経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

津田梅子-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの歴史

2020-04-01 13:17:07 | Weblog
(津田梅子)-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

明治4年に7歳で渡米し、10年余滞在し、帰国して女子の教育に一生を捧げた女性です。彼女の名を知らない人は稀でしょう。現在の津田塾大学の創始者です。彼女の生涯は彼女の父親津田仙の生涯を語ることから始めなくてはなりません。というのは梅子の人生を決定的に決定した渡米は梅子の意志ではなく、父親仙の意志により為されたのですから。7歳で親からひき離され、日本人にとってほとんど未知の国であるアメリカへ行く、という事は尋常の決断ではありません。考え方によっては非情冷酷な措置でもおあります。津田仙は1837年(天保8年)下総国(現千葉県)の藩主堀田正睦の家臣の子として生まれています。のち津田家に養子に行きます。仙は学問より、武芸に熱心な若者でした。ペリ-来航に刺激され、蘭学そして英語を学ぶようになります。幕府の外国奉行の通訳になります。渡米し半年アメリカを見る機会に恵まれます。帰国しH・ハッフォンの医学書を和訳して出版します。この本はかなり読まれたようです。この事は後に梅子が学校を設立し経営するに当たって重要な機縁になります。維新以後仙は官職から一切身を引きます。商才もあったようで、外国人用の野菜栽培を始めます。やがて農園を経営し、その延長上に学問的な農業経営を広め、学農社という学校も作ります。学農社は一時慶応義塾と並ぶほどの学校でした。仙が学校を作ったという事も、梅子の事業への刺激にはなっているでしょう。また梅子が学校を設立し経営するに際して、父親仙の影響力は無視できません。仙は明治初期の教育や事業においてかなりの知名度をもっていたようです。
 梅子は1964年(元治元年)江戸に生まれます。姉の琴子につぐ二番目の子供でした。男児を望んだ父親は失望し名もろくにつけませんでした。生後7日目に家族が、ちょうど芽が膨らんでいた梅にちなんで、梅と名づけます。仙は仕事の関係で、北海道開拓使次官の黒田清隆と昵懇でした。黒田は女子教育に熱心で、日本女性をアメリカに連れて行って、あちらで教育しようという考えを持っていました。この女子留学生のプランに仙は乗り、自身の子である梅子をその一員に加えてもらうことを望みます。こうして1871年(明治4年)に5名の日本人子女が米国に出発します。梅子は最年少でした。以上の事実から解ることは、梅子の留学には父親仙の強い意向が働いていたこと、仙自身の希望を梅子が代行する形になったこと、梅子は仙により男児として扱われたこと、などです。梅子は1871年に渡米し、1882年18歳で帰国します。なお五人の女子留学生のうち2名は1年で帰国します。梅子とともに長期滞在した、山川捨松(後大山陸軍元帥夫人)と永井繁子とは終生の親友になります。偶然でしょうが、この3名はすべて旧幕の出身です。
 アメリカではワシントン郊外の、Ch・ランメン(当時日本弁務館書記官)の家に滞在します。はじめ1年という約束でしたが、結局梅子はこの家で10年余養われ教育されることになります。ランメン夫妻は二度目の父母ともいえましょう。むしろ梅子としては実父母より親しい存在ではなかったかと想像されます。ランメン夫妻は旅行好きで梅子をあちらこちらに連れていってくれました。彼らには子供はなかったようです。アメリカでの滞在が長くなるにつれ、梅子は日本語を忘れ、英語に習熟してゆきます。父母への手紙はすべて英文でした。梅子はコレギエイト・インスティテュトに入り、さらにト-マスサ-クルに進学して勉強します。成績は優秀でした。9歳洗礼を受けます。1882年18歳で帰国します。帰国時日本語の会話ができませんでした。日本語は勉強しますが、梅子にとって思いを自由に伝えることができる言葉は英語でした。
しばらく家でぶらぶらの毎日が続く中、新帰朝者の一人として招かれたパ-ティ-で
伊藤博文から、下田歌子が主宰する華族女学校の英語教師にならないかと、誘われます。梅子は華族女学校の教師になります。華族相手の教育は彼女にとってそう張りのある仕事ではなかったようです。米人の英語教師の紹介を頼まれた時、梅子は親友山川捨松の米国における引受先であったR・ベーコンの娘、A・ベーコンを紹介します。A・ベーコンは来日し華族女学校の外人教師になります。このベ-コンとハッフォンは梅子の人生にとって極めて重要な役割を果たします。
梅子は日本で、何をしていいのか解らない、華族相手の教師では物足りない旨を、ベ-コンに打ち明け相談します。ベ-コンは再度の留学を勧めます。華族女学校を休職にしてもらい、梅子は渡米しプリンマ-カレッジに入学します。生物学を専攻し、蛙の卵の発生の研究で論文を書きます。優秀なので残って学究の道に進まないかと言われ、心は迷います。この間A・ベ-コンは帰国して「日本の女性」という本を出版します。この本とベ-コンの影響で、梅子は自分の生涯の仕事が、女子の高等教育にあると次第に悟ってゆきます。ベーコンは梅子の思いを知り、相談に乗り、将来梅子が女子教育施設を作ったとき来日して協力すると約束します。またプリンマ-カレッジでもう一人の終生の友であるA・ハッフォンと出会います。プリンマ-を卒業して、オズヴィ-ゴ-師範学校でも学び、帰国します。第二回目の留学は1889年から1892年のあしかけ3年に及びました。
1897年来日していたA・ハッフォンに、女性の英語と教養を高める、高等教育機関の創立の計画を打ち明けます。ハッフォンは大賛成でした。1898年から1899年にかけて、梅子はデンヴァ-で開かれる万国婦人連合大会に日本代表として参加します。この前後彼女は女子高等師範学校の教授に任命されます。1899年高等女学校令、私立学校令が発布されます。女子の教育に政府も遅まきながら腰を上げ始めました。
1900年梅子は華族女学校英語教師と女子高等師範学校教授の二官を辞職し、女子英学塾創設に踏み切ります。梅子36歳の時でした。教師は梅子以下数名、大山(山川)捨松が顧問です。A・ベーコンはすでに来日して待機していましたが、すぐかけつけます。立学の精神あるいは目的は、英語教育、女子の教養の涵養、そしてキリスト教主義です。梅子はそれまでの女子教育が家庭科中心である傾向に批判的でした。収支会計の予測は2025円、麹町一番町に買った家屋は総建坪83坪(1坪は約3・3平米)、少し大きい民家のような校舎でした。来賓なし、宣伝なし、質朴で実のある教育が方針です。下手に大きくして潰れないように、堅実を旨としました。潰れた学校は父親の学農社はじめ先例はたくさんあります。梅子は慎重でした。最初のうちは梅子とベ-コンは無報酬でした。
 生徒はだんだん増えます。手狭なので、1901年校舎を元園町の醍醐公爵旧邸に移します。相当なぼろ屋でした。建坪は150坪です。土地買収費用は、米国で梅子の企てを応援するフィラデルフィア委員会の募金で補います。1902年A・ベ-コン帰国、代ってA・ハッフォンが来日し、教師陣に加わります。ハッフォンは後に梅子が病気に倒れて第一線から身を引いた後も経営を指導し、第二次大戦のすぐ前まで、日本に在住しました。1903年英学新報という、研究・評論などを主として載せる雑誌を発刊します。これは梅子と英学塾の宣伝になりました。1903年麹町五番町に1000坪の土地を買い、そちらに移設します。このころ生徒数は50名、教師の月給は最高で10円、梅子やハッフォンは無報酬でした。
1903年専門学校令が出されます。女子英学塾は認可されます。梅子は25円の月給を受け取るようになります。1904年社団法人女子英学塾になり、教員無試験検定の認可を受けます。卒業したらそのまま無試験で教員免許が取得されるわけです。学校のこの資格は私立学校では、19年間梅子の学校だけの独占でした。それほど教育内容に信頼があったのでしょう。梅子の教育は、発音にも語意文法にも曖昧さを許さず、厳しいものでした。梅子は教育とか授業が好きでした。厳しい中にも心の通うものがある、というのが学生一般の評判でした。学校の評判はよく、生徒数は増え続けますが、資金繰りには常に苦しみました。経理に苦しみ、授業で楽しむ、が梅子の毎日でした。
1907年病気療養をかねて米欧に約1年間の外遊をします。それまでの経営の苦労で外遊前は欠席がちでした。あちらにゆくと身体の状態はころりと良くなります。1909年家庭科を新設します。結果として家庭科の経営はうまくゆきませんでした。1910年、ヘンリ-ウッズ夫妻の寄付に基づき、新校舎が落成します。延建坪257坪、400人入る講堂もできます。生徒数は150人を超えます。1913年世界キリスト教学生会議に日本代表として出席します。ここで20000円の寄付を集めます。国内での寄付を加えて50000円、これで隣地である五番町の土地500坪を買い増します。
1917年糖尿病が発病し、長期間の入院生活を送ります。1919年辞任の意向をしめし、辻マツが塾長代理になります。以後梅子は学校経営にはタッチしません。1922年学校は小平(現在の津田塾所在地)を購入します。1923年関東大震災。この時A・ハッフォンは単身渡米し50万ドルの募金を集めます。これが全壊した校舎の復興資金になりました。大体1ドル2円と勘定してください。1928年勲五等、瑞宝章。1929年脳卒中の発作で死去、享年65歳でした。1933年女子英学塾は、財団法人津田英学塾と改名され、梅子の功績を称え記念することになります。1948年津田塾大学になります。
津田梅子の人生を見ていますと経営者という印象はあまり受けません。じみちにこつこつ努力し、その蓄積の上に、さらなる積み上げを計ります。意志が強く慎重なのが目立ちます。確かに新しいこと、独創的なことは小規模の方が成功します。しかし梅子は莫大な資産を暗黙裡に受けついでいました。それは名声と人間関係です。父親は農政界や教育界では知名人でした。だから梅子は留学できました。そして10年の対米経験と英語力はそれだけで利器でありブランドです。だから伊藤博文は梅子に華族学校の英語教師の職を依頼しました。10年以上にわたる華族学校での在職は多くの名流家族との人間関係を培います。また梅子のような存在はそれだけで、日米友好の橋頭堡になります。多くの親日家、特に女性の親日家は梅子の周りに集まります。その代表例がフィラデルフィア委員会です。この組織はアメリカの親日家が梅子の試みを応援するものです。アメリカでも当時決して女性が男性と対等であったのではありません。梅子の活動に共感し刺激されたアメリカの女性は多かったと思われます。その上、日本で母国語である英語を広めてくれ、キリスト教(文化)を宣伝してくれるのです。英学塾の経営における寄付の役割は非常に大きいようです。やや皮肉なことを言えば、寄付で経営できれば、これほど楽なことはない、となります。しかし寄付を集めるのも能力です。梅子の成功は、彼女自身の意志強い慎重さと、父子二代に渡り培った人間関係とブランド、そして英語とキリスト教の普及です。また時代背景もあります。女性の自立云々はこの頃から始まっていました。青踏社の運動はすでに開始されており、第一次大戦後は女性が職場に進出する契機になります。日本でも中産階級が増加しつつあった時代です。

日本の製造業がいつごろ欧米に追いついたかという目安を以下に示します。
運輸----1885年 日本郵船成立
紡績----1897年、綿製品の輸出額が輸入額を超える
造船----1910年、装甲巡洋艦「榛名」「霧島」27000トン川崎・三菱造船所に発注
鉄鋼----1920年、鋼鉄国内自給率を達成、銑鉄は1940年
自動車—1933-1935年 日産自動車と豊田自動車が発足 欧米に追いつくのは1960年台
工作機械----1975年前後、工作機械は出超に
技術貿易----2000年ごろ特許権料は黒字に、出超


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