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日本史入門(28)明治維新   補遺 臥雲辰致

2021-01-23 14:05:01 | Weblog
日本史入門(28)明治維新  補遺 臥雲辰致

 臥雲辰致(がうんたっち)と言う名を聞いた人は少ないと思います。豊田佐吉に比べれば知名度ではマイナ-です。しかし日本経済史の教科書には必ずと言っていいほど登場する名前です。彼は臥雲式紡績機、通称ガラ紡を発明しました。
 幕末の開国で綿織物の業界の雰囲気は一変します。それまでの国内産の綿糸・綿布に代り、西欧の綿製品が輸入されます。価格はともかく、品質では圧倒的に外国製品の方が優れていました。細い綿糸を作れるのが、西欧綿業の強みです。国内綿業は一時壊滅寸前になります。明治元年から10年間に輸入された物のうち36%が綿製品でした。国内で生産される綿製品は全体の2.8%です。これでは日本の経済はやってゆけません。政府は必死に国内綿業を育てようとしますが、おいそれとは参りません。簡単に輸入できるほど機械工業は甘いものではありません。維新期からなんとか日本綿業が外国製品と太刀打ちできるほどの力をつけるまでの20年間、日本の綿業を支えたのが、和式紡績機、つまりそれまで農村の副業として維持されてきた、紡績技術の延長上に改良された紡績機です。この代表が、臥雲式紡績機、ガラ紡です。
 話は変わりますが幕末の開国で、日本の経済状況は東西で対照的な関係になります。綿糸綿布を生産していた西国(西日本)は開国で打撃を受けます。逆に東国(東日本)は生糸を輸出でき、その分利潤は増えます。薩長としては是が非でも倒幕戦争を遂行し、西国に有利な経済状態を作らなければなりませんでした。戊辰戦争もこのような視点からも考察できます。
 臥雲辰致は天保13年(1842年)信濃国(長野県)安曇郡田多井村に生まれました。祖父は豪農です。父親横山儀十郎は長男ですが、賭博にこり、分家に出されます。辰致は儀十郎の長男に生まれました。幼名は栄弥。そのころ信州の村々では副業として、篠巻づくりという方式で綿糸が紡がれていました。主として足袋底用に使います。栄弥は、祖母や母親が苦労して紡いでいる糸をなんとかもっと楽に早くできないかと考えます。ある日火吹竹に綿花をつめて遊んでいました。火吹竹が手から落ちます。からからと竹がまわり、竹の外に出た綿糸が竹に絡みつきます。これがヒントになります。
 それから栄弥は発明と改良のとりこになります。昼夜寝食を忘れて器械作りに没頭します。家業などはほったらかしです。心配した両親は栄弥を近くの寺に入れ、むりやり僧にしてしまいます。栄弥20歳の時です、法名智恵。やがて臥雲山孤峰院の住職になります。廃仏毀釈にあい、寺は廃寺になり、彼は還俗させられます。これを機に臥雲辰致と名乗ります。辰致30歳です。まあ彼は発明狂と言ってもいい人物ですが、その点では賭博狂だった父親と似ています。
 31歳、結婚。その間紡績機の作成に没頭します。32歳最初のガラ紡が作られます。太い糸しか紡げません。特許を申請しますが、当時の日本には特許を管理する機構がありません。(明治20年専売特許局設立、初代局長は高橋是清)明治10年、彼35歳の時、第一回内国博覧会が開かれます。ここに新しく改良したガラ紡を出品し、鳳紋賞を与えられます。やっと辰致の功績が認められました。この前後、近隣の名望家数名と共同で松本連綿社を作り、機械の製造と販売を始めます。
 ガラ紡の機構は次の通りです。直径3センチくらいの筒に綿を詰めます。筒を廻しながら、筒の先から綿糸を引き出します。引き出された綿糸は筒の回転により、撚られながら上に引き上げられ、上にある輪に巻き取られます。重要な事は、筒の回転速度と糸を引き上げる速度を同じにする事です。そうすれば均一な、従って細い綿糸が紡げます。始めのガラ紡はこの速度の調整がつかず、太い糸しか紡げません。
 辰致は最初の妻を離縁しています。出て行ったのか、追い出したのかは解りません。発明にばかり明け暮れて、家計に関心がなければ、たいていの妻は亭主に見切りをつけます。豊田佐吉の最初の妻も出てゆきました。辰致は後援者の一人である川澄藤左の娘、多け(たけ)と結婚します。この親子は心身の両面で辰致の活動を支えました。やがてガラ紡は信州の隣国、三河(愛知県東部)に進出します。ここは三河木綿の本場です。ここを主たる基地にしてガラ紡は発展します。ガラ紡が発展したからと言って、辰致の懐が潤ったようではないようです。
 連綿社を作りましたが、経営には苦労します。最大の原因は模造品の氾濫です。やがてこの会社は解散されます。辰致の機械改良は続きます。なんとかして東京に出たい、東京で機械販売をしたいと思い、経済的事情も省みず、東京に向かいます。途中路銀を使いははたし、衣食に困窮します。寒中乞食のように路上に寝ます。持っていた綿を自ら手で紡いで布を織り、防寒布にします。辰致の苦境を時の政府高官佐野常民が聞きつけ、辰致を大森惟中に預け、辰致は改良にせいを出します。佐野は第一回博覧会の受賞の縁で、辰致を知っていました。
 明治20年、大阪に平野・浪華・天満の紡績工場ができます。東京にも鐘淵紡績工場ができます。これらは15000錘の装置を持つ、日本では珍しい、大型紡績工場です。辰致のガラ紡は国内の新式工場と競争する事になります。形勢は圧倒的にガラ紡に不利です、そう見えました。
 しかしガラ紡は一定のシェア-を保って、日本の綿業界で生き続けます。まず機械の値段が安い。これは豊田佐吉の織機と同じです。高橋亀吉氏の意見によれば、日本の産業革命特に第二次産業革命が成功したのは、当時急速に発展してきていた、電気による機械のためでもあるという事です。蒸気により機械は大規模な装置を必要とするが、電気なら電線一本ですむからです。
 次にガラ紡は洋式の大規模工場でできる綿屑に目を着けます。綿屑から綿糸を作ります。できた糸は大工場の生産品に比べて太いのですが、用途は結構ありました。まず足袋底です。今の人達は足袋を履く機会が無いので解らないかも知れませんが、足袋の底は分厚い布です。そして足袋の需要は決して小さいものではありませんでした。私も小学校低学年まで、冬は足袋で通しました。少なくとも家では。(昭和20年代の話)次の用途が綿毛布です。毛布ならそう繊細な織りでなくても構いません。綿のフランネルにも仕えます。また大工場の綿布生産に使う横糸はかなりの時期まで、太糸でもよかったようです。加えて手織り(に近い)の魅力もあります。
 ガラ紡は不況にあまり影響されません。なぜだか、あえて憶測すれば、一つは農村の副業である限り不況時には生産をやめても、構いません。大企業ほど不況に危ないとも言えます。アメリカのGMがいい例です。また用途が用途なので、つまり低価格かつ日常必要品なので、価格弾力性が小さく、不況のような時には生き残りやすいのです。当時の日本人の生活には安物(低価格商品)が必要だったのです。
 晩年の辰致は川澄家で妻多けの世話を受けながら過ごしたようです。明治33年(1900年)59歳で病没。この間藍綬褒章を贈られ、小学校の国語読本で彼の生涯が紹介されました。他の修身の教科書にも載ります。
 臥雲辰致の功績は少なくとも二つあります。まず日本の機械製作の端緒を担った事です。これは後にも引き継がれます。現代にもこの伝統と気風は生きていて、日本の製造業は中小企業で持っています。中小企業の中での無名の発明改良が製造業を支えています。嘘か本当かは知りませんが、東大阪市内の中小企業が全部潰れたら、世界の製造業のほとんどが壊滅すると言われます。そこで高度なそして特殊な部分品が作られているからです。以下は松下電器の管理職の方から直接聴いた話です。30年前ヴィデオ製造で日本と西ドイツは覇権をかけて競争しました。どうしてもドイツは日本に勝てず、ヴィデオ製造から手を引きます。原因はドイツには日本のように、大企業を支える下請け企業が発展してなかったからです。
 もう一つの辰致の功績は、日本の紡績業が欧米のそれに追いつき追い越すまで、つまりタッチアップの間に、彼我の技術のギャップを埋める役割を果たした事です。もし民間でのこの種の改良が無ければ、日本の紡績業は欧米企業に蹂躙され、第一次産業革命は達成できなかったでしょう。従ってその後の日本の運命も変わっていた事でしょう。
 
日本の製造業がいつごろ欧米に追いついたかという目安を以下に示します。
紡績----1897年、綿製品の輸出額が輸入額を超える
造船----1910年、装甲巡洋艦「榛名」「霧島」27000トン川崎・三菱造船所に発注
鉄鋼----1920年、鋼鉄国内自給率を達成、銑鉄は1940年
工作機械----1975年前後、工作機械は出超に
技術貿易----2000年ごろ特許権料は黒字に、出超

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

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