ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

民主主義の人間観と倫理観──より良き民主国家建設のために①

2005年07月21日 | 政治・経済

 

民主主義の人間観と倫理観──より良き民主国家建設のために①

民主主義の倫理観や人間観について述べようとすると、「民主主義に倫理観や人間観があるのですか」と問われたりする。もちろん、他の多くの重要な社会思想と同じように、民主主義にも、人間観や倫理観は含まれている。結論からいって、歴史的にも社会的にもこれほど重要な役割を果してきた民主主義のような思想に人間観や倫理観が含まれないと考えるほうがおかしいのではないでしょうか。こんな質問を受けること自体、日本の民主主義の伝統の浅さや、学校での民主主義教育の貧しさを推測させるものと思います。

民主主義とは、語源からすれば、民衆の権力、人民の支配と言う意味ですが、起源としては、古代ギリシャが考えられています。しかし、現代の民主主義は、古代ギリシャではなくフランス革命とイギリス・プロテスタンティズムに直接の根拠を持つと考えられます。そして、ことばは同じ民主主義であっても、フランス革命の人民主権の色彩の強い政治的民主主義と、個人の尊重や社会構成員の権利の平等を強調するプロテスタントの社会的民主主義は区別されるべきでしょう。

民主主義とは、基本的人権の尊重や法の下の平等、納税や兵役の義務などといった個人と共同体の関係のあり方を規定する倫理観や人間観の体系といってよいと思います。この民主主義は、経済的弱者や被抑圧者を母胎とする思想であるいえます。今日の社会に当てはめれば、勤労者や一般消費者の論理を代弁する価値観といえます。

それに対して、 自由主義とは、簡単に定義すれば、人間の欲望を無制限に追及することを肯定する人生観、倫理観といえます。この思想は、歴史的には産業ブルジョアジーの考え方として登場したものであり、したがって、この主義は、今日の社会では、いわゆる資本家=生産者の論理を代弁することになります。

こうした自由主義観や民主主義観は、これらの思想の母体となった特に欧米では自明の前提だったのではないでしょうか。そして、逆にこうした本質的な理解を欠いたままに、浅薄な議論が行われてきたことが、日本で「民主主義」の信用を貶めることになったのではないでしょうか。不幸なことだとも思います。

ところで、民主主義の倫理観についてですが、これは日本国憲法においても「納税の義務」、「教育の義務」、「労働の義務」「生存権や財産権の保障」などに現われています。これらは共同体の個人に対する義務や個人の共同体に対する義務を規定したものです。納税の義務や労働の義務や教育の義務は比較的にわかりやすいと思います。国民の国家や共同体に対する倫理的義務を示しています。封建時代の年貢制度などと比較されると民主主義の倫理観がどのようなものであるかわかると思います。

儒教道徳を根底にした封建社会の倫理とは違って、民主主義には「個人としての尊重」や「基本的人権の尊重」や「法の下に平等」「他者の自由の尊重」といった人間観、倫理観が根底にあります。これらの権利義務は強制によるものではなく、民衆の多数決原理によって自ら制定した法律に基づく自発的意思によるものです。 

中でも、民主主義国家の国民の国家に対する倫理的な義務を規定した納税の義務などについては、日本では、ほとんどが「源泉徴収」によって行われているので、国家や公共団体に対する国民の倫理的な義務は自覚されにくくなっていると思います。全国民が一律に「収入の10パーセント」を納付することなど、税制を根本的に簡素化し、また源泉徴収制度も廃止し、国民の自主的な納付制度に改革すれば、国民の民主的な自覚も少しは高まるかもしれません。 

そして、国民の国家に対する倫理的な義務の最たるものである「兵役の義務」があります。しかし、日本国憲法には、その成立の特異性ゆえに、「兵役の義務」については規定されていません。民主主義にとってあまりにも自明な「兵役の義務」が規定されていないのです。本来、民主主義国家では、国民は何よりも、国家国民のために、自ら国防の任務を負うのです。

                
封建社会や絶対主義国家では、武士や軍隊が主君である大名や天皇のために国防の使命を負いましたが、民主主義国家では国民全体が国民自身のために、その責任を担います。国防のために兵役の義務を果すことは、民主主義国家の国民にとってはあまりにも自明のことです。兵役に従事し、身命をとして国家国民のために奉仕すること、これ以上の倫理的義務があるでしょうか。封建社会や絶対主義国家には、国民全体にこうした意識はありません。そして、現在の日本人の「民主主義」には、この倫理観が完全に欠落しているのです。

民主国家の事例としてスイスが取り上げられますが、スイスの国防の実体は、「軍事国家」といえるほどのものです。これが、歴史的に典型的な民主主義国家の実際です。「徴兵制」(正しくは志願制兵役)や「愛国心」などというと、いわゆる「右翼的な思想」の専売特許のように思われていますが、論理的に考えて、民主主義国家の国民の愛国心ほど強いものはありません。もしそうでないとすれば、その国家は名目はとにかく、実質的には「民主主義国」ではないのです。なぜなら、民主主義国家であるほど、その政府は、国民に奉仕する存在となり、また、その国家は一般国民にとって暮らしやすい幸福な国になるからです。国家や政府からの恩恵を十分に自覚している国民は、なにも政府から強制されることがなくとも、もっとも愛国的な国民になります。

また、民主主義は伝統文化を尊重するものです。その倫理観からも、私たちの祖国と祖先の、動かすことのできない過去の伝統文化を、その宗教や習俗を尊敬し愛することのない民主主義があるのでしょうか。民主主義の原則が、単に空間的にだけではなく時間的にも歴史的にも貫かれれば、当然の論理的帰結としてそうなります。「戦後の民主主義」が、日本の伝統文化を破壊しているというのは、民主主義の思想の本来的な欠陥から来るのでしょうか。あるいは、民主主義を、浅薄にしか理解しなかった国民の、特に自称左翼の責任でしょうか。 

こうした民主主義観が真に基礎を得るには宗教が必要なのですが、残念ながら、日本ではその基礎を欠いていたといえます。宗教抜きの民主主義は、今日の日本のような「欲望民主主義」「悪平等民主主義」になりがちです。明治の指導者は、民主主義の人間観や倫理観を拒絶して、あるいは理解しないで、天皇制や「教育勅語」などによって、当時の道徳的危機を打開しようとしました。その結果が、民主主義国イギリスとの同盟ではなく、ヒットラーとの同盟となったのだと思います。この歴史的教訓を、それは歴史的必然と言ってよいと思いますが、深く学ばないと、かってのドイツと同じように、再び同じ結果を招くことになると思います。                               


特に、日本の民主主義は、太平洋戦争による敗北を契機に日本国民に導入されたために、多くの点で、歪曲され、浅薄化していると思います。というよりも、民主主義の概念が、いわゆる左翼から右翼まで混乱しています。イギリス・プロテスタンティズムを基盤とする「社会的民主主義」については、古代ギリシャ民主主義やフランス革命の「政治的民主主義」と区別するために、これを「共和主義」と呼んだほうがよいかもしれません。いずれにせよ「民主主義とは何か」という本質的な論議と認識をいっそう深める必要があると思います。

 

そして、民主主義には、多くの伝統的な宗教や倫理道徳にも共通する、もっとも普遍的な人間観や倫理観が含まれているのですから、国民はこの民主主義の倫理観、人間観によって自分たち国民を教育すればよいのです。確かに、民主主義には、「あなたの父母を敬え」とか「殺すなかれ」とか「盗むな」といったこと細かな倫理規定まで含むものではありませんが、しかし、基本的人権の尊重とか、個人の尊厳、少数意見の尊重というような根本的な倫理観は含まれているのです。 

そうして国民全体の民主主義についての認識を高め、民主主義によって自己教育を深めて行きながら、同時に、民主主義政治が衆愚政治や全体主義に反転することを防いでゆく必要があるのですが、それには、民主主義の概念を国民全体で深く体得しつつ解決して行くしかないと思います。これはプラトン以来の人類の困難な課題なのかも知れません。ニーチェの思想やマルクス主義などの「全体主義」も、その解決法が正しいかいなかはとにかく、端緒は衆愚政治に対する抵抗でした。

 
歴史的には民主主義はプロテスタント・キリスト教の論理的帰結、もしくはその完成、もしくはその世俗化であるともいえます。ですから、そこには当然、キリスト教の倫理観、人間観が内容的に保存されているのです。ですから、民主主義は、宗教という形式を止揚した「宗教」ともいえます。(宗教をどのように定義するかによりますが)この点については、 私は実証的な歴史学者でもないので、論理的に推測するしかないのですが。とはいえ、民主主義の倫理観や人間観は、最も普遍的で、多くの伝統的宗教や倫理道徳の最大公約数としての意義ももっています。

 
最後に、 さらに逸脱するかも知れませんが、 大学や教育者、政治家、公務員、そして国民自身の責任として、学校教育における正しい民主主義教育の必要について主張したいと思います。最近一部の人には評判の悪い、古色蒼然とした「民主主義」ですが、そのせいか、人間観や倫理観としての観点からの民主主義教育の重要性が自覚されてもいず、実行もされていません。これは学校で「道徳の時間」に民主主義の訓練がほとんど行われていないことにもあらわれています。

共産主義者の「民主主義観」に対する大衆の健全な反感が、民主主義の健全な育成の障害になったのかも知れません。共産主義者の「唯物論人民民主主義」は、個人としての人格を尊重せず、学問、宗教、思想信条の自由を尊重する精神を欠き、自己の思想を相対化して反省することを知らない、全体主義的で狂信的なものだからです。

いじめの問題も学力低下の問題も、「クラス共同体」の問題として、子供たち自身が民主主義の精神とルールに従って、自主的に主体的に問題解決に取り組むための民主的な訓練の機会として活用すべきなのですが、指導者や学校に、そのような問題意識がありません。単に学校や教師自身の問題として、あるいは、その生徒個人の問題として扱われています。その結果、子供たちの倫理観も人間観も深まりません。「クラス共同体」の問題として、社会や共同体の倫理の問題としてクラス全体で主体的に取り組み解決しようという自覚も姿勢も欠いています。今日のこのような学校現場や、また日本社会全体としての一般的な道徳的危機を、正しい民主主義の人間観や倫理観の普及と徹底以外にどうして正しく解決できるでしょうか。

そして学校教育の現場では「政治活動」と「政治教育」とが混同され、はっきりと区別されてきませんでした。「政治活動の禁止」という名目で「政治教育」まで否定され行われてこなかったのです。確かに、学校教育においては、特定の価値観にしたがった「政治活動」は完全に禁止される必要があります。しかし、「政治教育」は、つまり民主主義の制度とその精神、その倫理観と人間観はあらゆる場面で教育され、民主主義の能力は訓練される必要があります。

いじめの問題や、生徒自身の学力の問題なども、生徒自身の参加と自治の精神を活用して、民主主義的に解決する能力を高めるよい機会になります。そのためには、なによりも特に学校関係者が 民主主義の制度と精神を、実際に活用し運営する「能力」として普段に高めてゆく必要があると思います。

学校でのこの民主主義教育の充実が、今日の「郵政民営化問題」や北朝鮮や中国などの「非民主的国家」との外交のあり方、「北朝鮮の拉致被害者の救済」といった、政治的な課題に対する国民の問題解決能力を高めることになります。年金問題や少子高齢化問題といった政治的課題についての、国民の判断能力や問題解決能力を高めることになります。

そして、今日の政党政治を、利権がらみの錯綜し閉塞したものから、もっと合理的なものに再編して行く必要があります。先にも述べたように、今日のいわゆる「市民社会」は、基本的に生産者、資本家と消費者、勤労者の利害の対立と調和の上に構成されているのですから、生産者、資本家の利害を代表するのか、それとも、消費者、勤労者の利害を代表するのか、政治家にその旗幟を鮮明にさせ、それぞれの旗幟にしたがって、自由党と民主党に結集させ、民主主義の原理にたつ二大政党が国家と国民のために、政治の質を競いあわせるようにするのです。そのためにも、現在の自由民主党は、解体されて、自由党と民主党になり、現在の岡田民主党をも巻き込んで、今一度政界が再編成される必要があります。

そして、生産者、資本家の利益を代弁する自由党と消費者、勤労者の利益を代弁する民主党のそれぞれが国民のための政治を目指して競争し合うことです。
それが、劣悪な政治という長年の不幸から国民を救うことにもなると思います。

 2003/08/20

 

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公共の図書館と言論の自由

2005年07月14日 | 教育・文化

つくる会などの著書、図書館で廃棄は違法…最高裁判決 (読売新聞) - goo ニュース

「新しい歴史教科書をつくる会」に属する西尾幹二氏や井沢元彦氏、岡崎久彦氏ら著者たちらの著書を廃棄した公共図書館の女性司書に対する損害賠償を求める裁判が、最高裁であった。ニュースによると、

>最高裁第一小法廷(横尾和子裁判長)は14日、「公立図書館は住民のほか著者にとっても公的な場で、著者には思想や意見を伝えるという法的に保護される利益がある」との初判断を示した。「職員の独断的な評価や個人的な好みで著書を廃棄することは、著者の利益を不当に損なうものだ」として、つくる会側の主張を退けた二審・東京高裁判決を破棄。審理を同高裁に差し戻した。

 第一小法廷は、著者の思想の自由や表現の自由が憲法で保障された基本的人権であることを重視。「著者が意見などを伝える利益は、法的保護に値する人格的利益だ」と位置づけ、「図書の廃棄は著者の人格的利益を侵害し、違法」と結論づけた。(朝日新聞) 7月14日 (木) 11:48  <

と言うことである。

きわめて妥当な判決であると考える。このニュースによって、一審の東京地裁や二審の東京高裁の判決を知ったのだが、それにしても、高裁や地裁の裁判官たちの「言論と思想の自由」に対する感度の鈍さには驚かされる。

 

最高裁の横尾和子裁判官の上記の記事で明らかにした「公立図書館は住民のほか著者にとっても公的な場で、著者には思想や意見を伝えるという法的に保護される利益がある」「図書の廃棄は著者の人格的利益を侵害し、違法」という判断は、きわめて妥当なものであると考える。

 

言論の自由は、人間の自由についての権利義務の中で、最たるものであると言える。とくに、公共機関においては、人権を侵害する言論以外は、特定の思想信条にかかわりなく、出来うるかぎり公平に、その発表の機会と閲覧の機会が提供されるべきである。

 

公共図書館の職員個人の価値観、好き嫌い、思想信条によって、閲覧に供すべき図書を取捨選択することは、情報の閉鎖につながる。もっとも大切なことは、言論の自由であり、情報の開示である。真理というのは、あらゆる情報の中から浮かび上がってくるものであって、物事に対する判断材料になる知識や情報の量が多くなるほど、その判断の真理の度合いが高まる。

 

この船橋市立西図書館の女性司書は、自分の思想を相対化することが出来なかったのだろう。相対化することが出来ないということは、盲目的、狂信的に信奉することにつながる。

彼女は自分の思想に反対する思想を、その著作を単に廃棄するることによって批判したつもりになったのかも知れない。しかし、たとい自己の思想に敵対する思想があったとしても、真の批判はそんなことによって実行されるのではない。むしろ、それは自分の思想に対する自信のなさの現れである。

真の批判は、敵対する思想を、自己の思想の一部として消化し克服することによって実現するのである。これをアウフヘーベンと言う。

 

 

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議論の仕方

2005年07月09日 | 教育・文化

 

先日、私のブログで「文明の質」というテーマで、小論を書いて投稿したところ、匿名の方から

<単なる偏見に基づくもので、名誉棄損にあたるものであり、何億人の感情を裏切るものであるため、やめる事をお勧めします。>

というコメントをいただいた。私の文章の内容が、数億人のイスラム教徒の名誉を毀損しているというご批判である。

私としては、諸宗教の事実を客観的に考察して、事実と思ったことを書いただけなので意外だった。確かに、一般的にパレスチナ人の生活水準は、イスラエル人より低いというのは事実であるとしても、それを聞かされる方は、何らかの屈辱を感じるかも知れない。その点で配慮が足りなかったかも知れない。

なるほど、私はイスラム諸国に旅行したことも、身近にイスラム教徒の知人がいるわけでもない。不特定多数のマスコミなどからえられる情報から、蓋然的に推測される論理的事実を書いただけである。それらの情報から得られる情報を、私が「客観的な事実」であると判断して、そこから推論して、その因果関係を、論理を推測して考察しただけである。

改めて、宗教批判のデリケートな問題であることを実感した。とくに、昨日もロンドンでテロ行為があったばかりである。ただ、この文書の中に書いたように、個人的に「イスラム教」を決して毛嫌いしているわけでもない。チャドルやスカーフも嫌っているわけではない。むしろ優雅だと思っている。大多数のイスラム教徒が信仰しているようなイスラム教には好意をもっているとさえ思う。私はイスラム教に偏見を持っているとは思はない。ただ、昨日ロンドンで「イスラム教徒」の名前を騙ったテロ事件が起きた。私が反対しているのは、そうした「テロ事件を肯定するイスラム教」である。

宗教を社会的な事実として考察したとき、私の小論で述べたような事実は該当しているのではあるまいか。もちろん、この匿名の方のように、それが、事実でないと判断し、反論なさるのは、自由である。私もまた、自分の判断を絶対的な結論として圧しつける考えはまったくない。これからも、私は一つの見解として──もちろん、私はそれを正しいと信じている──表明して行くに過ぎない。

また、万が一、私の考えに同意してくれる人がいるかも知れない。しかし、他者の同意の有無、賛否が問題ではない。あくまで、書かれている内容がどこまで論理的に正確で、どのレベルで論証されているか、今後とも、ただそれだけを問題にして行きたいと思う。実際の政治の世界は、民主主義は多数決で決定されるが、科学は、論理であり、論証であり、必然性の説明だけが命だからである。

私の文章のどの点が無責任だというのか、具体的な文脈を指摘して批判していただければありがたかったと思う。それが無いために、私はまだ、自分の考えを訂正する必要を感じないでいる。

 

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『ディープ・インパクト』の衝撃──文明の質

2005年07月06日 | 教育・文化

『ディープ・インパクト』衝突の画像、ネット上で速報 (HOTWIRED) - goo ニュース

 

先日の七月四日、この日はアメリカの独立記念日だった。日本では郵政民営化関連法案が、特別委員会で可決された日でもある。この日に宇宙では、アメリカ航空宇宙局(NASA)宇宙探査機『ディープ・インパクト』から発射された370キログラムの衝撃弾がターゲットのテンペル第一彗星に激突した。その際の映像もさまざまなサイトで見られる。

それにしても残念ながら、こうした宇宙探検のできる国は、今のところアメリカのみである。このアメリカは今、イランやイラクの国民から憎まれているが、冷静に客観的に見ても、毎日自爆攻撃で他殺自殺に励んでいるイスラム教徒と比べても、アメリカのキリスト教文明は自由で明るい。中東やアラブ諸国のいわゆるイスラム圏との文化文明の質の相異は明きらかだ。

 

宗教にせよ文化にせよ、その良否は果実によって識別できるとするならば、イスラム教は必ずしも良い果実を生んでいるようにも思えない。パレスチナの住民も、その多くはイスラム教徒で、ユダヤ人と比較しても、その生活水準の差は歴然としている。私は決して、アメリカに対して何の義理立てする必要もないし、アメリカにも嫌いなところは少なくない。また、個人的にはイスラム教は好きな宗教だが、過激派のそれは別だ。彼らの暴力的で狂信的な宗教には吐き気を催す。

 イランやイラクなどのイスラム諸国とアメリカのキリスト教の文化文明の差違は、諸国民の持っている自由度に比例していると思われる。イスラム諸国では、まだ多くの婦人は選挙権も持てず、チャドルを身につけることを強制されている。先のイランでの大統領選挙では、保守派のテヘラン市長が選び出されたが、この市長が信奉するような他人の死を叫び、憎しみを駆り立てるような宗教は、まともな宗教だとは思えない。要するに、多くのイスラム諸国では、「自由」が少ないのである。これは、これらの国の民主化の水準と比例している。それが宗教に起因するのかどうかは、私にはまだ良くわからない。

 イラクの国民にしても、一刻も早く、武器を捨て、全国民一体となって民主国家の建設に励み、国民が流血ではなく、アメリカが従事している宇宙探査のような科学研究に乗り出すことを願うものだ。イランにしても、核兵器に使うような原子力の研究を止め、科学技術の水準でアメリカと競争する段階に達して欲しいと思う。アメリカ国内の自動車の販売実績でGMやフォードを上回ったトヨタを生んだ日本を見習うべきである。

 日本についても、小泉首相の靖国神社参拝が問題になっているが、この靖国神社は戦後は一宗教法人過ぎない。そして、日本では、刑法に反しない限り、どんな宗教を信奉しようが自由な幸福な国である。ただ、忘れてはならないのは、この靖国神社が、今日のイスラム教徒のように、かってアメリカに向かって国民を自爆攻撃や玉砕に駆り立てた『宗教』であったことである。私にはアメリカに反抗している今日のイラク国民やイラン国民が、戦前の日本国民にダブって見える。残念ながら、どんなに公平な目で見ても、「靖国神社」の宗教や「イスラム教」という宗教が、キリスト教ほどに「人間的」であるとも思えない。

 今年の一月十二日にケープカナベラル空軍基地から打ち上げられ、ほぼ六か月掛かって、四億三千百万キロメートル離れたテンペル第一彗星に向かって激突したそうである。このニュースとそれによって宇宙からもたらされた、衝突の映像を見ながら、それぞれの国家や国民の持つ宗教や文化文明の差違について考えざるをえなかった。

 

 


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