経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、小平浪平(再掲)

2012-01-23 00:01:07 | Weblog
         小平浪平

 伝記の冒頭にある浪平の写真を一見して、私はどう言っていいのか解らない複雑な、しかし爽やかな感情に襲われました。荒っぽく言えば、この顔は聖人の顔だな、という印象です。しかし単なる「聖」ではなく、限りなく人間味を感じさせてくれる「聖」ではあります。浪平は明治7年(1874年)栃木県下都賀郡中村に生まれます。生家は数十町の田畑山林を所有する大地主、旧家です。父母とも人間としては最良のタイプの人でした。父親惣八は諸種の事業に手を出し、すべて失敗します。事業は、山林買付け、炭鉱、鉛丹などいろいろです。そして49歳で病没します。残された借財を返すために、母親は苦労します。東京の一高に在学中の兄儀平は中退して、土地の銀行員になります。しかし母と兄の願いで、親戚の反対を押しきり、浪平は進学する事を強く勧められます。その割にはのんきで念願の一高には落ちます。翌年上位で合格。一度落第して復活するというパタ-ンを浪平は繰り返しています。そこにこの人物の特徴、魅力とも言える生活態度を観取することもできます。父親の事業の経歴はある意味で、浪平の以後の人生と微妙に重なります。浪平は後年、次々と事業のジャンルを広げてゆきますが、このスタイルは父親の事業が原型かもしれません。そして父子ともに、言い出したら聞かない頑固さを持ち、また沈思黙考、別の角度から考えるとある種の独善性、をも持っていました。
 15歳時、父親死去、17歳一高不合格、18歳合格して入学、そして東大工学部に入学します。高校大学時代、勉強もしますが、趣味生活も豊富でした。特に絵画と文章に興味を持ち、山水を愛して散策と旅行を楽しみます。写真機と絵筆は必携でした。彼は当時、「晃南」というタイトルの日記を数年にわたり書いています。文章は素直な美文です。第三者が読める、読んでもいい、文章です。浪平には詩人的な素質があったようです。彼は将来如何なる方面に進むか、考えるというより悩んでいました。単純な技術者の気分ではありません。造船ダメ、造兵ダメ、採鉱ダメ、冶金ダメ、化学ダメ---となります。残るは電気と機械くらいでしょう。悩んだ末、当時有名だった作家、村井弦齋に相談しています。作家などと昵懇ということ自体、浪平のかなり複雑な素質をうかがわせます。村井の勧めでしょうか、彼は電気の方面に進みます。しかし工学部在学中も一度落第しています。何分とも彼の精神の方向は未だ決まらず、多岐亡羊の心中であったようです。こういう人は没落するか、雄飛するかです。実際は前者の方が多いのですが。
 当時の電気技術の進展状況を一見してみましょう。世界で始めて発電所ができたのは、1882年米国ウィスコンシン州アップルトンです。発電してどうしたのかは知りません。1891年、ドイツのネッカ-河で発電し、180km離れたフランクフルト・アム・マインに送電し、そこで200馬力のモ-タ-を動かしています。日本では1892年京都蹴上に琵琶湖の水を引き、120馬力の発電をしています。火力発電(石炭)はそれより早く、関西と名古屋に発電所ができ、翌年東京方面にもできます。明治17年には三吉電機製作所が日本で始めて発電機を作り、明治20年代には、芝浦製作所、石川島造船所などで電動機が作製されています。これら三社はこの方面のパイオニ-アなのですが、いずれも産業にならず、途中で電動機製造から手を引きます。浪平は工学部在学中、色々な設備を見学しましたが、日本の会社の輸入機械依存に憤慨しています。この頃から既に、国産電機機械製作を決意していたのでしょう。
26歳東大工学部を卒業して、合名会社藤田組に就職します。大阪の藤田伝三郎が統率する、一大総合企業です。そして藤田組が経営する、秋田県の小坂鉱山に、電気主任技術者として赴任します。仕事は鉱山に設備されている、電機機械の施設、設計、工事一般です。鉱山では重い物を運搬するので、専用の電機設備が要ります。発電所も同様です。浪平はここで止滝発電所を建設しています。彼が去った後、小坂鉱山に赴任してきた新任技師の何某が、あまりに電機施設が完備されているので、浪平を崇拝し、日立まで彼を慕ってきた、という逸話もあります。小坂鉱山の経営者である久原房之介と知り合います。この出会いは浪平の人生に大きな影響を与えます。久原房之介に関しては彼の列伝を参照して下さい。
 29歳、小坂鉱山を辞めて、広島水力電気に就職します。この間友人の妹である小室也笑(やえ)を見初めて結婚します。広島在住は1年半、逸話は一つあります。支払いの悪い電灯会社への電力配給を彼の一存で停止します。相手はすぐ降参しました。
 30歳、送電課長として東京電燈(今日の東京電力)に就職します。桂川発電所の建設に従事します。発電所はできましたが、用いた機械装置は、ジ-メンスやGEなど外国のものばかり、日本人技術者である浪平の出番は、外国人技術者と職人の仲介役のみ、だったと彼は後年述懐しています。ここへ久原房之介が現れ、浪平に自社への入社を熱心に勧めます。小坂銅山で産を為した久原は、藤田組を辞め、茨城県北部にある赤沢銅山を買い、新技術でもって、再開発に挑戦します。浪平は悩みます。偶然汽車の中で会った、東大時代の同級生渋沢元治(栄一の甥)と猿橋で下車し、東電に留まるか久原の勧誘に乗るか、相談します。東電は当時から企業中の名門でした。黙っていても、末は技術部長から役員の席は確保されているようなもの、電気畑出身の浪平はやはり電機関係の会社、鉱山では電機は脇役、加えて鉱山経営者とは所詮は山師、と渋沢は常識論で浪平を説得しようとします。浪平は桂川発電所での屈辱体験を語り、模倣をもってする限り日本の産業は論じるに足りない、と言います。多分腹はできていたのでしょう、彼は久原の勧めを受けて、東京都心から草深い常陸の山の中に飛び込みます。彼の妻も渋沢と同意見でした。これは決断です。鮮やかな決断です。よほど腹ができていたのでしょう。自信家の行動でもあります。限りなく自分の能力に対して抱く自信なくしては、こんな行動は取れません。同時にこの方向しか道はない、国産技術を育てる道はない、という思い切りもあります。事をなす人は行動が素早い。飛行機の中島知久平は海軍技術将校になって8年で中島飛行機を作りました。浪平も同様、学校を出るまではもたもたしていましたが、26歳で卒業すると、小坂鉱山に3年、広島に1年、東電に1年、そして久原鉱業所に事実上5年、そして独立します。必要な体験を無駄なく積み、敢然と独立します。行動は直線的で一方的でもあります。何かを見つめ、何かを追い求めます。こういうカリスマ的行動は若い新進技術者を引付、彼のもとには東大卒の人材が集まりました。
 31歳、浪平は久原鉱業所日立(赤沢改め)鉱山に入社します。工作課長として鉱山が所有するあらゆる機会の設置、保全、修理などが職務でした。この時代彼がした大きな仕事は、電軌鉄道の建設ともう一つ、石岡発電所の建設でした。特に後者は4000kwの大型発電所で、この建設で浪平は技術者としての自信、更に技術者として独り立ちして経営する自信をつけます。鉱山での日常の主な仕事は機械の修理、特に電動機(モ-タ-)の修理でした。修理しているうちに機械のからくりが見えてきます。浪平は修理から製造に進みます。1910年5馬力の電動機3台を製造し、すぐ200馬力に挑戦します。このように更なる大きな目標に挑戦する事が、彼の彼たる由縁です。同年久原に意見を具申し、鉱山内に、日立製作所を立ち上げます。2年後に久原鉱業から独立します。久原から資本金を9万円とも50万円とも言われる額、出してもらったと言われます。久原にすればあまり歓迎できない話ですが、浪平の独立不羈な性格とその才能を知悉しているだけに、千里の駒をいつまでも自分の厩舎につないでおくわけにはいかないと、思ったのでしょう。惑星と仇名を取る久原のことですから、太っ腹です。浪平と久原は終生良好な関係にありました。性格は正反対ですが。創立当初の製作所は貧しい板屋根の小屋でした。食堂は近くの旅籠一軒のみ、職人は5名でした。
 創立当初はどの企業でも同じです。思ったようには行きません。廻るはずのモ-タ-が廻らない、故障は続出、製品を納入した後は常にひやひやのしどうしです。トヨタ自動車も同様でした。浪平が知人に、納入後は放蕩息子を外に出したようで油断もすきもない、と言ったという逸話があります。母屋である久原鉱業も久原自身が国産機械を信用していないので、そう注文は来ません。そういう中、所詮は努力です。故障が起きれば、誠心誠意修理し、心底から謝る、この態度に尽きます。そして浪平のやり方の特徴は、常に大きな仕事に飛び込む事です。失敗は失敗、挑戦してみよ、です。久原鉱業から電線の注文が来ます。これで一息というところでした。そして神風が吹きます。1914年第一次大戦勃発。競争相手であった、欧米企業の製品は来ません。国内の企業はやむなく、日本産の機械で満足しなければならなくなります。こうして販路は伸びます。販売したがって生産量が上がれば、経験を積む機会は増え、技術は向上し、価格も低下できます。
 単純にただむやみに頑張ったのではありません。故障が起きないように、製作品を出す前に、慎重な試験をする設備を作ります。次に原価計算を徹底させます。大雑把などんぶり勘定ではなく、原料の購入使用から始まって、失敗・繰り返し・在庫なども計算に入れて、精細な原価を計算します。それを基準として定価を定め、販売予想を立てます。もう一つが徒弟養成制度です。熟練した職人を養成するために、そのための学校を所内に造りました。なにぶんとも草深い田舎ですので、諸種の娯楽厚生施設も他社に先駆けて作りました。ゴルフ場造設もその一環です。浪平は外目には無趣味な人でしたが、多忙でやや神経衰弱気味になっていた時、知人からゴルフを勧められ、以後病みつきになります。
 大戦が終わった1918年(大正7年)日立製作所は久原鉱業所属の佃島製作所を買収します。1921年には山口県の笠戸造船所を買収併合し、電気機関車の製作に進みます。翌年から10000KVA級の発電機を製作し始めます。この間1920年日立製作所は久原鉱業から正式に独立し、株式会社制をとります。
 1929年(昭和4年)、この頃すでに日立は機械メ-カ-としては業界で首位でした、昭和肥料(後の昭和電工)から、水を電気分解するための分解槽制作の注文を受けます。硫安を製造するためにはアンモニア(NH3)が要ります。水を分解して発生した水素(H)と、空気中の窒素(N)を固定したものを、反応させてアンモニアを作ります。極めて微妙で、それに酸素と水素が接触すれば大爆発を起こすので、危険な仕事でもありました。失敗すれば会社の信用は落ちます。かと言って同業他社が成功すれば、社のブランドに傷がつきます。なによりも不況の中、大きい仕事は欲しい。慎重審議の末、浪平の決断で注文に応じ、仕事を成功させます。得意の試験設備をフルに使いました。
 1930年(昭和5年)日立製作所は敷地を海岸方面に進めます。10万坪(1坪は3・3平米)、総工費の見積もりは300万円です。資金を取引銀行である第一銀行に頼みます。簡単に断られました。次に日本興業銀行、ここもだめでした。昭和5-6年といえば金解禁に失敗し、加えて世界恐慌のまっただ中、300万円の大金をすぐ貸してくれるはずもありません。浪平は最後に、日本勧業銀行の頭取石井光雄に頼みます。結局石井の決断で融資は成功しました。この時石井が驚いたのは、日立は社長の浪平以下重役陣のだれも、依頼した各銀行の役員に挨拶をしたことがなかった、ということです。こういう世間知らずに伴う爽やかさが、石井をして融資を決断させた背景かも知れません。日立製作所は、一切ご馳走政策を用いません。浪平はさらに1000万円の貸付を興銀に頼み、800万円の融資を得ています。大不況のさ中なぜ大拡張なのか?それは浪平が自社の技術に自信を持っていたからです。不況が回復するかどうか、それが何時、という事に関しては必ずしも浪平の判断は精確とはいえないでしょう。むしろ、うちの製品は売れる・売れるはず、少なくともこの世に産業がある限り、という技術への自信が、彼をしてこういう大胆な行動を取らせたのでしょう。技術は、それが必要とされる限り、価格による支配から解放されます。技術がこの段階に到達した時、それをbreak through(突き抜ける)と言います。当時の日本の機械技術は一部とはいえ、そこまで達していたのでしょう。昭和7年の時点で、2000kw以上の電気設備の外国製品と国産の比率は1対1、国産製品の30%を日立が占めています。輸出も始まります。
 昭和8年、八幡製鉄所に23600馬力の大発電機を納入、10年には大阪鉄工所を買収(後の日立造船)、同年信濃川千手発電所に47000kwの発電機を納入しています。この間昭和9年、株式を上場し、同時に日立研究所の設立を計画しています。昭和13年時点で、資本金は2億円、同業企業中トップです。生産するものは、重電機、水力発電機、水車、変圧器、火力発電機、タ-ビン、起重機、圧縮機、捲上機、ポンプ、送風機などです。
 統制経済になると軍需品生産にも協力させられます。日立航空機や日立兵器などの会社が作られます。昭和14年、満州松花江の発電所に、ドイツのフォイトとAEG、スイスのエッシャ-・ワイス、アメリカのウェスティングハウスと並んで日立の製品が納入されます。
 そして終戦、御定法どおり浪平は公職追放になります。これが昭和22年、そして解除が26年でした。この間浪平は一切会社に入っていません。同年、つまり1951年の秋、心筋梗塞で死去します。
 小平浪平という人物には幾多の特徴があります。欲しいなと思えば、万難を排しても手に入れたい、と彼は言います。だからといって裏技に訴える事は一切しません。正面から取り組みます。また仕事や研究において、とっかかりさえあれば、何でもやる、とも言います。だから社の仕事の領域を可能な限り広げてゆきました。宴会嫌いでした。社の重役全員と会食したのは、追放が決定した後のお別れの会が最初でした。閥を作らず、財界活動というものもしません。国家社会を念とすべし、がモット-でしたが、その通り実行します。第二次大戦後、追放でぶらぶらしていた時、東大の物理学の講義に出かけ、若い学生に混じって、原子物理学を受講します。自動車を使わず、電車出勤を好みました。女性には淡白な方でしたが、妻は生涯一度の恋愛で得ました。なによりも驚かされるのは、あれだけの技術者であり、あれほどの経営者であるのに、生涯一度も欧米に出かけた事がないことです。多忙なのか、自信がそうさせるのか、意地なのか?浪平の生涯は、外国製品にまさる国産機械の製造という理念で貫かれています。そしてそれに徹しきります。山小屋から出発して、20年間で世界のトップと並ぶ総合機械メ-カ-を作り上げます。このカリスマ性に満ちた精神には、俺がやらねば、という強い意志があります。彼の事業への取り組みには、事業への興味と意地と自信とそして義務感が混在しています。やりたい、できる、やってやる、やらねば、という色々な気持ちが混在し統合されています。複雑な性格です。この複雑さは容易には外からは見えません。その意味で浪平という人物は「聖人」に似ます。私はつい最近までこの人物の名も存在も知りませんでした。鮎川義介、久原房之介、と列伝の項を重ねるうちに、小平浪平という名を知ります。彼が日立製作所という日本を代表する重機メーカ-の創立者である事を知り、彼の伝記を読みました。列伝の人物はそれぞれ個性があり魅力に富む人物ですが、私はこの浪平という人物に一番魅かれます。

 (付)日立製作所の概要
    資本金    2820億円
    売上高    8兆9685億円(連結)
    営業利益   2021億円
    純利益    1059億円
    純資産    8兆9517億円
    従業員数   約360000名 

 参考文献 日本の電機工業を築いた人、小平浪平翁の生涯   
     国政社  大阪市立中央図書館所蔵

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