簡単な天皇家の歴史(11)
醍醐天皇の死去、そして時平直系の皇子の死等の状況により7歳の幼帝朱雀天皇が即位します。醍醐天皇と藤原基経の娘(時平の妹)の間にできた皇子です。この天皇の代は道真の怨霊一色で塗りつぶされました。というのは940年承平天慶の乱が起こります。関東では平将門が桓武天皇6代の子孫として、新皇と称し反乱を起こします。呼応するかのように瀬戸内では藤原氏傍流の子孫である藤原純友が海賊を率いて反乱し、一時は摂津国近辺まで侵攻します。特に将門の乱は天皇の正統性を問題にしています。すでに述べたように、陽成-光孝-宇多-醍醐というラインは緊急避難、偶然性、そして肝心の摂関と皇室の意見不一致などがあり、正統性に疑問をつけられても仕方のない側面を持っていました。将門にすれば光孝天皇が正統なら、俺だって云々という気分はあったでしょう。将門が蟠踞する関東の北は未だ完全に王化(律令化)していない東北つまり蝦夷地であり、将門の反乱は容易に東北に及び、そうなると日本は半分に割れてしまいます。また純友が暴れまくる瀬戸内から北九州は交通の要路であり、都への財貨租税の大きな部分はこの通路をして運ばれました。瀬戸内は律令制維持の大動脈でした。まさに王権の危機です。ここで道真の怨霊説は大きな真実味を帯びて語られます。巷間では道真が関東に行って将門と合流したなどとの噂が飛び交います。少し後になりますが、摂津か播磨で生じたある種の新興宗教がデモをして都に入り込もうとします。こういう中都のある女性が憑依され、この女性を介して道真の怨霊が出現します。道真が北野に祭られたのはこの事件が直接の原因です。将門も純友も打ち取られました。しかし律令制の武力を行使してではありません。当時地方に勃興しつつあった武士階層の力によって氾濫は防がれました。彼ら武士たちは急速に力をつけ台頭してきます。ともかく朱雀朝は道真の怨霊に振り回された時代です。なお将門は死後も非常に民間では人気が高く、東京の神田明神の主神は将門です。私も将門は好きです。
朱雀天皇の次代が同母弟の憲平親王でした、即位して村上天皇となります。父は醍醐天皇、母は藤原穏子です。朱雀天皇が幼帝として即位したのに対して、村上天皇は19歳つまり成人として即位しました。朱雀天皇が母親に過保護にされて温順な性格なのに対して、村上天皇は豪快で不羈奔放なところがありました。朱雀天皇の代には将門・純友という大乱がありましたが、村上天皇の時代にはそれも治まり、以後11世紀後半までは地方の大乱はありません。武士たちは高級貴族の家人となり、次第に権門の爪牙として機能し力をつけてゆきますが、朝廷と貴族を揺るがすようなことはしません。だから村上天皇の治世は平和でした。運の良い帝王と言えましょう。天皇は藤原忠平の子供である実頼と師輔を左右の大臣にして、あえて摂関をおきません。形は天皇親政です。
天皇のエネルギ-はむしろ文化と漁色に注がれたようです。この時代和歌は最盛期を迎えようとしていました。古今集編纂以後、専門の歌人が続出し、女流歌人も多数輩出しました。和歌は宮廷儀礼の重要な手段になります。このような情況を表すイヴェントが960年の天徳内裏歌合です。男女の歌人が着飾り、着席して、左右に分かれて、一首づつ和歌を作り、判者が優劣を判定するのです。英邁なる帝王、村上天皇の盛期を飾る行事であり、和歌発展の一大転機となりました。
村上天皇は艶福家でした。正規の妃には実頼と師輔の娘を娶り、師輔の娘安子は後の冷泉・円融天皇を産みます。対して実頼の娘は不妊でした。こうして村上天皇の皇嗣が安定する一方、師輔の家系が摂関家になってゆきます。ここで摂関家の系譜を簡単に述べますと、良房-基経-忠平-師輔-兼家-道長-頼道、となります。
裏のお話もしなければならないでしょう。天皇は兄重明親王の妻である登子といい仲になり、登子を女官として内裏に入れます。登子は師輔の娘です。後宮に隠然たる力を持ちます。師輔の娘安子は天皇の正妃ですから、師輔の勢力は非常に大きくなります。加えて師輔は村上天皇の娘である康子内親王と密通しました。この女性から藤原氏閑院流が発します。村上天皇と藤原師輔二人の不倫交換と正妃の生殖力で村上天皇の御代は安泰であったと言
えます。
宇多天皇の寛平、醍醐天皇の延喜、村上天皇の天暦、この三代は天皇親政そして、聖代として後の公卿たちから高い評価を得ています。この評価は後世に及び、南北両朝迭立の時代南朝にはこの三代の天皇に「後」をつける天皇が続出します。例えば後醍醐天皇です。もっとも私は必ずしもそう高い評価はしません。
村上天皇の次代は子供の冷泉天皇です。冷泉天皇はかなり精神が不安定、ありていに言えば多分に精神病の傾向がありました。父村上天皇の強い意向で即位しました。母親は師輔の娘安子です。冷泉天皇が即位できたのは藤原氏と賜姓源氏の間の政治的葛藤の由縁もあります。結果として安和の変が起こりました。当時台閣で力をつけつつあった左大臣源高明が突然大宰府権師に左遷されます。高明は村上天皇の皇子である為平親王の娘を娶ります。もしこの女子に男子が生まれれば、この男子が皇位継承者になりえ、そうなれば高明は外戚になる事を案じた藤原氏の陰謀だと言われます。高明は一世源氏、つまり天皇の子供でした。「蜻蛉日記」の作者である右大将道綱の母は、日記には一切公的な事は書かないと宣言しつつも、この安和の変だけは書いています。もっとも道綱母が、公的な事は書かないと言ったのには裏があるようです。なぜなら彼女は夫兼家の地位昇進(究極は摂関)に彼女の歌才を生かして積極的に協力しているのですから裏が書けるはずはありません。冷泉天皇はこの安和の変で退位します。
円融天皇は村上天皇と安子の間にできた、従って冷泉天皇の同母弟です。この天皇の次代、藤原北家嫡流は実頼流と師輔流に分かれ、後者は兄弟相相剋し、陰湿な政権争いを繰り広げます。この権力闘争における実力者は師輔の娘であり、村上天皇の正妃である安子でした。結局師輔の子である兼家が勝ち残ります。
円融天皇は皇太子(冷泉天皇の子供)に譲位します。花山天皇です。何か暗黙のうちに冷泉流と円融流の両党迭立が約束されていたようです。ここで兼家が焦ります。花山天皇の母親は兼家の近親ではありません。円融天皇には兼家の娘詮子が嫁いでいます。兼家はすでに老境です。ここでかなり滑稽味のある陰謀が行われます。花山天皇が寵愛していたヨシ子という女御が死去します。天皇の嘆きに乗じて道兼(兼家の息子、天皇の幼少からの遊び相手)
をして天皇に出家を進めます。殺し文句は、私もお供します、です。こうして花山天皇は出家します。その間に兼家の子供たちは協力して、三種の神器を運び出します。出家すれば天皇は退位しなければなりません。こうして皇位は兼家娘詮子と円融天皇の子供である一条天皇に渡りました。花山天皇がお寺へ連行(?)されて行く間警護したのが清和源氏の源満仲配下の武士たちでした。花山天皇に出家を勧めた道兼はお寺につくと、出家以前の姿を一度父親に見せたいから、とドロンパしてしまいます。花山天皇自身が父親冷泉天皇譲りでかなりおめでたい人でした。
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醍醐天皇の死去、そして時平直系の皇子の死等の状況により7歳の幼帝朱雀天皇が即位します。醍醐天皇と藤原基経の娘(時平の妹)の間にできた皇子です。この天皇の代は道真の怨霊一色で塗りつぶされました。というのは940年承平天慶の乱が起こります。関東では平将門が桓武天皇6代の子孫として、新皇と称し反乱を起こします。呼応するかのように瀬戸内では藤原氏傍流の子孫である藤原純友が海賊を率いて反乱し、一時は摂津国近辺まで侵攻します。特に将門の乱は天皇の正統性を問題にしています。すでに述べたように、陽成-光孝-宇多-醍醐というラインは緊急避難、偶然性、そして肝心の摂関と皇室の意見不一致などがあり、正統性に疑問をつけられても仕方のない側面を持っていました。将門にすれば光孝天皇が正統なら、俺だって云々という気分はあったでしょう。将門が蟠踞する関東の北は未だ完全に王化(律令化)していない東北つまり蝦夷地であり、将門の反乱は容易に東北に及び、そうなると日本は半分に割れてしまいます。また純友が暴れまくる瀬戸内から北九州は交通の要路であり、都への財貨租税の大きな部分はこの通路をして運ばれました。瀬戸内は律令制維持の大動脈でした。まさに王権の危機です。ここで道真の怨霊説は大きな真実味を帯びて語られます。巷間では道真が関東に行って将門と合流したなどとの噂が飛び交います。少し後になりますが、摂津か播磨で生じたある種の新興宗教がデモをして都に入り込もうとします。こういう中都のある女性が憑依され、この女性を介して道真の怨霊が出現します。道真が北野に祭られたのはこの事件が直接の原因です。将門も純友も打ち取られました。しかし律令制の武力を行使してではありません。当時地方に勃興しつつあった武士階層の力によって氾濫は防がれました。彼ら武士たちは急速に力をつけ台頭してきます。ともかく朱雀朝は道真の怨霊に振り回された時代です。なお将門は死後も非常に民間では人気が高く、東京の神田明神の主神は将門です。私も将門は好きです。
朱雀天皇の次代が同母弟の憲平親王でした、即位して村上天皇となります。父は醍醐天皇、母は藤原穏子です。朱雀天皇が幼帝として即位したのに対して、村上天皇は19歳つまり成人として即位しました。朱雀天皇が母親に過保護にされて温順な性格なのに対して、村上天皇は豪快で不羈奔放なところがありました。朱雀天皇の代には将門・純友という大乱がありましたが、村上天皇の時代にはそれも治まり、以後11世紀後半までは地方の大乱はありません。武士たちは高級貴族の家人となり、次第に権門の爪牙として機能し力をつけてゆきますが、朝廷と貴族を揺るがすようなことはしません。だから村上天皇の治世は平和でした。運の良い帝王と言えましょう。天皇は藤原忠平の子供である実頼と師輔を左右の大臣にして、あえて摂関をおきません。形は天皇親政です。
天皇のエネルギ-はむしろ文化と漁色に注がれたようです。この時代和歌は最盛期を迎えようとしていました。古今集編纂以後、専門の歌人が続出し、女流歌人も多数輩出しました。和歌は宮廷儀礼の重要な手段になります。このような情況を表すイヴェントが960年の天徳内裏歌合です。男女の歌人が着飾り、着席して、左右に分かれて、一首づつ和歌を作り、判者が優劣を判定するのです。英邁なる帝王、村上天皇の盛期を飾る行事であり、和歌発展の一大転機となりました。
村上天皇は艶福家でした。正規の妃には実頼と師輔の娘を娶り、師輔の娘安子は後の冷泉・円融天皇を産みます。対して実頼の娘は不妊でした。こうして村上天皇の皇嗣が安定する一方、師輔の家系が摂関家になってゆきます。ここで摂関家の系譜を簡単に述べますと、良房-基経-忠平-師輔-兼家-道長-頼道、となります。
裏のお話もしなければならないでしょう。天皇は兄重明親王の妻である登子といい仲になり、登子を女官として内裏に入れます。登子は師輔の娘です。後宮に隠然たる力を持ちます。師輔の娘安子は天皇の正妃ですから、師輔の勢力は非常に大きくなります。加えて師輔は村上天皇の娘である康子内親王と密通しました。この女性から藤原氏閑院流が発します。村上天皇と藤原師輔二人の不倫交換と正妃の生殖力で村上天皇の御代は安泰であったと言
えます。
宇多天皇の寛平、醍醐天皇の延喜、村上天皇の天暦、この三代は天皇親政そして、聖代として後の公卿たちから高い評価を得ています。この評価は後世に及び、南北両朝迭立の時代南朝にはこの三代の天皇に「後」をつける天皇が続出します。例えば後醍醐天皇です。もっとも私は必ずしもそう高い評価はしません。
村上天皇の次代は子供の冷泉天皇です。冷泉天皇はかなり精神が不安定、ありていに言えば多分に精神病の傾向がありました。父村上天皇の強い意向で即位しました。母親は師輔の娘安子です。冷泉天皇が即位できたのは藤原氏と賜姓源氏の間の政治的葛藤の由縁もあります。結果として安和の変が起こりました。当時台閣で力をつけつつあった左大臣源高明が突然大宰府権師に左遷されます。高明は村上天皇の皇子である為平親王の娘を娶ります。もしこの女子に男子が生まれれば、この男子が皇位継承者になりえ、そうなれば高明は外戚になる事を案じた藤原氏の陰謀だと言われます。高明は一世源氏、つまり天皇の子供でした。「蜻蛉日記」の作者である右大将道綱の母は、日記には一切公的な事は書かないと宣言しつつも、この安和の変だけは書いています。もっとも道綱母が、公的な事は書かないと言ったのには裏があるようです。なぜなら彼女は夫兼家の地位昇進(究極は摂関)に彼女の歌才を生かして積極的に協力しているのですから裏が書けるはずはありません。冷泉天皇はこの安和の変で退位します。
円融天皇は村上天皇と安子の間にできた、従って冷泉天皇の同母弟です。この天皇の次代、藤原北家嫡流は実頼流と師輔流に分かれ、後者は兄弟相相剋し、陰湿な政権争いを繰り広げます。この権力闘争における実力者は師輔の娘であり、村上天皇の正妃である安子でした。結局師輔の子である兼家が勝ち残ります。
円融天皇は皇太子(冷泉天皇の子供)に譲位します。花山天皇です。何か暗黙のうちに冷泉流と円融流の両党迭立が約束されていたようです。ここで兼家が焦ります。花山天皇の母親は兼家の近親ではありません。円融天皇には兼家の娘詮子が嫁いでいます。兼家はすでに老境です。ここでかなり滑稽味のある陰謀が行われます。花山天皇が寵愛していたヨシ子という女御が死去します。天皇の嘆きに乗じて道兼(兼家の息子、天皇の幼少からの遊び相手)
をして天皇に出家を進めます。殺し文句は、私もお供します、です。こうして花山天皇は出家します。その間に兼家の子供たちは協力して、三種の神器を運び出します。出家すれば天皇は退位しなければなりません。こうして皇位は兼家娘詮子と円融天皇の子供である一条天皇に渡りました。花山天皇がお寺へ連行(?)されて行く間警護したのが清和源氏の源満仲配下の武士たちでした。花山天皇に出家を勧めた道兼はお寺につくと、出家以前の姿を一度父親に見せたいから、とドロンパしてしまいます。花山天皇自身が父親冷泉天皇譲りでかなりおめでたい人でした。
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