ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

民主党執行部総辞職と元官房長官、村岡兼造被告無罪判決

2006年03月31日 | 日記・紀行
 

冬に戻ったように、雪が舞う。寒い一日。久しぶりに図書館に行く。吉田和男氏の『官僚集権からの脱出』『日本の国家予算』の二冊と、広瀬隆氏の『世界金融戦争』の計三冊借入れる。経済、財政方面の知識に不足するので、少しずつでも補ってゆくつもり。

それにしても、図書館の蔵書は貧弱で十分でないと思う。府立資料館に行くのは遠いし時間もかかる。とくに雑誌と新刊書の種類が少ないと思う。市民がもっと図書館に要望を出してゆくようにすべきなのだろう。

今日、民主党の執行部がようやく総辞職した。偽メール問題での対応は、本当に拙かったと思う。前原代表は、党首討論に際して「明日の党首討論を楽しみにしていてください」と言っていたくらいだから、辞職して責任をとることになるのはやむをえない。それにしても、対応が遅い。

今回の民主党が右往左往したことの根本原因は、党内の意思統一の不徹底に、民主党の党としての思想的な統一性のなさにある。小沢一郎氏と横路孝弘氏とが同じ党内に存在しているというのは、いくら民主主義政党といっても、あまりにも思想的な節操に欠けると思う。もっと党内論議を徹底し活発にして、民主党の党としての理念をもっと深め、統一のあるものにしてゆく必要がある。その過程で分裂があるとしてもやむを得ない。

民主党の党としての思想的な求心力が弱いから団結できず、団結できないから党の力量も高まらないし、強固な組織プレー、チームプレーもできない。
今回の偽メール事件でも。経験も未熟な永田氏の個人プレーに終わって、組織全体でバックアップし支える危機対応体制が作れなかったのもそのためである。能力、能力、能力がすべて。政権担当能力が自民党以上に高まらないかぎり、いくら口先で政権交代といっても、絵に描いた餅に終わる。そのための大前提は、党としての思想性の充実である。

とはいえ、永田氏の偽メール事件の経緯がお粗末で、その責任は重いといっても、村岡元官房長官に無罪判決が言い渡された、昨日の、自民旧橋本派献金隠し問題と比較するとき、その犯罪性の程度は問題にならない。特捜検察の職務責任も、今回はその判決内容からも当然に問題にされてしかるべきものである。国民に対する犯罪性という点において、事柄の本質を、事の軽重を見抜く目を国民自身が持たなければならないと思う。

永田氏は経験不足からとんでもない失策を犯したが、不正を追求しようというその意欲は率直に認めてよいと思う。だから、今回は、潔く責任をとって、捲土重来を期してほしい。永田議員が、将来国民の付託にふたたび応えられるようになれば、復活できる機会もあるはずである。あの辻元清美女史ですら「返り咲いて」いるのだから。    

大切なことは、一刻も早く日本の政治風土から、「日本列島改造時代」から受け継がれている、かっての不動産屋政治の気風を清算してゆくことである。今回の自民旧橋本派献金隠し問題も、この流れと深いところでつながっているのではないだろうか。藤原正彦氏が「国家の品格」をこの日本に取り戻したいのであれば、「武士道」の主張以前に、何よりもまずこの事実を主張されるべきだったろう。この時代から、日本は「国家としての品格」を失っていったのだから。

 

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政治家の品格

2006年03月07日 | ニュース・現実評論

荒川選手訪問時の「こけた」発言、小坂文科相が謝罪 (読売新聞) - goo ニュース

荒川静香選手が冬季オリンピックで金メダルを獲得して帰国し、その報告のために文部科学省に小坂憲次文科相を表敬訪問した際に、小阪文科相はフリーの最後の演技をしたスルツカヤ選手が転倒したことについて、「人の不幸を喜んじゃいけないけれど、コケたときは喜びましたね。『これでやったー』とものすごい喜んだ」と語った。

私もこの報道の場面をテレビで見ていたが、実に不愉快な思いがした。そして、この程度の人が大臣をしているのかとそのとき思った。しかも、文部科学相というのは、日本国民の、とくに幼児や小中学生や若者たちの教育に責任をもつ最高責任者である。その人が、自覚もなく臆面もなくこうした発言をしたことに、よほど抗議のメールでも送ろうかと思ったほどである。荒川静香選手の功績にそれこそ泥を塗るようなものである。

今、日本国の国家としての品格が問われている。国家の品格とは何者でもない。日本人一人一人の品格が、日本国と国民の品格となる。他人やライバルの失敗や不幸を喜ぶことに一体どこに品格があるのか。武士道のモラルを別段にそんなに高く評価するものでもないが、過去の立派な日本人のなかで一体誰がこのような発言を、そのおくびにも出すような人間がいただろうか。

私はこの小坂憲次文科相に、戦後の似非民主主義の「モラル」の下で退廃してしまった日本人の象徴を見るような気がする。小坂文科相に対して抗議のメールや批判が寄せられたことに、謝罪をしたそうだが、当然であるし、謝って済むものではない。こんな文科相に日本国民は指導されるのか。教育は国家の根幹である。小泉首相の任命責任さえ問われるべき問題である。こうした些事にこそ、その人の普段の人間性が如実に現れるものである。一般国民のほうがこの大臣よりも、よほど高いモラルを持っているではないか。

この政治家の人格の背後には、数十万の有権者の人格が反映されている。大臣は、そうした有権者にこそ深い責任を負う必要があるだろう。政治家の品格、これも日本の長年の病弊の一つであると思う。

 

 

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NHKの国家観②

2006年03月06日 | ニュース・現実評論

荒川静香選手の金メダル授与式の後に、彼女が日の丸をまとってリンクを巡った時の写真を保存していたことは先にNHKの国家観で述べた。そして、その際のシーンがNHKのTVライブ放送で放映されなかったとすれば、それは少しおかしいのではないかという疑念も書いた。

たまたまネット上に、荒川選手のメダル授与式の前後のNHKのライブ放送のビデオがあったので見た。

http://f.flvmaker.com/mc.php?id=hHrFdggS2olEKcM8_4XfDOR8jt7q4yj7p4Fo.D_ATHLWL_bOqEQGqpg7dI/zcfk/JpicYSMkmulicYtQlFQs

やはり、金メダルを授与された後の荒川選手のリンク上の様子をTVカメラが追っていなかったことだけは事実だったようだ。その時そこには、日の丸をまとい、金メダルを胸に下げた荒川選手と日本から来た応援団やコーチなどが勝利の喜びを分かちあう場面が、おそらくあったはずなのだろう。だが、実際にはテレビでは見られなかったことになる。

ちょうどそのときのテレビ画面では、荒川選手やその他の選手たちの演技のリプレイ画面や、リンク競技場の屋根が放映されていただけである。なぜ、主役である荒川選手の姿をリンク上にカメラは追いつづけ、捉えようとしないのか。

普通に考えれば、金メダルの授与式を終えてリンクに出た荒川選手の、その主役の後姿を一途に追うのが、通常のカメラワークではないだろうか。そのときのカメラマンが、イタリア人やアメリカ人の外国カメラマンなら、アジア人で日本人選手の栄光に多少の嫉妬を感じてそういう行為に出たとしても分からなくないが。しかし、それにしても、表彰台を降りた後の荒川静香選手の跡をテレビカメラが捉えようとしていないのは、やはりおかしく感じる。

もしそこに、NHKという公共放送のカメラマンに、報道における情報の主観的で意図的な選別が働いているとするなら、やはり問題だと思う。NHKの組織の体質問題に連なりかねない。こんなことでは警察庁幹部のパチンコ業界へ天下り問題などがほとんど報道されないのも、そこに報道の選別が働いているのかと疑ってしまうではないか。それとも、技術上の単なる不手際なのか。

 

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