経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

親子関係

2013-06-17 02:16:46 | Weblog
親子関係

橋下氏の慰安婦発言に端を発し、論点は家庭と家族道徳の擁護に及んだ。その続きとして親子関係とは如何なるものなのかを論じてみたい。
 親子関係とは何か。いろいろな角度からながめてみよう。親子関係は婚姻の結果である。婚姻そしてその結果としての親子関係は、まず相互依存、そして相互愛着の関係でありその単位である。次に婚姻制度は生産と労働の単位でもある。依存愛着から労働生産にいたる過程を哺育教育という。生産と労働の単位は即支配と統治の単位になる。婚姻には必ず経済的関係が包含される。したがって婚姻と親子関係は、愛着、教育、労働、交換、支配の単位になる。換言すれば政治行為の単位であり基礎である。婚姻、親子関係の外貌としての家・家族はしたがって生物学的存在と政治的存在という人間の二重のあり方を結ぶ結節点である。家族をぬいて、教育はありえないし、家族内関係ほど依存と愛着という人間の基本的欲求を満たしてくれるものはない。政治的行為つまり支配統治という行為は、この基本的欲求を満たしてくれる家族を基盤としてのみ行われうる。
 教育とは何か、成長とは何か、と問うてみよう。成長とは、安定した労働力になることである。成長とは単なる依存愛着の対象から、生産労働の主体になることである。人間は依存愛着から労働力へと成長し変身しなければならない。ここから親子関係の矛盾が発生する。親の側からは子供に対して、庇護愛顧、指示訓育、そして抑圧支配の対応が為され、子供の側から親に対しては、依存愛着、服従学習、そして恐怖反発の対応が生じる。親子はこの両義的関係を生き、乗り切らねばならない。
この矛盾が近親相姦的関係である。近親相姦願望は、対象への依存または共生、対象の独占欲求、それらが阻害されることへの嫉妬と怒り憎しみ総じて攻撃性、反作用としての罪悪感、そして哺乳類に特有の陰茎膣粘膜などの性感帯の興奮に分解される。近親相関願望とは、ごく具体的に言えば異性の親子間の交接願望である。換言すると、労働力になったあるいはそう期待される個人が、母親との依存愛着関係に後戻りしようとすることである。この種の退行現象を、奇異として多くの人間はそれを近親相関という語で、非難の意味を籠めて使用した。対象に依存し共生し、対象を独占し、対象と庇護愛着そして遊び快楽の関係にありたい、成長して社会的労働力とみなされているにも関わらず、そうでありたいという願望を近親相関願望という。もし許されるものなら、そういう次元に留まりたいというのが、人間の願望に通底するところであろう。しかし労働力として期待される以上、この願望は許されない。ここから抑圧支配そして服従と不安恐怖の関係が発生する。人間はこの近親相関願望を抱きそしてそれを抑圧し忘却するべく強制される。かかる願望を奇異で危険なもの、背徳として、意識から排除するべく強要される。
社会は近親相関の忌避により成り立つ。そのために社会は婚姻を統制しようとした。まず両性のどちらか、多くは女性が家族の外、氏族の外において婚姻する事が制度として行われた。原始的な部族では、氏族外の母親側の伯父従兄との結婚が行われる。交差いとこ婚という。同時に氏族間で交換される女性は経済財とみなされた。事実女性は子供を産むし自身労働力でもあるので、経済財であることは自明である。この自明な現象をあえて、強調し、婚姻を経済制度の一環とすることにより、婚姻制度そして社会制度より小さくは人間関係が安定する。
このような複雑で葛藤に満ちた関係の克服という過程を経て、人間は依存愛着の客体から、生産労働の主体に転じてゆく。繰り返すがこの過程は葛藤に満ちている。人間関係には種々ある、あるいは種々あるように見える。しかし人間の人格形成のほとんどは、思春期終了でもって決定される。以後の人間関係はその再現と修飾そして若干の修正でしかない。個人の人格形成に影響を与える決定的因子は二つしかない。親子関係と、その再現克服の過程である性的関係(配偶者選択や恋愛関係)である。私の治療体験から言えば、人間関係は親子そして性的関係に尽きる。この問題に一定の解決を見出した時、治療は終了する。それ以外の関係は枝葉末節に過ぎない。人間関係は多様に見えて意外と単純なのだ。
私は近親相関願望という言葉を使った。この言葉の意味をもう少し精緻に理解してみよう。母子は相互に共生と愛着の感情を抱く。この記憶は性対象選択においても生きており、性対象との関係において共生と愛着の感情は再現される。性関係、より狭義に性交において男女の間に生じる感情は遊びといちゃつきの感情である。これはまさしく母子関係の再現だ。であるから性的関係においてその根源に母子間の感情が存在する。性的対象と交接し、その際に感じる遊びと愛着そして快楽は、母子関係のそれに淵源する。性対象との交接が母子間の感情に連なるとすれば、性対象との感情は母子間の感情と重ねられてもいい。双方の感情が重畳されればそこから生じてくる感情は母子間での交接願望だ。この潜在的願望を近親相関願望という。
もう少し生物学的に考えてみよう。なぜ人間の母子間には共生と愛着そして遊びの感情があるのだろうか。幼態生殖と直立歩行そして外敵防御がその理由だ。人間は直立歩行をする。その分人間の雌の産道は狭くなり、子供は未完成な形で生まれる。一人前になるには時間がかかる。氷河期に森林から草原に進出した(追い出された)我々の祖先は、草原でか弱い母子を連れ歩くことに危険を感じ、より安全な場に巣を求め、そこで母子を庇護した。集団で長時間滞在するためには、集団維持の潤滑剤として遊びと快楽が必要になる。ここで母子間における、皮膚と皮膚の接触、抱擁に際しての温かさ、口唇と乳房の接触、排泄処理における肛門尿道粘膜と口唇あるいは手指皮膚との接触などは、快楽の格好の部位手段となった。こうして哺育接触と集団形成という契機が相乗作用しつつ、快楽という感情が生じる。産道も尿道も生殖器官であるがゆえに、そして哺育は生殖の延長上にあるがゆえに、生殖行為は快楽になり遊びになった。母子間の感情と交接に際しての感情は重なる。これを近親相関願望という。そしてこの快楽を共有する事により団体あるいは社会の維持は安定する。以上の解説には憶測が混ざるがそう見当をはずれてはいまい。
だから近親相関願望をその要素に還元すれば、まず母子間の共生、愛着、遊び、いちゃつきの感情がある。次に快楽が生じる身体部位、皮膚、口唇肛門性器の粘膜つまり性感帯の興奮がある。この二つが性感情あるいは近親相関感情の基本的な要素だ。かかる感情は当然対象からの愛撫愛顧を独占しようという欲求を生む。独占欲求は愛顧の対象が唯一ではないが故に阻止される。ここに嫉妬と怒り憎しみ総じて攻撃感情が出現する。攻撃感情の出現は報復への恐れと並行する。罪悪感と迫害不安が出現する。これらの感情を総称して近親相関願望という。嫉妬の相手は母子関係を軸とすれば、父親であることが多い。妻に対する夫の感情と母子間の感情は根底において等価なものなのだから、父親は特に男児にとっては容易にライヴァルになる。ライヴァルにより自分の快楽の部位を破壊されるという恐怖が生じる、この恐怖をフロイトは去勢恐怖と言った。
なお母子関係(そしてその延長上の父子関係において)母親は単なる一個の生物学的存在として子供に接するのではない。母親はおのれが体験した快楽とその挫折も含めて、過去の記憶を背負って子供に対処する。子供は母親からのこの投影を受け入れて成長する。母親も子供の側の反応を取り入れる。こうして母子関係総じて親子関係における快楽の授受は相乗されてゆく。同時にその挫折、阻害という外傷体験も相乗される。
婚姻制度は労働と経済関係の基盤であり単位だ。労働力の基盤であることは見やすい。別に同一家族の内部で婚姻関係を維持し、つまり親子兄弟が相互に配偶者になって生殖活動と生産行為をしても生物学的次元では問題はない。しかし同一家族内部では、共生と愛着の感情は払拭しきれない。嫉妬競合怨念の感情が胚胎しやすく、労働は不能率なものになる。この問題を解決する最適の手段は一部の成員を配偶者として、家族や氏族の外部に送り出すことだ。こうして共生と愛着の感情は一部あるいはかなりな程度整理される。この際外に送り出されるのは男性より女性の方が適任だ。女性は子供を産む。子供は労働力としての財産だ。子供を産むが故に、女性は子供を産んだ場である家族への愛着と忠誠心は強い。あるいはそう強いられる。男性は妊娠分娩に際してはただ精子を撒き散らすだけだから子供が生まれた場である集団への帰属意識は本来寡少である。こうして家族間、氏族間では女子が取引されることになる。女子は労働力でありその労働力の生産者であるから婚姻は経済行為だ。経済行為であるから、当然女子の給付には反対給付が必要になる。女子を受け取る側は与える側に相当する財貨を与えなければならない。そうでない婚姻は非合法あるいは非道徳、野合とみなされる。こうして婚姻は基本的には財貨の交換と同等視される。婚姻が経済行為とみなされることにより、婚姻になお付着する共生と愛着の感情、つまり近親相関的感情は整除される。こうして経済と労働の単位としての家族制度が確立する。それは同時に担税納税の単位でありしかるがゆえに統治すなはち政治支配の単位でもある。
物質の世界で例えると家族とは分子のようなものだ。日常世界の現象はほぼ分子レベルの説明で片がつく。分子以下、submolecularの世界の解説は量子力学やナノ工学の対象だ。分子以下の世界がどれほどものすごい破壊力を発揮するかは周知の通りだ。家族が解体されて、家族内成員が直接接触し会うようになればどうなるのか?虐待、摂食障害、家庭内そして校内暴力、不登校などなどすべて家族解体の予兆ではないのか?前民主党政権は、社会でもって子供の教育をする、換言すれば家族の教育に対する役割は小さくてもいい、というような政策を掲げたがこれほど愚かなことはない。正直この政権が成立した時、3年前、私は深刻な恐怖に襲われた。国家が、社会が解体してゆくような危惧感を覚えた。
繰り返すが人間が成長してゆくためには、近親相関願望の克服、つまり愛着共生からの分離独立という葛藤克服の過程が必要だ。この危険でエネルギ-に満ちた過程は家庭という組織の中でのみ遂行可能である。家庭・家族を無視して社会は存続しえないのだ。
このような厳しい過程である家族などいらないではないかという疑問もでるであろう。では家族無く、簡潔に言えば母性との関係なく育てられればどうなるかは、既に結論はでている。80年前R・スピッツとA・フロイトが別個に母性剥奪の結果の調査を発表している。A・フロイトは当時のイギリスの孤児院で育てられる子供の調査をした。孤児院では単に栄養補給や身体清掃などの生理的欲求がかなえられるのみで、会話や遊びなどのメンタルな配慮は一切なかった。乳幼児死亡率は非常に高く、また発達に障害を持つ子供も多かった。猿で実験した人もいた。針金で作ったある種のロボットに猿の乳幼児を保育させる。こうして育てられた小猿の発育は悪く、また他の小猿との関係維持に支障をきたした。そこで実験者はロボットに柔らかい布を着せて小猿を保育させた。小猿の発育は良好で他の小猿との関係も維持できた。しかしこの小猿が思春期を迎えた時、彼は他の猿との性的交接に支障をきたしたと報告されている。これらの事実は家庭と母性というものがいかに人間の成長と発達に不可欠なものであるかを見事に例示する。家庭あるいは家族とは必要なものなのだ。同時にそこは厳しい克服の場でもあるのだ。    
私は母性と父性という概念を統一せずに使用した。一応整理しておこう。母性に関してはすでに詳述している。父性とは母子関係を中核とする家族を外敵から護る機能である。ここで母性は父性に接続する。

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