池田成彬
池田成彬は1867年(慶応3年)出羽国(山形県)米沢上杉家の藩士、成章の長男として生まれました。上杉家は戦国武将謙信を祖と抱く名門です。しかし関が原で西軍に与して30万石に、赤穂浪士の騒動では吉良家と深い縁戚にあったため15万石に減知されます。家臣の数はそのままでしたので、藩士一同は家老以下すべて、食事は一汁一菜で通さなければなりませんでした。漬物は別として、味噌汁とほうれん草のおしたし(時に鰯の干物)を毎日食べ続けるようなものです。そいう中13歳時、明治12年父親に伴われて上京します。進文学舎、共立学校という、現在でいえば予備校のようなところで、漢文と英語の勉強をします。米沢藩は戊辰戦争で官軍に反抗したので、厳しい処分を受けていますから、池田家の家政はかなり窮迫していたはずです。そういう中東京で勉強するのは、父母双方の教育熱心のおかげでしょう。あるいは賊藩の汚名を着せられ、不遇にあえぐ中、なにがなんでも教育を子供につけて、薩長を見返してやろう、という父親の強い願望があったのかも知れません。成彬の生涯には、そういう反薩長あるいは反官、とでもいうべき態度が見られます。「成彬」は「せいひん」あるいは「なりあき」と読みます。両方通用しているようです。
成彬は大学南校(東大の前身)に進学するはずでしたが、ある人の勧めで将来できる東大選科の方を進められ、そのために英語力を養わなければならない、と思い20歳時、慶応義塾に入ります。ある宣教師の助言に従って、アメリカのハ-ヴァ-ド大学に留学します。この時、約束されていたはずの奨学金が出ません。仲介者の説明不足です。大学、慶応義塾そして父親との間ですったもんだのやり取りが1年間続きます。結局父親が慶応から借金することで、けりがつきました。父成章は官途につき、また退官後は故郷山形で地方銀行の経営を任されるなどで、収入はまずまずあったようです。しかしかなりの子福者ゆえ、成彬への仕送りは大変であったろうと思います。このごたごたに際し、成彬がとった態度は、猛烈で冷徹、論理的で妥協なし、いささか傲慢でもあります。直接大学のエリオット学長と交渉し、海を超えて慶応義塾当局を非難し、交渉します。学長に目をかけられたのか、ギリシャ語とラテン語を免除され、代りに漢文と和文の成績証明書、そして仏語と独語の習得を課されます。これは学長のはからいです。当時欧米で名の通った大学に進学するには、ギリシャ・ラテンの教養は必須でした。しかし全く言語と歴史の異なる日本人にこの要請は無理と判断されて、上記のはからいになったようです。逆に当時の欧米人に漢籍と日本の古典の教養を要求すれば、合格する人は極稀でしょう。ともかく、ラテン語とギリシャ語の免除は当時破天荒の試みで、成彬の名は有名になります。
1893年(明治28年)5年間の留学を終え、バチェラ-・オブ・ア-ツの学位を取得して帰国します。福沢諭吉の経営する時事新報に入社しますが、月給20円でもめ、3週間で退社します。20円でも生活できないことはなかったのですが、成彬はあくまで50円を要求します。短期間に会社を辞めたことを父親に激怒され、あわてて三井銀行に入社します。月給40円、賞与を加えると平均50円になります。この頃の銀行の風体は現在私達が想像するようなものではありません。番頭、手代、丁稚が前掛けをかけてうろうろしており、行員の教養は低く、話題は下賎で猥雑でした。少なくとも成彬はそう思いました。やめようかなとも、考えますが、父親が怖くて我慢します。冷徹傲岸とまで言われた彼が、人生で唯一恐れたのは父親成章でした。しかし当時三井銀行は中上川彦次郎の改革が始まったばかりでした。成彬はこの改革の上昇気流に乗って活躍することになります。ここで三井銀行の歴史を簡単に概括して見ましょう。
三井は17世紀中葉の三井高利の呉服店越後屋に始まります。併行して高利は両替商も営みます。高利は三井の基礎を作りましたが、商店・企業が永世安泰であるなどとは、ゆめ考えず、家訓を残します。家訓の要点は、総本家、本家分家の一致協力です。しかし大商人もおのれを維持するのは大変です。江戸時代の豪商、金持ちで明治維新を生き抜いたのは、住友と三井そして鴻池だけです。茶屋、本阿弥、紀伊国屋、淀屋、島田、小野などなどの豪商たちはすべて潰れています。ちなみに大阪商人・大阪商人と言いますが、徳川初期から続いている家はほとんどないそうで、近江や伊勢など地方出身者がほとんどです。つまり一見大阪生え抜きの商人に見えても、新陳代謝、栄枯盛衰はしょっちゅう行われているのです。
三井の最大の危機は幕末維新です。ここで三野村利左衛門という切れ者が現れ、三井の大番頭として采配を振るいます。三野村はそれまでの幕府御用商人の立場から、官軍(薩長軍)に支持を切り替えます。思い切って軍資金を提供します。官軍が江戸を目指して東征する途中、突然進軍休止になります。理由は資金不足で食糧がないからです。従軍していた三井の手代が奔走して、資金を調達してきます。もちろん三井からです。敵地である江戸まで潜入して、資金をもってきたこともあるのですから、なにやら講談じみています。三野村自身が、幕府を最後まで支え、江戸で官軍と雌雄を決しようとした、勘定奉行小栗忠順の仲間(足軽)でした。
こうして三井は幕府から朝廷・明治政府支持に急転回して、危機を乗り越えます。御用金他の貢献に対しては、当然利権の見返りが伴います。その点では大成功でした。褒賞の最たるものが為替方に任じられることでした。当時政府自身には官金を貯蓄管理する組織がありません。この官金、例えば司法省の予算に必要な官金は三井などの政商が代理して扱っていました。明治4年そして5年に、大蔵省正金兌換証券680万円と北海道開拓使兌換証券250万円を、三井から発行されることが許可されます。三井は一時中央銀行の役割もしていたことになります。他に重要な利権としては年貢の調達・保管・運送があります。まさしく政商一体です。しかし企業にとって、政府と密着するほど危険な事はありません。
政府は国立銀行なるものを設置します。約100行くらいできましたが、重要なのは第一国立銀行です。この銀行は渋沢栄一の指導で作られました。第一銀行を経て、現在の瑞穂銀行の一部になっています。国立銀行といっても、政府が出資するのではありません。その代わりに発券機能を与えます。国立銀行は自ら銀行券を発行します。それは政府紙幣と、原則としては等価交換できます。しかし実態はそうはゆきません。雨後のたけのこのようにできた国立銀行を、民衆が簡単に信じるはずがない。折りからの世界的金騰貴、銀行券の氾濫・減価でインフレになります。ここで政府は何をしたのか?銀行の積極的な取り潰しです。例えば第一国立銀行は三井組と小野組が総額300万円の資本のうち200万円出資しています。政府は彼ら、出資した金融機関の内情を調査し、少しでも怪しい点があれば即、官金の返還を求めます。国立銀行の取り付けに際して、出資者を潰しておけば、その分国立銀行の負担は減ります。現在でも日航再建で行われた株式の一部破棄です同時に資本を縮小する事により、発行される紙幣量は減ります。極めて暴力的な措置ですが、経済論理は貫徹しています。デフレ政策を取ったことになります。小野組や島田組は潰れました。三井は三野村の綿密な情報収集のお蔭で難を逃れます。こうして三井は金融界の巨人になります。
発券銀行の道を塞がれた三井は、1876年(明治9年)に私盟会社三井銀行を設立します。資本金200万円、株式総数2万株です。1万5千株は三井一族で所有し、他の5千株は三井の使用人が負担しました。営業種目は、官金出納、為替、荷為替、貸付、預かり金、両替、金銀売買です。官金出納は政府との縁の名残、両替と金銀売買は江戸時代の伝統の残存です。新しい営業の主たるところは為替です。為替あるいは為替手形は、振り出された為替手形を割り引いて、その利鞘で稼ぎます。こうする事によって、商業行為における資金流通を円滑化します。これに預金機能がくっつきます。こうして三井は貸し付ける元本を獲得しました。換言すれば、銀行経営の国家資本からの独立が為されました。少なくともそう努力しました。これをもって財閥の誕生とします。
事は簡単には行きません。長年の政府及び政府関係者との腐れ縁があります。個人による強奪に近い貸付、不良資産(売れない土地など)を担保とする貸付、などなど不良資産は山積でした。三井の総帥すら貸付金がいくらなのか、知りません。ここで三井財閥史きっての革命児中身川彦次郎が登場します。明治24年、山陽鉄道社長を辞めた中上川は三井銀行の常務理事そして専務理事に迎えられます。中上川は旧来の人事を廃し、新しい人材を集めます。殆んどが中上川の母校である慶応の出身でした。人材を列記します。いずれにせよこの連中は中上川に取り上げられ、中上川と共に仕事をし、中上川の死後は自分の力で多くの現在にまで残る企業を創設しました。朝吹英二、津田興二、村上定、藤山雷太、野口寅次郎、和田豊治、西松喬、武藤山治、波多野承五郎、鈴木梅四郎、柳荘太郎、小野友次郎、小出牧、矢田績、藤原銀次郎、平賀敏、日比翁助、林健、井沢良立、そして岩下清周です。
中上川の銀行経営方針は以下のようにまとめられます。
設備の近代化、これはなにも銀行にのみ当てはまる事柄ではありません
工業立国、したがって長期に及ぶ工業投資を目指しました
投資銀行(private banking)
労働者の待遇改善、三井が経営する鐘紡の待遇が良すぎて他の業者と対立します
投資銀行に関して少し説明しておきましょう。当時の銀行は、日銀から金を借りて他の企業や個人に貸して利鞘を稼ぐか、あるいは預金の利子で食っていました。中上川のいう投資銀行は、日銀にも預貯金にも頼らない投資方法です。銀行は預金してもらうと一見ありがたく見えますが、貸付先が確保出来ないと、なんにもなりません、むしろ負担になります。中上川は投資先を開拓できる投資銀行を設立、あるいはそのように三井銀行を改組しようとしました。ただこの志向を押し進めますと、結局株式売買に行き着いてしまいます。ある程度以上の資産を持つ中産階級の存在を前提にして、彼らに株式証券を買ってもらい、それを新産業の投資に振り向けます。しかし当時の日本の産業の底は浅く、中上川の方針を貫きえるほど、の厚みはありません。幸か不幸か中川は明治34年、48歳で死去しています。以後三井は益田孝の商業主義にもどります。成彬は同年に中上川の娘である艶と結婚します。成彬の経営方針は、中上川の工業投資の方向を志したと言われています。なお中上川が三井銀行に来てまず最初にしたことは、当然ですが不良債権の回収です。特に第33銀行と東本願寺の債権取立てが代表です。この方針の下で、31歳の足利支店長になった、成彬は25万円の焦げ付いた貸付の取立てに苦労し、成功させています。中上川の改革は、それまで仕方なく入った銀行業に成彬をして、意義を感じさせました。
1898年32歳時、成彬は中上川の指示で、欧米の銀行制度の視察と学習に派遣されます。1904年38歳時、営業部長、第一線の指揮官になります。この時成彬は、銀行の主要な作業を手形取引とし、手形を担保とする、短期コ-ルマネ-で投資を助けるあるいは稼ぐ、方針を打ち出します。日銀からの独立を貫くためでもあり、独立により積極的に投資活動をするためでもあります。彼が創立や拡張に支持を与えた企業としては、三越と東京電燈があります。三越は経営に行き詰まっていた三井呉服店を、日比翁助が引き受け、全面的に改組し、全く別物にしたてあげてできたものです。三井の濫觴は呉服店です。創立当初は現金払い、掛け値なし、の商法で画期的であった呉服店も、200年以上の伝統に安住し、加えて三井一族の見栄・干渉も多く、三井は投げ出そうとしていました。日比はこれを、呉服のみならずあらゆる商品を一括販売する小売商法つまり百貨店に切り替えます。今日は三越、明日帝劇と言われ、三越といえば百貨店の代名詞になりました。日比は三井銀行の人、彼の事業に成彬は80万円の融資をしています。
どんな商売でも必ず危機があります。現在九電力の筆頭として日本のエネルギ-産業の筆頭格にある東京電力の前身東京電燈が1904年、100万円の融資を三井に依頼します。当時としては新企画の水力発電開発のためです。成彬は一諾します。桂川発電所ができました。経営は極めて順調でしたが、1923年の関東大震災で東電は壊滅状態になります。東電を潰すか、それはできません。では再建を助けるか?先立つものは何よりも金です。成彬は森堅吾と組んで、外債(7000万ドルと450万ポンド)さらに内債6000万円を起債し、消化します。こうして東電は危機を免れました。この時成彬は東電社長の若尾ショウ八に辞任を要求しています。理由は乱脈経営です。乱脈経営とは言え、退陣を勧告するのは嫌な作業です。成彬の生涯には、このいやな事をしなければならない運命のようなものが待ち受けていました。冷酷なバンカ-という印象を持たれました。米沢藩士は元禄の昔から、憎まれ役でした。
金子直吉の列伝で語りましたが、神戸の鈴木商店も超積極的つまり放漫経営で膨大な不良債権と不良資産を抱えていました。鈴木の融資会社は台湾銀行です。金子は必死になって日銀特融を画策しました。この試みが上手くいっていた矢先、片岡直温の失言がとび出し、取り付け騒ぎが起こります。ここで成彬はコ-ルマネ-3000万円を市場から引き上げます。台銀は休業し鈴木は倒産します。これが金融恐慌のきっかけになりました。ぐずぐずしていると三井も連鎖倒産に巻き込まれかねません。正当な金融行為ではありますが、成彬は非難されます。
政商高田商会の件もあります。政府が融資を約束したのに、蔵相が代ると約束をほごにします。成彬は融資を断ります。高田商会は潰れました。
1930年(昭和5年)金解禁が実施されます。結果は散々でデフレと倒産、失業者の増大の嵐に晒されます。更に翌年の1931年、イギリスは金解禁を中止します。ポンド貨は暴落します。三井が抱えていたポンド資金の減価を防ぐために、成彬はドル買いを行います。これは当然予想される、円の輸出禁止(金本位制解除)による円減価を防止するためでもあります。この行為は三井のみならず、外国為替相場を行っていた、住友や三菱も同様です。三行ともだいたい各6000万円程度のドル買いを行っていました。当然円貨の価格は下がり、金の海外流出に拍車がかかります。このドル買いが猛烈な世論の非難を浴びました。朝日新聞をはじめ各メディアは国賊行為と非難します。銀行自身の立場から見ればドル買いは当然の自衛行為です。しかし金解禁に関しては成彬が井上蔵相に勧めた嫌いがあります。だから円に換算すれば7000万円を超えるポンド貨を平然と保持していたのです。この点では、一銀行家には該当しないのかもしれませんが、金解禁への責任はあります。当時イギリスのケインズ、日本の石橋湛山などは、金解禁するならポンドあるいは円を切り下げてからから行えと主張していました。ただしこれらの意見は少数派で、円解禁当時世論の圧倒的多数は金解禁を支持、それも熱狂的に支持していました。最終責任は井上蔵相と浜口首相にあるとはいえ、国民全体の責任になります。
成彬はこうして独占資本主義の代表にされました。血盟団とか国民党とかいう恐ろしいテロ、一人一殺の対象の筆頭にランクされます。昭和6年、前蔵相井上準之助が、しばらくして三井合名理事長の団琢磨が暗殺されます。暗殺の正当性を確信した人物に狙われるのは恐ろしいことです。以後成彬は15年間、つまり以後の激動をへて敗戦しすべてがおじゃんになるまで、警察の保護を受けまた防弾チョッキを離さなかったそうです。この間5-15や2-26という恐ろしい馬鹿げた事件が勃発します。暗殺されたすべての人に同情しますが、特に2-26での高橋是清の殺害は同情を超えて馬鹿馬鹿しくなります。昭和天皇が激怒されたといわれますが、全く同感です。成彬は一切弁明しません。弁明はできません。三井ほどの大銀行の内幕を暴くことは恐慌につながります。成彬は銀行業が嫌になり、銀行経営を学ぶためにイギリスに留学させていた三男の就職を変更し、東京海上火災に変更させます。
私なりに、成彬のやり方を批判すると、彼は銀行家の限界内で仕事をしていた、と言えます。以後の国政参加にも同様の限界を露呈します。中上川の工業投資志向は充分理解できます。しかしそのための資金をどうするのか?この批判は中上川を継いだ成彬にも当てはまります。投資銀行を作り、工業立国を志すのなら、狭い意味での銀行業を超えて、株式証券の引き受けと売買をしなければなりません。手形取引での手形を変形し、銀行が企業と組んで、一方的に手形を振り出せば、それはそのまま株式になります。現に大和証券の前身はbill brokerつまり手形引受業者でした。銀行の工業投資に限界があるから、理研や日産、日窒などの企業は株式発行に頼ったのです。
新聞論調に関しては申し上げるような事はありません。当時に限らず現在でも扇動的です。経済現象は多面的で流動的です。新聞はその一面を極端に強調します。鈴木商店の金子を非難し、米買占めという嘘をでっち上げ、三井が自衛のために、コ-ルマネ-を引き上げると、今度は三井を非難する。新聞は正義の味方を気取って煽ります。新聞も企業ですから、売り上げがすべてです。しかし経済ほど、わかりにくいものはありません。解りにくさの主因の一つが、この現象に個々人すべての利害が濃厚に関係し、個々人は利害に振り回された判断をしてしまうからです。こと経済に関する限り、記事や論調は、あまり勉強していない現場の記者の憶断で書かれている事がほとんどだと思って間違いありません。
三井が標的になり、現に団琢磨という犠牲者が出、三井国賊論が横行する中、成彬は三井財閥の改革に着手します。三井合名社長には三井高公を抱き、成彬は常務理事に就任します。まず三井総本家、六本家、5連家の当主全員の第一線からの引退を求めます。使用人が主人に引退を勧めるようなものです。ただしこの伝統はわが国固有の習慣としては定着していました。次に合名会社以下の傘下企業の株式公開を行います。あくなき利潤追求でそのモラルの低さを非難されていた、三井物産社長安川雄之助を退陣させます。三井報恩会を作り、3000万円投資して、慈善事業や研究援助などを行います。この学は合名会社の資本の10%で、年刊総収入の2倍です。そして全員に定年制(60歳)を敢行し、自らも引退します。成彬は68歳でした。
1937年(昭和12年)、林内閣に請われて日銀総裁に就任します。13年近衛内閣で蔵相と商工相を兼任します。国家総動員法第11条の、企業の配当制限と強制貸付に反対しています。私は国家総動員法を認める者ではありませんが、成彬の反対には疑問を感じます。企業の営為は市場原理主義に立つという根本態度なのでしょうが、こと長期工業投資に関する限り、株式発行をするか、国家主導になるかの、どちらかの方法は必須です。株式発行は資本蓄積が為された後でのみ意味を持ちます。あまりに市場原理主義を通すと、結局は需給均衡を優先して成長は望めず、先進国の優位に任されてしまいます。成彬の誠実さを認めつつ、私は彼の限界、特に政策家としての限界を感じます。需給均衡とその系である財政均衡に固執する限り、経済成長は望めません。成長のためには、一定の範囲で通貨(株式・債権も含む)の量を増やし、国家の戦略を明確にして、企業を指導する必要があります。
戦後一時戦犯に擬せられましたが、すぐ容疑ははれます。公職からは追放されました。成彬としてはむしろこの竹の子生活の方が楽で楽しかったと述懐しています。1950年(昭和25年)死去、享年84歳、私の記憶ではまだバナナが貴重な果物であった時代でした。
参考文献 池田成彬 東洋書館
池田成彬は1867年(慶応3年)出羽国(山形県)米沢上杉家の藩士、成章の長男として生まれました。上杉家は戦国武将謙信を祖と抱く名門です。しかし関が原で西軍に与して30万石に、赤穂浪士の騒動では吉良家と深い縁戚にあったため15万石に減知されます。家臣の数はそのままでしたので、藩士一同は家老以下すべて、食事は一汁一菜で通さなければなりませんでした。漬物は別として、味噌汁とほうれん草のおしたし(時に鰯の干物)を毎日食べ続けるようなものです。そいう中13歳時、明治12年父親に伴われて上京します。進文学舎、共立学校という、現在でいえば予備校のようなところで、漢文と英語の勉強をします。米沢藩は戊辰戦争で官軍に反抗したので、厳しい処分を受けていますから、池田家の家政はかなり窮迫していたはずです。そういう中東京で勉強するのは、父母双方の教育熱心のおかげでしょう。あるいは賊藩の汚名を着せられ、不遇にあえぐ中、なにがなんでも教育を子供につけて、薩長を見返してやろう、という父親の強い願望があったのかも知れません。成彬の生涯には、そういう反薩長あるいは反官、とでもいうべき態度が見られます。「成彬」は「せいひん」あるいは「なりあき」と読みます。両方通用しているようです。
成彬は大学南校(東大の前身)に進学するはずでしたが、ある人の勧めで将来できる東大選科の方を進められ、そのために英語力を養わなければならない、と思い20歳時、慶応義塾に入ります。ある宣教師の助言に従って、アメリカのハ-ヴァ-ド大学に留学します。この時、約束されていたはずの奨学金が出ません。仲介者の説明不足です。大学、慶応義塾そして父親との間ですったもんだのやり取りが1年間続きます。結局父親が慶応から借金することで、けりがつきました。父成章は官途につき、また退官後は故郷山形で地方銀行の経営を任されるなどで、収入はまずまずあったようです。しかしかなりの子福者ゆえ、成彬への仕送りは大変であったろうと思います。このごたごたに際し、成彬がとった態度は、猛烈で冷徹、論理的で妥協なし、いささか傲慢でもあります。直接大学のエリオット学長と交渉し、海を超えて慶応義塾当局を非難し、交渉します。学長に目をかけられたのか、ギリシャ語とラテン語を免除され、代りに漢文と和文の成績証明書、そして仏語と独語の習得を課されます。これは学長のはからいです。当時欧米で名の通った大学に進学するには、ギリシャ・ラテンの教養は必須でした。しかし全く言語と歴史の異なる日本人にこの要請は無理と判断されて、上記のはからいになったようです。逆に当時の欧米人に漢籍と日本の古典の教養を要求すれば、合格する人は極稀でしょう。ともかく、ラテン語とギリシャ語の免除は当時破天荒の試みで、成彬の名は有名になります。
1893年(明治28年)5年間の留学を終え、バチェラ-・オブ・ア-ツの学位を取得して帰国します。福沢諭吉の経営する時事新報に入社しますが、月給20円でもめ、3週間で退社します。20円でも生活できないことはなかったのですが、成彬はあくまで50円を要求します。短期間に会社を辞めたことを父親に激怒され、あわてて三井銀行に入社します。月給40円、賞与を加えると平均50円になります。この頃の銀行の風体は現在私達が想像するようなものではありません。番頭、手代、丁稚が前掛けをかけてうろうろしており、行員の教養は低く、話題は下賎で猥雑でした。少なくとも成彬はそう思いました。やめようかなとも、考えますが、父親が怖くて我慢します。冷徹傲岸とまで言われた彼が、人生で唯一恐れたのは父親成章でした。しかし当時三井銀行は中上川彦次郎の改革が始まったばかりでした。成彬はこの改革の上昇気流に乗って活躍することになります。ここで三井銀行の歴史を簡単に概括して見ましょう。
三井は17世紀中葉の三井高利の呉服店越後屋に始まります。併行して高利は両替商も営みます。高利は三井の基礎を作りましたが、商店・企業が永世安泰であるなどとは、ゆめ考えず、家訓を残します。家訓の要点は、総本家、本家分家の一致協力です。しかし大商人もおのれを維持するのは大変です。江戸時代の豪商、金持ちで明治維新を生き抜いたのは、住友と三井そして鴻池だけです。茶屋、本阿弥、紀伊国屋、淀屋、島田、小野などなどの豪商たちはすべて潰れています。ちなみに大阪商人・大阪商人と言いますが、徳川初期から続いている家はほとんどないそうで、近江や伊勢など地方出身者がほとんどです。つまり一見大阪生え抜きの商人に見えても、新陳代謝、栄枯盛衰はしょっちゅう行われているのです。
三井の最大の危機は幕末維新です。ここで三野村利左衛門という切れ者が現れ、三井の大番頭として采配を振るいます。三野村はそれまでの幕府御用商人の立場から、官軍(薩長軍)に支持を切り替えます。思い切って軍資金を提供します。官軍が江戸を目指して東征する途中、突然進軍休止になります。理由は資金不足で食糧がないからです。従軍していた三井の手代が奔走して、資金を調達してきます。もちろん三井からです。敵地である江戸まで潜入して、資金をもってきたこともあるのですから、なにやら講談じみています。三野村自身が、幕府を最後まで支え、江戸で官軍と雌雄を決しようとした、勘定奉行小栗忠順の仲間(足軽)でした。
こうして三井は幕府から朝廷・明治政府支持に急転回して、危機を乗り越えます。御用金他の貢献に対しては、当然利権の見返りが伴います。その点では大成功でした。褒賞の最たるものが為替方に任じられることでした。当時政府自身には官金を貯蓄管理する組織がありません。この官金、例えば司法省の予算に必要な官金は三井などの政商が代理して扱っていました。明治4年そして5年に、大蔵省正金兌換証券680万円と北海道開拓使兌換証券250万円を、三井から発行されることが許可されます。三井は一時中央銀行の役割もしていたことになります。他に重要な利権としては年貢の調達・保管・運送があります。まさしく政商一体です。しかし企業にとって、政府と密着するほど危険な事はありません。
政府は国立銀行なるものを設置します。約100行くらいできましたが、重要なのは第一国立銀行です。この銀行は渋沢栄一の指導で作られました。第一銀行を経て、現在の瑞穂銀行の一部になっています。国立銀行といっても、政府が出資するのではありません。その代わりに発券機能を与えます。国立銀行は自ら銀行券を発行します。それは政府紙幣と、原則としては等価交換できます。しかし実態はそうはゆきません。雨後のたけのこのようにできた国立銀行を、民衆が簡単に信じるはずがない。折りからの世界的金騰貴、銀行券の氾濫・減価でインフレになります。ここで政府は何をしたのか?銀行の積極的な取り潰しです。例えば第一国立銀行は三井組と小野組が総額300万円の資本のうち200万円出資しています。政府は彼ら、出資した金融機関の内情を調査し、少しでも怪しい点があれば即、官金の返還を求めます。国立銀行の取り付けに際して、出資者を潰しておけば、その分国立銀行の負担は減ります。現在でも日航再建で行われた株式の一部破棄です同時に資本を縮小する事により、発行される紙幣量は減ります。極めて暴力的な措置ですが、経済論理は貫徹しています。デフレ政策を取ったことになります。小野組や島田組は潰れました。三井は三野村の綿密な情報収集のお蔭で難を逃れます。こうして三井は金融界の巨人になります。
発券銀行の道を塞がれた三井は、1876年(明治9年)に私盟会社三井銀行を設立します。資本金200万円、株式総数2万株です。1万5千株は三井一族で所有し、他の5千株は三井の使用人が負担しました。営業種目は、官金出納、為替、荷為替、貸付、預かり金、両替、金銀売買です。官金出納は政府との縁の名残、両替と金銀売買は江戸時代の伝統の残存です。新しい営業の主たるところは為替です。為替あるいは為替手形は、振り出された為替手形を割り引いて、その利鞘で稼ぎます。こうする事によって、商業行為における資金流通を円滑化します。これに預金機能がくっつきます。こうして三井は貸し付ける元本を獲得しました。換言すれば、銀行経営の国家資本からの独立が為されました。少なくともそう努力しました。これをもって財閥の誕生とします。
事は簡単には行きません。長年の政府及び政府関係者との腐れ縁があります。個人による強奪に近い貸付、不良資産(売れない土地など)を担保とする貸付、などなど不良資産は山積でした。三井の総帥すら貸付金がいくらなのか、知りません。ここで三井財閥史きっての革命児中身川彦次郎が登場します。明治24年、山陽鉄道社長を辞めた中上川は三井銀行の常務理事そして専務理事に迎えられます。中上川は旧来の人事を廃し、新しい人材を集めます。殆んどが中上川の母校である慶応の出身でした。人材を列記します。いずれにせよこの連中は中上川に取り上げられ、中上川と共に仕事をし、中上川の死後は自分の力で多くの現在にまで残る企業を創設しました。朝吹英二、津田興二、村上定、藤山雷太、野口寅次郎、和田豊治、西松喬、武藤山治、波多野承五郎、鈴木梅四郎、柳荘太郎、小野友次郎、小出牧、矢田績、藤原銀次郎、平賀敏、日比翁助、林健、井沢良立、そして岩下清周です。
中上川の銀行経営方針は以下のようにまとめられます。
設備の近代化、これはなにも銀行にのみ当てはまる事柄ではありません
工業立国、したがって長期に及ぶ工業投資を目指しました
投資銀行(private banking)
労働者の待遇改善、三井が経営する鐘紡の待遇が良すぎて他の業者と対立します
投資銀行に関して少し説明しておきましょう。当時の銀行は、日銀から金を借りて他の企業や個人に貸して利鞘を稼ぐか、あるいは預金の利子で食っていました。中上川のいう投資銀行は、日銀にも預貯金にも頼らない投資方法です。銀行は預金してもらうと一見ありがたく見えますが、貸付先が確保出来ないと、なんにもなりません、むしろ負担になります。中上川は投資先を開拓できる投資銀行を設立、あるいはそのように三井銀行を改組しようとしました。ただこの志向を押し進めますと、結局株式売買に行き着いてしまいます。ある程度以上の資産を持つ中産階級の存在を前提にして、彼らに株式証券を買ってもらい、それを新産業の投資に振り向けます。しかし当時の日本の産業の底は浅く、中上川の方針を貫きえるほど、の厚みはありません。幸か不幸か中川は明治34年、48歳で死去しています。以後三井は益田孝の商業主義にもどります。成彬は同年に中上川の娘である艶と結婚します。成彬の経営方針は、中上川の工業投資の方向を志したと言われています。なお中上川が三井銀行に来てまず最初にしたことは、当然ですが不良債権の回収です。特に第33銀行と東本願寺の債権取立てが代表です。この方針の下で、31歳の足利支店長になった、成彬は25万円の焦げ付いた貸付の取立てに苦労し、成功させています。中上川の改革は、それまで仕方なく入った銀行業に成彬をして、意義を感じさせました。
1898年32歳時、成彬は中上川の指示で、欧米の銀行制度の視察と学習に派遣されます。1904年38歳時、営業部長、第一線の指揮官になります。この時成彬は、銀行の主要な作業を手形取引とし、手形を担保とする、短期コ-ルマネ-で投資を助けるあるいは稼ぐ、方針を打ち出します。日銀からの独立を貫くためでもあり、独立により積極的に投資活動をするためでもあります。彼が創立や拡張に支持を与えた企業としては、三越と東京電燈があります。三越は経営に行き詰まっていた三井呉服店を、日比翁助が引き受け、全面的に改組し、全く別物にしたてあげてできたものです。三井の濫觴は呉服店です。創立当初は現金払い、掛け値なし、の商法で画期的であった呉服店も、200年以上の伝統に安住し、加えて三井一族の見栄・干渉も多く、三井は投げ出そうとしていました。日比はこれを、呉服のみならずあらゆる商品を一括販売する小売商法つまり百貨店に切り替えます。今日は三越、明日帝劇と言われ、三越といえば百貨店の代名詞になりました。日比は三井銀行の人、彼の事業に成彬は80万円の融資をしています。
どんな商売でも必ず危機があります。現在九電力の筆頭として日本のエネルギ-産業の筆頭格にある東京電力の前身東京電燈が1904年、100万円の融資を三井に依頼します。当時としては新企画の水力発電開発のためです。成彬は一諾します。桂川発電所ができました。経営は極めて順調でしたが、1923年の関東大震災で東電は壊滅状態になります。東電を潰すか、それはできません。では再建を助けるか?先立つものは何よりも金です。成彬は森堅吾と組んで、外債(7000万ドルと450万ポンド)さらに内債6000万円を起債し、消化します。こうして東電は危機を免れました。この時成彬は東電社長の若尾ショウ八に辞任を要求しています。理由は乱脈経営です。乱脈経営とは言え、退陣を勧告するのは嫌な作業です。成彬の生涯には、このいやな事をしなければならない運命のようなものが待ち受けていました。冷酷なバンカ-という印象を持たれました。米沢藩士は元禄の昔から、憎まれ役でした。
金子直吉の列伝で語りましたが、神戸の鈴木商店も超積極的つまり放漫経営で膨大な不良債権と不良資産を抱えていました。鈴木の融資会社は台湾銀行です。金子は必死になって日銀特融を画策しました。この試みが上手くいっていた矢先、片岡直温の失言がとび出し、取り付け騒ぎが起こります。ここで成彬はコ-ルマネ-3000万円を市場から引き上げます。台銀は休業し鈴木は倒産します。これが金融恐慌のきっかけになりました。ぐずぐずしていると三井も連鎖倒産に巻き込まれかねません。正当な金融行為ではありますが、成彬は非難されます。
政商高田商会の件もあります。政府が融資を約束したのに、蔵相が代ると約束をほごにします。成彬は融資を断ります。高田商会は潰れました。
1930年(昭和5年)金解禁が実施されます。結果は散々でデフレと倒産、失業者の増大の嵐に晒されます。更に翌年の1931年、イギリスは金解禁を中止します。ポンド貨は暴落します。三井が抱えていたポンド資金の減価を防ぐために、成彬はドル買いを行います。これは当然予想される、円の輸出禁止(金本位制解除)による円減価を防止するためでもあります。この行為は三井のみならず、外国為替相場を行っていた、住友や三菱も同様です。三行ともだいたい各6000万円程度のドル買いを行っていました。当然円貨の価格は下がり、金の海外流出に拍車がかかります。このドル買いが猛烈な世論の非難を浴びました。朝日新聞をはじめ各メディアは国賊行為と非難します。銀行自身の立場から見ればドル買いは当然の自衛行為です。しかし金解禁に関しては成彬が井上蔵相に勧めた嫌いがあります。だから円に換算すれば7000万円を超えるポンド貨を平然と保持していたのです。この点では、一銀行家には該当しないのかもしれませんが、金解禁への責任はあります。当時イギリスのケインズ、日本の石橋湛山などは、金解禁するならポンドあるいは円を切り下げてからから行えと主張していました。ただしこれらの意見は少数派で、円解禁当時世論の圧倒的多数は金解禁を支持、それも熱狂的に支持していました。最終責任は井上蔵相と浜口首相にあるとはいえ、国民全体の責任になります。
成彬はこうして独占資本主義の代表にされました。血盟団とか国民党とかいう恐ろしいテロ、一人一殺の対象の筆頭にランクされます。昭和6年、前蔵相井上準之助が、しばらくして三井合名理事長の団琢磨が暗殺されます。暗殺の正当性を確信した人物に狙われるのは恐ろしいことです。以後成彬は15年間、つまり以後の激動をへて敗戦しすべてがおじゃんになるまで、警察の保護を受けまた防弾チョッキを離さなかったそうです。この間5-15や2-26という恐ろしい馬鹿げた事件が勃発します。暗殺されたすべての人に同情しますが、特に2-26での高橋是清の殺害は同情を超えて馬鹿馬鹿しくなります。昭和天皇が激怒されたといわれますが、全く同感です。成彬は一切弁明しません。弁明はできません。三井ほどの大銀行の内幕を暴くことは恐慌につながります。成彬は銀行業が嫌になり、銀行経営を学ぶためにイギリスに留学させていた三男の就職を変更し、東京海上火災に変更させます。
私なりに、成彬のやり方を批判すると、彼は銀行家の限界内で仕事をしていた、と言えます。以後の国政参加にも同様の限界を露呈します。中上川の工業投資志向は充分理解できます。しかしそのための資金をどうするのか?この批判は中上川を継いだ成彬にも当てはまります。投資銀行を作り、工業立国を志すのなら、狭い意味での銀行業を超えて、株式証券の引き受けと売買をしなければなりません。手形取引での手形を変形し、銀行が企業と組んで、一方的に手形を振り出せば、それはそのまま株式になります。現に大和証券の前身はbill brokerつまり手形引受業者でした。銀行の工業投資に限界があるから、理研や日産、日窒などの企業は株式発行に頼ったのです。
新聞論調に関しては申し上げるような事はありません。当時に限らず現在でも扇動的です。経済現象は多面的で流動的です。新聞はその一面を極端に強調します。鈴木商店の金子を非難し、米買占めという嘘をでっち上げ、三井が自衛のために、コ-ルマネ-を引き上げると、今度は三井を非難する。新聞は正義の味方を気取って煽ります。新聞も企業ですから、売り上げがすべてです。しかし経済ほど、わかりにくいものはありません。解りにくさの主因の一つが、この現象に個々人すべての利害が濃厚に関係し、個々人は利害に振り回された判断をしてしまうからです。こと経済に関する限り、記事や論調は、あまり勉強していない現場の記者の憶断で書かれている事がほとんどだと思って間違いありません。
三井が標的になり、現に団琢磨という犠牲者が出、三井国賊論が横行する中、成彬は三井財閥の改革に着手します。三井合名社長には三井高公を抱き、成彬は常務理事に就任します。まず三井総本家、六本家、5連家の当主全員の第一線からの引退を求めます。使用人が主人に引退を勧めるようなものです。ただしこの伝統はわが国固有の習慣としては定着していました。次に合名会社以下の傘下企業の株式公開を行います。あくなき利潤追求でそのモラルの低さを非難されていた、三井物産社長安川雄之助を退陣させます。三井報恩会を作り、3000万円投資して、慈善事業や研究援助などを行います。この学は合名会社の資本の10%で、年刊総収入の2倍です。そして全員に定年制(60歳)を敢行し、自らも引退します。成彬は68歳でした。
1937年(昭和12年)、林内閣に請われて日銀総裁に就任します。13年近衛内閣で蔵相と商工相を兼任します。国家総動員法第11条の、企業の配当制限と強制貸付に反対しています。私は国家総動員法を認める者ではありませんが、成彬の反対には疑問を感じます。企業の営為は市場原理主義に立つという根本態度なのでしょうが、こと長期工業投資に関する限り、株式発行をするか、国家主導になるかの、どちらかの方法は必須です。株式発行は資本蓄積が為された後でのみ意味を持ちます。あまりに市場原理主義を通すと、結局は需給均衡を優先して成長は望めず、先進国の優位に任されてしまいます。成彬の誠実さを認めつつ、私は彼の限界、特に政策家としての限界を感じます。需給均衡とその系である財政均衡に固執する限り、経済成長は望めません。成長のためには、一定の範囲で通貨(株式・債権も含む)の量を増やし、国家の戦略を明確にして、企業を指導する必要があります。
戦後一時戦犯に擬せられましたが、すぐ容疑ははれます。公職からは追放されました。成彬としてはむしろこの竹の子生活の方が楽で楽しかったと述懐しています。1950年(昭和25年)死去、享年84歳、私の記憶ではまだバナナが貴重な果物であった時代でした。
参考文献 池田成彬 東洋書館
記事を拝読しました。
経済には疎くてよく分かりませんでしたが、読んでいる内に、成彬氏が山本五十六とだぶりました。
山本長官も、賊軍の汚名を着た長岡藩士の家系で、後の三国同盟反対時に右翼に命を狙われて、陸軍護衛を付けられていた事を思い出しました。
米内海軍大臣の配慮で、山本長官は連合艦隊指令長官になり現場に飛ばされるわけですが…。
悪者のレッテルを貼って、物事を変えようという陰謀算術は好きではありません。禍根を残すと思うので。
駄文、失礼しました。