ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

自由民主党の解体と戦後日本の終焉

2008年04月29日 | 政治・経済

補選敗因は「後期高齢者」…でも制度見直しせず 町村氏(朝日新聞) - goo ニュース

今回の衆議院山口県第二区補欠選挙における自由民主党の敗北は、歴史的に大きな意味をもつものと考える。また、日本国民はそれを歴史的に意義のある転換点として行く必要がある。

どのようにして、この補欠選挙の民主党の勝利を、歴史的な転換点の始まりとして行くべきか。それは、この選挙を自由民主党の政党としての崩壊の始まりとして行くことによってである。

自由民主党こそが、日本の戦後政治の大枠を作ってきた。良くも悪しくも、この政党が太平洋戦争の敗北後の日本の命運を握ってきたといえる。たしかに、吉田茂以来、戦後の日本の平和を実現し、経済大国に作り上げてきたその功績は正当に評価されるべきだろう。しかし、また現在に至るこの政党による官僚政治の行き着いた否定的側面こそが、日本社会の行き詰まりの根源になっている。この政党を崩壊させることによって、真実の意味で日本の戦後体制を壊滅させ、日本国の再生の契機として行く必要がある。

戦前の翼賛体制主義者と右翼暴力団によって創設されたこの偽善的な自由民主党の崩壊は、日本国にとっては真実の自由と民主主義の出発点になる。この自由民主党が崩壊することによって、現在の小沢民主党の解体をも巻き込んで、日本の政界は再編される必要がある。それによって、日本の政党政治が、従来の道路族にみられるような利益談合型政治から、自由と民主主義を追求する理念実現型政党政治へ転換して行かねばならない。そのためにも現在の政界は、自由主義者の結集する自由党と民主主義者の結集する民主党へと分裂し、また再編されなければならない。

それと同時に、敗戦後のアメリカ統治による戦後日本の東京裁判体制をも哲学的に清算し、戦前を引きづった官僚政治国家体制の根本的な改造も実行して行かなければならない。東京裁判のような戦勝国、占領国の手による裁判ではなく、日本国民自身の手によって戦前の政治家、軍人たちの日本国民に対する過失と犯罪を法廷の場で検証することによって、日本国民自身が太平洋戦争を今一度総括し清算してゆく必要がある。

日本国の国家体制を大日本帝国憲法下の戦前の体制に還元し、戦後にアメリカによって実行された民族解体、国民意識のアメリカナイズ化、植民地的政治体制を清算して、日本人自身の手による主体的な国家改革の端緒として行く必要がある。それによって醜悪な戦後政治体制を清算し、真実の自由民主主義国家体制がどのようなものであるかを、日本国民に実感できるものにしてゆかなければならない。

 

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『法の哲学』ノート§2

2008年04月26日 | 教育・文化
『法の哲学』ノート§2

§1で哲学的法学の対象が、法の概念、すなわち自由とその実現過程にあることを述べた後、法学の端初について説明する。哲学的な法律学は、法の概念とその進展を問題にし対象にするから、この法律学においては当然にその始元が問題になる。

こうした問題意識を持つのは、ヘーゲルの哲学が何よりも科学を必然性の追求として捉えたからで、そして哲学の端初は、無前提にして絶対的な端初でなけれな必然的とはいえない。

ここで述べられているように、ヘーゲルにおいては法学は、精神哲学の中の客観的精神に位置づけられ、この客観的精神自体もそれに先行する段階の概念から演繹され必然的な成果として現れたものである。それゆえ法学も理念としてはそれに先行する前提を持つものである。だからヘーゲルの哲学的法律学は、自己の出生の由来も知らずにひたすら狭い井戸の中で自己満足している実証的法律家や数学者とはちがうのである。

事柄の概念的な把握を科学と考えるヘーゲルは、法律学の端初について考えるのにちなんで、この§2の補注においても哲学の端初を問題にして触れている。法律学や物理学などの他の諸科学と異なって、哲学は絶対的に必然的な、しかも無条件、無前提であるがゆえに相対的な始元を持たなければならない。この科学的哲学における始元の問題については、すでにこの「法の哲学」に先行する「大論理学」の緒論でヘーゲルは詳説していたが、それをヘーゲルはここでも繰りかえす。

しかし、実際に世界のあらゆる存在はすべて媒介されたものであって、絶対的に無条件に直接的な端初はありえない。とはいえ始元がなくして世界はどうして存在するのだろうか。この問題はほんらい、世界の二律背反の問題と同じであって、この矛盾をヘーゲルの哲学は円環の中の一点に端初を見いだすことによって解決する。

こうして絶対的な哲学の方法と、それとは異なる他の悟性的科学や実証法法学と、科学としての方法のちがいを補注の中でさらに注釈して行く。なぜなら、この科学の方法論こそがヘーゲルの独自とするものであって、彼の自負するところのものでもあったからだ。

ふつうの科学では、たとえそれが感覚や表象にもとづいたものであるとしても、その対象についての定義が要求されるのに、実証法的法学はその定義すら重要視されないと言っている。なぜなら、実証法的法学においては、事柄が合法か非合法か、犯罪か無罪かさえ明らかになればよいからである。ちょうど日本国憲法で自衛隊は軍隊か否かその定義について、八百代言のような政治家の言い分がまかり通るのと同じである。この同じ注釈のなかで、ヘーゲルが古代ローマ社会においてはなぜ人間の定義が不可能であったのかを、その社会の抱えていた矛盾によって説明してるのは卓見で、今日の日本政府にはなぜ自衛隊の定義が不可能であるのか考えあわせると興味深い。

ここでヘーゲルが、他の普通の悟性科学がその科学の方法として行う概念の定義と、概念を必然的に進展するものとして捉える哲学の方法における概念の定義と、その区別について述べているところは、ヘーゲル哲学の本領を示すものとしてきわめて重要である。

この哲学的な認識においては、「概念の必然的な進展」が主要な問題であり、その成果の生成過程の説明が概念の証明として演繹されることになる。これこそがヘーゲルの功績としたところであり、それによって、哲学的認識が、単なる臆見や主観的な内心の確信や俗見の思いこみなどではなくて、「理性」や「理念一般」を対象とする科学となったのである。

ヘーゲルが哲学において何よりも「概念の形式」を要求し、証明という「認識の必然性」を求めたことには、当時の一般の風潮から、単なる主観的な「感情」や「信仰」といった「恣意や偶然性の原理」から哲学の品位を守ろうとしたためである。それはまた、プラトン、アリストテレスに由来する古代ギリシャ哲学の伝統の復興でもあった。
 
 
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『法の哲学』ノート§1

2008年04月25日 | 政治・経済
『法の哲学』ノート§1

この『法の哲学』の緒論で、まずヘーゲルは「哲学的な法律科学」が考察の対象としているのは、「法(Recht)=正義」の「概念(Begriff)」、およびこの概念が現実に具体化してゆくその過程であることを明らかにする。

この節の中の補注で、ヘーゲルはイデー(理念)を概念と言い換えている。科学の対象である概念は、普通に人々が考えているような「悟性規定」ではなく、この概念は現実において具体化して行くものである。この概念をわかりやすく説明するために、ヘーゲルは心と身体をもった人間という表象にたとえる。概念が人間の心であるとすれば、概念の具体化されたものが身体にほかならない。

心も身体も同じ一つの生命ではあるが、しかし、心と身体は区別されてもいる。

またさらに、概念とその現実化、具体化を種子と樹木にもたとえている。
概念とは樹木の全体を観念的な力として含んでいる萌芽(種)であり、それが完全に具体化されたとき、現実の樹木全体になるのである。人間の概念は心であり、樹木の概念が種子である。

それに対して、法の概念は自由であるとヘーゲルは言う。そして、この法の概念である自由が具体化され実現されたものが、現実の国家であり憲法であり民法や刑法などの法律の体系である。ヘーゲルの「法の哲学」は、この自由の概念が具体化され必然的に展開されてゆく過程そのものを叙述し論証してゆくものである。

やはり、ここで注意しなければならないのは、ヘーゲルにおいては「概念」という用語が、普通に一般の人たちに使われているような「単なる悟性規定」の意味ではなく、やがて萌芽から樹木全体にまで進展してゆく可能性を秘めた観念的な種子として、理念と同義に使われていることである。

そして、それが現実に具体化されて存在と一つになった概念、それが理念である。だから理念とは単なる統一ではなく、概念と実在の二つが完全に融合したものであり、それが生命あるものである。
 
 
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国家指導者論

2008年04月09日 | 日記・紀行

国家指導者論

まだ断片的にしか読み始めてはいなけれども、ただ樋口陽一氏らの憲法学者の思想を読んでいて感じることは、一言で言うと樋口氏ら憲法学者や法律家の思想があまりにも悟性的であるということだろうか。

「悟性的」とはどういうことであるか。このことを考えるのに、それとは対概念でもある「理性的」という概念と比べてみればいいと思う。ここでは比喩的にしか言えないが、「理性的」であることとは、その思想を衣装にたとえれば、縫い目の見られない天衣無縫の天女の着ている着物であると言えようか。論理が必然的で円環的かつ体系的である。それに対して「悟性的」とは、つぎはぎだらけにその破れを繕った、三流役者の舞台衣装のようなものだと言うべきか。

要するに、悟性的な三文学者の思想には、有機体としての生命感や完全性を感じられないのである。たしかに、彼らの衣装の一部は派手で、思想の一部は真実を語っているにはちがいない。しかし、それは、どうしても部分的な真実にしか過ぎないものである。だからその主張はどこか偏頗で、いつかその弊害や副作用が現れてくるような印象を受けるものである。

樋口陽一氏たちの憲法学は、ヘーゲルの『法哲学』などを十分に解釈研究した上で構築された理論だろうか。現在のところは直感的ではあるが、とてもそうであるようには思えないのである。そして、そのことは樋口陽一氏らの憲法学流派の致命的な欠陥となっているようにも思える。また、そうであるなら、その結果として、彼らの憲法観が国家としての日本や日本社会や国民に及ぼすその文化的な悪影響の側面は、事実として少なくないように思われるのである。少なくとも、マルクスなどは、その試みが成功したか否かはとにかく、ヘーゲル哲学をアウフヘーベンしなければ近代以降の哲学や憲法は成立しないという意識を持っていた。

国民の税金で運営されている国立大学程度の教授であるならば、少なくともそれくらいの見識はもっていただきたいものである。プラトンはその『国家論』のなかで、国家の指導者たるものは「弁証法の能力を教養として体得しているべきである」と語っている。それと同じように、近代国家の指導者であろうとするものは、最小限でもヘーゲル哲学、とくにその「法哲学」くらいは、教養として身につけていなければならないだろう。大学や大学院がせめてその責任を果たすべきである。

今日の日本社会の低迷の根本的な原因には、この憲法学者の樋口陽一氏をはじめとする大学教授たちが、少なくとも日本国のエリートたるべき人材の育成について、国民に対して十分にその責任を果たしてゆく能力を持ち得ていないということがあるのではないだろうか。

プラトンではないけれども、国家に対して指導的な人材を育成するような大学においては、少なくともヘーゲル哲学を中心とする、『弁証法の能力』を確立させるということを自覚的な教育目標として追求してゆくべきである。政治家をはじめとして、現代の日本の国家的指導者の資質、能力はあまりにもお粗末である。

どれくらいに時間を要するかは分からないけれど、引き続き日本国憲法などの問題点については検討してゆきたいと考えている。

(短歌日誌)

夕暮れの街を自転車で走り抜けて小畑川の橋の上にさしかかったとき、眼下の川岸に桜並木を眺めて


夕暮れて  桜雲     薄墨に染まりゆきし    

                      棚引きて中空に流れ行く
 

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