経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

天皇ご紹介・垂仁天皇

2009-10-22 03:22:06 | Weblog
   垂仁天皇

11代垂仁天皇は崇神天皇の皇子、和風では、いくめいりひこいさちのすめらみこと、と申し上げます。記紀により表記は異なります。古事記ではこの天皇の事跡は、ほとんど逸話のみで構成されています。その方がロマンティックと言えばそう言えます。垂仁天皇の皇后はさほ姫と言います。開化天皇の子孫です。皇后の兄のさち彦はさほ姫に、夫である天皇と兄である自分のどちらを愛しているかと、尋ねます。皇后は兄を選びます。兄のさほ彦は、天皇の睡眠中に刺せ、と言って小刀を与えます。皇后は、兄の命令を実行しようと思い、眠っている天皇を刺そうとしますが、できません。刺そうとして、涙がこぼれ、天皇の顔にかかります。天皇は目覚められ、夢を報告されます。「さほの方から 暴雨がやってきて私の顔にかかった、また錦色の蛇が首にまつわりついていた」と。皇后は兄に言われた事を語ります。天皇はさほ彦征討の軍を起こされます。皇后は兄の陣営に逃げ込みます。落城に際して、皇后は天皇との間の皇子を天皇に渡そうとします。その時天皇は臣下に、同時に皇后もこちらに連れてくるように、と命じられます。皇后はかねてこの事態を予想しており、髪を剃ってかつらを作り頭につけ、衣服もすぐ破れるように細工しておきます。天皇の臣下は命令を実行しようとしましたが、皇后のトリックのために捕まえるところがなく、皇子のみを抱いて天皇の陣営に帰ります。皇后は兄と運命を共にして火の中に滅びます。落城に際して皇后は、自分無き後の後宮に入れる婦人を5名推挙します。開化天皇の子孫の王族で丹波道主王の娘達です。その中からひはす姫を選んで皇后とされます。五名の中の一人竹野姫は美しくなかったので返されます。この姫は天皇の仕打ちを悲しみ、途中輿から落ちた形で自殺します。この地を堕国(おちくに)後に訛って乙訓(おとくに)と言うようになりました。京都府乙訓郡です。
 さほ姫腹の皇子を、ほむちわけのみこ、と言います。天皇はこの皇子を常に傍において寵愛されますが、皇子は成人しても言葉を話しません。ある時くくいという鳥が鳴いているのを聞いた皇子は、これは何物か、と尋ねます。天皇は臣下にくくいを捕らえる事を命じます。臣下は諸国を巡り歩いてやっと鳥を見つけます。日本書紀では、くくいを飼う事によって、皇子は話せるようになったとあります。古事記ではくくいの効果はなく、さらに話が続きます。天皇の夢に出雲大神が現れて、私の神殿を修理すれば皇子は話せるようになる、と言われます。天皇が臣下を出雲に派遣されて、神託に答えられた時、皇子は話し始めます。この皇子は出雲でひながひめという女性と交接します。この姫の本体は蛇でした。皇子は必死に大和に逃げ帰ります。
 古事記に比し日本書紀の記述は、より客観的です。垂仁天皇の容貌は美麗、そして寛容で度量の大きい人柄と記載されています。新羅から天日槍(あめのひほこ)が多くの珍しい物をもってやってきます。畿内諸国を転々として但馬国出石に住みつきます。天日槍は出石神社に祭られています。任那の朝貢使に与えた赤絹を新羅が途中で奪い、以後新羅と任那は不和になった云々の話もあります。
 大和の当麻郷にたいまのけはやという力持ちがいました、天下に自分ほど強い者はない、と自慢する蹴速に出雲の野見のすくねが挑戦します。野見のすくねは一撃でけはやを蹴り殺します。この逸話は大相撲の紀元説話です。
 垂仁天皇は皇女倭姫を天照大神の祭司に任命し、大神の斎宮を伊勢国五十鈴川の川上に措定されます。斎宮つまり神殿をどこにするかは、なかなか決まらず、天照大神はその間、大和、近江、美濃と転々されました。こうして伊勢神宮できました。
 垂仁天皇の時殉死の風習が無くなります。天皇の弟である倭彦命が亡くなります。この時側近の者はすべて生きながら埋められました。哀訴、号泣が野に山にこだまし、あまつさえ野犬や烏についばみ、悪臭が満ち満ちて、腐乱した死体が散乱しました。天皇はいたく悩まれました。天皇の皇后ひはすはひめが死去した時、先に述べた野見のすくねが献言し、人間の代りに埴(はにつち)で作った土製の人形等を埋葬しました。以後高位の貴人の陵墓にはこの埴輪(はにわ)が副葬されるようになりました。
 兵器を神社に収める風習もこの天皇の代から始まります。特に大王の軍隊の兵器は石上神社に収められ、軍事士族である物部氏が管轄しました。
 天皇は灌漑治水にも熱心であられ、高石池はじめ多くの池溝を造られています。垂仁天皇の代には、反乱はありましたが、大和国の外への征戦はほとんど記載されていません。次代の景行天皇の代になると、九州から関東にいたる征戦の記述が激増します。