ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

タミフル問題と公務員制度

2007年03月25日 | ニュース・現実評論

渡辺行革相と自民が物別れ 新「人材バンク」案めぐり

タミフルと異常行動 厚労省、因果関係の否定を撤回 見解転換も(産経新聞) - goo ニュース

公務員制度改革 全体像を全閣僚に提示 渡辺行革相、27日決着目指す(産経新聞) - goo ニュース

中川政調会長、渡辺大臣の対応批判

正しい国家、よい国家を持ちうるかどうかは、国民の幸福に大きな影響を与える。だから、国民は自分たちの生きる国家が善き国家であるか、みずからの暮らす国家に不完全な点はないか、つねに検証を怠ってはならないだろうと思う。

その事例は世界の至るところで示されているといえる。たとえば朝鮮人民共和国、北朝鮮においても、その国民の多くが飢えや貧困や不自由や暴力に苦しめられているのではないだろうか。国民は耐えがたい苦しみを味わっているように思える。私たちには、曲りなりにも比較的に自由な社会に暮らしているので、不自由な独裁社会がどれほど息苦しいものであるか、想像力が豊かでないと実感しにくいのではないだろうか。

かっての共産主義国の旧東ドイツやスターリン統治下の旧ソ連などは今は国家としては崩壊してしまって存在しないけれども、当時のそれらの社会は収容所列島とか密告社会などと呼ばれて、その不自由な社会の世相が伝えられたものである。自由とは陽光や空気のようなもので、その貴重さは失ってはじめて気がつくようなものである。それは生命にもかかわる。

国家機構のゆがみのもたらす悲劇は、そうした事例によってもわかるが、この問題は何も過去や他国に見られるのみではない。わが国にも、国家行政の不完全や歪みから来る多くの悲喜劇の事例には事欠かないと思う。

たとえば、その災害の最大の悲劇は、先の太平洋戦争などがあると思う。多くの日本国民は、この戦争の悲劇を、わが国に毎秋に襲い来る台風のように、あたかも自然災害のように見なしているかもしれないが、これは明らかに国家機構の不完全さや歪みからもたらされた人災とみなすべきであると思う。

その他にも、新潟県や熊本県で生じた「水俣病」「イタイイタイ病」などの事件も国民に深刻な悲劇をもたらした。いわゆる高度経済成長期に発生した公害問題だが、政府や地方政府の行政はその悲劇の発生を防ぎきれなかった。また、厚生省が深くかかわった薬害問題などもある。古くはサリドマイド事件があったし、比較的に最近の事例としては、薬害エイズ問題などがあげられる。

そして、それらと同じような事件性や社会的背景の可能性が指摘されているのが、今回問題になっているタミフル問題である。本来インフルエンザ治療薬として開発されたタミフルという医薬品と、それを服用した青少年の転落死などとの因果関係が問題にされている。

今のところタミフル問題が明白な薬害問題とされるには至っていないにせよ、その因果関係が明らかにされて、また被害者たちが訴訟などに及ぶと、そこまで発展する可能性も否定できないのではないだろうか。

いずれにせよ、このような問題が生じる背景には、まず製薬会社、そしてそこで製造された医薬品を服用する一般国民、そして、医薬品の効果、安全を調査、監督しながら国民の生命と健康を保全する職務をになう政府、さらに直接的には、その担当官庁として厚生労働省とのかかわりがある。

政府の一機関としての厚生労働省は、国民の生命と健康の維持、保全に大きな使命をになう官庁である。そこで働く公務員たちにはそうした使命を果たす責任をになっている。

今回のような医薬品タミフルにかかわる報道を聞いて、まず思ったことは、なぜ日本にはこの医薬品の全世界の消費量の7割に達するほど大量に消費されているのだろうかという素朴な疑問である。なぜ、これほど特定の医薬品が消費され、また、インフルエンザの流行に備えてであれ、備蓄されているのだろうかという疑問である。

このタミフルは、スイスの製薬会社ロシュ社で製造販売され、その子会社である中外製薬によって輸入されているそうだ。いうまでもなく、いわゆる市民社会では、企業は自由な経済活動によって利益を追求する。現代の製薬事業には莫大な利益が予定されているとともに、その研究開発費用も膨大な額にのぼることもよく知られている。もちろん、そうした企業としての製薬会社がみずからの特殊利益を追求すること自体は問題ではない。すべての株式会社がそうなのだから。

問題は、国民の生命と健康の安全を確保するという使命をになっている国家機関としての政府、また担当官庁としての厚生労働省などの公務員が、きちんとその職責を果たしているのか、また、それを果たしうるような組織、機構となっているのかということである。

伝え聞く報道によれば、このタミフルの輸入先企業である中外製薬に、その監督官庁である厚生労働省のもと公務員が、就職しているという。もちろん、そのことをもって直ちに、国民の生命健康の安全を図るべき行政が、特定の企業の利害のために歪められるということが必然的に生じるわけではない。けれども、元厚生労働省の公務員が特定の企業と利害関係を持つことによって、消費者である国民と特殊な利益追求者である特定企業との間に、公正な審判者であるべき行政が歪められる可能性の増大することは明白である。

実はこのことこそが現在の日本の大きな問題なのである。私的利益の追及者である特定企業と、その一般消費者である国民との間で、果たして政治家や公務員が公正なルール作成者であり、管理監督者であり、かつ審判者でありえているのかという、民主社会ではあたりまえの前提が、残念なことに日本では大問題になのである。そして、公務員のいわゆる「天下り」などによって、その公正さが歪められている事実が、今日の公務員人事制度の本質的な問題になっているのである。

この国家や地方の公務員によって担われるべき行政の公正さが、いわゆる企業への天下りによって損なわれないようにしようというのが、いま渡辺喜美行政改革担当相が遂行しようとしている公務員制度改革である。

公務員の天下りを廃止することは、公務員による行政の公正さを担保する上で、明らかに必要な処置である。むしろ、これまでこうした問題を無責任に放置したままでいた政治家こそが問題にされるべきだろう。むしろ、さらに深い問題の本質は、政治家問題にこそあるといえるのではないだろうか。

国家全体のために、普遍的な利益と公正さを追求すべき政治家が、その職務をおろそかにして使命を果たさず、それどころか、職務を自己のための私的利益の実現の手段として利用したり、市民社会の特定企業の特殊的利益の追求のために働くことによって、本来公正な第三者の立場で行なわれるべき国家行政を歪め、普遍的な利益を大きく損なうことになっている。この現実こそが、現在の政治と公務員制度の問題となっているのではないだろうか。

厚生労働省出身者の製薬企業への再就職、国土交通省の公務員のいわゆるゼネコンといわれる土木建築企業への再就職によって、引き起こされる官製談合などの問題と今回のタミフル問題の本質は、根底の土壌を共通にしているように思われる。国民は、選挙や世論形成を通じて、政治家や公務員の監視を引き続き厳しくしてゆく必要がある。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いわゆる格差問題

2007年03月19日 | ニュース・現実評論

日本の民主主義  ①いわゆる格差問題

ハイテクなどハードの面ではかなりの水準を実現できているようでも、公務員制度や教育や政治の仕組みとか、情報公開や文書管理など民主主義などのソフト面ではまだまだ後進国並みに不合理で非効率な無理無駄なところが多いと思われる日本。そうした日本の民主主義でとくに問題と思われる点や気づいたことなども記録してゆきたいと思います。

それにしても「民主主義」とはすでに手垢に塗れきった言葉で、だから、この言葉に込める思いは人それぞれ千差万別かもしれないけれど、それでも、やはり民主主義についての正しい概念の確立は決定的に重要だと思います。議論の中から正しい認識が生まれてくればと思います。

日本の社会で最近になって格差問題などがよく取り上げられます。
鉄鋼業や自動車産業など、一部の産業においては、強い国際競争力を発揮していまますが、一方では、たとえば、半導体などではかっては圧倒的な国際的シェアを誇っていたのに、今では韓国や台湾などにその地位を奪われて見る影もない産業もあります。ただ、エルピーダが日本の半導体の業界の復活をかけて奮闘しているようですが。

しかし、携帯電話やNTTなどの通信情報産業のように、国際市場に出遅れ日本の国内市場のみに安住していたために、海外の企業に比較して国際競争力を失ってしまっているハイテク産業分野も少なくないようです。

これらの事実が意味しているのは、市場経済の中では、国境の垣根はきわめて低くなっており競争も厳しく、そこでは、今日どんなに隆盛を極めているように見える産業であっても、ひとたび自己満足に陥ったり慢心したりすれば、たちどころにその地位を失ってしまう厳しい現実のあることでしょう。

この事実が示しているように、今日のような市場経済が国際化した現状では、日本の労働者の賃金なども、中国、インドなどの新興諸国の労働者の低賃金と競争してゆかなければならず、また、企業も国際競争力を勝ち抜いてゆくために、人件費の削減なども余儀なくされる場合も多いということでしょう。その結果として、労働者、勤労者の実質賃金が低下し、その結果として、労働者や勤労者間においても、賃金格差が広がってゆくことになっている。この所得格差が、さらに生活格差、教育格差その他に連なってゆく。これがいわゆる格差問題の背景なのでしょう。

したがって、今日の市場経済下では、アダムスミスの自由放任論にしたがって、なんらの政策的な配慮を行なわなければ、「持てる者と持たざる者」との間の格差はますます広がってゆくのでしょう。だから、産業政策や納税政策の運用によって、この自然発生的な格差拡大に何とか歯止めをかけることは、政治的にも必要なことなのでしょう。

何よりも、格差が固定化されることによって、貧困が受け継がれて経済的な階層や階級が固定化することになれば、希望を失った者の犯罪や腐敗が蔓延する社会になりかねません。そのためには、何よりも技術革新による生産性の向上によって、国際競争力を維持してゆくべきであって、経営者には労働者の低賃金に頼るといった発想を転換してゆく意識が必要だと思います。

しかし、それにしてもここで混同されるべきではないと思われるのは、一般論としては、「格差」の生じるのは、それ自体としては「悪ではない」ということだと思います。なぜ、こんなことをあらためて言うのかというと、かって共産主義の夢がまだ見られていた時代に、いわゆる「資本主義」が、一種の道徳的な批判のスローガンとして叫ばれたことがあったからです。

それと同じように、今日では「格差」が、道徳的な批判感情の尺度として叫ばれている傾向が生まれつつあるように思われます。「格差を無くせ」ということが、悪くすると、先のトヨタ自動車の元会長の奥田碩氏の語ったように「嫉妬と羨望の経済」となって、お互いの足の引っ張り合いの経済になりかねません。個人の働きや努力や勤勉の結果として能力に差異が生じ、その結果として経済的にも格差が生まれるのは当然でしょう。そうでなければ「悪平等」になってしまいます。いわゆる社会主義諸国が崩壊したのも、彼らの平等が、嫉妬の平等であり、それが結局は貧乏の平等になって、社会も経済も崩壊してしまったのだと思います。

だから、格差自体は決して「悪」ではない。大切なことはその格差を地位や身分として世代に相続されたり固定化させないことでしょう。教育や職業訓練における機会平等や、相続税制などを通じての所得の再配分を通じて、階級間や階層間の流動化をはかることのできるように対策を講じてゆく必要があります。そうした社会では、たとえ社会の内部に一定の格差が存在したとしても、国民の間に正義や道徳の感情は損なわれることなく、生き生きとした明るい社会が実現できるのではないでしょうか。イギリスなどではすでに、この理想をかなり実現しえているようです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本人はすでに究極の自由主義を実現したか

2007年03月06日 | 宗教

以前に私のブログに書いた『公明党の民主主義』という記事にコメントをいただきました。そこでは日本の自由と民主主義のかかえる弱点を論じようとしたものですが、それに対して、あきとしさんという方から、日本ではすでに信教の自由をふくめて究極の自由を実現しているのではないかというコメントがありました。こうした問題について、ふだんから興味をもっておられる方は他にもおられるだろうと思い、いただいたコメントの返事を、新たに記事の形でも投稿することにしました。読者の皆さんの意見なども聞かせていただければ幸いです。コメントをいただいた、あきとしさんご本人のアドレスが分からないので、承認はとっていません。記事は次のリンクにあります。お目通しいただければ幸いです。

『公明党の民主主義』

あきとしさん、コメントありがとう。返事が遅くなり申し訳ありません。ブログを見なかったり、コメントに気がつかなかったりして、返事が遅くなることがあります。ただ、エチケットとして必要とされる返事はするつもりですので、こりずに覗いてみてください。あなたのアドレスがわからないので、少し長くなるかもしれませんが、ここに現在の私の考えを書いておこうと思います。

あなたのお考えの趣旨は、「わが国は多神教であって、すでにそれぞれの宗教は矛盾を解消してしまっているから、宗教改革の必要はない、日本はすでに究極の自由主義を実現している」ということだと思います。
あなたの考えの内容は、

①わが国は多神教で、それぞれの宗教の間の矛盾は解消してしている。
②日本は究極の自由主義を実現している。

の二つ命題として取り出すことができると思います。

それに対し、私がこの『公明党の民主主義』の記事で問題にしたかったことは、公明党の斎藤鉄夫政調会長をふくめて日本国民の「自由」についての「意識」の実際の内容はどのようなものかということでした。そして、一応の結論として見出したのは、公明党の斎藤鉄夫政調会長に典型的にみられるように、日本人の「自由」の意識は、(もし欧米の自由の意識が、出自の本場で、もし、それが普遍的なものであるとすると)、全く違うものになっているというのが、考察の結論でした。ですから、私の結論からは、あきとしさんが仰るような「日本は究極の自由主義を実現している」という見解には同意できないことになります。

その理由としては、次のようなことが言えると思うからです。

まず日本人の「自由」の意識には、キリスト教を信仰することによってもたらされる本来の自由の感覚と意識があるのだろうかという問題です。日本人一般には、キリスト教が本来持つ、神の戒律と人間の原罪との間の根本矛盾の自覚はそれほど鮮明ではないと思います。ですから、その根本矛盾の解消ということから生まれる自由の側面が、日本人の「自由」の意識の中にはないように思います。これは善悪の問題なのではなく、事実としてそうだと思います。

そもそも日本には自由の意識の本来の母胎であると考えられるキリスト教世界を伝統として持っていませんでした。したがって、欧米のキリスト教世界が必然的に到達したのと同じ自由の意識に達するための必然的な背景を日本人は持っていないといえるわけです。ですから日本国民の「自由」についての意識は、この自由の概念の出生地である欧米の本来の自由の意識にくらべれば、そして、西洋人の自由観が普遍的なものであるとすれば、日本人の「自由観」は本来の普遍的な自由の概念に一致していない特殊なものではないか、もっとはっきり言えばゆがんだものではないかということに注意を喚起しようとしたものです。

さらに、日本の多神教の問題ですが、確かに、日本には伝統的に多くの宗教が並存し、民族として、とくに支配的な宗教はもたないのかもしれません。仏教や民族宗教としての神道、それに、擬似宗教としての儒教などがあるかもしれません。そして、近世になって、キリスト教も入って来ました。

日本人の宗教が多神教であり、キリスト教などの一神教とは異なるとは、よく言われますが。私にはまだ多神教と一神教の概念の正確な識別ができません。だから、日本人の宗教意識においては、神々の間の矛盾は克服してしまっているというあなたの考えについて、今のところ、私の考えを述べることはできません。ただ本来の多神教とは、一つの宗教体系の内部に、絶対的な神が存在せず、神々が相対的に存在するような宗教だと思います。ですから、日本人は多くの宗教体系を並存させている多宗教の民族であるとは思いますが、多神教の民族であるのかどうか今のところよくわからないのです。

また、多神教の伝統の世界には、絶対的な人格神は存在しません。それは、神が人間としてのイエスに受肉されて私たちに現われたというキリスト教の独自の存在だと思います。ですから、非キリスト教世界に、人格と人格が対峙する経験はないと思います。そして、プロテスタントの宗教改革とは、直接に「人格」と人格が対峙することが認められることであり、その間に救いの絶対的な要件として教会などの仲介者の存在を必ずしも必要としないことを証明したことであると思います。

本来宗教を信じることによってもたらされる自由を、どの宗教を信じるかの「自由」として、あなたが捉えておられるところにも、あなたの「自由観」が現われていると思います。しかし、それは単なる思想的な、宗教的な無節操とどう違うのでしょうか。そんな疑問をもちました。


自由の問題や、多神教、一神教の問題については、まだ勉強中ですので、今のところ、これぐらいの事しか考えられませんが、ただ、あなたの仰るように、「日本人は、究極の自由主義を実現し、また諸宗教の矛盾を解消してしまっている」などとは、とうてい言えないようには思います。

欧米人の自由観については、以前も一度取り上げたことがありました。参考にしていただければと思います。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする