ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

タイ国のクーデタ事件に思う

2006年09月22日 | ニュース・現実評論

タイでクーデターが起きた。タイでは、この春先に行われた総選挙で、タクシン首相の不正に対する民衆の抗議があり、野党が不参加のまま選挙が行われた。それで憲法裁判所が総選挙の無効を裁定し、この秋に選挙のやり直しが行われるということを聞いていた。プミポン国王が仲介したためである。その際、あらためて立憲君主制の意義を確認した所だった。

 至高の国家形態

タイ国は一応は立憲君主国ということになっている。そのために今回のような軍部のクーデタにおいても、君主制の安定装置としての機能はやはり大きい。タイ国民の生活はそれほど混乱をきたしていないとのことである。


タイのクーデタについては、、私が学校を卒業して間もない頃のはるか昔にも、それは30年も昔のことだが、民主化を要求していたタイの学生たちが軍事政権のために拘束され、鎮圧されたというニュースを印象深く聴いたことがある。その時のことが今も記憶に残っていて、今回のニュースと重なる。

その時のクーデタ以来、この国ではかなり長い間、軍事政権が続いていたが、90年代に入って文民政治が実現し、ようやく民主主義政治を回復したと思っていた。この国のその後の目覚しい経済的な発展と中産階級の成長も伝え聞いていたので、民主主義政治がほとんど定着したと思っていた。それにもかかわらず、今なおクーデタのニュースが送られて来る。

こうした事件でやはり考えさせられるのは、アジア諸国で民主主義政治の定着することの難しさである。それはアフガニスタンやイラクなど中東においても同様である。周知のように現在アメリカは中東諸国の民主化をもくろんでいるが、文化や宗教や伝統の異なるイラクなどに民主主義体制を確立することの困難は歴然としている。科学技術などと異なって、精神文化を移植することは、本来不可能に近いほど困難である。欧米とは異なる伝統文化をもつ東アジアや中東諸国に民主主義を定着させることに難しさがある。中国は今なお共産党の一党独裁の国であり、北朝鮮も同様である。これらの国は実質的にはまだ封建体制に近い。歴史においては時間を飛び越えることは困難なのだ。


いずれにせよ、この事件は、タイ国においても民主主義体制とはまだ程遠いことを教えている。なぜなら、成熟し完成した民主主義国家においては本来クーデタなどということは考えられないからである。イギリスやアメリカやスイスでクーデタが起きることなど想像できるだろうか。

クーデタは民主主義のまだ未熟な国家や全体主義的な国家において起きるものである。わが国でも、戦前においては二・一六事件や五・一五事件など兵士の反乱があったし、政治家が殺された。これらのクーデタは、立憲君主制の明治帝国憲法下の議会制度の日本においても、まだ民主主義がきわめて不完全であったことの証明である。

戦後六十年、わが国の民主主義もきわめて不完全で未熟で偏頗なものではあるが、クーデタが起きるほどには機能不全に陥っていないということなのだろうか。しかし、だからといって現代の日本の政治が理想の民主主義からはほど遠いことも現実である。

これほどに学校教育が普及し、キャノンやトヨタなどの大企業を世界に送り出し、いくつかの分野で先端的な科学技術は世界でも最高の水準に達していても、民主主義の水準はまだ多くの場面で低い水準にとどまっている。政権交代が今なお実現していないのもその例である。君主制と民主主義は本来矛盾するものであって、その矛盾の統一の上に成立する立憲君主制は、とくに、日本のように過去に封建的体制が歴史的に長く続いた国では、成熟するまでにまだ歴史的な歳月が必要とされるということなのだろう。

科学技術教育と異なり、民主主義のような精神文化は、それだけ移植が困難なのだ。わが国の学校教育に見られるように、民主主義についての根本的な教育は、保守であれ革新であれ、いまだ極めて貧弱な段階にとどまっている。日本もまた今日なお、タイと同じアジアの伝統と文化の風土にあって、欧米に出自をもつ民主主義をみずからのものにすることはむずかしいようである。

『高校生の犯罪にちなんで──学校教育に民主主義を』

2006年09月21日

 

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アメリカ考②

2006年09月04日 | ニュース・現実評論
 

日本とアメリカ

日本はアメリカの黒船によって徳川幕府の鎖国体制の眠りから目覚めさせられることになった。しかし、この徳川幕府の鎖国政策自体が、我が国にキリスト教が流入することによる徳川封建幕府体制の動揺を防ぐことを目的としたものであった。賢明な徳川幕府は、その鎖国によって、三百年にわたって国内に平和をもたらし、封建体制を持続させることに成功した。徳川幕府は日本国内のキリスト教のほとんど完全な禁圧に成功し、天草の乱以来、キリスト教徒は国内では、息を潜めて隠れて暮らさざるをえなかった。こうして国内から徳川封建体制を批判し、反抗して危機にもたらすような芽は完全に摘まれた。

もちろん徳川の幕藩体制も永遠の体制ではなかったのはいうまでもない。三百年に及ぶ安定した幕府の統治は経済の発展をもたらし、貨幣経済が浸透して、武士階級は商人階級の台頭にともなって動揺し始めていた。そうした時にペルー提督は来朝し、日本は日米和親条約の締結することによってついに開国する。幕府の国策はまだ鎖国であったから、この開国は止むに止まれぬものだった。

そのころの国際情勢にあっては、隣国の清においてはアヘン戦争が戦われ、屈辱的な賠償金の支払いや香港の割譲などヨーロッパ各国の市民社会は交易を求めてアジアの植民地化を進めていた。そうした中で、日本も独立を実現してゆくことが切実な課題になっていた。欧米諸国の圧力に対して不平等条約を結ばざるをえなかった。アメリカもスペインとの戦いに勝利していらい、フィリッピンなどの植民地化を進めていた。

明治の開国以来日本は、富国強兵政策を成功させ、かろうじて独立を保った。やがて日清、日露の戦争に勝利して中国大陸にその権益を拡大してゆく。そこで東アジアに進出していたアメリカと利害を巡って必然的に対立するようになる。このころロシアにおいては共産革命が成功してソビエト連邦が成立していた。そうして帝国憲法下の日本と自由主義国家アメリカが極東アジアにおいて三つ巴に覇権を競うことになる。

太平洋戦争

太平洋戦争をどのように評価するかは、どのような政治的立場にたつかによってさまざまだろう。ただ、当時の国際社会のイデオロギーとしては、共産主義のソビエトと毛沢東の中国、自由民主のアメリカと蒋介石の中国、それに、立憲君主国家の日本が存在し、それぞれが極東アジアで覇権を競い合っていた。日本は国内の民主主義がまだ十分に進展していなかったこともあり、ナチスドイツやムッソリーニのイタリアと三国同盟で手を結ぶことによって、全体主義に傾斜してゆく。

当時の日本においても自由民権運動によって大日本帝国憲法が制定されるなど国内の民主化はかなり進展していた。しかし、国軍の統帥権が、天皇に属するという名目で軍部そのものに委ねられ、軍隊の民主的な統制が完全に行き届かなかったように、不完全なものだった。民主主義の立場からみて、明治憲法の最大の欠陥であったといえる。それに当時の軍部にはすでに東郷平八郎や加藤高明のような人材はなく、軍部を抑えられる権威はもはや存在せず、制度としても文民統制が確立していなかった。そのために軍部の独走をゆるし、結果として、アメリカとの対立は避けられず、その後の日米開戦を防ぎきれなかった。自由と民主主義を世界において拡題してゆくという歴史的な使命をになうアメリカと総力戦を戦うことになる。

日本の敗戦

日本はアメリカをはじめとする連合国との戦争に敗北し、カイロ宣言とポツダム宣言を受諾する。それによって、政治経済的のみならず、文化的精神的な改造がアメリカを主導として行われる。その象徴が日本国憲法である。とくに太平洋戦争後のアメリカの占領統治によって、植民地文化の状況に日本は置かれることになる。歴史的に見ても多くの敗戦国に共通する、文化的精神的な混乱と退廃が今日も底流しているといえる。そして、敗戦から六十年、還暦という歳月を経て、日本はようやく自主憲法の制定する動きなど、日本の「内と外なるアメリカ」を見つめ清算して、当然の主権国家として日本人の自由と独立を回復する機運がようやく始まろうとしている。

 

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