ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

醜い日本人

2007年05月07日 | ニュース・現実評論

醜い日本人

私のような市井の片隅に生きる無名の者が「醜い日本人」などと語っても、おそらく世間の嘲笑を買うだけだろうが、しかし、曽野綾子氏のような高名な小説家なら、そうした言葉にも少しは耳を傾けられるのかもしれない。産経新聞のような全国紙に女史の『「醜い日本人」にならないために』という評論文が掲載されているのを読んだ。


確かに、とくに最近私も、曽野綾子氏と同じそんな印象を受けるように思う。自分を棚に上げて女史と同じような感想をもっている。それは近年流行のインターネットや携帯電話の悪い側面が出てきているためだといえるのかもしれないが、しかし、やはりネットや携帯電話が人間や国民の資質を決めるわけではないだろう。それは表面的な本質を見ない論議だと思う。


そうした状況の根本にある原因は、やはり先の太平洋戦争の敗北に、またそれを契機とした日本の「古き善き」文化的な伝統の崩壊にこそみるべきではないだろうか。太平洋戦争の敗北は何も、軍事力における敗北にとどまらないと思う。


現代の日本人がもし「醜い日本人」になりつつあるとするなら、それは太平洋戦争の軍事的な敗北が、何よりも現代日本人の倫理道徳心における敗北に連なり、また現代日本人の政治や教育における敗北となり、それがまた、現代日本人の学術文化における敗北を証明するものになっているということなのだろう。それは、民族をそのあるべき姿に正すことのできない現在の学校教育の敗北でもあり、さらには宗教や芸術や教育などに現われる日本民族の伝統文化の総合力の敗北の問題でもあるだろう。  


あくまで相対的であるとしても、太平洋戦争前の日本人に比較して戦後の日本人が「醜い」のだとすれば、それは結局、日本のかっての伝統的な宗教や倫理や学術や芸術文化が、太平洋戦争の敗北とその後の占領軍統治という日本史に未曾有の歴史的な困難を克服しうるものではなかっただけにすぎない。そうした困難に際して日本の伝統文化が自らの民族の倫理や文化の健全さを確保するだけの力あるものではなかったということを証明しているに過ぎないと思う。


そして、太平洋戦争後六十年を経過した今、一種の植民地文化的な状況に生育した戦後世代を両親に育てられた現在の若者たちの文化的状況が、少なくとも戦前の日本人の感覚をまだ失ってはいない曽野綾子氏のような世代の眼に、「醜い日本人」として映じているのだろう。


ただ問題が深刻であるのは、今の若者たちや、現代以降の日本人たちには、おそらく、戦前の伝統文化的な「美しい日本人」の感覚を概念として生まれつきまったく持たないことだろう。だから、昔の日本人の感覚による「醜い」という自覚すら彼らは持ちえない。自覚さえあればいつかあるべき姿を回復する可能性は失わない。しかし曽野綾子氏のような世代の眼に深刻に映るのは、現代の若者たちにはもはやそんな自覚すら失われている状況にあることだ。このまま更なる六十年を経過したとき、おそらく明治や大正の「美しい日本人」の伝統の姿は見る影もなくなるにちがいないと思う。

【正論】作家・曽野綾子 「醜い日本人」にならないために

作家 曽野綾子(撮影・飯田英男)

作家 曽野綾子(撮影・飯田英男)

 ■他人のために生きる「美学」学びたい

 ≪個性のない若者たち≫

 近頃の日本人はどうも醜くなったような気がする、と私の周囲の人が言う。私も時々同じように思う。しかしそう思う時には、必ず一言心の中で言い訳する声が聞こえる。

 「人間というものは、自分を棚にあげないと何も言えない」

 どういう点が醜いのか書き出したらきりがないけれど、醜いというからには外見からわかることがほとんどだ。

 東京の渋谷、新宿、池袋などのにぎやかな町では、若い人たちに洗われながら歩くことが多い。そこに溢(あふ)れているのは、痩(や)せて筋力がない貧弱な細身に、まるで制服のように同じ流行の衣服を着ている若者である。ほとんど同じ髪形をし、最近は流行の重ね着のほかに、バストのすぐ下にギャザーを寄せたセーターと「ももひき」をはいて内股でぺたりぺたりと歩く。

 朝早いテレビのニュース番組には、こういう個性のない肉体と、まるで同じような髪形と服装のお嬢さんが時には4人も出てくる。4人とも必要だということは、魅力の点でもアナウンサーとしての技量の上でも、多分1人ではもたないということを局側が知っているからだろう。

 BBCだってCNNだって1項目のニュースを読むのは原則1人のアナウンサーで、1行読んで別の人の声に渡したりしない。そしてその女性たちが、実にそれぞれ強烈な個性美を持っている。あらゆる男性視聴者の女性に対する好みをすべて揃(そろ)えました、と言っているように見える。年増派あり、神秘派あり、モノセックス風あり、近寄ると危険派あり、肌の黒いカモシカのような肢体派あり、昔の小学校の受け持ちの女先生に対する憧(あこが)れ派あり、あらゆるタイプ別に女性を揃えております、という姿勢が言下に見えている。

 ≪「魂の高貴さ」を学ぶ≫

 そこで大切なのはその人の個性であって、黒髪の日本人のくせに金髪に染めているというだけで、これは自分のない人だという判断をされても仕方がないだろう。今は少し廃(すた)れたが、破れたジーンズ・ファッションが私は嫌いだった。アフリカの貧しい青年たちは、新しいジーンズなどなかなか買えない。もし破れている流行の品と、破れていない新品とどちらでもあげるよ、と言われたら、アフリカの貧しい青年で破れたジーンズをもらいたがる人はいないだろう。他人の貧しさをファッションにして楽しむ神経に、私はどうしてもついていけないのである。

 こうした無神経は日本人の素質が悪いからではなく、すべて学習の不足から来るのである。日本以外の国では、その人に対する尊敬はすべて強烈な個性の有る無しが基礎になっている。もちろんお金や権力のあるなしもその一つの尺度とはなり得るだろうが、日本では、最近全く若者に教えていない分野があることがわかった。つまり魂の高貴さということに関して教師も親も知らない上、当人も読書をしないから、損得勘定、自己愛などというもの以外に、人間を動かす情熱の存在やそれに対する畏敬(いけい)の念というものがこの世にあるのだと考えたこともないのである。

 ≪「偉くなる」って何?≫

 つい先日、JR北陸線の車内で女性が暴行を受ける事件があったが、異変に気づきながら一人として暴力的な犯人に立ち向かう男性がいなかったというニュースは、まさにこうした日教組的教育の惨憺(さんたん)たる結果を表している。

 もっとも私は昔から西部劇の中の男だけがならず者に立ち向かうという設定には抵抗を覚えていた。女も抵抗の戦いに、できる範囲で働けばいいのである。それが男女同権というものだ。北陸線の中でも、男女にかかわらず知恵を働かせて車掌か鉄道警察隊に知らせようとした人がいてもよかったのだ。

 最近の調査によると、人生の目標に「偉くなること」をあげる若者たちの率が、日本ではアメリカや韓国に比べて著しく低い、という。私にもその癖(へき)はあって、権力を志向する政治家の情熱をほとんど理解していない。しかし「偉くなること」を総理や大会社の社長になること以外に、他人のために自らの決定において死ぬことのできる人、つまり自らの美学や哲学を持つ人、と定義するならば、私はそうした勇気をずっと憧れ続けている。

 本当の人道的支援というものは、生命も財産もさし出せることです、と言うと、そんな損なことをする人がこの世にいるのだろうかという顔をされることも多い。

 それほどはずかしげもなく功利的な日本人を他国人は何と思うか、やはり教えた方がいい。(その あやこ) 

(2007/05/05 06:52)


TITLE:【正論】作家・曽野綾子 「醜い日本人」にならないために|正論|論説|Sankei WEB
DATE:2007/05/11 18:01
URL:http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/seiron/070505/srn070505000.htm
 


コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« エキスポランド | トップ | 日本はいつまでアメリカに甘... »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
タダでハメてきた(笑) (ハメ男)
2007-05-07 16:55:35
女性におれの体を買ってもらうなんて初めてだ(笑) かせげてきもちいい(笑) http://pak3.net/auc/id=gqwh2ui
返信する
代表的醜い日本人 (そら)
2007-05-07 17:26:41

早速、このコメント欄にも醜い日本人の代表が登場して、私の説の正しさを証明してくれているようです。

返信する

コメントを投稿

ニュース・現実評論」カテゴリの最新記事