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歌舞伎と浮世絵(2)「君民令和、美しい国日本の歴史」-注釈、補遺、解説

2019-12-08 13:59:43 | Weblog
歌舞伎と浮世絵(2)「君民令和、美しい国日本の歴史」-注釈、補遺、解説
「君民令和、美しい国日本の歴史」という本が発売されました。記載が簡明で直裁、結論を断定しています。個々の項目を塾考すれば意図は解ると思いますが、内容を豊富にするために以後のブログで個別的に補遺、注釈をつけ、解説してみます。本文の記載は省略します。発売された本を手元に置いてこのブログを見てください。

(近松門左衛門)
 近松門左衛門は1653年生にまれています。どこで生まれたかは判然としません。本名は杉森信盛、武家の出で次男坊でした。物心ついた時にはすでに京都で暮らしていたものと思われます。青年期には公卿に奉公していました。この時和漢の知識を学び教養を高めたと想像されます。1675年宇治嘉大夫が浄瑠璃師として京都で旗を挙げます。門左衛門はこの時嘉大夫のもとに駆け込み、以後何らかの形で演劇人としての経験を積んで行きます。
 宇治嘉大夫は新古の浄瑠璃の分水嶺に立つ人でした。浄瑠璃はもともと古浄瑠璃と説教浄瑠璃を起源として持ちます。古浄瑠璃とは平曲(平家物語の語り)の伝統を踏まえつつ、それに寺社縁起や霊験話などを加えて語るものです。説教浄瑠璃は以前の章でのべたように、本来仏教の声名(しょうみょう)という仏の教えを説く行為が起源です。宇治嘉大夫は従来の古浄瑠璃に、能楽の知識と情緒を加え、説教浄瑠璃を軸としつつ、新しい要素である浮世の人情(つまり社会生活)を取り入れました。彼の試みは成功し、嘉大夫は宇治加賀掾好澄と名乗ります。近松はこのような加賀掾のところへ駆け込みます。最初は雑役などもしていたようです。こうして近松の生活はやや極道っぽい町人風になりました。嘉大夫の前後から浄瑠璃は三味線を使用し人形遣いも取り入れます。この嘉大夫つまり宇治加賀掾のもとで近松は「世継曽我」を書きあげます。この作品は、宇治加賀掾の意向を反映して画期的なものでした。曽我物語を単なる故実伝承として語るのではなく、主人公を遊女にし、そこに世間と人情をからませます。こうして浄瑠璃は新浄瑠璃に、演劇になります。当時演劇としては歌舞伎が浄瑠璃より一歩先を歩んでいました。近松は歌舞伎の方式を取り入れて「世継曽我」を書いたのです。近松は終生歌舞伎と浄瑠璃の双方の作者として生きました。
 当時京都には坂田藤十郎という名優がいました。近松は藤十郎と親しくなり彼の為に多くの作品を書いています。近松はそれまで踊と寸劇の単なる組み合わせであった歌舞伎に、世間の生活と人情を絡め、一定の筋と構成を持つ劇に仕立て上げます。この点坂田藤十郎は良き役者でした。当時は上方つまり京大阪が先進地であり、そこでは町人が活躍していました。町人が営む経済生活に必須の金そして生活一般に人情をからませて劇を作ります。人情は色つまり性関係に集約されます。こうして色と金を中心とする演劇「世話物」が出来上がりました。近松は浄瑠璃と歌舞伎の双方にかけて作劇しますが、作品としては浄瑠璃の方が有名です。彼は歌舞伎で習練し、歌舞伎の作劇から学んでそれを浄瑠璃に適用しました。
 このころ大阪に竹本義太夫という浄瑠璃語りが台頭し宇治加賀掾に対抗してきます。義太夫はそれまで加賀掾の俳優付き役者の立場が強かった近松に作品を依頼します。近松はそれを引き受け「出世景清」を書きあげます。こうして近松は役者から独立した演劇の作者としての地位を確立して行きます。このころから浄瑠璃にも歌舞伎にも作者としての「近松門左衛門」の名を書き込むようになります。竹本義太夫はその名声から竹本筑後掾の名乗りを許されます。現在では「浄瑠璃」は「義太夫」とも別称されるくらいです。
 「出世景清」も「小袖曽我」と同工異曲です。平家物語で有名な悪七兵衛景清の復讐話にやはり色・人情をからませます。近松33歳の時の作品です。こうして近松は主として浄瑠璃の分野で作劇するようになります。1603年(元禄16年)大坂曽根崎天神で心中事件が起こります。京に生れ島原で育ち、後大阪北の新地、天満屋につとめていた遊女お初は、尾坂内本町の醤油屋平野屋の手代徳兵衛と恋に落ちます。しかし徳兵衛が主人忠右衛門の姪と夫婦にさせられて、江戸の支店に送られる事になり、またお初も豊後の客に請け出されることになり、二人はどうせこの世では添われぬものと、曽根崎へ逃れて、その境内で情死を遂げます。
 近松はこの事件を格好の素材とし、通称「曽根崎心中」と言われる浄瑠璃を書きます。この作品は爆発的な人気を呼び、当時経営難に陥っていた竹本座を救うとともに近松門左衛門の名を不朽のものにしました。近松51歳の時です。私もその作品のさわりの部分は暗唱しているので一部書き出してみます。「---あれかぞうれば暁の七つの鐘が六つ鳴りて、残る一つが今生の鐘の響きの聞き納め-----梅田の橋をかささぎの橋と契りていつまでも、おれとおまえは夫婦(みょうと)星、互いに添うとすがりより二人が仲に降る涙、川の水嵩(みかさ)も増さるべし」。この一節を荻生徂徠が聴いて思わず本を投げ出して「近松が妙処この中にあり、外を問うあたらず」と言った挿話は有名です。
 「曽根崎心中」を書いた時近松は初老で51歳でした。暫くして彼は京から大阪に移住します。盟友とも言うべき竹本筑後掾義太夫が死去し、二代目竹本義太夫と組んで近松は以後名作を書き続けます。「曽根崎心中」は近松が理想とする社会生活(経済生活と言ってもよろしい)との演劇における統一の金字塔でした。近松は竹本座の座付き作者になります。以後20年間近松はこの線で作品を作り続けます。なお1606年近松は赤穂浪士の吉良邸討ち入りに取材した「碁盤太平記」を書いています。これは赤穂浪士を扱った最初の作品です。
 学者文人の生活などというものは退屈なものです。少なくとも表面から見る限りはそうです。彼らの仕事は作品作成です。近松の場合も同様です。以下彼が書いた作品名を記載する事にします。作品の数は無数です。それら全部を列挙しても意味がないので有名な物のみを挙げます。
 「世継曽我」    31歳
 「出世景清」    33歳
 「蝉丸」      49歳
 「曽根崎心中」   51歳
 「用明天皇職人鑑」 53歳
 「兼好法師物見車」 54歳
 「碁盤太平記」   54歳 この本は「兼好法師---」と併せて赤穂浪士を扱っています。
 「酒呑童子枕詞」 55歳
 「傾城反魂香」  56歳
 「冥途の飛脚」  59歳
 「夕霧阿波鳴門」 60歳
 「丹波与作」   60歳
 「国姓爺合戦」  64歳
 「平家女護島」  67歳
 「心中天の網島」 68歳
 「女殺油地獄」  69歳
 「心中宵庚申」  70歳
 私が参考にした本に載っているだけで170編以上あります。実際の作劇数はそれ以上でしょう。1724年、72歳で死去しています。没地はどこか解りません。摂津尼崎の可能性もあります。尼崎市内には近松公園があります。 
 近松が竹本義太夫と組んで浄瑠璃の方へ向かった事で、浄瑠璃の人気は歌舞伎のそれを凌駕します。歌舞伎は浄瑠璃の台本をそのまま自己の演劇に移し演じます。このような歌舞伎を、浄瑠璃を丸ごと移したという意味で、丸本歌舞伎と言います。近松以後の主な浄瑠璃としては、「夏祭浪花鑑」「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」などが、あります。先行していた浄瑠璃の人気は次第に歌舞伎にとって代わられるようになります。それは筋が複雑になり、舞台装置が大規模になったからです。大阪で栄えた歌舞伎は18世紀後半に江戸へ下ります。江戸歌舞伎は文化文政天保の時代大いに栄えます。代表的な作家としては、鶴屋南北と河竹黙阿弥がいます。

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