経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

日本史入門(18) 大岡忠相と田沼意次

2021-01-09 14:23:13 | Weblog
日本史入門(18)大岡忠相と田沼意次
   
1 幕府能吏大岡忠相の事跡、また彼の主君八代将軍徳川吉宗の業績。大岡は吉宗が将軍職に就くとほぼ同時に南町奉行に就任、吉宗の死とほぼ同時に死去。
大岡は1677年三河以来の旗本大岡忠高の子として生まれ、同族の忠真の養子に。24歳で家禄2000石を継ぎ、41歳南町奉行に。町奉行を20年間、この長さは異例、旗本としてはこれも異例な寺社奉行に就任、奏者番を兼ねる、関東地方御用掛として農政にも参画。75歳死去。
2 吉宗は老中の顔は立てたが、実際の政治判断は吉宗と御用取次三奉行の実務者で行なった。江戸町奉行の職務は、100万都市江戸の警察司法民政と多伎。大岡は町火消創設、私娼取締り、小石川療養所建設など善政を施行、後世名奉行と讃えられる。が大岡が吉宗とともに、苦労して取り組んだ最も重要な課題は、江戸市中の物価安定だった。
江戸は特異な町、100万の人間が住む政治都市。周辺の関東地方一帯は産業が未発達、火山灰地が多く全耕地の15%のみ水田。食糧生活必需品は先進地帯京大阪から搬入。江戸初期は米穀生産中心で農民の生産物の余剰はほとんど領主が収取、だから米価に他の商品の物価は連動。農民が商品作物を生産、富裕になり生活は贅沢に、武士も町人も贅沢に。主食である米以外の産物が増え、米価に他の商品の値が連動しなくなる。米の値は下がる、味噌醤油の値は上がる、異例の経済現象が出現。幕臣は扶持米を売って得た金で他の商品を買う、米価が下がると幕府は困る。
3 大岡は各業種の実力者に同業組合、仲間、を作らせる。仲間を通じて町奉行が商品価格統制を試みる。江戸に入る関門浦賀の奉行に大阪から江戸に搬入される米の量を調べさせる。大阪奉行所を通じて、大阪から江戸に送られる米の量を調べる。江戸にあまり米を搬入して米価を下げて欲しくない。江戸周辺の関東地方にも商品作物栽培を奨励。大阪堂島に米市場を作り、米の売買を奨励、手形取引も承認、制限していた酒造も奨励、米価を上げるべく務めた。米価が上がりすぎ江戸町人の生活が困窮。米1石銀70匁、江戸で打ち壊し、名奉行大岡在任中の事件。
4 幕府は努力したが、米価も諸色の値も安定しない。問題の一つは当時の貨幣制度。江戸は金本位、大阪は銀本位。江戸が大阪の米を買えば金で支払い、大阪はこれを銀に両替。金銀比価如何で生じる損得。大阪の両替商が組めば、金を叩いて安く買い、適当な時期に金を高値で売る事も。江戸市中の物価は乱高下、儲かるのは大阪の両替商。江戸としては金の比価を高めたい、江戸の購買力が増えるから。
5 吉宗政権は始め新井白石に倣って、高品質な金銀貨を発行。貨幣量減少、物価下落デフレ。デフレ対策と対大阪銀経済圏への対処の双方あいまって、1736年に金銀貨を改鋳し含有金銀量を減らし流通貨幣量を増加させる。吉宗は改鋳の内容を公表。貨幣量の意図的増加、画期的政策。銀の含有量を金のそれに比し大きく下げる。銀貨を粗悪にして金貨優位にと画策。これはごまかし。長期的に見れば事態は変わらない。金銀地金の価値は変わらないのだから。泥臭い悪戦苦闘。
1755年吉宗死後、5匁銀の発行。名称どおりの5匁の銀は含まれずそれ以下の量。法定の5匁銀だから、1両金貨に対し12枚で交換せよと、強制。実際の金銀比価は金1に対して銀9-10、法定では1対12。金銀地金の取引は禁止、金銀比価を法律で人為的に金優位に固定。江戸は大阪に対して経済的に優位に。大阪銀経済の江戸金経済への従属化、貨幣量の増大、経済の中央集権化。全国的規模での金本位制の開始。生活が富裕になり、経済の仕組みが複雑になると、物価も不安定になる。初めのうちは経済に直接介入していた吉宗や大岡も苦闘の経験の中から問題は貨幣そのものにあると悟るようになる。問題解決の端緒は掴んだか。すでに田沼時代。
大岡は関東地方の農政官として人材を発見し代官に推薦、備荒食サツマイモ栽培を勧めた青木昆陽が有名。
6 吉宗の時代に、お定め書き百か条、が制定される。複雑になる都市生活に対処するための民事法。当時の西欧ではまともな民法は作られていない。
小作料の上限を設定、投下資本の15%が上限。形式的には禁止されていた小作、土地の商品化が公権により承認され始める。封建制から資本制生産への過程の一つ。吉宗政権の経済政策は試行錯誤悪戦苦闘の繰り返し。名奉行大岡忠相が20年の在任中してきた事の実態はこんなところ。

7 田沼意次は吉宗大岡の試行を踏まえ、首尾一貫した論理で大胆に経済政策推進。意次1719年江戸生まれ、600石の旗本。利発で気転がきき、世子家重の小姓に、家重が将軍になると側近に。家重死去後は家治に重用。小姓組番頭側用人老中と出世コ-スを駆け登る、老中と側用人を兼ね政治の実権を握る。1760年から1786年、田沼時代。
意次が大名になるのは郡上一揆の直後。直接税(年貢)増税路線の行き詰まりの結果がこの一揆。間接税派の台頭、筆頭が田沼意次。
8 意次も最初年貢増税を試みる、全国に一揆、すぐ路線変更。政策の第一が株仲間結成。商人に業種ごとに団体(仲間)を作らせ、独占を認め仲間から運上金を出させる。農民負担が主の年貢増税をやめ、興隆してきた商人から税金を取る。間接税、新しい試み。間接税の価格転嫁と独占による価格上昇が欠点。私娼からも税金を取る。禁止してもしきれるわけではなし、取れるところから徹底的には取ろうと。だから当時の社会はかなり退廃的。商人が栄え、武士は分け前に預らず、繁栄から取り残される。
9 商人資本を積極的に利用。印旛沼の開発。利根川との水路を断ち、干拓し米他の作物の増産を狙う。経費は大阪と江戸の商人の負担。意次失脚により成功寸前で工事中止。印旛沼干拓工事は吉宗時代からの悲願。
 全国の鉱山を調査し開拓、開墾できるところはすべて開墾。ともかく財源、結果は成否半々。事業遂行の専門家が必要、意次は周囲に技術者学者を集め頭脳集団を作り上げる。杉田玄白、工藤平助、平賀源内、本田利明、田村元雄、当時の自然科学者を総動員。意次の時代に始めて蘭学が盛んになる。吉宗時代に蘭学は一応認められたが、開国思想に結びつくだけになお警戒された。蘭学の学習進展は日本の運命に重大な影響。蘭学学習者は西欧の科学技術政治体制に関心を持つ。準備があればこそ開国維新の事業は世界史的にみて驚くほど円滑に進んだ。杉田玄白の「解体新書」は蘭学洋楽の記念碑。
10 北海道開発への着手。工藤平助が「赤蝦夷風説考」を著わし、樺太から千島列島にかけてロシア人が出没、国防上重大な問題、北海道を調査開発し国防に備えるべき、と具申。意次は意見をすぐ採用、調査隊を派遣。千島列島エトロフクナシリ両島には日本人、シムシル島にはロシア人が住み、ウルップ島は日露混在。意次は蝦夷開発、北方交易、数万人規模の植民も考える。彼は開国論者、思想統制は緩やか、田沼時代には学問と文化は栄えた。寛容でやや猥雑な文人には住みやすい環境。与謝野蕪村、池大雅、大田蜀山人などの活躍。喜多川歌麿の美人絵が人気を博す。
11 目玉政策が銀の定額貨幣化。銀は重量換算で交換されていた。田沼時代に明和五匁銀、そして南リョウ二朱銀を発行。前者は12枚で金1両、後者は8枚で1両。金銀比価を固定。金本位制のはしり、金経済圏江戸への経済力集中政策、幕府の中央集権化。流通貨幣増量を狙って四文銭も作る。これは物価騰貴を招き悪評で失敗。
12 斬新な政策遂行のためには有能な部下が必要。中下級の旗本御家人から人材を登用。5代綱吉の時代に勘定吟味役が新設、8代吉宗の足高制、幕府官僚群は形成されつつあった。意次はこの傾向を加速推進。政策実務官僚の養成。
13 意次の経済政策を小括。商人資本への着目。商品流通から租税を徴収。商人資本を民間と公共の投資に動員。開墾開拓、公共投資で景気を活性化。政策は後代に受け継がれる。1838年老中水野忠邦により大阪商人全体に要請された運上金は140万両。維新時東京遷都に際して新政府が大阪商人から借り上げた総額は1000万両、勿論返さない。
 幣制の中央集権化。定額銀貨の発行により金本位制へ傾斜。商人資本による経済活性化を統制し、資本の動きを掴むためには、金本位方向での幣制の統一は不可避。
意次の思想は開明的。長崎駐在オランダ商館長チチングの日記によれば意次は開国外国交易を志向。商人資本の活用、開墾開拓、公共事業への投資、開国への傾斜を包括する事業が北海道開拓。
14 1784年長男意知が殿中で殺される。浅間山の大爆発、関東一帯は不作、物価騰貴、江戸で大規模な打ち壊し。将軍家治の死去、同時に意次の新進官僚登用に反感を抱く保守派が松平定信をかつぎ政変。意次失脚、1793年死去、70歳。意次の政策は開明的だがすべて未完成。惜しいのが北海道開拓と印旛沼干拓、意次失脚、頓挫。大幅な減知、家臣の解雇、丁寧な再就職斡旋、家臣一同による重臣の選挙、明るい性格開明家意次の面目躍如。
意次の政策に欠けていたものは、武士階層の軽視と弱者への配慮の欠如かも。が江戸時代全期を通じて武士は経済官僚化した。荻生徂徠は農本主義への執着を捨てるべきだと言う。意次のやり方は時代の趨勢。意次は積極的経済成長論者、産業育成に貢献しうる富裕層優遇になりがち、だが有効需要は喚起。田沼時代26年間は天災の連続、洪水に干害が相継ぐ。26年の執政とは記録的な長さ。天災の頻発にも関わらず、彼の政治が基本的なところで効果を発揮していたのではないのか。積極的すぎてやり散らかし、政策の統合と欠陥への対策を欠き、物価騰貴と汚職蔓延を招く。
15 意次失脚後、定信政権。定信は意次の事業のほとんどすべてを否定。意次の命で蝦夷に行き、帰って報告した青嶋俊蔵は即解雇。定信は打ち壊しを恐れ社会福祉政策重視。寛政異学の禁、幕府公認の朱子学以外の教授は蘭学も含めて禁止、時代錯誤。林子平は海防の必要性を唱えただけで投獄。工藤平助の提案が意次に採用されたのとは大違い。
16 田沼意次の政策は、幣制の中央集権化、金本位制、土地の商品化、商人資本の利用、間接税の重視、公共投資、経済成長策、幕府官僚の養成、蘭学解禁に要約される。彼の政策には近代の経済論理が明瞭に反映されている。

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