経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、二宮尊徳

2009-10-08 00:36:52 | Weblog
二宮尊徳
 最近報徳教が見直されているようです。報徳教は二宮尊徳の思想を中心として形成された、倫理処世そして経世のための教えです。尊徳はかなり誤解されています。戦前は孝子の代表として小学校の庭には必ず彼の銅像が建てられていました。尊徳は国粋思想に利用されたようです。しかし彼の思想はそんなに底の浅いものではありません。ここではそれを主として経済学という見地から考察してみましょう。
 二宮尊徳は江戸時代後期の人です。幼名は金次郎、1787年に生まれ、1856年死去しています。彼が生まれる4年前浅間山の大爆発が起こり、関東全域が大きな被害を蒙りました。田沼政権は崩壊し、代って松平定信が登場します。尊徳が死去する3年前、ペリ-は浦賀に来航し開国を迫ります。そういう時代に彼は生まれました。彼の生涯は農民の生活と農村財政の立て直しに捧げられます。その行為の積み重ねから「尊徳仕法」という実践的な政治経済学が生まれました。
 彼は、まず自家の経済の立て直しを行い、このやり方を農民や武士の家政さらにあ藩政へ一般化して、仕法と称します。彼の学問は三教一致で、仏教・神道・儒教をすべて取り入れた独特の宇宙観を持ちます。
彼の本領は「経世」、すなわち家や村や藩の経済が成り立つようにその経済の仕組みを考え整え変えてゆくこと、の実践です。
 彼は農業技術者であり、経済学者であり、農民の指導者であり、哲学者でした。主として農村の立て直しが彼の仕事です。土木灌漑、経理や村政、藩との交渉、そして仕法を実践するに際しての心構えと心情の涵養訓練も、彼の仕事です。
当時の農村は疲弊していました。幕末の人口は3000万、わが国の経済が農業と手工業の上に成立する限り、ぎりぎり養える人口です。洪水などがあると村の生産は激減し、餓死者や放浪者も出て、生産単位としての農民の家は崩壊します。農民の生産の上に成り立つ武士の生活も破壊されます。
 石高が1000石といっても、実高は400から500国程度が実態にあります。幕府の政策で関東は小大名旗本の領地に天領が複雑に組み合わされ、統一的な開発ができません。関東の地は火山灰地が多く肥沃ではなく、大河川が多く洪水に悩まされます。尊徳が生きたころの関東の農村はこんな状態でした。彼は相模国、現在の神奈川県の出身です。
 尊徳を経済学者として考えてみましょう。
尊徳は人間の欲望を肯定し、衣食住の資源である諸々の財貨を「天禄」と称します。「天からの給付」です。この天禄をうまく使い、衣食住に支障のないようにすることが経国済民であり、人間は、みながみな、そう努めなければならないといいます。商業を含む一切の経済行為は肯定されます。「ただ欲望をどう制御するかが問題になる」と、尊徳は説きます。
 制御の手段が、推譲と分度、お互い譲りあい自己の分を知ることです。道徳的な言葉づかいですが、これは共感を基盤とする商議と妥協ですから、契約関係を意味します。契約関係の最たるものが「交換」です。
 尊徳は富の源泉としての農業を強調する重農主義者です。当時の為政者も重農主義といえば重農主義です。しかし農民である尊徳が、資源を天禄として万人に共有されるべきものとし、商議と妥協に基づく契約関係を重視し、その果てに交換経済の重要性を説くと、特権的支配者としての武士が存在する余地はなくなります。土地の政治的占有を否定して、効率的管理が強調されると、土地は富自体とみなされます。これが厳密な意味での重農主義です。尊徳は意識してか否か、商業行為としての農業へ一歩を進め、明治政府の地租改正の前駆をゆきます。
 彼は「倹約」を「資本蓄積」として、積極的に解釈します。倹約して蓄積したものをどう増殖させるかが問題だといいます。
 失業対策事業もも積極的に進めます。彼の失態事業は単なる救済ではありません。尊徳はすでに有効需要喚起の意義を理解しています。
ある村が洪水で荒れた時、壮健者には土木事業をさせ、残りの者には縄を作る仕事を与えます。藩当局にそれを高値で買い取るよう指示し、ともかく農村に仕事を与えて金を落とせ、といいます。ケインズが説くところと同じです。
 以上の考え方から、尊徳が万人平等を推奨したことが解ります。食う、を焦点として論理を展開すれば必ずそうなります。彼は徹底した合理主義者であり、現世肯定論者です。
 尊徳はかなり複雑な形而上学を描いています。彼の思想で重要なのは、天道と人道の区別です。天のものは天のもの、人の道は人の道、といいます。天という抽象的厳選から地上の行為を切り離し、作為としての人道、つまり人智で作り為すところの営為を、彼は愛しました。この考えの背後には荻生徂徠の影響があります。
 尊徳ほど誤解された思想家も少ないでしょう。戦前は勤倹節約孝子の鑑のようにいわれ、戦後は保守反動の象徴とみなされました。
 彼に関する逸話を一つ紹介します。彼は結婚早々妻に逃げられています。仕事に熱中して家を空けることがおおく、あきれた妻に逃げられたのです。豊田佐吉も同じ経験をしています。
 最近「ザ・トヨタウェイ」という本を再読しました。いわゆる、かんばん方式とかリ-ンシステムとかいわれる、豊田自動車の工程管理方式です。読んでいて、実に着実だが案外泥臭いやり方だな、と思いました。現場の土壌そのものから出てきたというニオイムンムンです。どこかにこのようなやり方があったように感じました。その時トヨタの始祖である豊田佐吉が報徳教(二宮尊徳の教えを奉じる倫理や処世に関する道徳団体)に入っていた事に思い当たりました。豊田方式と尊徳のやり方は似ています。佐吉も尊徳も出自は同じです。佐吉は自作農兼大工、尊徳は小地主です。二人とも仕事に没頭して最初の嫁さんに逃げられた点でも酷似します。ちなみに豊田自動車の創業者は、この逃げた妻の産んだ喜一郎です。

参考文献
 二宮翁夜話(日本思想史体系)---岩波書店
 天皇制の擁護---幻冬舎
  ザ・トヨタウェイ(上下)---- 日本経済新聞社