経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、豊臣秀吉

2009-10-12 03:38:04 | Weblog
 経済人列伝、豊臣秀吉
太閤秀吉を経済人として捉えるのはいささか突飛かも知れません。しかし日本の歴史上の人物で秀吉ほど日本の経済に影響を与えた人も少ないでしょう。もう一人挙げれば平清盛です。秀吉の経済への貢献を、まず彼にまつわる逸話、彼の最大の事業である検地と刀狩、そして秀吉が生きた時代が日本経済の一大転換期であった事、の三点から考察してみましょう。
秀吉に関しては多くの逸話があります。甫庵太閤記などの通俗書の記載も援用しますので、必ずしも以下の逸話が真実であるとも言えません。しかし逸話は幾ばくかの真実を含むものです。秀吉がまだ織田家に仕える以前、彼は木綿針を売って地方を行商していたそうです。年代で言えば多分1550年代の後半頃でしょう。木綿は秀吉の青少年時代にすでに日本国中で栽培され始めていました。近世製造業の基軸である綿業と秀吉の武家奉公以前の職業が重なる事を私は偶然のようには思いません。このような体験の中から彼は政治や軍事に経済がいかに重要な事項として関係するかを学んだのでしょう。彼の行為には常に経済を考慮し経済を利用する姿勢が顕著です。
 太閤記の中の有名なお話に、清洲城の割普請があります。台風か水害で城の石垣が百間(180m)崩れました。秀吉は修理責任者を買ってでます。秀吉は持ち場を100組に分け、1組1間とし、各組を競争させます。修理は1-2日で完成します。同じ割普請は墨股築城の時にも行われます。割普請は20世紀のテ-ラ-方式あるいはトヨタ方式を髣髴させます。割普請は秀吉の発案と考えてもいいようです。
 鳥取城の兵糧攻め。ここで秀吉は彼の経済感覚をいかんなく発揮します。攻め込む前に味方の領地に住む米商人を抱きこみ鳥取に行かせます。そこで、上方ではひでりで米の成りが悪い、いくらでも買うぞ、と言わせ、鳥取の農民の米を高値で買い取ります。あまり条件が良いので、城に備蓄しておいた米の大部分も売られました。見計らって攻め込みます。城を大軍で遠巻きし、要所要所に臨時の要塞を造って、城から撃って出られないようにし、上方から商人や遊女を呼び寄せて、将兵が飽きないように配慮します。これを鳥取の干殺しと言います。結局城将以下数人の切腹のみ、兵士の被害はほとんど無しで、落城しました。同様の事は備中高松城の水攻めでも行われています。ここでは数万人の人夫を賃用し、あっという間に城を水で囲みます。
 秀吉の統一戦の仕上げが北条氏攻伐です。北条氏の本拠地小田原城を攻囲します。その十数年前越後の上杉謙信が小田原城を囲んだ事があります。しかし謙信は1ヶ月で引き上げています。理由は兵糧不足です。北条氏は今回もそんなものだろうとたかをくくっていました。秀吉は米20万石を海路急送して駿河清水に送り、さらに金10000枚(慶長小判にして10万両)で東海道一帯の米を買い、それも前線に送ります。総計50万石から60万石です。20万人の将士が1年以上食ってゆける量です。小田原城は喧々諤々の評定の末に落城しました。無血開城です。
 秀吉は割普請で労働形態の新基軸を考案し、城攻めでは当時発展しつつあった商業を巧にしかも大規模に利用しています。
 秀吉が新しい時代を開いたと言うならば、彼の最大の事業は検地と刀狩です。検地はなにも彼の独創ではありません。戦国大名も、彼の先輩であり主君である織田信長も、後の徳川将軍達も検地は熱心にしています。しかし最初に全国規模で検地をしたのは秀吉です。検地の意義はどこにあるのでしょうか?兵農分離です。源平の昔から武士は農村出身であり農場の開拓者・経営者でした。ですから農民と武士の境界は曖昧でした。各地に数町(数ヘクタ-ル)から数十町の土地を所有する土豪(名主、みょうしゅ)がいました。彼らの下には彼らに雇用され隷属する農民がいます。戦国大名は彼ら豪族を武力として臣下に組み入れます。しかし豪族は在地では独立した経営主体です。耕作民の労働の成果を大名が取るか豪族が取るかで、いつももめます。信長・秀吉は極力武力を城下に集めました。そして検地をします。各村の農地を精確に測量し、そこから取れる収穫高を決め、それに課税します。こうなると大名と耕作民の中間にいて利益を吸い取っていた名主豪族はそのうま味を失います。各地で一揆がもち上がります。そこで一揆の武力を削ぐために、刀狩が行われました。こうして在地の豪族達は大名の家臣になって軍役奉仕を行い俸禄を頂戴するか、それとも農村に在住して農業に専念し、軍役奉仕を免除される代わりに租税(年貢)を収めるかの選択を迫られます。農村に残った名主豪族の家は代々その地の名主(なぬし)庄屋を務めました。
 再び、検地の意義は何でしょうか、と問います。兵農分離です。ここでは兵より農の方が重要です。検地により農村は農業に専念する耕作民のみになりました。また商工階層も都市に集住させられます。ここでも兵農分離と同様な事が行われました。それ以前の商人は武器を持って旅行していました。道中が危険だったからです。武器携帯禁止の代わりに治安の保障が与えられます。なぜ治安が保障されたのでしょうか?豪族達の武器を取り上げ彼らを農民にしてしまったからです。考えても御覧なさい、一つの国や郡に何十何百の小豪族が番居していて、常に武力を養っているとなると、物騒です。豪族は勝手に関所を作り私税を徴収します。時には盗賊にはや代わりしてよそ者の商人の物品を直接収奪します。検地刀狩が厳密に施行されると、こういう現象は次第に影を潜めます。代表的な例が倭寇です。九州北部海岸の住民が武装して倭寇となり、朝鮮や中国の沿海を荒らしました。代々の明の皇帝は盛んに倭寇取締りを室町幕府に要請しましたが、らちはあきません。しかし秀吉の代ごろになると、倭寇はほとんど収まりました。他にも原因はありますが、検地と刀狩による兵農分離の影響は見逃せません。倭寇の首領クラスは在地土豪です。彼らが配下の農民とともに海に繰り出していたのです。
 兵農分離により兵つまり武力を持った連中は家臣団として大名の統制に服します。農民は農業に専念します。商工階層も同様です。安心して労働できるようなると余剰の生産物も増えます。こうして全国の通商圏ができあがります。米以外の商品作物の栽培も増えます。江戸時代も元禄の頃になると、農民の余剰蓄積は進み、名目上の年貢は60%でも実質は30%以下になりました。富裕になった農村を土台として新しい商人層(例えば三井高利)が出現します。
 検地刀狩は民衆の経済活動を開放しただけではありません。これは秀吉も家康も全く予期しなかった事でしょうが、検地の結果日本の社会は独特の平等性を帯びるようになります。武士は都市に集住、農民は農耕に専念、職人商人も同じ。となりますと、働く方に富が集まるのは当然です。農民の家内工業や商工階層の営利活動をきちんと調査して課税する能力は幕府大名にありません。農工商は裕福になり、武士は窮乏します。つまり政治の実権と経済力の保持は別々の階層が担う事になりました。かといって武士階層が消滅したわけではありません。武士は食わねど高楊枝、で幕藩官僚に転進します。世界中の封建家臣団の中で一番教養があったのは江戸時代の武士です。文字通り文武両道です。維新時官僚はほとんど武士階層から補給されました。日本の官僚の優秀さはこの事情にもよります。また武士の物質的生活レベルはそう高くありませんから、日常生活の中では庶民と共存します。
 これを他国と比べてみましょう。イギリスでは地主が社会の主勢力になりました。彼らの代表が上下の議院です。彼ら地主階層は政治権力と経済力を独占しました。イギリスの方が日本よりはるかに身分格差はきついようです。また中国(例えば清王朝)では、科挙官僚が地方官に任命されますと、彼らは一族近親知人子分をわんさとひきつれて赴任し、任地で商売を始めました。政経不分離もいいとこです。
 秀吉の時代は、室町時代という開放的で猥雑な時代の中で醸成されてきた日本の諸産業が集約されて転回点を迎えた時代でした。代表的なものを挙げてみましょう。朝鮮半島から伝わってきた木綿は兵衣、下着、庶民の上着の材料などとして重用されます。保温性と吸湿性に優れ、着色しやすく丈夫です。全国で栽培されましたが、代表的産地は摂津・伊勢・三河です。商品作物の代表になりました。木綿の着色料の代表は藍です。藍の栽培も盛んになります。摂津平野の対岸阿波では、蜂須賀家入部と同時に、藩の指導で藍栽培が開始されます。木綿の栽培には肥料が沢山要ります。その頃山陰北陸の海岸では鰯が豊漁でした。その辺の海を網ですくったら鰯が山ほど入っていたとか言います。これが肥料になります。魚肥、金で買う肥料なので金肥と言います。裏日本の漁民も儲かりました。
 次に菜種。室町時代は胡麻から油をとっていましたが、それは菜種油にとって代わられます。菜種も商品作物としては重要です。油は灯油にもなり夜の生活は闇から解放されます。酒は伊丹に住んだ鴻池家が始めて清酒を作り関東に海路輸送をし始めます。酒造業と廻船業が始まります。茶の湯は足利義政以来盛況になり、秀吉の時代には千利休が出て庶民用の茶道を確立します。平行して茶の生産量も増大します。茶と言えば陶磁器がすぐ浮かびます。加藤景正が中国から持ち帰った技術を使って瀬戸焼を始めましたが、それが唐物に並んで高い評価を受け始めるのが、秀吉の頃です。製陶業は全国的規模で盛んになります。
 決め付けは金銀です。どういうわけか16世紀の日本には金銀が湧くがごとくに出ました。世界の銀生産量の1/3は日本産です。金銀の大量出現は流通貨幣量を増やします。そして農村の生産力の向上です。生産物と貨幣が平行して増大しました。景気の良い時代になります。また金銀の増量はそれまで中国の銅銭を貨幣として使っていた、換言すれば中国経済圏から抜け出せていなかった日本の経済を開放します。逆に中国は日本の銀を必要とし始めます。
 秀吉が生きた時代はこのような日本の経済構造が転換する時期でした。では秀吉はこの時期、どのように経済構造の変化と進展に寄与したのでしょうか?まず全国的規模の通商圏の確立は彼に負います。大名同士の私的抗争は禁止されます。在地に番居する小豪族はその政治的影響力と武力を奪われます。安心して歩け、商売できる時代になったわけです。検地により労働に従事する階層は安心して働けるようになります。武士は俸給で生活する官僚になります。勤労とその成果である財貨は民間に解放され民富は増大します。
 秀吉は金銀の価値を熟知していました。恩賞は金銀で支払われる事が多かったのです。手づかみで金銀を功臣に渡します。パ-フォ-マンスもあります。しかし金銀に関しての秀吉の最大の貢献は、定額貨幣である天正大判を作った事です。この企ては家康に受け継がれ、慶長小判を中心とする金銀銅の三貨体制ができあがり、日本の幣制が確立します。
 秀吉は遊び好きでした。北野天満宮の大茶会、醍醐の花見など秀吉が主宰した遊興は数多あります。築城も彼の道楽でした。大阪城に伏見城、聚楽第など。後続する家康も江戸城、名古屋城など大きな城を建築します。遊興と築城、それに伴う大都市建設は資材の集積、労働力の動員を必要とします。労働は原則として賃労働です。資材と労働力は全国的規模で移動し、都市に富が集まり、都市の大商人が栄えます。大商人のもとに蓄積された富は地方と下層に移動します。富が散布される中で地方農村の産業が賦活されてゆきます。経済が好況であるためには、物と金が動き回らなければなりません。
 秀吉は茶の湯が大好きでした。茶の湯は日常性の中での祝祭です。祝祭の象徴が茶碗などの道具です。秀吉は利休の考案した侘び茶を好み、そのパトロンになります。侘び茶とは、それまでの高価な唐物とは違う値段の安い和製陶磁器を使った茶の湯です。日本製の陶磁器が評価され始めました。秀吉と利休により従来の茶の湯が一大転換をした事は確かです。こうして茶と陶磁器の生産は増大してゆきます。増産だけではありません。日常の中の祝祭を楽しむ事は生活文化を向上させます。18世紀に入ると、日本人特に都市住民は、お茶・お華、俳句に連歌、歌舞伎と文楽、琴・三味線・浄瑠璃・謡曲・舞・踊りなどの稽古事、そして学問にいそしみました。当時朝顔栽培が盛んでした。一株1000両近くもする朝顔が売れていたそうです。生活文化の向上は有効需要の増加をもたらしますから、経済は活気を帯びてきます。このような転換は秀吉の時代に負い、秀吉自身が転換を促進しています。
 
参考文献
  秀吉の経済感覚(中央公論)、黄金太閤(岩波書店)、茶の文化史(岩波書店)、茶人豊臣秀吉(角川書店)、新・木綿以前(中央公論)、日本通史⑪(岩波書店)