経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

天皇ご紹介、崇神天皇

2009-10-17 03:09:14 | Weblog
   天皇ご紹介 崇神天皇

 第10代崇神天皇は記紀では開化天皇の第2皇子、みまきいりひこいにゑのすめらみこと、と申されます。神武天皇と同じくもう一つの名称を持たれます。はつくにしらすすめらみこと、つまり「始めて統治された天皇」という意味の名前です。ですからかなり多くの史家は神武天皇と崇神天皇を重ねて考察します。歴史的事実に関する部分は崇神天皇に、そしてこの天皇の事跡を10代150-200年遡らせて投影し、神武天皇の物語ができたのだと、言います。従って崇神天皇はその実在が確証される始めての天皇、という事になります。事実この天皇から、記紀の記載内容は豊富になり、統治の実際を具体的に物語る記述が始まります。
 崇神天皇の時、全国に疫病が蔓延し、多くの人民が死にました。天皇の夢の中に、大国魂神(おおくにのたまのかみ)が現れて、私をちゃんと祭れ、そうすれば疫病は止むだろう、と言われます。天皇のみならず二人の臣下も同じような夢を見ます。大国魂神、あるいは大物主神は大和古来の土着神でした。皇室の祖神は天照大神です。この話は土着神とその上に為政者として望んだ集団が擁する新しい神との相克を表しています。結果として天照大神は大和笠縫邑に、そして最終的には伊勢国に祭られる事になります。天皇は夢告に従って、大物主神の子孫である、大田田根子(おおたたたねこ)をして三輪山で大物主神の祭祀を司らせます。その他の重要な神々の祭祀も確定されます。この話は重要です。大物主神と天照大神という二神の争いは、土着の人々と為政者側の人々との争いと妥協を意味します。征服者である、あるいは大和周辺一帯の統一者である崇神天皇は土着の人々の神々を受け入れ、像を複合させて神話を作り、統治の正当化に努めました。崇神天皇から、垂仁、景行、成務、仲哀と続く5代の天皇の王朝を史家は三輪王朝と呼んでいます。仲哀天皇と応神天皇の間に神功皇后という女傑が介在し、応神天皇から清寧天皇までを河内王朝と言います。三輪山に関しては王権のいわれを物語る面白い神話があります。
 崇神天皇記にでてくる内容の多くは征戦です。天皇は北陸、東海、山陽、丹波の四方面に将軍を派遣して、統一戦を遂行されました。四人を四道将軍といいます。また出雲地方の豪族出雲振根を殺して、この地方を服属させます。しかし最大の危機は庶兄である埴安彦(はにのやすひこ)の反乱です。天皇の軍と安彦の軍は現在のなら山で対峙します。天皇の軍は叫び、足を踏み「なら」して、戦意を高めます。ここから対峙した場所が「なら」山とつけられたそうです。現在の奈良の名称はこの故事に由来するのでしょう。もう一つ地名伝承があります。天皇の軍は勝ち進みます。安彦の軍はパニックを起こして逃走します。現在の大阪府北部(淀川東岸の)にまで逃げてきた安彦の軍は恐怖のため、糞便を失禁します。兵士の褌は汚れました。くそ褌(くそばかま)から現在の楠葉(くすは)の地名が出てきたそうです。
 天皇は二人の皇子、豊城尊(とよきのみこと)と活目尊(いきめのみこと)を呼ばれ、二人が見た夢により、後継者を決めると宣言されます。豊城尊は「御諸山に登って東に向き、矛を突き出し、矛を八度振る」という夢を報告します。活目尊は「御諸山の頂上に上り、縄を四方に張り、粟を食う雀を追う」という夢を見たと言います。天皇は、兄の皇子には東国の支配を、弟の皇子には皇位継承を約束されます。夢の内容は戦争と祭祀の象徴ですから、意味は解りやすいのですが、重要な事はこの天皇の時代に、東国(三河以東)が支配され始めたという事です。半島の任那(みなま)からも朝貢使がきます。
歴史家の話では崇神王朝の時の事実上の支配領域は現在の近畿地方全域というくらいでした。また天皇は依網池(よさみいけ)他の池を沢山作らせます。これは灌漑工事です。支配し統治するためには、まず殖産です。男女の仕事に応じて課役を定められたとも書かれています。長幼の序に関しても同様です。このような記述を読んでいますと、崇神天皇をもって最初の大王(おおきみ)とする定説がうなづけます。もっともこの天皇と現在の皇室との関係は判然とはわかりません。しかし象徴的次元では繋がっているようです。

三輪山神婚説話
 古事記には次のような逸話が載せられています。活玉依姫(いくたまよりひめ)という絶世の美人がいました。若くて美しい男性が彼女のところに毎夜通ってきて同衾します。いつの間にか妊娠します。父母が問い詰めます。父母は姫に、若い男性の着物のすそに針を刺すよう、教えます。針には麻の糸がついています。ある夜事果てて、男性は帰ります。針についた糸をたぐって到着したところが三輪山の神社(かみのやしろ)でした。男性は三輪山の神なのでした。麻糸は糸巻三個分必要でした。糸巻三つ、つまり三勾(さんわ)から三輪山の名が出たようです。
 これが日本書紀になると少し話しの形が違ってきます。女性の名は、倭とと姫命になります。倭とと姫が若者の素性を尋ねます。若者は、明夜櫛箱に入っているでしょう、私の形に驚かないで下さい、と答えます。姫が櫛箱を開けて見ると、一匹の小さい蛇がいました。姫は驚き声を上げます。とたんに蛇は若者に変身し、大空を駆けて三輪山に登ります。姫は仰ぎ見て、ほと(女陰)を箸でついて死にます。
 この説話は三輪の大神が人間の女性に通う(犯す)話ですが、これを別角度から見れば、神と神に仕える女性祭司の関係とも言えます。倭とと姫は祭祀を司りました。崇神天皇は実際の政治の主権者でした。ここで男女は祭祀と政治を分業している事になります。これは魏志倭人伝の中に出てくる、卑弥呼と男弟の関係に似ています。そういう学者も結構います。雄略天皇(倭の武王)が南朝の宋に入貢したのが5世紀前半ですから、その10代前なら3世紀前半、魏志の年代と会います。こういう考察も可能です。
 三輪山型の逸話は極めて普遍的です。京都上賀茂神社の起源伝説も同様です。瀬見の小川で遊んでいた玉依姫は流れてきた朱塗りの箸に触れて妊娠しました。基本的にはこの種の神話は、神が魔となって襲来し、女を犯す、というパタ-ンです。ギリシャ神話の中のデウス神は水や雄牛になって自由自在に女の寝所に出入りしました。中国の殷王朝や周王朝の始祖は、母親がどこかを歩いていて急に産気づいて生まれています。源氏物語で、主人公光源氏は若紫を略奪し、夕顔を人知れぬ屋敷に誘拐しますが、これも三輪山神婚説話の亜形です。
 なおここで三輪山の大神は大国魂神、大物主神などいろいろな名前で呼ばれますが、みな同じです。時には大国主神とも呼ばれます。大国主神は出雲系神話の神ですが、出雲のみならず大和も含めて全地域の土着神の代表でした。崇神天皇記の物語は、三輪山の主神である大物主神が、自らへの祭祀が不十分である事を怒って、疫病をはやらせた、という事になります。裏から見れば、為政者に対して土着の住民が大きな不満を持っていた、という事です。