経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝・豊田喜一郎

2009-12-21 02:31:13 | Weblog
      豊田喜一郎

 12月11日の読売新聞朝刊の記事によりますと、トヨタ自動車は2009年度世界生産台数を730万台に上方修正すると発表しました。現在自動車製造において、トヨタは技術と生産台数などを総合的に見ると、世界一と申してもいいでしょう。このトヨタ自動車の創業者、基礎を作った人物が豊田喜一郎です。
 喜一郎は有名な豊田佐吉(自動織機の改良発明)の長男として、1894年に生まれました。出生にはいささかの事情があります。喜一郎の実母たみは佐吉と結婚し、しばらくして家を出ています。一説では終日研究に没頭する佐吉に愛想をつかした、のだとも言われます。実母の事は喜一郎には一切知らされません。喜一郎3歳時、佐吉は浅子と結婚します。浅子は良妻賢母を絵に描いたような人物でした。経営の下手な発明狂佐吉が事業に成功する裏には妻浅子の献身的な努力があります。しかし喜一郎にとって慈母であったかどうかといえば、多分そうではないでしょう。賢い人ですが、勝気で多忙な毎日を送る浅子に、賢母である以上の関心を喜一郎に注ぐ余裕はなかったと思います。そのせいか喜一郎はおとなしい無口な少年でした。
 喜一郎は尋常小学校に通います。当時だれでもが行く平凡な教育コ-スです。特に成績が良いとはいえません。4年生の時、継母浅子の計らいで、名古屋師範付属高等小学校に転校します。父佐吉は喜一郎の教育にそう熱心でもなかったようです。喜一郎は中学校に進みます。佐吉は教育はこの程度でよかろうと、思っていたのですが、再び浅子の強い要請で、仙台の第二高等学校に進学し、そこから東京大学工学部機械学科に進みます。この過程でできた人脈は後年の喜一郎の事業にとって大きな資産になりました。
 浅子には佐吉との間に愛子という女児がいました。喜一郎にとっては唯一の兄弟であり、仲が良かったと伝えられています。愛子は児玉利三郎と結婚し、利三郎は豊田家の養子になります。児玉家については若干の説明が要るでしょう。佐吉の苦闘時代、資金と智恵の両面で、佐吉を応援した人物の一人が、三井物産名古屋支店長の児玉一造でした。利三郎は一造の長男です。利三郎は神戸高商を卒業して、伊藤忠商事のマニラ支配人になっていました。まだ地方企業でしかなかった豊田紡績などに転職する気はなかったのですが、愛子の美貌に一目ぼれして養子縁組を承諾したといわれています。佐吉なき後の豊田は喜一郎と義弟(といっても10歳以上年上ですが)の利三郎が協同で経営する事になります。喜一郎が技術担当、利三郎が経営担当です。もしこの利三郎という人物がいなければ、今日のトヨタはなかったでしょう。ともすれば技術向上一筋に走りがちな喜一郎を適当の押さえ、周囲の反対をなだめて、喜一郎の道楽と言われても仕方のない、自動車製造を後援したのはこの利三郎です。彼は喜一郎に遅れること数ヵ月後に死去しています。また児玉一造に養われて育ち、利三郎の義弟格の人物に石田退三がいます。この人物も喜一郎の事業との関係では無視できない人です。
 1921年27歳時、喜一郎は豊田紡績に入社します。父親佐吉の指示で現場に廻されます。大企業出身の技師連に苛められます。利三郎夫妻と共に欧米旅行します。この時喜一郎は、当時世界一の紡織機械製造会社であるイギリスのプラット社を訪問し、2ヶ月そこに滞在し、この会社の設備等の精細な観察を行い、膨大な資料を持ち帰ります。喜一郎は無口でおとなしい性格でしたが、後年になればなるほど父親佐吉の一徹で頑固な研究開発一本の傾向が顕著になってきます。ある幹部の手記には、二代続けて発明狂はいらないとぼやかれています。佐吉は喜一郎に紡織機製作を指示したことはありません。ある日喜一郎が密かに書いていた設計図を佐吉がふと見て、ウ-ンとうなり声を挙げました。感嘆したのです。喜一郎が機械製作者つまり発明家になってもいい、という佐吉の認可であったとも思われます。佐吉は発明などは才能のある人間にのみ出来る事であって、自分の子といえども才能の有無は解らないから、喜一郎をほっておいたのでしょう。
 1925年関東大震災、東京の市電は止まります。東京市は急遽米国から自動車を買い、それをバス代りにして、急場をしのぎます。この震災で、交通機関として自動車が役に立つこと、日本にも自動車への巨大な市場がある事が明らかになりました。フォードやGMの子会社が日本に作られ年産数万台の製造を開始します。政府も「国産振興会」を作り、国産車製造促進に乗り出します。
 1926年それまでのごたごたを解消して、豊田自動織機製作所が設立されます。社長は利三郎、副社長が喜一郎です。佐吉は第一線を退きました。この前後豊田自動織機の特許がプラット社へ10万ポンドで売られました。日本円で100万円、佐吉はこの金で自動車会社を作れと、喜一郎に言ったという話もあります。伝説かも知れません。喜一郎は密かに自動車製造の研究を続けていたようです。始めはスミスモ-タ-という自転車に小型のモ-タ-を取り付けたものを分解して観察していました。この間喜一郎の自動車製造への取り組みは進みます。段々公然化します。1933年研究室を作り、併行して豊田自動織機製作所に自動車部門を設立します。利三郎の内諾を得ていたので公然とはいえないものの、重役会議ではどの役員も賛成ではありませんでした。すでにその段階で数百万円に昇る研究開発資金が投下され、それはすべて自動織機の売り上げと紡績会社の利益で補填されていましたから、重役の反対は当然です。彼らは、御曹司の道楽にも困ったものだ、と思っていました。事実喜一郎の行動には充分その傾向があります。なお1933年、トヨタのライヴァルである日産自動車が鮎川義介により設立されています。当時としてはトヨタと日産では、日産の方がはるかに大きな存在でした。
 1931年満州事変が勃発します。陸軍がそれまでにも増して、自動車製造に積極的になります。陸軍が要望する大型自動車製造を三井・三菱・住友など旧財閥はしり込みします。積極的なのは日産とトヨタだけでした。喜一郎は陸軍省整備局動員課の伊藤久雄少佐に渡りをつけます。
 1935年第一号車が完成します。伝説があります。社長の利三郎が担当社員に「どうだい、うちの車は動くかい?」ときいたそうです。また喜一郎は展示会に「動かなくても並べろ」といいました。こんな具合ですから第一号車の性能は散々で、すぐ動かなくなる、車軸が折れるなどのトラブル続きです。新聞は「トヨタまた路上で座禅」などと書きたてます。このような不備は徹底したアフタ-ケア-でなんとか乗りこえました。よく乗り越えたなと思います。修理箇所は600箇所に上りました。不備なところはすぐ現場に赴いて、そこで徹底的に調べるがトヨタの方針です。この間欧米から工作機械を仕入れ、人材を技術と販売の両面において、既成の会社から引き抜きます。トヨタにきたら給料が半分になったと言われるほど当時のトヨタの給料は低いものでしたから、よく人材が集まったと思いますよ。国産車を作るという夢ゆえに人が集まったのでしょうか、解らないところがあります。最初は赤字でした。出費を作業の合理化で補います。これが有名な、just in time あるいはカンバン方式と言われるものの淵源です。在庫を極力減らし、必要な物を必要なだけ現場に供給するのがこの方式のモット-です。
 1937年トヨタ自動車工業株式会社が資本金1200万円で設立されます。利三郎と喜一郎が正副の社長になります。愛知県挙母町(ころもちょう 現豊田市)に年産10000台の工場が作られます。自動車製造は総合技術なので部品製造も含めて各部門(例えば鋳造、鍛造、研磨など)を集中させる必要があります。また大規模製造でないと価格が下がりません。陸軍からの注文は殺到します。経営は黒字になりました。しかし陸軍からの要求はエスカレ-トします。要求に応じればそれに相当する資本投下が必要です。結局2000万円の借金を抱えてしまいました。
戦争の雲行きになるにつれ米国からの工作機械の輸入は不可能になります。国内産の部品がまだ劣悪であったので、部品を内製化しようと試みます。陸軍の指令も転々とします。トラック増産を命じられて、乗用車製造を夢みる喜一郎は滅入ります。資源配分が少なく操業短縮という事態も出現します。本家の豊田紡績の方は自動車会社に合併されます。結果的にはこの事が、トヨタが戦後生き残れた一因になります。なお喜一郎が湯水のように自動車製造に資金を投入できたのは、紡績業の成功にあります。昭和恐慌を脱して以後日本の経済は発展しますが、この発展の資金は軽工業が負担しました。トヨタでも同じです。
 敗戦。トヨタ自動車も生きるためにいろいろな事を試みます。ちくわ製造、プレハブハウス、泥鰌養殖、鍋釜製造、電機アイロンなど戦後の焼け野が原に相応しい物を作ることを余儀なくされます。しかし喜一郎は戦後数ヶ月して自動車製造を開始します。工作機械をなんとかし、航空機産業(GHQに禁止されました)から技術者を引き抜きます。しかしこれはと思う作品はできません。この間の資金は合併した紡績業の方が担います。戦後綿布は純綿といって貴重品でした。こちらの方は飛ぶように売れます。喜一郎の自動車製造への熱情はともかくとして、結局トヨタは大赤字になりました。復活再生のためには10億円の資本投下が必要でした。普通なら倒産です。しかし潰すには大きすぎました。潰せば関連会社300社も連鎖倒産で名古屋界隈に限らず、日本全体が恐慌になりかねません。そこえドッジラインという超緊縮財政の追い討ちです。どうしても1600人の解雇が必要になります。大争議が持ち上がります。この間日銀名古屋支店長の高梨壮夫が各銀行の名古屋支店長を集め、融資団を作り資金融通を図ろうとします。しかし争議が収まらなければ融資は実行されません。非難の中喜一郎は辞職します。後任の社長が豊田自動織機を預かる石田退三です。喜一郎と利三郎の推挙ですが、背後には銀行団の強い圧力がありました。銀行団は喜一郎の技術優先に危惧感を抱き、販売部門出身で経営の実績もあり、すでに自分の部門での争議を解決していた石田の就任を歓迎していたのです。喜一郎は1952年3月持病の高血圧が悪化し脳溢血で死去します、享年57歳。利三郎もその後を追うように同年6月68歳で死去します。
 新しくトヨタ自動車工業社長に就任した石田退三には運がついていました。就任直後北朝鮮軍が38度線を越えて韓国に侵入します。朝鮮戦争の勃発です。特需で自動車はどんどん売れました。非常時には少しくらい性能が悪くてもいいのです。石田は機を逸する事無く、上京して安宿を基地とし、持参の米を食って、警察予備隊(自衛隊の前身)、警察、消防署、もちろん米軍などあらゆるところに売り込みます。稼いだ金は極力製造技術向上に投資します。トヨタの製品で始めて民間で評価されたのは、1955年発表の、トヨペットクラウンとトヨペットマスタ-でした。しかしこの両車もアメリカでは使い物になりません。アメリカの高速道路を高速で走ったらとたんにぼろがでました。日本車が米車に名実共に追いつくのはその10年後です。
 喜一郎のやり方を見ていますと、父親の佐吉にそっくりです。喜一郎の方が視野が広いのは事実ですが、自動織機と自動車の違いこそあれ、これと決めたら一本道、あらゆる手段を使い、本業で稼いだ資金を惜しげもなく投資し、ただ良い作品の出来上がりを期待して日夜努力する。喜一郎が念願したような自動車は彼の生前にはできませんでしたが、彼の遺志は石田退三や従弟の英二、子供の章一郎達に受け継がれ今日に至り、トヨタは世界一の自動車会社になりました。しかし成熟産業である現在の自動車業界は大きな転機にさしかかっています。脱石油、エコ産業、公共交通機関の充実などの課題にこの産業は直面しています。

  参考文献 トヨタを作った男、豊田喜一郎  ワック書店

1 コメント

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目覚めたら巨チンってぉぃ (大岩井)
2009-12-23 21:51:50

あの女ー・・昨日チソコが痛くなるくらい手コ-キしてきたから
夕方に起きたらチソコ腫れまくってんじゃんかよーー!!!!!!
でもまぁ極太にサイズアップしたチソコ試したいし
今のうちに他の女にも突っ込んでくるとすっかー((o( ̄ー ̄)o))


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