経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

江戸時代再考

2013-10-20 02:33:57 | Weblog
   江戸時代再考

 我々の世代は江戸時代とは、百姓町人は武士に押さえつけられ日々の労働に辛吟し苦痛のみを与えられる苦難の暗黒時代だったと教えられてきた。現在日本史像は資料の大量発掘でどんどん変りつつある。もう一度江戸時代を再考してみようではないか。いろいろな観点から箇条書き風に思いつくままの述べてみる。
 通常江戸時代でも、元禄期、田沼時代、天保期の評価は低い。元禄時代は犬公方と言われた5代綱吉の治世で人間より犬が威張っており、汚職がはやり武士は軟弱になったといわれていた。事実は違うようだ。幕府初期におけるインフラ投資の結果、生産力は向上し換金作物を基盤とする製造業は盛んとなり、商工業は繫栄して農工商は相対的に富裕になり、年貢収納の実態は三公七民くらいになっている。綱吉個人が名君であったかどうかはともかくとして、彼の時代に勘定方老中、勘定吟味役が設置され、地方奉行層の職務も規定改善されて、幕府官僚システムが整ったことは事実だ。勘定奉行荻原重秀の貨幣政策は通貨流通量増大による好景気招来を期待する政策で、現代のケインズ主義にも通じるところがある。要するに封建制度の枠を廃棄する可能性をも秘めた極めて革新的な政策だったということだ。この点に関しては荻生徂徠が論理的に解説している。綱吉の生類憐れみの令の施行もかなり誇張されて伝えられている。彼は血を見るのが大嫌いだった。捨て子を路上で喰う犬猫を見るのが嫌いというより苦痛だったらしく、これが犬の囲い込みの背景らしい。綱吉が学問を愛好し奨励して文治主義をとったことは周知の事実だ。
 田沼時代。金権汚職にまみれた時代だったと教わった。確かにそういう面はある。基本的に意次は、農本主義による封建制度の維持の行き詰まりを痛感して、商業資本を経済政策に呼び込もうとした。株仲間を形成させて商人を統治下に置き、同時に商人からの徴税も制度化しようとした。鉱山開発、印旛沼干拓などにも商業資本を使った。商人と政治家が近寄れば汚職ないし汚職めいたことが起きるのは当然である。それに収賄と慣行の区別も曖昧である。従来の慣行として気楽に金品をもらえば汚職にもなる。実際経済が拡大する過程で汚職に目の角を立てていたら政治はできない。断っておくが私は汚職を肯定しているのではない。田沼時代はなによりも好景気の時代だった。相継ぐ飢饉と浅間山の爆発で意次は辞任に追い込まれるが、基本的にはこの時代は好景気だった。何よりも開放的であり言論統制も江戸期を通じて一番緩やかであった。蘭学は勃興し、歌舞伎浄瑠璃は栄え、民心は文化を享楽しえた。杉田玄白による解体新書が出され、死体解剖が許可され、近代医学の曙光が見えたのもこの時代だった。工藤平助は北海道千島を探検「赤蝦夷風雪考という本を書いた。意次は工藤の献策に基づいて蝦夷地の開発を試みようとしている。
 通常の歴史教育では享保と寛政と天保の三大改革を善政とみなし、その中間の田沼期や文化文政天保期は悪政の時代といわれる。しかし吉宗や定信の執政下では倹約倹約で不景気となり為政者の意図とは反対に苦しい時代であったようだ。あたり前のことで倹約とは経済の縮小を意味する。個人としてのモラルはともかく、経済全体としては低迷する。
 寛政の改革以後の文化文政そして天保のいわゆる11代将軍家斉の大御所時代は享楽と消費に明け暮れた退廃の時代とされる。ただ享保の頃と比べると幕府財政はほぼ10倍近くに膨張している。享保の頃の幕府財政はせいぜい200万両だった。財政が膨張しているということはそれだけ人口が増えそして景気が良いからではないのか。事実この時代に諸藩のみならず統治下の村落でも、藩政村政の改革がどんどん進められている。この時代には寛政や天保の改革の時のような思想弾圧はほとんどなかった。鶴屋南北の歌舞伎が人気を博していた。
 私は産業革命などの資本主義勃興の最終的原因はその国の識字率にあると思っている。事実日本とドイツの19世紀前半における識字率はすごく高い。私は幕末の時点で日本人の識字率はほぼ100%であったのではないかと思っている。男女ともだ。そう思わなければ説明のつかない事実が発掘され続けている。18世紀後半から農村は村方騒動の時代に入る。村方騒動とは要するに、一般農民が名主庄屋を押し立てて藩当局と年貢納入の交渉をすることだ。名主庄屋は中間にあるので藩当局とぐるにもなりうる。そこで農民は彼らの監視役として百姓代という制度を作った。のみならず彼らが藩当局と交渉する過程の明示化文書化を求めた。こういう記録は現在でも旧名主庄屋クラスの村の名望家の家には保存されており、歴史学者はこの膨大な資料整理に悲鳴をあげているそうだ。文書は仮名文ではない。れっきとした候文だ。当時の一村の人口数はせいぜい数百名、家にすれば百軒足らずだ。村の全員が監視に参加したはずだ。事は税金の問題だ。無関心でありうるはずがない。監視するためには字が読めなければならない。女子は?当時の農村での女子労働の比重は大きい。となると彼女達にも発言権はある。女子も識字できなければならないだろう。女房が家計に直結する税金のことを亭主に任せておのれは家事労働に安んじているなどとは考えられない。
 識字率100%説のもう一つの根拠。19世紀初頭から幕末にかけては農村歌舞伎が栄えた。ほとんどの村は専用の舞台を持ち、役者を都市からよぶか、また農民自体が演技した。幕藩当局はこの風潮を嫌って、風紀の問題と集会が一揆につながりうるので、禁止したが、農民はどこ吹く風で祭りだ神事だお祝いだとごまかして、歌舞伎を演じ続けた。当然台本が要るだろう。字が読めなくてはろくな演技はできまい。我々は当時の農村は刻苦して労働に励み、盆暮れ意外にはろくな休日はなかったろうと思っていた。どうやらそうではないらしい。村の若者組という実行部隊の力は強く、彼らは祭礼と休日の増加を要求し、週に換算すれば三日くらいの休日を楽しんでいた。農村歌舞伎の盛況と合わせて考えると納得できる。今日の新聞(産経10-9)に、日本人の大人(16-65歳)の知的能力は世界一とあった。むべなるかなである。またその内容が面白い。母国語を理解する能力では世界一、数学的思考でも世界一、そして外国語(英語ということになる)で意志を伝える能力は第十位だった。私は、日本人は必ずしもあくせくして英語を学ぶ必要はない、と思っている。英語を流暢に話すのは、同系統言語(印欧語、ドイツ語、フランス語、オランダ語、北欧語など)を話す民族と、あとは植民地ないし同様の状態になり母国人にサ-ヴァントとして仕えなければならなかった国々の人達だ。現にマレ-シア、インド、フィリピン、シナの連中は器用に英語を話す。日本人の置かれてきた状況からすればそんなに器用流暢に英語を話せるはずがない。10月9日といえばノーベル賞受賞者発表の季節だ。少し調べてみた。過去日本人受賞者(医学生理学、物理学、化学賞、つまり自然科学参照のみを対象とする 平和文学経済学賞などは茶番だ)は総計17名、受賞項目は13件だ。うち2000年代に入ってからは受賞件数が7件。一年の受賞項目は3、13年を掛けて総数39。悪い数ではない。大体日米独仏英の五国の受賞者が圧倒的だ。日本もノ-ベル賞の常連国になってきたようだ。それに受賞者の出身大学が京大と東大を越えて他大学にまで広がっている。研究者養成能力の裾野が広がってきたということか。
そもそも江戸時代あるいわそれ以前の時代の日本には民主制はないとされていた。とんでもない歴史認識だ。江戸時代幕藩では7-8名の家老老中の取締役段階での衆議と奉行層段階での衆議と二段階の衆議性合議制で政治は運営されていた。将軍や大名は、天皇不執政の原則に習って家老層の決定に可否を与えるだけの存在、つまり「そうせい侯」であった。時としてこの二段階のメンバ-が合同で衆議することもあった。幕府の評定会議だ。淵源は鎌倉幕府の評定衆にまで遡る、この評定会議のメンバ-総数は40名弱。当時の人口は3000万人。現在に引き伸ばせば4倍で120人というところか。幕府支配地域は厳密に天領のみで数えると全国の領域の1/5.現在の日本政府は全土を統治しているので、その規模に引きなおすと五倍、600人になる。衆参両院で現在700名が定員。評定会議と衆参両議院の人民代表率はほぼ同じになる。諸藩は諸藩でそれぞれの衆議制で運営していた。政治の密度はむしろ江戸時代の方が高かったのではないのか。農村は村方騒動のところでのべたように、事実上自治衆議だ。こう見てくれば少なくとも江戸時代の政治は三層の衆議で動いていたことになる。家老層、奉行層、農民層の三つの段階の衆議だ。
 江戸時代に農民の土地所有権はなかったといわれる。しかし耕作権はあった。あったどころではない、かっちりとあった。将軍大名といえどもこの耕作権を召し上げようなどとはゆめゆめ考えなかった。イギリスあるいわイングランドと比較してみよう。哲学者であり政治思想家としても令名高いジョンロックの政治原理の根幹は、私的所有の徹底的護持だ。それはそれで結構だが、ところで当時のイギリス農民の土地所有権は保証されていたのかと言えばはなはだ頼りない。ロックの活躍の前後二度にわたり囲い込み運動(enclosure)がおきている。どの本を読んでもよく解らないのだが、要するに領主とか地主、端的にいえば強い者が勝手に土地を占有し、農民を追い出している。追い出された方は都市に出て働くか乞食になった。ここで考えてみよう。お殿様に仮に土下座しても土地耕作権を保障されるのと、私的所有の絶対性の名のもとに、土地から追い出されるのと、どちらがいい。前者つまり食える方が良いに決まっている。
 そもそも日本の武士階層は農民階層と連続している。室町戦国期、中小名主が族生した。彼らは基本的には土地耕作者であり土地占有者だった。彼らのうちより上層の部分、あるいは武侠に憧れすっ飛んだ分子が都市に集住して武士となった。繰り返すが武士と農民は連続している。武士と農民の差はあまりない。幕末から維新にかけて活躍し日本の経済界を了導した福沢諭吉と渋沢栄一、前者は武士であり後者は農民だ。しかし生活は後者渋沢の方がずっと豊かだった。イギリスでは所有権は確立されているという。換言すれば地主と農民の距離が大きいということだ。イギリスの歴史の一つの出発点は11世紀中葉に起こったフレンチノルマンによる征服だ。ロックあるいわイギリス政治思想が誇る私的所有権とは、これを日本のそれと比べれば結局のところ農民と為政者の距離の差でしかないことになる。こういう観点からも日本的な衆議制を見直さねばなるまい。
 所有権が日本では曖昧で、統治と所有が分別されていない、だから遅れているとされてきた。しかし既に考察したように、所有権が明確で峻厳そして神聖なものとされることは、治者と被治者の距離の大きさ、つまり階級格差の問題につながる。日本では格差は小さい。これは何に由来するのか。私はそれを摂関制をも含めた日本特有の君主制すなわち天皇制の存在に求める。天皇と摂関が統治権を権威と権力の二つに二分したことにより、治者と被治者の関係が柔らかくなり、集団帰属性と凝集性が大きくなったのだと思う。また武士の存在も大きい。本来武士とは農民であった。武士と農民の間の差はあまりない。そして天皇制と武士階層は従来の歴史学で教えられてきたように対立する関係にはない。むしろ両者は相互補完的関係にある。詳しくは拙著「天皇制の擁護」を参照されたい。
 江戸時代治安はすこぶる良かった。南北の町奉行所で総計500名前後の与力同心で、100万都市の治安が保たれていた。大阪京都も同様だ。都市は城壁はなく解放されており、夜間も歩行できた。農村は基本的には自治、それもせいぜい百軒弱の集団の自治だから、平和なものだった。翻って西欧は、少なくともドイツでは街道は乞食賎民強盗であふれ夜間の歩行どころではなかった。
 刑罰についてはどうだろうか。十両盗めば首が飛ぶとか言われている。実際はそうではなかったようだ。18世紀後半のイギリス、ここでは窃盗は金額の大小を問わず絞首刑だった。また江戸時代の生態系への配慮はまず世界一であろう。江戸市民100万人、この時代の産業力で100万人の都市があること自体が驚きだが、玉川上水のような水道もあり、また都市住民が出す糞尿はすべて近隣の農家が買いにきて肥料として用いた。汚物垂れ流しはなかった。生態系は極めて効率のいい好循環をなしていた。18世紀後半のパリやグラスゴ-では夜歩いていると頭の上から汚物が落ちてきて、うかうか歩行はできなかったという。セーヌ川は臭かったそうだ。糞尿の有効利用ということを西欧の連中は考えなかったのだろうか。
肥料のことで思い出した。日本では江戸時代の初めから魚を肥料にしていた。日本海沿岸では鰯がいやというほど取れた。これを乾かして粉にして田畑にまく。魚肥という。金がかかるから金肥とも言った。農民はこの魚肥を使って作物を育てた。非常に優秀な肥料で収穫は増えた。米など馬鹿らしくて作っておれないとして、金になる商業作物を栽培した。タバコ、菜種、酒米、木綿などのたぐいだ。そして農民とそれを用い商う商工階層は豊かになった。当時の西欧では北海やバルト海にはニシンがうようよいた。しかし魚肥のことは一向に聞かない。智慧がなかったのかそれとも資本がなかったのか。
 学問の面でも数学の微積分と行列(この二つの領域が事実上大学理系で習得する高等数学の基幹だ)は西欧より早く17世紀中葉には日本で考案されていたし(関孝和など)、貨幣数量説、有効需要そして社会契約論や万民平等論、つまり政治経済運営の基本的部分はは、徂徠、梅岩、尊徳らによって説かれていた。よく日本の学問は西欧に比し300年以上遅れているとか言われた。出発を明治維新にとればだ。しかし明治維新に起点をとっても遅れは高々100年足らずでしかない。というのはガリレオやニュ-トンやデカルトの発案発見は当時の西欧では好事家の趣味程度のもので、実際の産業には全く結びついていなかった。産業革命は18世紀後半イギリスで起こる。しかし勃興した産業と科学はほとんど無関係だった。ワットにしろア-クライトにしろ彼らは基本的には職人でしかなかった。科学が産業と直結するようになるのは19世紀後半の電気化学工業においてからだ。これを起点にすれば日本は西欧とほとんど同時に実際に役に立つ科学を推進したことになる。
 こう考えてくると江戸時代とは非常に進んだ時代だったことになる。明治維新の成功は江戸時代の蓄積を基礎としてのみ可能だった。
 江戸時代は二度にわたり否定されてきた。明治維新は江戸時代を克服し西欧に学ぶという姿勢であったため、江戸時代のものはすべて悪い遅れている旧慣遺物として否定した。第二次大戦後の占領政策で日本の伝統は否定されかかった。日本史を教えてはいけないとまで命令された。加えて戦後跳梁跋扈したマルキシズムの影響も大きい。歴史の発展法則とやらで(発展しているかどうかは知らないが、変化はしている)否定され廃棄されるべき資本主義体制よりなお古いのだから議論に値しない遅れた制度として、江戸時代はみなされた。マルキシズムの怖さそして強みはなんといっても、歴史は自動的に千年王国にたどり着くという信念と硬直した論旨をもっている事にある。歴史はどう変化するかは解らない。しかし進歩必然という考えを持てば、その論主のいう事はすべて正しい、異論は進歩の邪魔つまり悪とされる。過去から学ぼうとする謙虚な姿勢はなくなる。事実ソ連もシナも過去を否定し過去の事物を破壊し、現在では歴史を学ぶ資料にすら事欠く有様だ。
 そういえばデモクラシ-とかリベラリズムとかいう舶来の思想にも同様の事がいえる。マルキシズムのように必然性を強調しないだけだが、進歩そしてその進歩に預かるあるいわ扇動する「我々」は正しいという姿勢は共通しているようだ。論旨を極めて簡易に絞るとロックとマルクスの思想ということになる。マルキシズムは神話だから放っておく。問題はデモクラシ-あるいわデモクラシ-万能論だ。デモクラシ-とかリベラリズムはロックを原点として思想として造られた。ロックの思想の基幹は私的所有の絶対性だ。彼は所有権を絶対視し、これが犯されるなら革命を起こしてもいいといった。そのお蔭で彼は母校オックスフォ-ド大学の卒業名簿から除名されたが。所有権が人権になり、その担い手が近代的自我とやらになった。そして日本のインテリはこの近代的自我にすこぶる弱い。日本では近代的自我が確立していない、だから遅れている、文学でも思想哲学でもすこぶる遅れている、ダメだと知識人達は思った。しかし近代的自我の起点が所有権でしかないならば、もっとリアルに思想を捉えなおせるはずだ。その一部は暗示的にここで述べた。我々日本人もそろそろ自前の思想を持たなければならないのではないのか。

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