経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、島津源蔵

2011-02-08 03:06:24 | Weblog
             島津源蔵

 源蔵は1969年(明治2年)初代島津源蔵の長男として京都市木屋町二条下ルに生まれました。幼名は梅次郎です。母親は梅次郎1歳の時に家を出ています。生母との縁はそれだけ、生別の理由はわかりません。梅次郎はやむなく父の妹の婚家岡田家に里子として出され、8歳までそこでそだてられました。この間父親は再婚しています。だから家にひきとられたのでしょう。義母は二人の異父弟をうんでいます。彼ら二人は梅次郎の指導に服し事業に協力します。義母と梅次郎の仲はそう悪いものではなかったようです。
父親は仏具製造職人で仕事柄銅をあつかいました。初代源蔵も発明屋です。京都舎密局(舎密、セイミ、chemistry)に出入りし、そこのおやとい外人であるワグネルというドイツ人から化学の指導をうけ、一方同局や諸種学校の理化学器具の製作をおこなっていました。初代源蔵はフランスの気球の写真一枚のみから、気球を製作し、有人飛行に成功しています。1975年(明治8年)梅次郎6歳のとき、初代源蔵は、島津製作所を設立します。彼の仇名は、西洋鍛冶屋でした。梅次郎は10歳から2年間だけ小学校にゆかせてもらっています。さらに勉学したかったのですが、父親は許可しません。家業にしたがわせられます。このころある逸話があります。梅次郎は製造業の学理である物理学という学問の存在を知ります。将来のためになんとかしてそれを理解したいとおもい、例の舎密局にフランス語の教科書があるとききかりうけます。2年のがんばりの後、挿絵と図のみでその内容を理解したとつたえられています。彼にも梅次郎にもともにカリスマ的なところがあります。そういえば電磁気学の創造者の一人である英人ファラデ-はまったく数学をしることなく、正規の教育はうけず、実験助手の経験だけで、電磁気学の基礎となる、運動と電気と磁気の関係を端的に示す、ファラデ-の法則の発見者になりました。
 島津の姓の由来を説明しておきましょう。1600年ともう少し後(?)関が原で負けた島津義弘の軍勢約80名は堺から船で薩摩鹿児島をめざします。途中瀬戸内で船が難破します。その時姫路近辺にすんでいた源蔵の先祖が、難破船をすくい、島津一行が薩摩に帰れるべくはからいます。姫路は池田氏の所領で、池田氏は関が原で東軍でした。つまり源蔵の祖先は領主の意に反して、島津一行に援助したわけです。感謝した義弘は、源蔵の祖先に島津の姓と丸に十の字の旗のデザイン使用権を与えます。以後この家は島津姓となります。また島津製作所の商標も丸に十の字です。
 1884年(明治17年)、梅次郎16歳のとき、感応起電器(発電機)を製作します。2年後、祇園の都踊会場はこの発電器が起こした電気でまぶしくてらされます。23歳時、4歳下のつると結婚、見合いの当日、梅次郎はいそがしくてもじゃもじゃの頭に髭をはやしたまま席に臨みます。この間府立師範学校の教員や、小学校教員の学力検定委員に任命されます。1894年梅次郎25歳の時、父親初代源蔵が死去します。梅次郎は家督と職業を継ぎ、社長になり、源蔵と改名します。1896年にはレントゲン撮影機を製作しています。この製作はドイツとほぼ同時でした。源蔵は京都大学の理工学部の教授陣と親しくしていました。おたがいもちつもたれつです。大学は源蔵の器具機械製作能力に頼り、源蔵は大学から新知識を吸収します。
 島津源蔵は多くの発明・製作をてがけましたが、そのうち最大の功績は蓄電池の製造です。1897年、源蔵28歳のころから蓄電池の製造にとりかかります。1905年に日露戦争の勝敗を決定した日本海海戦がおこなわれます。その少し前、京都大学教授の難波正と海軍技術部の木村駿吉が源蔵の工場を訪れます。用件は工場が所有する蓄電池の拝借です。無線機をうごかすためには、どうしても蓄電池が必要であったからです。源蔵は工場作業用の蓄電池をすべてはずし、50個以上の蓄電池を海軍に提供します。日本海海戦は周知のごとく、日本の大勝利に終わります。1917年、源蔵は蓄電池製作部門を、島津製作所からきりはなし、日本電池という別会社をたちあげます。
 源蔵はある日、東京の海軍造兵庁を参観します。そずらりとならんだ大型の蓄電池が目にはいります。第一次大戦で連合軍に恐れられた海の狼、ドイツ潜水艦にはこの蓄電池が積まれていました。源蔵が製造する蓄電池とは容量がちがいます。源蔵は発奮します。国産の大型蓄電池をつくろうとおもいます。ドイツに技師を派遣しようとしますが、大戦中ではいれません。隣国フランスのチウドル社に、要は細かい鉛粉の製作だときかされます。この鉛粉の製作技術の譲渡に、250万フラン(200万円)が要求されます。島津製作所の役員会議は買収やむなしにかたむきます。社長の源蔵一人が反対し、国産技術開発を主張します。源蔵の苦労がはじまります。金箔製造用の機械や陶磁器製作用の機械、ともになんらかの粉を造る機械ですが、これらの機械を無理算段して借用します。金や陶磁器に鉛がつくと嫌がられますが、土下座同然の懇願に相手はおれます。しかしこれらの機械を使用しても必要なこまかい鉛粉はえられません。ある日、鉛投入口の周辺にのみ細かい粉が付着していることをしります。要は空気だと気がつきます。空気をうまくまぜて鉛をくだけば希望する鉛粉ができるとしります。こうして亜酸化鉛をつくり粉状にして蓄電池を製作しました。非常に優秀な蓄電池で世界一の性能を誇ります。
 1930年(昭和5年)政府はそれまでの偉大な発明を顕彰します。十人の発明家が宮中に招待されました。鈴木梅太郎(ビタミンB)、御木本幸吉(真珠)、杉本京太(邦文タイプライタ-)、山本忠興(電動機)、密田良太郎(水銀避雷機)、蠣崎千晴(牛疫予防ワクチン)、本多光太郎(特殊合金鋼)、田熊常吉(田熊式汽罐)、丹羽保次郎(写真電送)、そして蓄電池の島津源蔵です。
 1939年(昭和14年)アメリカのエキサイド社が日本電池を特許侵害でうったえます。私が参考にした文献によれば、島津が同社に蓄電池の製造法の技術供与の途中、同社が島津の設計図を勝手に写しとり、自社の開発の方が先だと主張しだしたとのことです。島津は法廷闘争にもちこみ、大審院(最高裁暗所)で勝訴をかちとります。戦争でうやむやになりましたが、判決どおり法が執行されていたら、8000万ドルを獲得していたはずです。海軍さんに戦艦一隻をプレゼントできていたのにな、が源蔵の感懐です。1940年(昭和16年)の時点で源蔵の特許は、内国特許が193、外国特許が85ありました。1939年に社長を辞任します。戦争直後、手製の電気自動車を運転する梅次郎をみて、進駐米兵は、煙のでない自動車にびっくりしたそうです。1951年(昭和26年)死去、享年82歳でした。島津源蔵という人は事業家としても優秀で、本家の島津製作所他に、日本電池や日本輸送機(現ニチユ)などの会社をつくっています。
 源蔵は他にマネキンや顕微鏡も製造しています。事業化しなかった、ただ発明しただけの品目には、幻灯、電球、扇風機、モータ-、自動車エンジンがあります。これらをすべて事業化していたら、トヨタやパナソニックの10倍以上の企業になっていただろう、といわれています。京都には、京セラ、オムロン、任天堂、村田製作所など個性に富む企業があります。その中で島津製作所はやや地味な存在になっているようです。現在同社は分析・計測機器、医用機器、産業機器、航空機器などを主として製造しています。あまり一般の人になじみのある製品ではありません。
 なお2002年には島津製作所係長の田中耕一がノーベル化学賞を受賞しています。いかにも源蔵の後輩の行動という印象をあたえます。

 参考文献  発明報国の一路  使命社

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