ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

‘Only democracy can defeat Pakistan’s extremists’

2007年09月26日 | 国家論

「自爆テロ犯の脅しに屈するために生きてきたのではない」
ブット元首相寄稿――フィナンシャル・タイムズ
2007年12月29日(土)21:35
 
ブット元首相暗殺
 
・パキスタン、瀬戸際に ひび割れた国はどう揺れる

 
 
(フィナンシャル・タイムズ 2007年10月21日初出 翻訳gooニュース) ベナジル・ブット

(訳注・本稿は12月27日に自爆テロで殺害されたパキスタンのベナジル・ブット元首相が10月、フィナンシャル・タイムズに寄稿したものです。寄稿の2日前には、帰国直後のブット氏をねらった自爆テロが南部カラチであり、多数の死傷者が出たばかりでした)

パキスタンの過激主義者を倒すには、民主主義しかない。

私は自爆テロ犯の脅しに屈するために、これまで長いこと生きてきたのではない。パキスタンでは今、次の世代の国民の感じ方や考え方を誰がどう決めるかをめぐって、熾烈な戦いが繰り広げられている。この戦いは、民主国家としてのパキスタンの未来を決する戦いだ。

次世代のパキスタン人は、穏健主義か過激主義のいずれかを選ぶことになる。教育を選ぶか、文盲を選ぶか。独裁か、民主主義か。寛容か、差別主義か。そしてパキスタンは、平和か、あるいは戦争を選ぶのだ。私は今週、民主主義のための戦いの先頭に立つ目的で、パキスタンに戻った。そして今、多くの支援者たちの血が道を染め、私たちの服を染めている。その中で私は改めて、民主主義の価値観に忠誠を誓う。

過激派が私を敵視して恐れているのは承知している。1980年代にパキスタンを支配した過激主義の独裁者、ジア・ウル・ハック将軍はかつて言った。彼の人生最大の過ちは、機会がある内に私を殺さなかったことだと。

パキスタン国民の未来を決める戦いは、あらゆる町村、あらゆる街角で激しく繰り広げられている。カラチ空港に集まった群衆は、恫喝や危険にもかかわらず、距離をものともせずにあちこちからやってきてくれた。彼らこそ、真のパキスタンの顔なのだ。穏健中道なパキスタンの顔だ。

パキスタンがこれからどの方向に進むのか。それは年末に予定されている、公平で自由な選挙で決めるべきだ。過激派は、あらゆる血なまぐさい手段や道具を駆使して民主主義の道を攻撃し、妨害しようとするだろう。過激派は、人々の集会や表現の自由を妨害するために暴力を使い、私たちのこの国が民主主義へ移行する過程から人々をはじき出そうとするだろう。

私に対する攻撃は、単に私個人に向けられた攻撃ではない。それは、パキスタンに民主主義を望む全ての政治勢力に向けられた攻撃だった。パキスタンそのものを攻撃したのだ。全市民の人権と政治的権利を攻撃し、政治プロセスそのものを攻撃したのだ。

私をねらった自爆テロは、私たちの社会の全ての政党を威圧し、脅迫することを意図したものだ。市民社会に参加する全員への警告だった。

過激主義は、独裁の下でこそ栄える。穏健主義とか民主主義の下では、過激主義は力を失ってしまうと、彼らは分かっているのだ。なので連中は何としてでも、穏健主義と民主主義をつぶしにかかってくる。

カラチで先週、140人を殺害した人殺したちは、イスラムの教えの根幹にあるものを犯した。イスラムの法律は、非武装の民間人や無辜の人々をいわれなく攻撃すること、財産を破壊することは、ともに明確に禁じている。彼らのしたことは、「ヒラバ(社会に対する戦い)」に相当する。過激派は、飛行機をハイジャックすることはできるかもしれない。しかしイスラムの教えをのっとることはできないのだ。

民主主義は、軍閥たちが唱える過激主義の政治からパキスタンを救うことができる。過激派はそれが分かっている。だから、政治プロセスを攻撃し、司法当局に挑戦することで、パキスタンという国家をのっとろうとしているのだ。

しかし連中は、民主主義とよりよい未来を夢見る貧しいパキスタン国民の夢や希望を殺りくすることはできない。国際社会は、カラチで10月18日に起きたテロ攻撃を非難し、犠牲者の遺族と共に悲しみ、負傷者の早期回復を共に祈った。

私たちの思いと祈り、そして悼みは、命を投げ出した人たち、負傷した人たち、そして彼らの家族と共にある。彼らは民主主義と基本的人権のために究極の犠牲を払ったのだ。神が、永遠の平安の内に彼らの魂を憩わせて下さいますように。

犠牲になった勇敢なる市民たちのために築くべき最大の慰霊碑とは、確固として強く生命力にあふれ、中庸で民主的なパキスタンの成立なのだ。


<筆者は、パキスタン人民党の党首。1988年~1990年と1993年~1996年にかけてパキスタン首相を務めた。10月18日に帰国した直後、筆者を狙った自爆テロ攻撃があり、支援者130人以上が死亡、500人以上が負傷した>
 
‘Only democracy can defeat Pakistan’s extremists’

Benazir Bhutto

 I did not come this far in life to be intimidated by suicide bombers. There is a battle raging in Pakistan for the hearts and minds of a new generation. It is a battle for the future of Pakistan as a democratic nation.

The new generation will choose moderation or extremism; it will choose education or illiteracy; it will choose dictatorship or democracy; it will choose tolerance or bigotry; and it will choose peace or war. I returned to Pakistan this week to lead the fight for democracy. With the blood of my supporters on the streets and on our clothes, I reaffirm my commitment to these values.

I know that the militant forces fear me as their enemy. General Zia-ul-Haq, the extremist dictator of Pakistan in the 1980s, once said that the greatest mistake in his life was not killing me when he had the chance.

The battle for the future of the people of Pakistan rages in every village and on every city street corner. The crowds that gathered at Karachi airport came from far and wide, despite the threats, despite the risk it carried. They are the real face of Pakistan, the moderate middle.

The future direction of Pakistan should be settled through fair and free elections, scheduled for later this year. The extremists will use everything in their bloody arsenal to strike and obstruct the cause of democracy. They use violence to block the people’s freedom of association and expression, to turn them away from our nation’s transition to democracy.

The attack on me was more than an attack on an individual. It was meant as an attack on all the political forces in Pakistan that want democracy. The attack was on Pakistan itself. It was an attack on the human and political rights of every citizen and on the political process.

It was intended to intimidate and blackmail all the political parties in our society. It was a warning to members of civil society.

The extremists thrive under dictatorship; they know that moderation and democracy is their undoing. They will stop at nothing to undo both.

The murderers who killed 140 people in Karachi last week violated the very heart of the Islamic message. Muslim law makes it absolutely clear that unprovoked attacks on unarmed civilians and innocent people and the destruction of property is prohibited under Islam. Their actions are hiraba (war against society). They may hijack aircraft but they cannot hijack the message of Islam.

The militants know that democracy can save Pakistan from the politics of extremism preached by warlords. They are trying to take over the state of Pakistan by attacking its political process and challenging its law enforcement.

They cannot murder the dreams and hopes of the poor people of Pakistan of democracy for a better future. The international community has condemned the terrorist attacks of October 18 in Karachi, grieved with the families of the dead, prayed for the early recovery of the injured.

All our thoughts, prayers and sympathies are with those who laid down their lives, or were wounded, and their families. They made the ultimate sacrifice for the cause of democracy and the fundamental rights of the people. May God rest their souls in eternal peace.

The greatest memorial to these brave citizens will be a strong, viable and moderate democratic Pakistan.

Published: October 21 2007 18:53

 

The writer is leader of the Pakistan ­People’s party. She was prime minister of Pakistan from 1988 to 1990 and again from 1993 to 1996. On her return to the country last week, she survived a suicide-bomb attack that killed more than 130 of her supporters and injured more than 500

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悲しき教育現場

2007年09月25日 | ニュース・現実評論

教師がいじめ認識? 生徒ら漏らす 神戸・高3自殺(神戸新聞) - goo ニュース

「下半身写真ネットに」神戸自殺生徒、遺書に記す(産経新聞) - goo ニュース

相変わらず、教育現場で「いじめ」はなくならないようだ。「石川や浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ。」で人間から悪の種は尽きることはない。それにしても、こうした事件は、防ぐことはできるし、自殺に至るまでに何とか手を打つ手立てはあったはずであると思う。とくに生徒の教育管理に直接当たる学校関係者の責任は重大である。

以前にもこうした問題についていくつか論じたが、その原因の大きな根本は、国家がその共同体としての性格を敗戦をきっかけに失ってしまったこと、それ以来、国家として、国民に対する倫理教育ついての配慮をほとんど行ってこなかったことにある。いまだ国家としての倫理の基準を確立できないでいるためである。

こうした問題について、いまさら「教育勅語」を復活させることができない以上、「民主主義」を倫理として確立する以外にないことは、これまでにも繰り返し語ってきた。しかし、いまなお、今日の教育関係者のほとんどにはそれを切実な問題意識としてもつ者はいない。これでは、いつまでたっても教育現場にその根本的な治療改善は望むべくもない。しかし、長期的な取り組みとしてはそれ以外に改善方法はないのである。それを放置して、いつまでも問題の解決を遅らせ、多くの児童、生徒を悩ませ続けるか。

ただ、短期的な対策としては、不幸にもこうした事件が生じた時には、今回の生徒の遺族は、加害生徒、保護者、学校関係者に対して、法的な責任を民事的にも刑事的にも追求しうる限り、徹底的に追及してほしいと思う。

それは、今日の学校教育関係者の――校長や教頭などの現場教員のみならず、文部科学大臣、教育委員会などの教育公務員の無責任、無能力を改善してゆくためにも、必要な措置であると思う。ご遺族の方々は、悲しみを乗り越えてそうしてほしいと思う。

民主主義を倫理教育としての観点から教育するという問題意識を今日の教育者はほとんどももっていない。その研究も行われていない。今一度正しい民主主義教育を、その精神と方法の両面にわたって充実させていってほしい。そして、いじめの問題などは、クラス全体の問題として、民主主義の精神と方法によって解決してゆく能力を教師、生徒ともども向上させてゆくべきなのである。

クラス全体にそうした問題解決能力のないこと、失われていることを、今回の事件も証明している。しかし、教師、児童、生徒たちの倫理意識の低さは、やがて結局は、自分たち自身がその責めを負うことになる。

         「いじめ」の文化から「民主主義」の文化へ

                 民主主義の人間観と倫理観

          学校教育に民主主義を

 

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「韓流ブーム」

2007年09月07日 | ニュース・現実評論

先の記事「瀬島龍三氏の死、古い人、新しい人」を投稿しましたところ、ある方から(女性だと思います)次のようなコメントをいただきました。

引用


はじめまして
記事を読ませていただきました。
なるほど、戦前の日本だからこその人間形成があるんですね。

昭和50年ごろだったと思います
映画監督たちの対談で戦争映画の俳優選びで悩んでいました。
「日本は豊かになり俳優たちは、きらきらと明るく満ちたりと瞳の者ばかりだ、食いつようなハングリーな顔つきの俳優がいなくなって、兵士役がいなくなった。」

そうですよねえ~~
昔の戦争映画、兵士が女性の順番をずら~~~っと
並んで、はやく!といいながら並んでいる映画。
あの頃の戦争映画はみんな痩せて飢えた俳優さんがいました

・・・・・・ YM
 >

このコメントを読んだとき、すぐに、少し昔に『冬のソナタ』などのテレビドラマでブレイクした「韓流ブーム」の社会的な背景について少し思い当たる点のあることを連想しました。

それは、現代の日本女性の多くが潜在的に不満不信の感情をもっているらしいことです。これだけ社会は豊かになっても必ずしも多くの女性は幸福感を持って生きているようでもないらしいことです。そして、その背景に彼女たちの父や兄などの日本の男性観に対する潜在的で根源的な不信感があるようにも思いました。それで、私は彼女に次のようなコメントを返すとともに、「韓流ブーム」にある日本の社会的な背景の問題をさらに考えてみたものです。

引用

YMさん、はじめまして
コメントありがとうございました。

そうですね。そうして、戦後の日本人は、私たちの父であり兄であり弟でもあった戦前の日本人の醜い面ばかり教えられて育ってきたのですね。彼らにそうした面がなかったとは言いません。

それは日本人だけではなく、満州で私たちの母や姉が体験したように、ロシア兵も中国兵も極限状態におかれた弱い男の多くが同じように犯す過ちです。

気の毒な日本人兵士の「汚点」ばかりをあげつらうのは、きっと戦後の日本人女性の思いやりの深さなのでしょうね。
 
・・・・・・ SR

「韓流ブーム」が示すもの

まだこの流行がどれほどのものかよくわかりません。一時期ほどの勢いはなくなったかも知れませんが、それでも今も、GOOブログなどでは韓流スターという項目があるし、そうしたサイトなどへのアクセス数などから言っても、このブームの根はまだなくなってはいないのではないでしょうか。

ブームというのは熱病のようなものです。もともと何かを信じることなくしては人間は生きることのできない動物ですが、とくに女性についてそれが言えると思います。時には熱病のように信じるものを求めます。しかし、海外のイスラム教国やキリスト教国のように、これといった特別の社会的な伝統的な信仰文化というものを持たない現代日本の多くの女性たちは、そうした信仰の代用として、ブランド品やアイドルや「韓流スター」を追い回すか、あるいは、怪しげな新興宗教に夢中になるか、セックスの一時の快楽におぼれるなどして、その満たされない渇きを癒そうとするのかもしれません。

こうした現象にも、現代の日本社会のさまざまな問題点が浮き彫りにされているように思います。そこにはやはり事実として、その背景に現代の日本の男性の多くに魅力がなく、そのために日本女性の多くを満足させることができないでいるという現実があるのでしょう。

とすれば、それではなぜ日本の男たちは女性たちに魅力がないのでしょうか。先の記事で由美さんという方からコメントをいただいたとき、この問題についてふと思い当たるところのあるような気がしました。それは、先の太平洋戦争で日本が未曾有の敗北を喫して以来、その戦後にかっての日本の軍隊、軍人が徹底的に貶められたということがあったということです。もちろん、あれほど尊大で傲慢になって肩で風を切って歩いて偉ぶっていた者も多かったかっての日本軍人が、敗戦をきっかけに国民からすっかり信用を失ったのにも実際に無理もない一面もあると思います。

それに、とくに敗戦後は、社会主義や共産主義が大きく勢力を伸ばした時代であったし、そうした立場に立つ人々は、かっての日本軍や日本軍人を、そして、靖国神社などを「軍国主義」の象徴として、眼の敵にしてきたともいえます。そして、一方で日本の軍人たちは日本の男たちの象徴でもあったから、軍人と日本の男がさげすみの対象として二重に映ったとしても仕方がなかったともいえます。

それは、日本をアメリカにとって二度と敵対できない国家にするというマッカーサーの占領政策とも一致しましたから、あらゆる手段、あらゆる機会を利用して、戦前の日本軍と日本軍人に対して、その信用を失墜し、軽蔑の対象とするような政策がとられました。それにまた、旧日本軍のなかに実際ににそのように扱われてもしかたのない一面もありましたから、そうして、日本においては完全に軍人や軍隊は信用を失墜させられていったのだと思います。それに応じて日本の男もその価値と魅力を失っていったといえます。

先にコメントを寄せてくださった由美さんなども、そうした教育を受けた戦後世代の典型の女性のように思います。軍人といえば「売春宿」の前で眼の色変えて列をなす男たちというイメージです。そうして、そんな我が夫の、また父であり兄であり弟の姿を、潜在意識の中に育てていった多くの日本の女性にとって、日本人男性は不信と軽蔑の対象になっていったのだと思います。

しかしそれは、何も現代の太平洋戦争だけではないと思います。戦国時代の武士たちにしても、フビライハンに征服された十二世紀のロシアの男たちにしても、すべて戦争に敗れた男たちは妻子をまともに守ることができませんでした。だから、敗残兵の男たちには妻や娘たちから見離されてもやむを得ない面があります。戦後しばらくの間は、生活のためもあって、多くの日本人女性たちが国際結婚によって海外に渡っていったこともあります。もちろん、大和撫子としての矜持を守った日本女性も多くいたことは言うまでもありません。

そしてまた、戦後の日本は「平和憲法」を後生大事に戴くことによって、戦争のできない国になりました。戦争に懲りた多くの国民がそれを歓迎したことも事実です。その結果、一方では、たとえば北朝鮮に同胞が拉致されても、日本の男たちは、政治家たち、軍人たちも、長い間、見て見ぬふりをし傍観を決め込むしかなかった。それに気づいていた日本の女性は、口に出して言うかどうかはとにかく、そんな男たちの姿にも愛想も尽かしたでしょう。日本の男たちは、自国の防備でさえアメリカの青年たちに任せっぱなしで、それで自分たちは何をしているのかというと、ただひたすら商売に眼の色変えて忙しく、あるいは怪しげな海外ツアー、エロ、グルメなどの生活で娯楽と享楽三昧です。

そんな日本の男たちと比べて、韓国の俳優たちは、みんな兵役の義務を果たして、そこで国家の中に生きるということに気づかされ、そして凛とした一人前の男として鍛えられて帰ってくるのですから、日本の女性たちが、韓国人スターに血道をあげるようになるのも無理はないでしょう。

実際こうした問題も深刻だと思いますが、さらに「韓流ブーム」にはもう一つの問題も、示されていると思います。それは、テレビや新聞などの日本のマスメディア文化の問題です。

それは、はっきりいって、NHKをも含む日本のテレビ局、プロデューサーが、まともなドラマ制作能力をまったく失って、視聴者の要求にこたえられなくなっているという事実です。どうしてそうなったのか、その理由はいろいろあると思いますが、もっとも大きな理由は、NHKと民放各局とともに、現行の電波法の上にあぐらかいて独占的で無競争の刺激のないインセンシティブな体質になってしまったためだろうと思います。かっての国鉄も、郵便局も、電電公社もすべて、ある業界を既成の企業・利益団体だけが独占して、そこに競争の原理が働かなくなると、その業界は腐敗し堕落し、顧客に対するサービスなど、どこ吹く風というようになります。かっての社会主義国のように、まともな仕事をしなくなります。


今、NHK、民放ともどもテレビ局は、仕事を下請けに丸投げして利ざやを搾取して生きています。彼らには、力のある脚本家を育てて、面白いドラマつくりに取り組もうという意欲もなければ、優れた面白い娯楽と芸術が両立するような質の高いテレビ・ドラマの製作に励もうという意欲も能力も、つめの先ほどもありません。

それが気の毒な日本女性をして、韓国製のテレビドラマに向かわしめていることになっています。彼女たちには、日本のテレビ局に、面白く楽しいドラマを見せるように要求することもできないのです。ですから、最近の「韓流ブーム」は、テレビ局と日本の男たちとに対する事実上の批判でもあります。女性たちにはそうした形でしか、自分たちの批判を表すことができないからです。

今日のようなテレビ文化の社会では、テレビ局の公共的な使命はとても重要です。ひところベストセラーになった、藤原正彦氏の『国家の品格』なども、テレビ・マスコミの「下品格」の反動として出てきたと考えてもよいものです。そして、残念ながら今なお、このテレビ局の改革はまったく手付かずのままで、そのために、女性のみならず男性も、ほんとうに面白い「日流ドラマ」を見ることもできません。

戦後六十余年たった最近になってようやく、「男たちの大和」や「硫黄島からの手紙」や「出口のない海」などのいくつかの映画で、かっての日本軍人たちのよい面、男らしい一面も少しずつ描かれ始めてはきていますが、それでもなお、兵役の義務も果たさず、実際に、自分の国も女性も子供たちも守ることのできない、お金とエロだけが生きがいのような多くの日本の男たちに、女性たちは何の魅力も見出せないようです。そして、やはり男らしい「韓流」になびいて行くのだろうと思います。

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瀬島龍三氏の死、古い人、新しい人

2007年09月05日 | ニュース・現実評論

「訴訟国家なら破滅」 鳩山法相 弁護士急増を懸念(産経新聞) - goo ニュース

瀬島龍三氏の死、古い人、新しい人

今日、昨日のニュースで、やはり感慨深かったのは、瀬島龍三氏の逝去のニュースです。瀬島龍三氏といっても今の若い世代には、いや団塊の世代にすら、ほとんどよく知られてはいないでしょう。

瀬島氏の死によって、戦前の日本がさらに遠くなってゆくことが実感されます。私のように戦後の日本については、アメリカ植民地文化の浸透した時代として、軽蔑するような価値観をもっている場合はなおさらです。瀬島氏のような、よくも悪くも戦前の日本人を代表するような人物が失なわれてゆくのは、時間は誰にも押しとどめることができないから仕方がありません。

それにしても、少なくとも、戦前の日本社会は、その中から瀬島龍三氏のような人物を作り出していたということです。そして、アメリカと戦争を始めて敗北はしたけれども、その敗北から戦後の日本を復興させたのも、実質的には戦前の日本で教育を受けそこで生育した瀬島氏のような世代でした。

戦後の教育でこのような人物は作れるでしょうか。また、実際に、それができないような方向で、アメリカは戦後の占領政策で敗戦後の日本を改造したのです。そして、戦後に作り出された人物といえば誰がいるでしょうか。同じく今日のニュースにたまたま出ていた人物を手近な一つの例として、たとえば今度の安倍改造内閣で新しく法務大臣に就任した、鳩山邦夫氏でも取り上げてみましょうか。

もちろん、人間にはそれぞれ資質なり個性というものがあるから、一律に外形的には比較はできないのですけれども、この鳩山邦夫氏などと、亡くなられた瀬島龍三氏の人間とその「品格」を比べるならば、世代や時代における人間類型の差というもののいくらかでも実感できるでしょう。戦後の教育では、せいぜい、鳩山邦夫氏程度の人物しか作り出せていないことがよく分かるのではないでしょうか。イチジクの木の良し悪しは、その実を食べてみればわかるとも言います。

教育もそうです。戦前の大日本帝国憲法下の教育と文化で育った人間と、戦後の日本国憲法下の教育と文化の下に育った人間を実際に比較すれば、だいたい、その「品格」の差は明らかになります。もちろん、戦後世代の大半の人間には、彼ら自身が受けて育った教育と文化の環境を、当事者として相対化して自己を反省する能力はありません。そうした彼らが21世紀の日本をになってゆくのです。日本の危機が深刻化するとすればそれは、彼らの手によって育てられた新しい世代が多数を占めるこれからでしょう。

鳩山邦夫氏に関連する記事を引用します。


「訴訟国家なら破滅」 鳩山法相 弁護士急増を懸念
2007年9月5日(水)04:14

 新司法試験の導入などで今後増え続けると予測される弁護士人口について、鳩山邦夫法相は4日の閣議後会見で「将来、国民700人に弁護士が1人いることになるが、それだけ弁護士が必要な訴訟国家になったら日本の文明は破滅する」と述べ、弁護士の急激な増加は望ましくないとの見解を示した。

 日本弁護士連合会が行った弁護士人口の将来予測によると、平成19年の弁護士人口は2万4840人で弁護士1人当たりの国民数は5142人だが、49年後の68年には弁護士人口は12万3484人となり、弁護士1人当たりの国民数は772人になるとしている。


 鳩山法相は「わが国の文明は世界に誇る和を成す文明で、何でも訴訟でやればいいというのは敵を作る文明だ」と述べた。さらに「そんな文明のまねをすれば、弁護士は多ければ多いほどいいという議論になるが、私はそれにくみさない」と明言した。


 鳩山法相は8月31日の記者会見でも、司法試験の合格者を年間3000人程度とする政府目標について「多すぎる。質的低下を招く恐れがある」との持論を述べており、一連の発言は今後論議を呼びそうだ。


引用終わり。

鳩山氏によれば、
「将来、国民700人に弁護士が1人いることになるが、それだけ弁護士が必要な訴訟国家になったら日本の文明は破滅する」そうです。鳩山氏は中西輝政氏の本でも読んでいたのかも知れませんが、こうした鳩山氏の認識に対する私の答えは、

「この程度で破滅するような日本文明は存在する価値がないから、一刻も早く破滅した方いい」ぐらいでしょうか。

この程度の人が法務大臣の職に就いているのですから、日本国民への法的意識のさらなる普及と充実は望むべくもないことがわかります。法律を一部の弁護士や裁判官、検事たちに階層的な独占を維持してゆくのではなく、法律をふつうの市民の生きる知恵や武器として、さらなる大衆化こそをはかるべきであると思います。「難関」の司法試験を突破してきたとされる、現在の裁判官や弁護士の多くが、どれほど市民的な常識から外れた見解を示しているかを知るなら、「専門化」がかならずしも、質の発展につながらないことがわかります。むしろ、奇形化し退化してゆくのではないでしょうか。

法律の門戸をさらに開放して、市民、国民がもっと手軽に使える法律にしてゆく必要があります。難解な専門的な用語もできる限りやさしくしてゆくべきです。

鳩山氏が心配するほど、国民はバカではありません。法律がより身近に民衆のものになったとしても、「何でも訴訟でやればいいという敵を作る文明」になったりはしません。法律が国民や市民にやさしくわかりやすくなって実現するのは、明るく公正な社会です。法律を一部の特権者の手にとどめておこうとするのは、あいまいで不正を見逃す暗黒の社会のままに日本をとどめておこうとすることです。

 

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自由民主党―――この根腐れた政党

2007年09月03日 | ニュース・現実評論

農水相更迭 識者コメント 内閣総辞職の時(産経新聞) - goo ニュース

おらが大臣7日天下 地元祝賀ムード一変 遠藤氏辞任へ(朝日新聞) - goo ニュース

自由民主党―――この根腐れした政党

次から次へと、腐った事案が明るみにでてくる。安倍首相が鳴り物入りで打ち出した新改造内閣も、発足するかしないかのうちに、遠藤某新農相が関係する共済組合の不正受給問題で辞任することになった。

国民が政治に今要求しているものは何か。それは、世論調査にも明確に現われている。国民の要求に忠実であればあるほど、その内閣への高い支持率と選挙結果で、国民はその支持を明確にする。その端的な例が小泉前首相時代の内閣だった。小泉内閣はその出発当初は80パーセントの支持を集め、その末期にでも40パーセント程度の支持は集めていた。

小泉内閣を引き継いだ安倍内閣は、当初こそ記録的な高支持率を集めて発足したが、閣僚の多くの不祥事によって先の参議院選挙でも大敗を喫した。それにもかかわらず、安倍氏は慣行を破って首相の座に居座り続けた。安倍首相は自分の「使命」をいまだ果たしきれておらず未練もつよいのだろう。その気持ちは分からないではない。しかし、安倍内閣が支持されなかったのはなぜか。国民の多くは安倍晋三氏の姿勢に改革へのあいまいな意思を嗅ぎ取っていたのである。

安倍晋三氏が目指す「美しい国」とは何か。それは、はなはだ抽象的で具体的ではないのだが、それが目指す象徴的な課題は、自由民主党の設立当初からの課題でもあった「自主憲法の制定」である。しかし、現実の問題として、「自主憲法の制定」はさしあたっての全国民の課題とはなっていない。現在の国民の要求するところとは、まず退廃した「官僚制度」に大鉈を入れてその改革を促進することである。その一方で、小泉改革によって派生した、いわゆる「格差」を是正し、「セーフティネット」の網を、よりきめ細かなものにしてゆくことである。現在、国民が切実な要求としているこうした要求に、安倍新内閣が十分に応えられるものになっているとは思われないのである。安部晋三氏の政治理念と国民の欲求は、一致していない。

日本の政治機構の改革の核心は「国家公務員制度」の改革にある。その核心をはずした改革は「改革」の名に値しない。現行の「公務員制度」が、あらゆる国家的問題の元凶になっているからである。国民はこの本質を自覚し、この課題の遂行を引き続き内閣に要求して行かなければならない。

教育審議会制度でお茶を濁すばかりで、国民に対してまともな民主主義教育さえ指導できない文部科学省。その三流の文部官僚の手による全国的に一律の教育統制は、国民の自由で創造的な能力の発達を阻害している。また厚生労働省や農水省に群がる多くの寄生的な政治家、公務員の実態は、もうすでにうんざりするほどに国民の前に明らかになっているとおりである。防衛省も早く省内改革を実現して、現在の分断した陸海空の指揮系統の統一をはかり、さらに国防省へと改組してゆく必要もある。

それにもかかわらず、こうした「国家の癌」にメスを入れるべき有能な主体が、治療を託すべき「医者」が存在しない。今やそうした真の政治家の不在こそが日本国の問題となっている。もちろん、こうした政治家や公務員の体質は、本来的には国民自身の持つ体質に由来するものであるから、国民性や国民自身の倫理性が向上することなくしては根本的には解決されることはない。しかし、一連のこうした腐敗政治家や退廃公務員を矯正することは、国民性の改造にもつながって行くことになる。

今度の安倍改造内閣の遠藤農相に象徴されるように、私たち国民は、泥棒に刑務所の管理を任せようとしているようなものである。情けないことではあるが、現在の政治家や公務員の多くは、本質的に、詐欺師や税金泥棒であると考えた方が、本質的な認識に近いのではあるまいか。

こうした政治家性悪説にたって、劣悪なわが国の政治的現実を少しでも改革してゆく道は、やはり、選挙によって政治家を定期的に落選させて入れ替えてゆくことしかない。そして、政治家の交代と同時に、国家公務員のトップも総入れ替えしてゆくことである。この点でも、アメリカの二大政党政治に学びうる点があると思う。


安倍内閣は中途半端な内閣である。いわゆる「小泉改革」も中途半端なままで終わった。まだ、日本国の根本的な改革は遂行されてはいない。それほどに、「改革」が困難であるということであるが、現在のような段階では、「自主憲法制定」といった国家の創造的な建設にはまだ着手はできない。六十年を経過してほとんど「桎梏」と化した現行制度の徹底的な「破壊」をまずは遂行することである。そのことによる痛みも、その破壊の先に、豊かな創造の世界が展望できさえすれば、国民はその痛みにも耐えるだろう。破壊の向こうに、新しい国家像を現実的な理念として明確に具体的に国民に提示にできれば、その破壊を国民は支持するはずである。政治家はそれが仕事である。ただ、それを実行できる有能な政治家を欠いている。


安倍首相のような中途半端が一番成果を上げ得ないのである。昔から、「二兎を追うものは一兎も得ず」とよく言われる。先に就任した与謝野馨官房長官のように、安倍内閣の要である官房長官の職に、公務員に対して妥協的な人物が就いたのでは、この内閣が国民の期待する国家の核心の改造はできないのは明らかだ。だとすれば、安倍新内閣の存在意義はいったい何なのか。

高村防衛相や升添厚生労働相のような目玉人事が一部にあるとしても、改革の司令塔ともなるべき、官房長官と幹事長の布陣を見れば、もはや、この安倍内閣は国家の根本的改造を託しうる内閣ではないことが明らかである。これではもはや安部晋三氏を見限らざるをえず、私たち国民は次の選挙で、改革を継続してゆく政治家と政党の創設に向けるように、選挙権を行使してゆかなければならない。泣き言を言っても仕方がないからである。


問題は、現行の政治家や公務員の人材という限られた制約の中で、どのようにして改革を促進してゆくべきかである。参議院でようやく多数を占め、自民党に代わりうる可能性を持ち始めた民主党に、一度は政権を持たせることだろう。国民は先の参議院選挙でその方向を明確にした。もちろん、この政党も自民党以上に問題の多いことは明らかである。しかし、もともと人間のすることだ。はじめから理想的な政治家も政党も存在しない。国民自身が自分たちのために、そうした政治家と政党を粘り強く育ててゆくしかないのである。

そして、来るべき衆議院総選挙で、自民党を少なくとも五年は野に置くことである。その過程で自民党は分裂し崩壊してゆくはずである。そのあとに現在の民主党も巻き込んで、政界を「自由党」と「民主党」に再編成してゆく必要がある。政治家も日本の民主主義もそこでさらに成熟してゆくだろう。

一九九四年に自民党が下野したときには、時の社会党の村山富市氏は「自社さ連立内閣」を構想して、社会党の血を吸い取らせてただその延命に手を貸しただけだった。そして自民党を一年もしないうちに権力に復帰させて、日本の政治改革を、20年遅らせてしまった。そのような愚を繰り返してはならないだろう。こんどこそ自民党を崩壊させることが、日本の真の政治改革に連なるからである。やはり小泉前首相には自民党を「ぶっ潰す」ことはできなかった。できるのはただ国民だけである。

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