経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、正力松太郎、読売巨人軍を作った人(再掲)

2010-03-02 03:25:09 | Weblog
      正力松太郎

(1)正力松太郎は明治18年(1885年)富山県射水郡大門(おおかど)町に生まれました。家業は祖父の代からの土建請負業、苗字帯刀を許された家柄です。小学校時代は腕白、しかし体はひ弱い方でした。高岡中学に入ります。松太郎の健康を心配した父親は、運動部に入る事を強く要請します。松太郎は柔道部に入ります。中学の同級生には河合良成や松村謙三がいます。中学卒業時成績はビリから3番目だったとか言われています。少なくとも優等生秀才には程遠い人柄のようでした。金沢第四高等学校在学時、柔道に関して逸話があります。三高・四高戦で三高の猛者を捨て身の巴投げで急襲し、四高の勝利に貢献します。東京帝大法学部卒、高等文官試験の順位がぱっとしないので警察庁に入り、デカ(刑事)生活を始めます。警察に入ってからの昇進は猛スピ-ドでした。
(2)最初の任地が東京市内日本橋堀留署の署長です。位は警視でした。通常なら現場の刑事が長年勤め上げて、やっと就ける地位です。普通高等文官試験(現在では上級国家公務員試験、キャリア-組)合格者は現場の仕事は現場任せです。松太郎は違ったようで、現場の捜査にも熱心でした。熱心と言うより好きだったのかも知れません。彼の署の管轄内に米相場の取引所と兜町があります。言ってみれば、日本中で一番金が、それも投機専門のホットマネ-が動くところです。ややこしい不正事件は沢山あります。脅し、たかり、ゆすりの類にも事欠きません。ある札付きの地回り(一定の縄張りを支配し、上納金を取るやくざ)の不正事件を担当します。代々の刑事がどうしても挙げられなかった事件です。この時松太郎は、自分が責任を持つからと、現場の刑事を激励します。さらに刑事買収用に贈られた金を、一時受け取るべく指示します。これが決め手となって、地回りは御用になりました。賄賂は現場の刑事から松太郎に渡され、封筒のまま金庫に保管されていました。この事実は松太郎が職務に熱心だっただけでなく、捜査活動が好きだった事を示唆します。おとり捜査(コ-ルバ-ド)です。現在日本では禁止されていますが、アメリカではよくこの手を使うようです。もう一つ当時世間を騒がせた事件が島倉義平の殺人事件です。被害者は島倉の女中でした。事件はすでに被害者の自殺と認定されていたのを、あるきっかけから松太郎は再度捜査し、島倉を挙げます。
 以後は米騒動、早稲田大学の争議、普選運動に伴う争議、東京市電スト、共産党幹部の検挙などと治安畑を歩きます。職歴から見ると典型的なエリ-トです。職位の方も、現場の署長から監察官、刑事課長、警務部長そして官房主事と昇進します。刑事課長はヴェテランの叩き上げでないと務まらない、とされていました。高文出身の松太郎の就任は異例です。松太郎が他の職に栄転するとされた時、上司が、彼がこの職を去れば東京の治安は乱れる、といって反対哀訴したそうです。
(3)官房主事は警察庁にあって政界要人と接触し、政界の意向を伺うと同時に政界を監視するような職務でもありました。当時貴族院があり、貴族院は衆議院より実際には政界を動かす力は強かったと言われています。松太郎は貴族院のメンバ-、つまり華族と親しくなり、また次期総理と噂される後藤新平や財界世話人と言われた郷誠之助などと、昵懇になります。ここで培われた人脈は松太郎の後の人生に大きく影響してきます。そして大正12年虎ノ門事件が起こります。難波大助という共産主義者が虎ノ門付近で、摂政宮(後の昭和天皇)を狙撃します。難波は死刑になりましたが、この事件で山本権兵衛首相以下、内相、警視総監、果ては末端の署長に至るまで辞職します。松太郎も辞職し浪人生活に入ります。懲戒免職でした。松太郎の警察官時代、よく大病をする彼を、彼の母親が歎いて、お前が捕まえた悪党達の怨念で病気になるのではないのかと、心配しました。有能且つ峻厳な警察官、正力松太郎であったようです。
(4)翌大正13年松太郎は読売新聞の経営の話を持ち込まれます。読売新聞は明治7年創刊になる古い歴史を持っていました。明治20年ごろにはなかなか盛んな名声を得ていましたが、以後振るわず、郷誠之助を筆頭とする財界巨頭が集まる工業倶楽部に、事実上の経営方針は任されていました。(注)経営者である社長に人を得ず、当時実質発行部数は5万部くらいでした。松太郎は読売新聞の経営を引き受けます。この時ちょっとした逸話があります。さしあたり10万円ほどの資金が要ります。後藤新平に相談に行くと、即座に快諾されました。後で解ったことですが、後藤は自分の家屋敷を抵当に入れて、銀行から10万円を借りてきたということでした。

(注)当時一番発行部数の多かったのは大阪系の朝日と毎日でした。東京系は振るわず、時事新報、報知新聞、東京日日新聞、そして読売新聞というところですが、これらの新聞は朝日毎日の後塵を拝していました。これら4新聞のうち、後に大を為すのは読売のみで、あとはほとんど他社に吸収合併されています。

 松太郎の経営が始まります。始め幹部や記者達の松太郎への反感は激しいものでした、松太郎が警察出身なので、デカ上がりに何ができると、思われていました。部長クラスが揃って辞表を出します。威嚇です。松太郎はこの内の少数を除き、他の辞表は受理します。幹部一掃です。松太郎は朝8時に出勤します。異例です。まずなによりも無駄な出費を省かねばなりません。記者の前借は禁止します。この額は相当な額に昇り、浪費に加えて、社内人脈の紊乱の原因にもなっていました。新聞社の出費のかなりの部分が紙代です。松太郎は現場に張り付いて、紙の無駄を指摘します。広告取得に伴うバックマ-ジンのピンはねの防止、新聞の未収代金の回収などなどが行われます。人員整理も敢行されました。
 新聞経営は、紙面拡充と広告と販売政策の三つから成ると言われます。まずなによりも読者の獲得です。松太郎の水雷艇戦術なる奇襲戦法が開始されます。そのころラジオ放送が始まっていました。ラジオ版を紙面に作ります。ラジオ番組の紹介です。ただ機械的に番組の時間表を載せるのではなく、芝居、小説、芸能などなどの番組を、その道の有名な専門家に説明してもらいます。これは当たりました。もっとも当初肝心のラジオ販売業者は、無理な事としてこの試みを無視していました。
 次に碁の報道を開始します。宿敵同志の、本因坊と雁金七段の対局を報道します。紙面に全三段をとり、大体的に報道します。単に碁の布置のみならず、碁好きの有名人に感想を語らせます。その頃不況で大きな新聞は夕刊を廃止しました。松太郎は逆に、それまで夕刊を発行していなかった読売に(だから二流新聞であったわけです)、日曜日の夕刊を発行させます。色刷漫画も搭載し、子供たちの人気も引きます。
 日本名宝展を開催します。旧家に代々伝わる家の宝を展覧会の形で主催します。松太郎は警察庁官房主事の時、貴族院のメンバ-と昵懇になっていたのでコネは充分です。華族の筆頭である、近衛家の当主文麿を標的にします。彼とも松太郎は旧知の仲でした。近衛家の門外不出と言われる「御堂関白日記」(注)の展示を請います。快諾されました。今ならこの種の催し物はしょっちゅうですが、当時としては全く新規で破天荒な企てでした。記事には専門家の解説が付きます。他に以下のような家法が展示されました。「伴大納言絵巻(酒井家)」、「金の茶釜(藤堂家)」「三日月宗近の名刀(徳川家)」「後鳥羽院の熊野懐紙(西本願寺)」などです。前後して多摩川園菊人形展も行います。これらの催し物に際し、松太郎は無料入場券を大量に配りました。理由は、タダのお客も見たら、吹聴してくれる、客が多いと、景気よく見えて客が増える、ということです。

(注)御堂関白とは藤原氏の全盛を謳歌した道長のこと。彼がつけた日記を御堂関白日記と言う。これは古典としての、また歴史の資料としての価値もさることながら、貴族の日記には特異な政治的価値もあった。平安時代有力な貴族は日記をつけた。これは故事来歴を知り、政治における儀礼行為を誤らないためであり、その意味では彼らの日記は彼らの政治行為の記録である事を超えて、政治的抱負でもあった。日記を持つ事はその家筋の当主である事の表明であり、政治権力の根拠でもあった。だから日記は通常の財宝以上に尊重された。藤原氏(北家)は道長の6代後の忠通の時、近衛家と九条家に分かれる。この時日記の所有を巡って争いが起こり、日記は忠通の長男、基実の家系に引き継がれている。従って近衛家は道長さらに遡り鎌足直系の藤原氏の当主という事になる。なお近衛家から鷹司家が分流し、九条家から一条家と二条家が分流して、五摂家と言われて今日に至っている。摂家は臣下筆頭とされるが、事実上は準皇族とも言える立場にある。

 以後イヴェントを催し、それをニュウスヴァリュ-と為し、記事を書きたてるのは読売新聞の得意芸になります。あれやこれやの活躍で読売新聞は昭和5年現在で22万部の発行に至ります。 
(5)翌昭和6年満州事変が勃発します。戦争は新聞にとって飛躍のチャンスです。日本の新聞は、西南戦争、日清戦争、日露戦争と戦争を機にして、伸びてきました。同時に戦争と言う状況は取材能力の差を露にさせます。大きな新聞は特派員を派遣して取材し、また軍や政府の内部から情報を引き出しますが、小さな新聞はそれができず大新聞社に吸収合併されます。読売も危急存亡の時を迎えます。松太郎は読売の資本力を超えて、思い切って夕刊発行に踏みきります。特派員を戦地に派遣します。試みは吉と出て、これを機に販売部数は増大します。22万部が翌年には50万、更に57万、60万、75万と躍進し、昭和12年には98万部に達します。昭和17年時点で、朝日128万部、読売156万部、です。もっとも新聞社の発行部数の本当は解りません。
 この間松太郎は東京市長選挙に立候補し、落選しています。市長選と微妙に絡み合いながら、彼は京成電鉄疑獄事件や帝人事件に巻き込まれます。前者は、京成電鉄と東京市電の相互乗り入れを斡旋する、東京都の政界のボス二人に、松太郎が京成電鉄から送られた10万円を渡すのを仲介した、事件です。本当の事は解りませんが、松太郎は無罪のところ進んで入獄したと書かれております。
 帝人事件というのはもう少し複雑です。鈴木商店が帝国人絹の株を抵当として台湾銀行に入れていました。株価が繊維業界の好況により上昇します。帝人株の売買に政財界の黒幕と言われた番町会という組織が、暗躍して株価操作で儲けたと、時事新報を主宰していた武藤山治が紙上で告発し、国会でも大問題になりました。松太郎はこの番町会のメンバ-の一人でした。この事件にはいろいろ解らないところがあります。告発者の武藤が暗殺され、捜査はうやむやになったとか、後味の悪さを残した事件です。(注)昭和10年、松太郎も暴漢に襲われ重傷を負いました。これは帝人事件とは関係ないようで、新聞社の販売合戦からくるもつれという線が濃厚です。新聞販売の裏面はかなりやばくて、ややこしいそうです。

(注)番町会について。財界の長老渋沢栄一の引退後、財界世話役として活躍していた郷誠之助の東京麹町区番町の私邸に集まるグル-プ。メンバ-には、伊藤忠兵衛、永田護、長崎英造、小林中、河合良成、正力松太郎、鳩山一郎、中島久万吉、三土忠造らがいる。(長尾和郎著、正力松太郎の昭和史、より)

(6)松太郎の新聞販売拡張策は常にイヴェント絡みですが、これらの試みの中で最大の成果はプロ野球の創設です。はじめ松太郎は拳闘やテニスの試合を主宰し記事にしていました。その延長上に野球があります。事の発端は米国の人気選手ベーブル-スの招待にあります。昭和9年にベ-ブル-スを始めとする米国の球団が来日し、日米親善試合を行いました。日本の選手は大学野球と都市対抗野球の選手団からなっていました。この試みにお上から待ったがかけられます。神宮球場を職業的選手に使用させるわけにはいかないと。それならいっそプロの球団を日本にも作ろうではないかと、松太郎は考えました。こうして読売巨人軍あるいは巨人ジャイアンツという球団ができました。一球団だけでは試合はできません。松太郎は各地に職業野球の球団創設を訴えます。すぐ8球団ができました。昭和11年までに巨人、阪神、中日、阪急、金星、近鉄、太平洋、東京セネタ-ズが名乗りを挙げます。なお日米親善試合の出場メンバ-は、総監督・市川忠男、監督・三宅大輔・浅沼誉夫、投手沢村栄治、・青柴憲一・スタルヒン・浜崎真二・伊達正男、捕手久慈次郎・倉信雄、内野手三原脩・苅田久徳・山下実、外野手二出川延明・中島治康他総計31名、これが巨人軍の最初のメンバ-になります。
(7)満州事変で読売は躍進しましたが、状況は破局に向かい急傾斜して進行します。戦時経済体制が敷かれました。政府命令により、社外出資が禁止されます。株式会社の運営は事実上不可能になります。読売は資本金700万円の有限会社になります。次に用紙が制限されます。これで新聞社はのど元を押さえられました。紙面は検閲されます。新聞社合併法案が成立します。政府は1県1新聞社の方針を取ります。京都新聞、東京新聞、中日新聞はこの時の合併でできました。朝日、毎日、読売の三大中央紙の合併も指示されました。三者は必死になってこの方針に抵抗したそうです。読売はこの間報知新聞を吸収合併しています。
(8)終戦のほぼ直後、読売新聞では労働争議が持ち上がります。昭和20年末から21年前半にかけて争議は熾烈を極めました。労働組合は争議団体を結成して、団体交渉を行います。指導者は鈴木東民という記者でした。争議団の要求は、社内運営の民主化、編集第一主義、戦争責任の追及、正力松太郎の引退です。要は会社の自主管理、そして好きなことを好きなように書かせろ、です。争議団体の背後には、社外の支援勢力がいます。社会党の河上丈太郎、加藤勘十や、出獄したばかりの共産党の徳田球一が乗り込んできました。背後には日本の民主化(?)を計るGHQ(占領軍司令部)がいました。しかも松太郎は戦犯の指定を受けて、巣鴨に入獄しなければなりません。会社占拠、工場の争奪戦、争議団体による自主的な(?)新聞発行が行われます。昭和21年に入ると占領軍の認識に変化が訪れます。米ソの対立は激しくなり、日本への態度も変ります。旧敵国・潜在的敵性国家から、反共の砦として、日本の位置づけが変化します。読売争議がなんとか、会社を潰さずに済んだのは、占領軍の意向の変化のお陰です。GHQの態度の変化を見た政府はただちに争議に介入し、新聞ゼネストを中止させ、左翼系社員を一掃します。それにしてもこの争議は熾烈なものです。豊田喜一郎の項でのべたトヨタの争議もきついものでしたが、比較になりません。トヨタ争議は昭和26年、読売は戦争直後ですから、時代背景の違いがあります。(注)

(注)戦犯指定・追放は占領軍の日本民主化(?)の一環として行われました。最初はそれなりの一貫した方針があったようですが、次第に占領軍の意向にそわない者が追放されるようになります。政府部内での権力の対立により巧に追放された者もいました。最も代表的な被害者が石橋湛山です。戦前から小日本主義を唱え、植民地反対、議院内閣制の堅持を訴え、リベラリズムを信奉していた、石橋は占領軍の経済政策に反対して、拡張型経済を指導したため、追放されました。なお占領直後のGHQ(事実上米軍)は日本のエリ-トを一掃し、工業施設の最良部分は東南アジアに持ち去り、日本を完全な農業国にする意向でした。

 昭和22年松太郎は釈放されます。23年夕刊復活。松太郎は芸能連盟を支援します。歌舞伎や落語あるいはその他の芸能人の生活も戦争直後は苦しいものでした。さらに彼らは芸人馬鹿とでも言いましょうか、金勘定に疎く、騙されて生活は困窮していました。松太郎は彼らを助けます。さらに関東レ-スクラブを支援します。競艇と競馬の支援です。
 が、戦後松太郎が行った最大の事業は、民営テレヴィ会社の設立、原子力行政、そして念願の読売新聞大阪進出です。政府は始めテレヴィはNHKだけでいいと考えていました。松太郎はこの方針に猛反対し、あくまで民営テレヴィ設立を要求します。すぐ10億円の資金を集めます。昭和27年テレヴィ免許第一号が下り、翌28年日本テレヴィ(読売系)が開局します。新しいメディアに乗り、その成長を支援しながら、新聞発行を増やしてゆくのは、ラディオの時と同じです。巨人阪神戦は最大の人気番組になりました。テレヴィがまだ普及しない頃、街頭でテレヴィ放映を見せる商法は、松太郎のアイデアです。まず実物を見せる、見た人は買いたくなる、需要増大は大量販売を可能にし、価格は下がる、という循環が形成されます。
 昭和27年大阪進出が大体的に行われました。大阪市北区野崎町にビルを建てます。このビルの管理は朝日芸能という会社に任せ、新大阪印刷株式会社を設立します。覆面部隊です。大阪日日新聞や新大阪新聞を賃刷りしつつ、戦時統制の影響がまだ残り、まだ専売網のが再建されていない虚を突いて、一気に販売網を広げます。朝日毎日の朝刊行月250円だったのを、180円にして売ります。大阪は朝日毎日の根拠地であり金城湯池でした。そして大阪系のこの二新聞が東京に進出して、全国の新聞界を牛耳っていました。読売新聞の経営を松太郎が引き受けた時、朝日毎日は一流紙、読売は二流紙以下の存在でした。正力松太郎にとって、大阪進出は生涯の念願でした。朝日と読売のいわゆる朝読戦争は以後今日まで続いています。
 昭和30年衆議院議員初当選、同年第三次鳩山内閣の国務大臣兼原子力委員会委員長就任。昭和44年死去、享年84歳。ちょうど王・長島を擁し、川上監督に率いられた、巨人軍の、V9進軍の真最中でした。正力松太郎が造った文化が四つあると、ある人が言います。読売新聞、プロ野球、民営テレヴィそして原子力行政です。当たっています。良い生涯でした。

 参考文献  伝記・正力松太郎   御手洗辰雄 講談社
       正力松太郎の昭和史  長尾和郎  実業之日本社

(付記)
正力松太郎の伝記を読んでいると、プロ野球の巨人阪神戦の意味が実感されます。松太郎は隆盛にある大阪系新聞、朝日・毎日に対して、弱小の東京系新聞である読売の経営を引き受けました。幕下が横綱に挑戦する観があります。読売が生き残るためには、大阪系に勝たねばなりません。野球特に巨人阪神戦は、その点では新聞販売の象徴・代理戦争の意味を持ちます。ただそれだけではありません。野球は宣伝媒体としても重要です。特に巨人阪神戦は!松太郎は昭和9年の時点でそこまで見通していたのでしょうか?もしそうなら頭が下がります。その通りに成りましたから。
一時期子供の好きなもの、巨人・大鵬・卵焼きと言われました。それほど巨人の人気はすごかった。宣伝媒体としては充分です。大阪系の新聞も反撃しました。毎日オリオンズです。しかし毎日は強引な選手引き抜きで阪神ファンの敵意を買い、大阪を代表する球団には成れませんでした。昭和27年時点では読売より毎日の方が全国の販売部数は上です。しかし40年代になると関西の読売新聞読者は急増し、その分毎日は凋落します。また朝日も一時球団を持った事がありますが、早々にこの分野からは退却しています。ちなみに私は父親の代からの阪神ファンです。そしてどういうことか現在は読売新聞を購読しています。
 なぜ阪神巨人戦が重要なのか?特に読売新聞にとって。もう一考すれば甲子園という存在があります。松太郎が巨人ジャイアンツを作る前から全国中学野球大会(現在では高校野球)があり、人気は急上昇していました。この大会の後援者は朝日新聞です。松太郎や読売新聞には甲子園をライヴァル視する充分な理由がありました。甲子園に優る人気を求め、実現した結果が巨人ジャイアンツです。

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