中上川彦次郎
中上川彦次郎は1854年(嘉永7年)中津藩(豊後、現在の大分県、奥平家)の家臣として生まれます。福沢諭吉の母方の甥になります。漢学の訓練を受け、明治2年14歳で上京し慶応義塾に入学します。この間大阪で英語の講義を1年間受けています。17歳で卒業し、中津や宇和島および母校の慶応などで教師をします。19歳で教科書を作りました。「中上川」は「なかみがわ」と読みます。
1874年(明治7年)から3年間、彦次郎は福沢諭吉の世話でイギリスに留学します。他の留学生と違い、一つの事に集中あるいは固執せず、イギリスという国の制度や習慣気風などをじっくり観察するという態度を取りました。必ずしもイギリスあるいは欧州の文物に心酔しません。かなり冷めた目で批判的に見ています。この間外遊中出会った井上馨の知遇を得ます。
1877年(明治10年)帰国、翌年大久保利通が暗殺され、井上は工部卿に任じられます。外務卿に転じた井上に引き立てられて外務省公信局長になります。この時彦次郎は世界でもまだ珍しかった電報を官庁の交信手段として採用します。ロシア皇帝襲撃事件の時、ロシア大使はまだ知らないのに、日本の外務省はすでに知っていて、宴会の席で知らされた大使はびっくりしたそうです。しかし彦次郎の役人生活は長く続きません。明治14年の政変で筆頭参議である大隈重信は政府を追われます。原因はいろいろあるようです。北海道開拓司事件があります。開拓司の実力者黒田清隆は、北海道各地に作った諸々の施設を時価の1/10以下の値段で払い下げました。世間はこれを不正事件として弾劾します。政府内では大隈が一番批判的でした。もう一つが大隈財政への批判です。大隈は拡大政策をとりました。西南戦争の戦費のために紙幣が乱発されていたので、大隈の政策はインフレをもたらし、入超になり外貨が減少します。これを一番危惧していたのは松方正義(と彼の懐刀郷純造)です。不正事件というと多分井上馨も絡んでいると思います。充分前科はありますから。最後が自由民権運動です。大隈はこの運動の方向に賛成でした。彼が書いた、憲法草案は、民主的過ぎるとして伊藤博文の激怒を買います。こうして大隈は薩長藩閥から追放されました。
福沢諭吉も自由民権運動には賛成でした。そして慶応義塾出身の英才を多く官庁に送り込んでいました。こうして福沢門下の慶応出身者は政変とともに下野します。彦次郎も同様です。翌15年、福沢は時事新報という新聞を作ります。社員の多くは下野した慶応出身者です。論説主幹は福沢、そして彦次郎は福沢から経営を任されます。この新聞の論調は必ずしも反政府的ではありません。不偏不党、国家の利益擁護と独立、近代化の促進です。彦次郎の経営手腕はさえていました。新規の試みが為されます。当時記者は外部の人間からニュ-スを聴くだけで、積極的に外に出て取材をしようとはしません。彦次郎は記者に積極的に取材するよう求めます。外国の事件を取り扱う手法もこの新聞が初めてです。少なくとも大規模には。投書欄も設けます。広告を募集します。新聞経営で広告収入の重要性に気付いたのは時事新報が始めてです。記者が外に出るようになると、講演も依頼されます。新式印刷機を購入します。時事新報は発行部数を大きく伸ばしました。1896年(明治19年)における発行部数の順位は、改進新聞、読売新聞、時事新報、郵便報知新聞、絵入自由新聞です。時事新報の発行部数は年280万部、当時の発行部数はこの程度のものです。なお時事新報は昭和初期に東京日日新聞に吸収合併され、東京日日も毎日新聞に再び合併されます。偶然か否か、後に毎日新聞を創設する本山彦一は時事新報の社員でした。なおここで挙げた読売は現在の読売ではありません。昭和初期にそれまで経営不振にあえいでいた読売の経営を正力松太郎が立て直し、根本的改革をして、全く別の新聞にしてしまいました。時事新報にしても読売にしても、現在の五代新聞よりは、はるかに記事は高級でした。quality paperに近いものでした。
1987年(明治20年)彦次郎33歳の時、山陽鉄道株式会社の社長に就任します。明治5年新橋-横浜、7年神戸-大阪、10年大阪-京都、13年京都-大津、13年小樽-札幌間に鉄道ができます。山陽鉄道は大阪と博多を結ぶ計画です。すでに博多熊本間には九州鉄道が開通していました。山陽鉄道の発起人の一人が藤田伝三郎、彼はこの工事の責任者でもあり、計画の実権者でした。藤田の頭には、他の社長候補者がいました。彦次郎は井上馨を介して藤田に圧力をかけ社長におさまります。藤田伝三郎と久原房之介の列伝で述べたように、藤田組は井上には頭が上がりません。その点では三井も同じです。およそ明治期の経済界にあって井上ほどあちこちに顔を出している人物は稀です。渋沢栄一でもかないません。
山陽鉄道は現在の山陽本線の前身です。社長に就任して彦次郎は敏腕を振るいます。神戸-尾道間を2年半で開通させました。この時期、彼は工事の内容にもかなり細かく干渉します。技師連は勾配1/40を主張しましたが、彦次郎はそれを斥け、勾配1/100を主張します。勾配1/40では燃費がかさみ、速度は落ちます。結局工事をやりなおさねばならなくなります。カーブもなるべくゆるくしました。要は平地を直線で走るようにします。複線を予定して土地を買占めます。兵庫本店用の土地を3万坪買い占めました。周囲は反対しましたが、後からそれでも手狭である事がわかりました。それまでの階級格差を露骨に示す職名を廃します。車掌という職名を作ったのは彼です。工事に伴うコミッション料はすべて私せず、会社の収入として公開しました。風当たりも強かったようです。1891年(明治24年)彼37歳の時、山陽鉄道を辞め、三井銀行副長に迎えられます。
ここで簡単に三井財閥の歴史を整理しておきましょう。言うまでもなく三井は17世紀半ばに三井八郎衛門が江戸に呉服店を開いたのが始まりです。以後総本家である元方を中心に10前後の分家の当主の会議が最高議決機関でした。しかし三井家の方針は、経営の実際は有力な番頭に任せるのが常例でした。幕末小栗忠順の小者であった三野村利左衛門が三井の番頭になり、巧に新政府に取り入り、公金の取り扱いと租税である米等の運輸販売を任されます。新政府にはこれらの作業をする機関が未整備でした。政府を下野した井上馨が先取会社を作ります。その発起人の一人が益田孝です。先取会社とは地方の産物売買と併せて外国との交易をする会社です。井上は大阪にも、同じ長州出身の藤田伝三郎と先取会社を作っています。井上が政府入りした時、先取会社の経営を三井に打診します。三井のバックアップで益田孝が経営しますが、この時期はむしろ益田の請負事業のようなものでした。やがてこの会社は三井が直接経営するようになります。明治も10年くらいになると、政府機関も整い、租米の取り扱いを自前でするようになります。三井もこの方針に適応せざるを得なくなり、総合商社に変身します。三井銀行は、政府公金の管理を主とした仕事にしていました。政府機関の充実とともに、この仕事も少なくなります。三井は普通の商業銀行の仕事に専念しなければならなくなりました。しかし政府との関係は残っています。特権とともに、腐れ縁も残ります。腐れ縁とは、政府要人への貸付とそれに伴うこげつき貸金の累積です。彦次郎が副長に就任した時、三井銀行は以上の理由で危機にありました。ちなみに財閥も簡単に幕末維新の変革期を乗り越えたのではありません。三井と並ぶ小野、島田両家はこの時期潰れています。
面白い逸話があります。彦次郎が三井組(三井財閥と思ってください)を合名会社(無限責任社員のみ)から合資会社(無限責任社員と有限責任社員が並存)に変えようとしたとき、井上馨が反対します。理由は、政府は資本主義の担い手として三井と三菱を軸としてきた、無限責任社員でないと経営に身が入らず、また政府との連絡もうまくいかない、です。資本主義勃興の裏話であり、井上の経済発展への寄与の深さを物語るものです。もっとも井上は悪人列伝に出てくるくらいの人ですから、私腹も充分に肥やしましたが。元々三井は呉服と両替が本業でしたから、物産と銀行を二大支柱にするのは当然でもあります。彦次郎はこの三井の体質とも言える、商業資本主義を工業資本主義に変えようとします。
彦次郎が三井銀行の副長になった時、以前からの役員がまだ沢山残っていました。彼は副長を彼一人にし、実力者益田孝の降格を望みます。CEOである総長は三井高保ですが、三井の伝統に従って儀礼的存在ですから、彦次郎の専制体制になります。後に副長は理事さらに専務理事、理事長と名称を変え、事実上の三井の総帥職になります。三井銀行の建て直しのために彼が抜擢されたとき、彼が主張したことは、閑職につかせるのならやめさせて下さい、です。こう啖呵を切れたのは、井上馨の権威が背後にあったからです。
仕事はまず焦げ付いた貸付の整理から始まります。第33国立銀行という銀行がありました。ここで国立というのは発券機能を持つという意味です。中央銀行という意味ではありません。この銀行が倒産します。彦次郎は三井が貸した金を取りかえそうと思います。第33銀行の融資先である上毛絹糸株式会社が、形式上農民から名義を移して担保としていた土地田畑を彦次郎と彼の腹心である村上定が、強引に取り上げ、それを農民に買わせます。一時一揆が起こりかねない騒ぎになります。彦次郎は農村共同体の習慣を冷徹な資本の論理で破壊します。
東本願寺は三井に100万円を超える借金をしていました。なかなか返金してくれません。そこで東本願寺の所有する邸園、キ穀亭を担保に抑えます。この名園は平安時代初期に風流大臣と言われた源融が作った由緒ある屋敷です。彦次郎は、なんなら阿弥陀様も担保に取ると、脅します。たまりかねた本願寺は全国の門徒に寄付を依頼します。さすが本願寺です。あっという間に100万円を超える金が集まりました。彦次郎は一時期、明治の仏敵と言われました。しかしこれは本願寺が悪い。借りた金なら返すのが当然です。
桂太郎の弟、桂次郎が三井に借金していました。兄の権威を借りて返しません。桂太郎に談判して、彼の財産から返済させます。伊藤博文が京都に来たとき、費用が足りず、三井の京都支店に1000円ばかり貸してくれと、頼みます。彦次郎の方針を知っている支店長は、担保を要求します。伊藤は東京から担保証明を取り寄せるのに苦労しました。松方正義の実弟である久保之昌の場合も同様です。彦次郎の方針は政府要人関係だからといって、例外は設けるな、です。また彦次郎は政府自身をも告訴しました。三井が払い下げてもらった三池炭鉱で落盤事故が起こります。まだ名義上は政府の所有だったので、政府に損害賠償の履行を求めます。敗訴でした。ともかく彦次郎は政府との癒着を断ち切ろうとしました。官金取り扱いの返上を行います。地方の支店は官金取り扱いが仕事の主たるものですから、中小の支店はどんどん閉鎖しました。これは合理化でもあります。この時期一民間会社が政府や政府要人に楯突くことは驚天動地の出来事でした。
官金取り扱いをやめて、商業為替の無担保割引業務を盛んにします。つまり企業の資金繰りを良くする業務です。これと民間への貸付が銀行本来の業務です。彦次郎の代になって三井もやっと銀行らしくなったといえましょう。また当座預金の利子は廃止しました。
本店による支店の管理を徹底します。当時どこの会社も支店長の権限が強く地方割拠の形勢でした。彦次郎は東京、名古屋、大阪の三店を母店とし、各地の支店を統括させ、最終的には東京本店に権限が集まるようにしました。この制度と併行して各店の貸し出し限度額を決めます。例を挙げれば、明治30年の時点で、東京500万円、大阪150万円、和歌山は20万円でした。
短期貸し出しの利子を低く、長期貸し出しの利子は高くしました。この処置は民間資本を強化する意味はありますが、商業金融型になります。工業金融には長期資本が必要です。日本の財閥、特に三井・三菱・住友などの銀行は、少なくとも戦前においては工業金融には手を出しませんでした。
もう一つ彦次郎がした事は、厘単位の廃止です。この単位を廃止して、銭単位に切り上げ(切り下げ)すれば極僅か損が出ますが、手間が省けて人件費を節約できます。10厘で1銭です。
彦次郎の基本方針は、銀行の機能を工業資本主義育成に切り替えることでした。多くの製造業を作り、支援しています。代表が武藤山治を兵庫工場の支店等に抜擢した鐘が淵紡績(鐘紡)です。潰れかけた王子製紙に藤山雷太を送り込み、再建させます。この時藤山は王子製紙の創設者である渋沢栄一に引退をせまり、実現させています。藤山の言い分は、貴方がいては他の重役が私のいう事を聞かない、です。藤山は後に大日本製糖を作り砂糖王と言われます。
芝浜田中工場が危機に瀕したのを、買い取って再建します。新技術を導入し、不要人員を整理しました。ストが起きます。こういう時、経営者の成功するタイプのする事は共通しています。首謀者やアクティヴな連中から一般従業員を切り離し、後者には理由を説明し、前者は解雇します。こうしてストを乗り切りました。芝浦製作所と改名します。後マツダ電球で有名な東京電気と合併し、東京芝浦製作所通称東芝になります。東芝は日立、三菱と並んで、日本の三大重電メ-カ-になります。
製糸業にも進出します。大ハシ、三重、富岡、名古屋の製糸工場を買収しててこ入れします。石炭では三菱に先行されました。北海道に目を向けます。経営が行き詰まっていた北海道炭鉱鉄道の、株を買い占めて炭鉱業に進出します。
これらの資金は第一銀行や日本鉄道という一流株を放出して得ました。安全な商業金融からリスクに富む工業金融への転換を計ります。
彦次郎が影響を与えた人物としては、三越を作った日比翁助、工業倶楽部という日本最初の経済人団体を作った、和田豊次、王子製紙を作り上げた藤原銀次郎、三井財閥の総帥になり、日銀総裁や大蔵大臣を務めた池田成彬、そして北浜銀行(旧三和銀行の前身の一部)を創立し関西で多くの起業を支援した岩下清周らがいます。大阪の私鉄の雄である阪急と近鉄は岩下がいなければ、できなかったでしょう。岩下は豊田佐吉や森永太一郎など天才肌の人物に肩入れしています。彼らは終生岩下に恩義を感じ感謝していたそうです。
彦次郎を語るに大阪戦争を忘れてはなりません。これはハイカラで合理的な東京と泥臭くてがめつい大阪の、経営法あるいは文化の衝突です。彦次郎は武藤を尖兵として鐘紡を立ち上げました。鐘紡では従業員の待遇もよく、高給であったので、労働者の人気が高まります。鐘紡が意図して他社から引き抜いたという、真偽不明な噂が流れ、大阪の業者は中央紡績同盟会を作り、綿花商に、一切鐘紡に綿花を売るな、と指令を出します。高賃金の鐘紡に対して、大阪の業者達は、低賃金だから日本の紡績業は成立する、と反論します。結局日銀総裁岩崎弥之助が仲介に入り収まりました。日清戦争当時、綿紡績は日本のleading industoryでした。そして大阪がこの産業の中心地です。そこでごごたごたを起こされては、政府もたまりません。この時大阪を代表して交渉に当たったのが、山辺丈夫です。彼の列伝で述べたように、山辺は英国の紡績技術を習得して帰り、日本で始めて、日本人だけで紡績業を営むことを立証した人です。
彦次郎の人材登用は独特です。まず慶応出身者が圧倒的に多い。これは当然でしょう。慶応は東大と並んで日本で一番古い大学です。特に慶応は祖師である福沢諭吉を中心に団結が強く、官学に対抗する分、何事にも革新的になります。この事はすぐ後にできる早稲田にもあてはまります。そして彦次郎は、学閥云々というが、知っている人ほど信用できるものはない、と断言しました。私の親友の一人が大学教授をしていますが、同様のことを言いました。公募公募というが、公募してくるものは実際使ってみないと全く解らない、と。
彦次郎の人使いの特徴は、若くても、分野外でもどんどん使ってみることです。分野を選ばず、選ばせずに放り込みます。そして信賞必罰です。もっとも罰の方はそれほどでもありません。彦次郎に見込まれると出世が早い。多く儲けた者には多く与える、のが彦次郎の信条でした。彦次郎の伝記を書いた鈴木梅四郎は、月給45円で入社し、あちらこちらの職場にまわされ、4年後には月給300円になっていました。1年で3度昇給した人もいます。
彦次郎は上に尊大で、下には対等に接する人でした。大臣でも、用があればそちらから来い、です。特に女性には優しい人でした。良い意味でのフェミニストです。趣味は?まず大酒飲み、そしてpornographyの収集です。
彦次郎は1901年(明治34年)腎臓疾患で死去します。享年47歳、短すぎた人生かもしれません。しかし彼の晩年には三井銀行における地位はかなり不安定なものになっていました。工業資本主義を志向する彦次郎は商業主義の益田孝と対立します。政治家の優遇・特別扱いをやめたために井上馨の不興も買います。彦次郎の死後、三井はまた商業資本主義に復帰します。工業部門では三菱に差をつけられ、銀行でも三井は三菱の後塵を拝し続けます。
最後に付記するのは、彦次郎の娘中上川アキのことです。彼女は妾腹の子です。才色兼備、17歳で東大出身の医学博士に嫁ぎますが、折り合いが悪く、しっくりゆきません。ある劇場で歌手藤原義江とお互い一目惚れになり、アキは家を出て藤原と結ばれます。アキは藤原の音楽活動を蔭に日向に助けつづけます。しかし藤原も多情な人、浮気が絶えません。再離婚。昭和30年台NHKの「私の秘密」に藤原アキの名で登場し人気をえます。昭和37年の参議院議員選挙に自民党から立候補しトップ当選し、タレント候補の第一号と言われました。
参考文献
中上川彦次郎の華麗な生涯 草思社
石橋湛山の経済思想 東洋経済新報社
中上川彦次郎は1854年(嘉永7年)中津藩(豊後、現在の大分県、奥平家)の家臣として生まれます。福沢諭吉の母方の甥になります。漢学の訓練を受け、明治2年14歳で上京し慶応義塾に入学します。この間大阪で英語の講義を1年間受けています。17歳で卒業し、中津や宇和島および母校の慶応などで教師をします。19歳で教科書を作りました。「中上川」は「なかみがわ」と読みます。
1874年(明治7年)から3年間、彦次郎は福沢諭吉の世話でイギリスに留学します。他の留学生と違い、一つの事に集中あるいは固執せず、イギリスという国の制度や習慣気風などをじっくり観察するという態度を取りました。必ずしもイギリスあるいは欧州の文物に心酔しません。かなり冷めた目で批判的に見ています。この間外遊中出会った井上馨の知遇を得ます。
1877年(明治10年)帰国、翌年大久保利通が暗殺され、井上は工部卿に任じられます。外務卿に転じた井上に引き立てられて外務省公信局長になります。この時彦次郎は世界でもまだ珍しかった電報を官庁の交信手段として採用します。ロシア皇帝襲撃事件の時、ロシア大使はまだ知らないのに、日本の外務省はすでに知っていて、宴会の席で知らされた大使はびっくりしたそうです。しかし彦次郎の役人生活は長く続きません。明治14年の政変で筆頭参議である大隈重信は政府を追われます。原因はいろいろあるようです。北海道開拓司事件があります。開拓司の実力者黒田清隆は、北海道各地に作った諸々の施設を時価の1/10以下の値段で払い下げました。世間はこれを不正事件として弾劾します。政府内では大隈が一番批判的でした。もう一つが大隈財政への批判です。大隈は拡大政策をとりました。西南戦争の戦費のために紙幣が乱発されていたので、大隈の政策はインフレをもたらし、入超になり外貨が減少します。これを一番危惧していたのは松方正義(と彼の懐刀郷純造)です。不正事件というと多分井上馨も絡んでいると思います。充分前科はありますから。最後が自由民権運動です。大隈はこの運動の方向に賛成でした。彼が書いた、憲法草案は、民主的過ぎるとして伊藤博文の激怒を買います。こうして大隈は薩長藩閥から追放されました。
福沢諭吉も自由民権運動には賛成でした。そして慶応義塾出身の英才を多く官庁に送り込んでいました。こうして福沢門下の慶応出身者は政変とともに下野します。彦次郎も同様です。翌15年、福沢は時事新報という新聞を作ります。社員の多くは下野した慶応出身者です。論説主幹は福沢、そして彦次郎は福沢から経営を任されます。この新聞の論調は必ずしも反政府的ではありません。不偏不党、国家の利益擁護と独立、近代化の促進です。彦次郎の経営手腕はさえていました。新規の試みが為されます。当時記者は外部の人間からニュ-スを聴くだけで、積極的に外に出て取材をしようとはしません。彦次郎は記者に積極的に取材するよう求めます。外国の事件を取り扱う手法もこの新聞が初めてです。少なくとも大規模には。投書欄も設けます。広告を募集します。新聞経営で広告収入の重要性に気付いたのは時事新報が始めてです。記者が外に出るようになると、講演も依頼されます。新式印刷機を購入します。時事新報は発行部数を大きく伸ばしました。1896年(明治19年)における発行部数の順位は、改進新聞、読売新聞、時事新報、郵便報知新聞、絵入自由新聞です。時事新報の発行部数は年280万部、当時の発行部数はこの程度のものです。なお時事新報は昭和初期に東京日日新聞に吸収合併され、東京日日も毎日新聞に再び合併されます。偶然か否か、後に毎日新聞を創設する本山彦一は時事新報の社員でした。なおここで挙げた読売は現在の読売ではありません。昭和初期にそれまで経営不振にあえいでいた読売の経営を正力松太郎が立て直し、根本的改革をして、全く別の新聞にしてしまいました。時事新報にしても読売にしても、現在の五代新聞よりは、はるかに記事は高級でした。quality paperに近いものでした。
1987年(明治20年)彦次郎33歳の時、山陽鉄道株式会社の社長に就任します。明治5年新橋-横浜、7年神戸-大阪、10年大阪-京都、13年京都-大津、13年小樽-札幌間に鉄道ができます。山陽鉄道は大阪と博多を結ぶ計画です。すでに博多熊本間には九州鉄道が開通していました。山陽鉄道の発起人の一人が藤田伝三郎、彼はこの工事の責任者でもあり、計画の実権者でした。藤田の頭には、他の社長候補者がいました。彦次郎は井上馨を介して藤田に圧力をかけ社長におさまります。藤田伝三郎と久原房之介の列伝で述べたように、藤田組は井上には頭が上がりません。その点では三井も同じです。およそ明治期の経済界にあって井上ほどあちこちに顔を出している人物は稀です。渋沢栄一でもかないません。
山陽鉄道は現在の山陽本線の前身です。社長に就任して彦次郎は敏腕を振るいます。神戸-尾道間を2年半で開通させました。この時期、彼は工事の内容にもかなり細かく干渉します。技師連は勾配1/40を主張しましたが、彦次郎はそれを斥け、勾配1/100を主張します。勾配1/40では燃費がかさみ、速度は落ちます。結局工事をやりなおさねばならなくなります。カーブもなるべくゆるくしました。要は平地を直線で走るようにします。複線を予定して土地を買占めます。兵庫本店用の土地を3万坪買い占めました。周囲は反対しましたが、後からそれでも手狭である事がわかりました。それまでの階級格差を露骨に示す職名を廃します。車掌という職名を作ったのは彼です。工事に伴うコミッション料はすべて私せず、会社の収入として公開しました。風当たりも強かったようです。1891年(明治24年)彼37歳の時、山陽鉄道を辞め、三井銀行副長に迎えられます。
ここで簡単に三井財閥の歴史を整理しておきましょう。言うまでもなく三井は17世紀半ばに三井八郎衛門が江戸に呉服店を開いたのが始まりです。以後総本家である元方を中心に10前後の分家の当主の会議が最高議決機関でした。しかし三井家の方針は、経営の実際は有力な番頭に任せるのが常例でした。幕末小栗忠順の小者であった三野村利左衛門が三井の番頭になり、巧に新政府に取り入り、公金の取り扱いと租税である米等の運輸販売を任されます。新政府にはこれらの作業をする機関が未整備でした。政府を下野した井上馨が先取会社を作ります。その発起人の一人が益田孝です。先取会社とは地方の産物売買と併せて外国との交易をする会社です。井上は大阪にも、同じ長州出身の藤田伝三郎と先取会社を作っています。井上が政府入りした時、先取会社の経営を三井に打診します。三井のバックアップで益田孝が経営しますが、この時期はむしろ益田の請負事業のようなものでした。やがてこの会社は三井が直接経営するようになります。明治も10年くらいになると、政府機関も整い、租米の取り扱いを自前でするようになります。三井もこの方針に適応せざるを得なくなり、総合商社に変身します。三井銀行は、政府公金の管理を主とした仕事にしていました。政府機関の充実とともに、この仕事も少なくなります。三井は普通の商業銀行の仕事に専念しなければならなくなりました。しかし政府との関係は残っています。特権とともに、腐れ縁も残ります。腐れ縁とは、政府要人への貸付とそれに伴うこげつき貸金の累積です。彦次郎が副長に就任した時、三井銀行は以上の理由で危機にありました。ちなみに財閥も簡単に幕末維新の変革期を乗り越えたのではありません。三井と並ぶ小野、島田両家はこの時期潰れています。
面白い逸話があります。彦次郎が三井組(三井財閥と思ってください)を合名会社(無限責任社員のみ)から合資会社(無限責任社員と有限責任社員が並存)に変えようとしたとき、井上馨が反対します。理由は、政府は資本主義の担い手として三井と三菱を軸としてきた、無限責任社員でないと経営に身が入らず、また政府との連絡もうまくいかない、です。資本主義勃興の裏話であり、井上の経済発展への寄与の深さを物語るものです。もっとも井上は悪人列伝に出てくるくらいの人ですから、私腹も充分に肥やしましたが。元々三井は呉服と両替が本業でしたから、物産と銀行を二大支柱にするのは当然でもあります。彦次郎はこの三井の体質とも言える、商業資本主義を工業資本主義に変えようとします。
彦次郎が三井銀行の副長になった時、以前からの役員がまだ沢山残っていました。彼は副長を彼一人にし、実力者益田孝の降格を望みます。CEOである総長は三井高保ですが、三井の伝統に従って儀礼的存在ですから、彦次郎の専制体制になります。後に副長は理事さらに専務理事、理事長と名称を変え、事実上の三井の総帥職になります。三井銀行の建て直しのために彼が抜擢されたとき、彼が主張したことは、閑職につかせるのならやめさせて下さい、です。こう啖呵を切れたのは、井上馨の権威が背後にあったからです。
仕事はまず焦げ付いた貸付の整理から始まります。第33国立銀行という銀行がありました。ここで国立というのは発券機能を持つという意味です。中央銀行という意味ではありません。この銀行が倒産します。彦次郎は三井が貸した金を取りかえそうと思います。第33銀行の融資先である上毛絹糸株式会社が、形式上農民から名義を移して担保としていた土地田畑を彦次郎と彼の腹心である村上定が、強引に取り上げ、それを農民に買わせます。一時一揆が起こりかねない騒ぎになります。彦次郎は農村共同体の習慣を冷徹な資本の論理で破壊します。
東本願寺は三井に100万円を超える借金をしていました。なかなか返金してくれません。そこで東本願寺の所有する邸園、キ穀亭を担保に抑えます。この名園は平安時代初期に風流大臣と言われた源融が作った由緒ある屋敷です。彦次郎は、なんなら阿弥陀様も担保に取ると、脅します。たまりかねた本願寺は全国の門徒に寄付を依頼します。さすが本願寺です。あっという間に100万円を超える金が集まりました。彦次郎は一時期、明治の仏敵と言われました。しかしこれは本願寺が悪い。借りた金なら返すのが当然です。
桂太郎の弟、桂次郎が三井に借金していました。兄の権威を借りて返しません。桂太郎に談判して、彼の財産から返済させます。伊藤博文が京都に来たとき、費用が足りず、三井の京都支店に1000円ばかり貸してくれと、頼みます。彦次郎の方針を知っている支店長は、担保を要求します。伊藤は東京から担保証明を取り寄せるのに苦労しました。松方正義の実弟である久保之昌の場合も同様です。彦次郎の方針は政府要人関係だからといって、例外は設けるな、です。また彦次郎は政府自身をも告訴しました。三井が払い下げてもらった三池炭鉱で落盤事故が起こります。まだ名義上は政府の所有だったので、政府に損害賠償の履行を求めます。敗訴でした。ともかく彦次郎は政府との癒着を断ち切ろうとしました。官金取り扱いの返上を行います。地方の支店は官金取り扱いが仕事の主たるものですから、中小の支店はどんどん閉鎖しました。これは合理化でもあります。この時期一民間会社が政府や政府要人に楯突くことは驚天動地の出来事でした。
官金取り扱いをやめて、商業為替の無担保割引業務を盛んにします。つまり企業の資金繰りを良くする業務です。これと民間への貸付が銀行本来の業務です。彦次郎の代になって三井もやっと銀行らしくなったといえましょう。また当座預金の利子は廃止しました。
本店による支店の管理を徹底します。当時どこの会社も支店長の権限が強く地方割拠の形勢でした。彦次郎は東京、名古屋、大阪の三店を母店とし、各地の支店を統括させ、最終的には東京本店に権限が集まるようにしました。この制度と併行して各店の貸し出し限度額を決めます。例を挙げれば、明治30年の時点で、東京500万円、大阪150万円、和歌山は20万円でした。
短期貸し出しの利子を低く、長期貸し出しの利子は高くしました。この処置は民間資本を強化する意味はありますが、商業金融型になります。工業金融には長期資本が必要です。日本の財閥、特に三井・三菱・住友などの銀行は、少なくとも戦前においては工業金融には手を出しませんでした。
もう一つ彦次郎がした事は、厘単位の廃止です。この単位を廃止して、銭単位に切り上げ(切り下げ)すれば極僅か損が出ますが、手間が省けて人件費を節約できます。10厘で1銭です。
彦次郎の基本方針は、銀行の機能を工業資本主義育成に切り替えることでした。多くの製造業を作り、支援しています。代表が武藤山治を兵庫工場の支店等に抜擢した鐘が淵紡績(鐘紡)です。潰れかけた王子製紙に藤山雷太を送り込み、再建させます。この時藤山は王子製紙の創設者である渋沢栄一に引退をせまり、実現させています。藤山の言い分は、貴方がいては他の重役が私のいう事を聞かない、です。藤山は後に大日本製糖を作り砂糖王と言われます。
芝浜田中工場が危機に瀕したのを、買い取って再建します。新技術を導入し、不要人員を整理しました。ストが起きます。こういう時、経営者の成功するタイプのする事は共通しています。首謀者やアクティヴな連中から一般従業員を切り離し、後者には理由を説明し、前者は解雇します。こうしてストを乗り切りました。芝浦製作所と改名します。後マツダ電球で有名な東京電気と合併し、東京芝浦製作所通称東芝になります。東芝は日立、三菱と並んで、日本の三大重電メ-カ-になります。
製糸業にも進出します。大ハシ、三重、富岡、名古屋の製糸工場を買収しててこ入れします。石炭では三菱に先行されました。北海道に目を向けます。経営が行き詰まっていた北海道炭鉱鉄道の、株を買い占めて炭鉱業に進出します。
これらの資金は第一銀行や日本鉄道という一流株を放出して得ました。安全な商業金融からリスクに富む工業金融への転換を計ります。
彦次郎が影響を与えた人物としては、三越を作った日比翁助、工業倶楽部という日本最初の経済人団体を作った、和田豊次、王子製紙を作り上げた藤原銀次郎、三井財閥の総帥になり、日銀総裁や大蔵大臣を務めた池田成彬、そして北浜銀行(旧三和銀行の前身の一部)を創立し関西で多くの起業を支援した岩下清周らがいます。大阪の私鉄の雄である阪急と近鉄は岩下がいなければ、できなかったでしょう。岩下は豊田佐吉や森永太一郎など天才肌の人物に肩入れしています。彼らは終生岩下に恩義を感じ感謝していたそうです。
彦次郎を語るに大阪戦争を忘れてはなりません。これはハイカラで合理的な東京と泥臭くてがめつい大阪の、経営法あるいは文化の衝突です。彦次郎は武藤を尖兵として鐘紡を立ち上げました。鐘紡では従業員の待遇もよく、高給であったので、労働者の人気が高まります。鐘紡が意図して他社から引き抜いたという、真偽不明な噂が流れ、大阪の業者は中央紡績同盟会を作り、綿花商に、一切鐘紡に綿花を売るな、と指令を出します。高賃金の鐘紡に対して、大阪の業者達は、低賃金だから日本の紡績業は成立する、と反論します。結局日銀総裁岩崎弥之助が仲介に入り収まりました。日清戦争当時、綿紡績は日本のleading industoryでした。そして大阪がこの産業の中心地です。そこでごごたごたを起こされては、政府もたまりません。この時大阪を代表して交渉に当たったのが、山辺丈夫です。彼の列伝で述べたように、山辺は英国の紡績技術を習得して帰り、日本で始めて、日本人だけで紡績業を営むことを立証した人です。
彦次郎の人材登用は独特です。まず慶応出身者が圧倒的に多い。これは当然でしょう。慶応は東大と並んで日本で一番古い大学です。特に慶応は祖師である福沢諭吉を中心に団結が強く、官学に対抗する分、何事にも革新的になります。この事はすぐ後にできる早稲田にもあてはまります。そして彦次郎は、学閥云々というが、知っている人ほど信用できるものはない、と断言しました。私の親友の一人が大学教授をしていますが、同様のことを言いました。公募公募というが、公募してくるものは実際使ってみないと全く解らない、と。
彦次郎の人使いの特徴は、若くても、分野外でもどんどん使ってみることです。分野を選ばず、選ばせずに放り込みます。そして信賞必罰です。もっとも罰の方はそれほどでもありません。彦次郎に見込まれると出世が早い。多く儲けた者には多く与える、のが彦次郎の信条でした。彦次郎の伝記を書いた鈴木梅四郎は、月給45円で入社し、あちらこちらの職場にまわされ、4年後には月給300円になっていました。1年で3度昇給した人もいます。
彦次郎は上に尊大で、下には対等に接する人でした。大臣でも、用があればそちらから来い、です。特に女性には優しい人でした。良い意味でのフェミニストです。趣味は?まず大酒飲み、そしてpornographyの収集です。
彦次郎は1901年(明治34年)腎臓疾患で死去します。享年47歳、短すぎた人生かもしれません。しかし彼の晩年には三井銀行における地位はかなり不安定なものになっていました。工業資本主義を志向する彦次郎は商業主義の益田孝と対立します。政治家の優遇・特別扱いをやめたために井上馨の不興も買います。彦次郎の死後、三井はまた商業資本主義に復帰します。工業部門では三菱に差をつけられ、銀行でも三井は三菱の後塵を拝し続けます。
最後に付記するのは、彦次郎の娘中上川アキのことです。彼女は妾腹の子です。才色兼備、17歳で東大出身の医学博士に嫁ぎますが、折り合いが悪く、しっくりゆきません。ある劇場で歌手藤原義江とお互い一目惚れになり、アキは家を出て藤原と結ばれます。アキは藤原の音楽活動を蔭に日向に助けつづけます。しかし藤原も多情な人、浮気が絶えません。再離婚。昭和30年台NHKの「私の秘密」に藤原アキの名で登場し人気をえます。昭和37年の参議院議員選挙に自民党から立候補しトップ当選し、タレント候補の第一号と言われました。
参考文献
中上川彦次郎の華麗な生涯 草思社
石橋湛山の経済思想 東洋経済新報社
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