の存在意義が歴史に刻まれた時期です。かっての味方一橋慶喜は西郷の主敵になります。江戸城開城とほぼ時期を同じくして薩摩に帰り薩摩士族の頭目になります。1871年大久保に再び招請され新政府の参議となり、西郷木戸(薩長)の連立そして専制政治を行います。この時期の2年間で明治政府の主たる制度改革はほぼ行われています。以後は薩摩に隠棲し、最後に私学校の生徒に担がれて反乱を起こし、自決します。


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