ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

都知事・美濃部のコスト

2014年09月09日 | ニュース・現実評論

都知事・美濃部のコスト https://is.gd/oitvWr

JICEの部屋(コラム)

都知事・美濃部のコスト

掲載日時:2014/09/09
 
 「『広辞苑』の罠・歪められた近現代史」(水野靖夫・祥伝社新書)には、この辞書が版を改訂するたびに偏向の度合いを増しているとある。確かに説明のあちこちに違和感があり、「広辞苑によると」などと標準辞書とするのは問題が多いと考える。

 この辞書で「美濃部亮吉」を引いてみると「経済学者・政治家。初の革新知事として福祉政策・公害対策を推進」とある。ずいぶん前向きの評価しかないが、本当にこの評価でいいのだろうかと大いに疑問なのである。

 交通の分散に寄与する東京都下の外郭環状道路の整備を止めて、迂回交通を都心に引き込んだまま都心の渋滞と環境悪化を改善しようとせず、そのためその後何十年にもわたって毎年何兆円もの国民経済的損失を出し続けることを決定したのは誰なのだろうか。

 外環道の凍結を決めたのは美濃部都知事であった。彼は「橋の哲学」などと言い「1人でも反対があれば橋は架けない」という言葉があると述べたが、この言葉の続きにある「その代わり川を歩いて渡る自由を享受しなければならない」を省略して用いたのである。

 インフラの効用を理解しようともしないメディアもこの姿勢を支持した。

 いまこの外環道は、2020年のオリンピック・パラリンピックに間に合うのかと問われている。このように、いまでは東京・首都圏の交通渋滞を起こさせないために不可欠な道路だと認識されている事業を美濃部氏はストップさせたのである。

 この事業の再開には多くの時間と決断が必要だった。きっかけとなったのは、扇千景建設大臣と石原慎太郎都知事の現地入りだった。2人はこの路線の重要性を認識し再開を決断したのである。その後、大深度地下利用への都市計画の変更と環境影響評価など、複雑な諸手続を経て、シールド本体の着工という今日を迎えたのである。

 扇大臣が外環道の現地入りしたとき、子どもたちが「公害道路反対」などと書いたスローガン入りの看板を持って座り込んでいた。大臣はすぐに子どもたちを立たせ、「都心に用のない車は他所を走って欲しいと思う人!?」などと言ったものだから、子どもたちは素直に皆「はーい」と言ってしまった。お母さんたちが「子どもたちは自発的に来ているのです」とあり得もしない説明をしながらも、大慌てだったのが鮮明な記憶として残っている。

 加えて美濃部氏は街路整備費を大幅に削って、都市内交通の円滑化を阻止し、大気を汚染し続け交通の安全を損ない続ける判断をした。次の世代の子どもたちが安全に効率的に暮らせる環境整備を大きく怠ったのである。外環道もそうだが街路網形成という「明日への贈り物」を大幅に縮小したのである。残念なことに子どもたちは選挙権を持たないのだ。

 さらに、局長でもないのに局長級給与のポストを濫造し、都職員の人気取りに精を出して都財政に負担をかけたのも美濃部氏だった。この当時革新知事なる知事が大阪などでも誕生していたが、彼らの多くがこのような職員への人気取り施策を行った。

 問題はまだ続く。

 朝鮮大学校認可問題である。美濃部氏は、文部大臣の反対を押し切り、都の審議会の遺憾表明も無視して朝鮮大学校を強引に認可した。この問題は、韓国では「東京都は認可をするな」という反対デモもあるほどの大問題だったのである。

 また、朝鮮総連の施設にかかる固定資産税を大使館並に免税にしたのも美濃部都知事の判断であった。戦後ほぼ一貫して反日的な姿勢をとり、わが国の国益を損なう活動をしてきた人々を優遇する措置を連発したのである。

 思い起こせば、かつて革新といわれた政治家の中には、日本人拉致問題に関して「北朝鮮との国交を回復しなければならないのに、わずか数名の行方不明者が障害となっていいのか」などと、とんでもないことを言う人もいたのだ。「本末転倒」とは、このような言動を指すのにピッタリの形容だ。彼らはいま、わが国では過去の発言に甘い事をいいことに、まるで何も言わなかったかの如く完全沈黙を決め込んでいる。

 こう見てきただけでも広辞苑の美濃部評価は一面的で過大にすぎる。美濃部氏にどのような功があったのかはよくわからないが、後世に甚大な損失を与えている罪の部分にまったく目が行っていないのである。

 美濃部氏が外環道の中止を決めたのは1970年のことであった。この年の国会は「公害国会」と呼ばれたほどに、全国的に公害問題が多発する状況に対し種々の公害対策法が成立した国会であった。要は、美濃部氏はこの社会状況に便乗しただけだったのだ。

 そしてメディアも「清潔な学者」などと煽り、さらには「物価の美濃部」などと都知事には権限がまるで及ばない領域で力が発揮できるかのような幻想を振りまいた。知事は、政治家なのに「学者」というのはまったく正確な表現ではないが、戦後に天皇機関説が高く評価された美濃部達吉教授の学者一家の長男だったということも当時好評価された。

 美濃部都知事を選んだコストは高額のツケとなって後世にのしかかっている。選挙はAKBの人気投票ではない(そもそも少女歌手の人気投票に「総選挙」などという政治用語を用いるのは大問題だと考えるが、この指摘を寡聞にして聞いたことがない)。

 首長選挙は、特定のある人に権力を与え、ものごとの決定権を与える行為であり、その決定は自分や子ども・孫たちの生活の「いまと将来」に影響を及ぼすのである。

 1995年に選出された青島幸男氏は、東京都の経営方針を何か明らかにして選挙戦を戦っただろうか。当選直後に、都市博を中止した悪行以外に何か功績と言えるものを残したのだろうか。まったく停滞した青島都政を選んだ責任も結局都民が負うしかないのだが、投票行動にその覚悟を持って臨んだとはとても言えまい。奇妙な一致があるもので、この年には大阪でも横山ノック氏が府知事に選ばれている。

 美濃部都政はあらためて総括されるべきだと考える。そのことから今後の首長や国政の選挙にあたっての有権者として持つべき心構えが抽出されるからである。

 
 「『広辞苑』の罠・歪められた近現代史」(水野靖夫・祥伝社新書)には、この辞書が版を改訂するたびに偏向の度合いを増しているとある。確かに説明のあちこちに違和感があり、「広辞苑によると」などと標準辞書とするのは問題が多いと考える。

 この辞書で「美濃部亮吉」を引いてみると「経済学者・政治家。初の革新知事として福祉政策・公害対策を推進」とある。ずいぶん前向きの評価しかないが、本当にこの評価でいいのだろうかと大いに疑問なのである。

 交通の分散に寄与する東京都下の外郭環状道路の整備を止めて、迂回交通を都心に引き込んだまま都心の渋滞と環境悪化を改善しようとせず、そのためその後何十年にもわたって毎年何兆円もの国民経済的損失を出し続けることを決定したのは誰なのだろうか。

 外環道の凍結を決めたのは美濃部都知事であった。彼は「橋の哲学」などと言い「1人でも反対があれば橋は架けない」という言葉があると述べたが、この言葉の続きにある「その代わり川を歩いて渡る自由を享受しなければならない」を省略して用いたのである。

 インフラの効用を理解しようともしないメディアもこの姿勢を支持した。

 いまこの外環道は、2020年のオリンピック・パラリンピックに間に合うのかと問われている。このように、いまでは東京・首都圏の交通渋滞を起こさせないために不可欠な道路だと認識されている事業を美濃部氏はストップさせたのである。

 この事業の再開には多くの時間と決断が必要だった。きっかけとなったのは、扇千景建設大臣と石原慎太郎都知事の現地入りだった。2人はこの路線の重要性を認識し再開を決断したのである。その後、大深度地下利用への都市計画の変更と環境影響評価など、複雑な諸手続を経て、シールド本体の着工という今日を迎えたのである。

 扇大臣が外環道の現地入りしたとき、子どもたちが「公害道路反対」などと書いたスローガン入りの看板を持って座り込んでいた。大臣はすぐに子どもたちを立たせ、「都心に用のない車は他所を走って欲しいと思う人!?」などと言ったものだから、子どもたちは素直に皆「はーい」と言ってしまった。お母さんたちが「子どもたちは自発的に来ているのです」とあり得もしない説明をしながらも、大慌てだったのが鮮明な記憶として残っている。

 加えて美濃部氏は街路整備費を大幅に削って、都市内交通の円滑化を阻止し、大気を汚染し続け交通の安全を損ない続ける判断をした。次の世代の子どもたちが安全に効率的に暮らせる環境整備を大きく怠ったのである。外環道もそうだが街路網形成という「明日への贈り物」を大幅に縮小したのである。残念なことに子どもたちは選挙権を持たないのだ。

 さらに、局長でもないのに局長級給与のポストを濫造し、都職員の人気取りに精を出して都財政に負担をかけたのも美濃部氏だった。この当時革新知事なる知事が大阪などでも誕生していたが、彼らの多くがこのような職員への人気取り施策を行った。

 問題はまだ続く。

 朝鮮大学校認可問題である。美濃部氏は、文部大臣の反対を押し切り、都の審議会の遺憾表明も無視して朝鮮大学校を強引に認可した。この問題は、韓国では「東京都は認可をするな」という反対デモもあるほどの大問題だったのである。

 また、朝鮮総連の施設にかかる固定資産税を大使館並に免税にしたのも美濃部都知事の判断であった。戦後ほぼ一貫して反日的な姿勢をとり、わが国の国益を損なう活動をしてきた人々を優遇する措置を連発したのである。

 思い起こせば、かつて革新といわれた政治家の中には、日本人拉致問題に関して「北朝鮮との国交を回復しなければならないのに、わずか数名の行方不明者が障害となっていいのか」などと、とんでもないことを言う人もいたのだ。「本末転倒」とは、このような言動を指すのにピッタリの形容だ。彼らはいま、わが国では過去の発言に甘い事をいいことに、まるで何も言わなかったかの如く完全沈黙を決め込んでいる。

 こう見てきただけでも広辞苑の美濃部評価は一面的で過大にすぎる。美濃部氏にどのような功があったのかはよくわからないが、後世に甚大な損失を与えている罪の部分にまったく目が行っていないのである。

 美濃部氏が外環道の中止を決めたのは1970年のことであった。この年の国会は「公害国会」と呼ばれたほどに、全国的に公害問題が多発する状況に対し種々の公害対策法が成立した国会であった。要は、美濃部氏はこの社会状況に便乗しただけだったのだ。

 そしてメディアも「清潔な学者」などと煽り、さらには「物価の美濃部」などと都知事には権限がまるで及ばない領域で力が発揮できるかのような幻想を振りまいた。知事は、政治家なのに「学者」というのはまったく正確な表現ではないが、戦後に天皇機関説が高く評価された美濃部達吉教授の学者一家の長男だったということも当時好評価された。

 美濃部都知事を選んだコストは高額のツケとなって後世にのしかかっている。選挙はAKBの人気投票ではない(そもそも少女歌手の人気投票に「総選挙」などという政治用語を用いるのは大問題だと考えるが、この指摘を寡聞にして聞いたことがない)。

 首長選挙は、特定のある人に権力を与え、ものごとの決定権を与える行為であり、その決定は自分や子ども・孫たちの生活の「いまと将来」に影響を及ぼすのである。

 1995年に選出された青島幸男氏は、東京都の経営方針を何か明らかにして選挙戦を戦っただろうか。当選直後に、都市博を中止した悪行以外に何か功績と言えるものを残したのだろうか。まったく停滞した青島都政を選んだ責任も結局都民が負うしかないのだが、投票行動にその覚悟を持って臨んだとはとても言えまい。奇妙な一致があるもので、この年には大阪でも横山ノック氏が府知事に選ばれている。

 美濃部都政はあらためて総括されるべきだと考える。そのことから今後の首長や国政の選挙にあたっての有権者として持つべき心構えが抽出されるからである。

 
 
 
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