ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

改革のテーマ──テレビ局の改革(1)

2005年10月27日 | 文化・芸術
 

 

郵政民営化総選挙で国民の支持を得て小泉自民党が圧勝したことで、改革路線は定着しつつあるといえる。また、野党の民主党の党首に前原誠司氏が就任して、互いに改革を競い合うことによって、改革路線が定着しつつあるのは喜ばしいことである。政治においては前進か停滞かがあるのみで、前進がなければ停滞であって、自転車と同じように改革し前進してこそ国家社会の安定も保たれる。時代の変化に応じて常に改革されてゆくべきものであると思う。

 

いわゆる抵抗勢力が勝利して、政治の主導権を確保していれば、日本社会は停滞と後退とを余儀なくされ、国家的な損失はどれほど大きく、社会もどれほど息苦しいものになっていただろう。
とはいえ、改革についてはいまだ端緒についたばかりであると思う。また、一応の改革の姿勢がとりあえず定着しつつある現在、これからは改革の内容と効率が問われてくると思う。

 

郵政民営化や道路公団の改革も、国民の要求からは遠く、きわめて妥協的な産物となった。一体誰と妥協したのか。そもそも民主主義の国家社会においては、国民全体の意思が政治に実現されるだけの話で、本来、国民的な意思の実現においては、そもそも妥協などありえないのである。妥協があるというのは、抵抗する勢力が力を持っているということであって、こうした現実の存在することが意味するのは、国民全体の意思が実現されないと言う、半民主主義あるいは反民主主義の国家の現実を証明していること以外ではない。

 

犯罪人や政治家や大金持ちや公務員やその他の国民の特権的な一部ではなく、大多数の平均的な「普通の」国民が可能な限りもっとも幸福に生きることのできるようにすることが民主主義の理念と言ってよい。この点からいえば、まだ多くの点で日本国は真の民主主義国家となりえていない。多くの点で障害となっている問題が多い。

 

たとえば銀行の金利の問題などもある。経済の回復という大義のもとに、ほとんどゼロ%に近い預金金利を国民は余儀なくされているが、これはいわば合法的な略奪行為ともいうべきもので、それは普通一般国民の財産である預貯金が収奪されている状況なのである。経済状況が健全化すれば直ちに適正な金利水準に回復されるべきものである。

 

また圧倒的な大多数の庶民の小口預金などから構成される郵便貯金なども、その資産残高などは、もっと平均的な国民や中小企業の産業と福祉に役立てられるべきものである。戦後復興時においては産業基盤の確立のために資金運営部資金として国家経済のために特定産業に優先的に運用されることもやむ得なかったかも知れない。しかし、今日ではもっと中小企業や一般国民の産業や福祉を融資対象として運用されてしかるべき資金である。しかし、そうなってはいないために、中小企業や一般国民は高金利の融資に泣かされることになっている。今後の政治的な課題として銀行や金融の民主化なども課題としてゆくべきだろう。

 

その他にも、医療改革、弁護士制度や裁判制度など法曹関係の改革(裁判員制度など司法制度はいくらか改革されたが)、地方自治体制度や教育制度なども憲法改正と同時に根本から改革される必要のある多くの分野があると思う。

 

また、切実な問題としてマスメディアの改革という課題もある。今日ではメディアとしては新聞、ラジオ、テレビ、それらにさらにインターネットを加えるべきかも知れないが、とりあえず、新聞、ラジオ、テレビの改革も大きな国民的なテーマであると思う。インターネットなどは使い方次第で、大手の新聞が商業上の営業上の理由で伝えられない真実も明らかにし伝えられる可能性をもっている。もちろん、インターネットの現状は、ゴミの投げ合い、阿鼻叫喚のエール、オス猫とメス猫との喚きあいに近いものになってしまっている例も少なくないとしても。インターネットを健全なメディアに育ててゆくのも国民の課題であると思う。

 

特に問題にしたいのはテレビ局である。NHKの不祥事が取り沙汰され、今も受信料不払いなどに尾を引いているが、テレビ放送の腐敗と堕落の問題は何もNHKだけではないと思う。ただ、NHKには国民が受信料を払っているだけに国民の権利意識も強く直ちに問題化したが、その他の民営テレビ放送も、ただ受信料は払ってはいないものの、限られた周波数を優先的に割り当てられ、特権的に放映権を獲得していると言う点で、その公共性はNHKと何ら変わるものではない。国民もまた、NHKのみならずテレビ放送一般の公共性をもっと自覚し、その番組内容の質的な向上のために、もっと積極的に発言し行動してゆくべきであると思う。

 

最近、韓国ドラマがNHKでもよく放送されているが、もちろん、そのこと自体は否定されることでもないが、問題は、NHKの番組製作能力が低下し、NHKの手による優れた質的な内容のあるドラマが放映されなくなったということを問題にしたいのである。私たちは韓国ドラマを見るために受信料を支払っているのではない。NHKも優れたテレビ番組を製作して、もっと外貨を稼ぎ出すくらいの自覚と自主的な努力が必要である。このことは、民間放送にも言える。民間だからと言って、きわめて公共的なメディアを使いながら、国民の総白痴化を促進するだけしか意味のないような番組を垂れ流すことが許されているわけではない。

 

テレビ放送は、現在総務省の管轄下にあると思うが、独占的な放映権のために、優れた番組の製作において競争原理の働いていないことも、番組の質的低下に拍車をかけているのではないか。国民文化に大きな影響を与えるテレビ放送において、もっと楽しく本当の意味で面白い番組を見ることができないのかと思う。テレビドラマの韓流ブームも、テレビ局に対する国民の欲求不満の現われに他ならないと思う。

 

テレビ局のチャンネル開放も含めて、番組放送の質的向上のために、また、番組製作における国際競争力の強化のために、どのような改革が必要であるか、現在の放送制度について調べながら、引き続き考察してゆきたいと思う。また一般国民をふくめて、テレビ文化や国民文化の向上に関心をもつ方々の議論も期待したい。

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小泉首相の靖国神社参拝

2005年10月22日 | 宗教
 

小泉首相の靖国神社参拝が外交問題になっている。小泉首相は公約にしたがって就任以来毎年靖国神社には参拝しているのであって、これまでも靖国神社の参拝も適切に判断すると言っていたのであるから、今回の参拝も当然に予期されたことではある。

哲学に興味と関心のある私のようなものにとっては、小泉首相の靖国神社参拝問題は、国家と宗教の問題として、哲学上の恰好の練習問題でもある。まあ、それは少し不謹慎な言い方であるにせよ、宗教と国家の関係については、終生の哲学的なテーマとして、当然に切実な問題であり続けることには変わりはない。

これまでも、小泉首相の靖国神社参拝問題については、幾度か私自身の見解を明らかにして来た。

「政治文化について」    http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20050731                                               「宗教としての靖国神社①」  http://blog.goo.ne.jp/aseas/d/20050716    
「政教分離の原則を貫く判決に反対する人々」  http://www8.plala.or.jp/ws/e7.html
「靖国神社参拝違憲論争」http://www8.plala.or.jp/ws/e3.html
「小泉首相の靖国神社参拝について」
  http://www8.plala.or.jp/ws/e1.html など。(関心のある方は読んでください)

基本的には考えは今も変わってはいないが、細部において、考えが深まっているかも知れない。今後も、引き続き国家と宗教の問題については、考察してゆきたいと思っている。

結論からいえば、私の立場は、国立の慰霊施設を造るべきだというものである。その理由は、まず、靖国神社が国家に殉じた人々を祭った宗教施設であるとしても、それが軍事関係者に集中していることである。国家のために身命を投げ打った者は、何も軍人のみに限らない。
先の太平洋戦争において国家のために尽くし、その犠牲となった人々は軍人のみに限られない。たとえば、勤労動員中に広島での原爆投下で亡くなられた人々は靖国神社においては慰霊の対象にはなってはいない。また、東京大空襲によって犠牲になられた方々についても同様である。靖国神社を国家的な慰霊施設にするには、そのように公共性に問題があるとも思われる。

もうひとつの理由は、宗教上、思想信条上の問題である。現代民主主義国家としての日本国は、宗教の自由、信仰の自由が認められている。そのために、日本国民は、いわゆる「神道信者」だけで構成されているわけではないということである。なるほど確かに、神道は日本の民族宗教として、日本国民にとっては特別な位置を占めていると言うことはできる。しかし、現代国家としての日本国の国民の中には、キリスト教徒もいればイスラム教徒もいる。また、靖国神社参拝に躊躇する仏教信者もいるだろう。それに無神論者、唯物論者もいる。要するに、現代国家の国民は、その宗教も多様であるということである。国際化した今日はいっそう多様化してゆくと考えられる。

そうした状況では、国家としての慰霊のための施設は、特定の宗教から独立した施設であることが好ましい。靖国神社が特定の教義と儀式を持つ宗教である限り、国家の機関である内閣総理大臣が職責として国家のために殉じた人々のために慰霊する場としてはふさわしくない。

実際に、靖国神社は戦後は一宗教法人になっているのであって、多くの株式会社と同じように、国家とは独立に、自らの宗教活動そのものによって参拝者を増やす努力をしてゆけばよいと思う。その活動の自由は完全に認められている。小泉首相にも、もちろん、一私人として、靖国神社に参拝する自由は完全に保証されている。しかし、国家の機関として内閣総理大臣の立場としての参拝であれば、いくつかの裁判判例で疑念が示されているように問題が多い。

だから、今回の参拝のように、小泉首相が一私人の立場であることをより明確にして、一般参拝者と同じように参拝したことについてはまったく問題はない。もちろん私人小泉純一郎氏と内閣総理大臣は切り離せないから、その影響力は避けられない。それはひとつの限界である。

政教分離の思想は、宗教と国家が癒着することによる自由の束縛、あるいは侵害に対する歴史的な教訓から生まれた。特に西洋では多くの宗教戦争や迫害という歴史が背景にある。思想信条、宗教信仰の自由、言論の自由など、いわゆる「自由」は精神的な存在である人間にとって、基本的な人権の最たるものである。これが侵害されることは、人間の権利の最大の侵害になる。自由の価値を自覚するものは、宗教と国家の分離に無関心ではいられない。特に、わが国のように戦前にいわゆる国家神道として、国家と宗教が深くかかわった歴史的な体験をもつ国家において、また、国民の間に自由についての自覚がまだ成熟していない国においては、政教分離の原則を今後も五十年程度は厳しく貫いて行く必要がある。

宗教は国家の基礎である。だから、真実な宗教である限り、国家は宗教を保護しその宗教活動の自由を保証しなければならない。したがって、靖国神社も他の宗教法人と同様に、国家から税法上その他の特別な取り扱いを受けているはずである。国家は自らの法津に従い、オーム真理教のように違反して敵対的にならない限り、諸宗教に対しては自由に放任し、寛容でなければならない。それがもっとも国民にとって幸福な関係である。

最近の一連の「靖国神社参拝」訴訟で、最高裁をはじめとして、総理大臣の参拝が、国家としての宗教行為に該当するか否かの判断の基準として「目的効果基準」の考え方が採用されているが、これは、判断基準としては必ずしも適正な概念ではない。この概念の根本的な欠陥は、何よりも「何が宗教的な行為であるか」についての判断が、裁判官の恣意裁量に任されてしまうことである。また、それは政教分離の思想の歴史的な由来にも合致していない。あくまで、「靖国神社参拝」の違憲訴訟においては、国家の宗教の分離という観点から、国家の宗教に対する中立性が、違憲、合憲の判断基準でなければならない。

最後に、首相の「靖国神社参拝」が中国や韓国との関係で外交問題にまでなっていることについて。もし、中国や韓国が一私人の小泉首相の思想信条の自由を侵害するものであれば、むろん、私たちは小泉首相個人の信仰上の自由を擁護しなければならない。特に中国など政教分離がいまだ確立しておらず、自国民の宗教の自由をどれだけ保証しているかについて重大な疑念のある国家においては。
しかし、また、先の太平洋戦争において、旧日本軍兵士の一部の間に、実際に国際戦争法規違反の事実があり、アジアの多くの無実の非戦闘員に対して惨害をもたらしたことも歴史的な事実である。その点で太平洋戦争の戦争指導者たちの責任が問われるのはやむを得ない。また、靖国神社にいわゆる「A級戦犯」が祭られていることからくる、そうした誤解を近隣諸国から受けるのを避けるためにも、宗教から独立した、そして、日本国民のみならず、日本国に関係した諸外国民をも含む慰霊施設を用意すべきであると思う。その一つの例として、沖縄の「平和の礎」があると思う。

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小泉首相は英雄か

2005年10月01日 | 政治・経済
 

およそ英雄とか偉人と呼ばれる人は、彼と同じ時代を生きた人々の、民衆の求めているもの、欲しているものを、しかも、彼らが言葉に言い現せないものを、彼らに代わって言い表わし、また、それらを実行して実現すると言われる。

だとすれば、先の郵政総選挙で国民の圧倒的な支持を受けて自民党を勝利に導き、構造改革を進め、郵政民営化を実現しようとしている小泉首相は英雄なのではないだろうか。

小泉首相までの日本の内閣総理大臣は、率先して指導力を発揮しようとせず、官僚のお膳立てにのって、一部の階層や利益団体の利益を代弁するだけで、切実な民衆の声を、国民の声を聞き届ける耳を持たなかった。その一方で、野党も空念仏を唱えるばかりで、国民の付託にこたえようとする真摯さもなく、野党の地位に安住し、その無能力、無責任を恥じようともしなかった。

官僚や一部の族議員がその特権をほしいままにする中で、国民は高い道路通行料を支払わされ、今の世代だけでは到底払いきれない膨大な借金を子供たちに付け残すという国家財政の破綻を前にして、不幸な国民は、いったい誰に、どの指導者に自分たちの未来を託してよいのか途方に暮れていたのである。

そうした情況の中で小泉首相はそれまで誰も手をつけようとしなかった、「道路公団」や「郵政公社」の民営化という困難な課題に取り組もうとした。たしかに、これまでの首相職を担ってきた歴代の自民党の総裁の中では、誰一人、時代の声を聞き取る耳を持つものはいなかった。彼らに比べれば小泉首相は英雄としての要素を多く持っていると言える。

何ら為すすべを知らない、統治能力を失ったかのような政府や官僚たちに代わって、それまで永田町では変人と言われ、それまで権力の中枢を担ってきた田中角栄の派閥系統からは遠く位置して来た、群れない一匹狼のこの小泉首相に、自民党総裁選挙でようやく国民は希望を託そうとした。

 

しかし、小泉首相は党内の族議員や官僚たちの厚い壁に阻まれて、彼の構造改革路線は、道路公団や郵政公社の改革でも、妥協に妥協を重ねて来た。しかし、それでもなお、小泉首相の言ういわゆる「抵抗勢力」は、首相の妥協に満足せず、ついには、参議院で「民営化法案」を葬り去ることによって、ついには小泉首相の政権さえ潰しにかかったのである。

 

さすがにここに至って、小泉首相は「抵抗勢力」との妥協を断念せざるを得なかった。この点で、先の郵政総選挙は首相にとっては受身の選挙であった。もし、小泉首相の改革の意志が強固で、妥協を許さないものであったなら、国民の民意を問う総選挙は、もっと早い段階で行われ、自民党ももっと早く分裂せざるを得なかっただろう。

 

要するに私の言いたいのは、小泉首相が英雄としての資格を持つためには、もっと改革の意志が強固で、より妥協なきものでなければならなかったのではないかということである。

とはいえ、これまでの首相の中で、小泉首相ほどはっきりと国民の声を聴こうとした首相はいなかった。民主主義がたとえ一国の国是になったとしても、国民の意志を、民意を実現しようとする指導者が、英雄がいなければ、それは、建築されない家屋の青写真に過ぎない。英雄をもち得ない国民ほど不幸なものはない。小泉首相はそのことも明かにしたのではないだろうか。

いずれにせよ、小泉首相についての歴史的な評価については、もちろん私のような一個人の賢しらしい判断ではなく、後世と歴史そのものが行うだろうが。

 

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