ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

オルフォーさんに

2008年10月20日 | Weblog

オルフォーさん、はじめまして。コメントありがとうございました。たぶん西尾幹二氏の「インターネット日録」のリンクから来られたのだと思います。

あなたは、西尾幹二氏を「興味深い人物」だとおっしゃられていますが、私にはなぜ戦後の日本には西尾幹二氏に類するような人材が少ないかという問題意識に連なります。

ただうかつにも、10月18日の日録を読むまで、西尾氏が大江健三郎氏と同学年であるとは知りませんでした。私の印象では、昭和の政治家の岸信介氏や民法学者の我妻栄氏のような、旧制高等学校の卒業生のように戦前の教育制度の下で成長されたというイメージを漠然と西尾氏に感じていたのです。

しかし、ご自身のブログのなかで西尾氏が「私は大江とは違う意味でだが、むしろ自分を「戦後型」だと考えている。社会科学的発想というものが身についている。階級意識がない。民主主義をとても大事に思っている。」と述べられて、西尾氏がご自分をいわゆる「戦前型」の保守主義者と一線を画されようとしている点にも共感しました。

私も「戦前型」保守主義を無批判に受容しようというのではありません。ただ、戦後が「たらいの水と一緒に赤子も流してしまう」ように、戦前の良き面をも否定してしまった。その結果として戦後は戦前にも劣ることになっているという認識があるからです。戦前の日本の良き伝統はむしろブラジルやアメリカの日系人や韓国や台湾の旧統治国に一部残されていると思います。

現在の日本の文化状況に対して――そのなかにはNHKなどのマスコミも含まれますが、かって三島由紀夫が批判したような愚劣な市民社会文化と衆愚民主主義を国家がどのように批判しアウフヘーベンしてゆくか、この点でも西尾幹二氏は実に貴重でかけがえのない働きをしておられます。いつの日か「ネット文化」の中からも徹底的なマスコミ批判の嵐が巻き起こることを、そして、それがまともな日本の文化文明の復興につながることを期待しています。

最近のアメリカの金融崩壊についても、かねてからグローバリズムとナショナリズム、あるいはパトリオチズムとの関係で、その矛盾が明らかになることは予測されたことでした。

その意味で今回のアメリカの金融崩壊は、アメリカのグローバリズムを無批判に受け入れようとしていた日本の政治に対する一つの警告にはなるのでしょう。ただ、グローバリズムのもつ意義を全面的に否定し去るのも正しくないのではないでしょうか。グローバリズムがこれまで全世界で一定の影響力をもってきたことにも、それなりの根拠や意義があったからだと思います。グローバリズムの意義とは何であったのか、それを限界とともに見極めることも大切ではないでしょうか。

アメリカの大統領共和制はむき出しの「市民社会国家」です。それは経済的には典型的な「資本主義社会国家」であり「市場原理主義国家」として現象してきます。その意味で日本やイギリスなどヨーロッパ諸国の「立憲君主制国家」はアメリカのようなむき出しの「市民社会国家」に対する批判としての存在価値をもちます。
『至高の国家型態』

アメリカの「市場原理主義」に対して日本は「立憲君主制国家」として主体的に批判的に対応してゆく必要があります。西尾幹二氏の小泉郵政改革に対する批判はそうした点に意義もつものではないかと思います。ただ『小泉郵政改革』の意義についての評価の点で私は西尾氏と若干意見を異にするのかも知れません。

民主党に対する失望
小泉首相は英雄か

最近の若者にどのように西尾幹二氏が受け入れられているのかは、うかつにもよく知りません。ただ、立憲君主制国家の保守という点で西尾幹二氏の思想家としての存在価値は極めて高く貴重でかけがえのないものです。

 

 

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トラックバックありがとう

2008年01月07日 | Weblog

toxandriaさん、トラックバックありがとうございました。
明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしく。
あなたのブログへも折りに触れ訪問させてもらっています。

昨年はドイツ旅行の記念写真も楽しませていただきました。とくにハイデルベルグの写真は、なまじっかにヘーゲルなどをかじっている関係で、ハイデルベルグ大学の教授に就任してからヘーゲルはどのあたりを散策していたのだろうかとよけいな空想が働いたりしました。(日本の都市の品格がヨーロッパに追い付き追い抜く日が来るのだろうかと思うとため息が出ます。)

また、晩秋の京都を訪れた写真もあって、近くに暮らしている私などよりももっと京都の秋をご存じかも知れないと思ったりしました。

toxandriaさんのブログ記事ももちろん読ませていただいていますが、今ひとつあなたの思想の核心をつかみ切れていないようです。あなたの博識についてゆけない面もあるのでしょうが、本質をつかむには、もう少し時間的にも「あなたの現象」を体験する必要がありそうです。論評はそれからにさせてもらいたいと思っています。

ただ正月2日の記事で「権力の可視化」をテーマとされているようですが、政治権力の構造をもふくめて、真実の明るみに出るのはよいことだと思います。可能な限り、政治家や「官僚」たちが秘匿している情報や真実も公開されてゆくことが望ましいと思います。その意味でも、インターネットの普及は「権力の可視化」にも少なからず貢献するのではないでしょうか。悪は闇を好み、公正は光を愛するということでしょう。多くの正確な情報によって、私たちの認識できる現象が全面的になるだけ、より的確に本質が客観的に明らかになりますから。

先のブログでも少し触れましたが、小沢一郎氏の「国連信仰」は、民主党が弱小政党の間はさほど問題ではありませんでしたが、昨年の参議院選挙のように多数を占めると、国家の主権を危うくしかねません。できればこの問題についても論評したいと思っているのですが。小沢民主党の「テロ対特措法」などへの対応についての見解なども、toxandriaさんをはじめ、ブログ上に記事を掲載されておられる方がいらっしゃれば、トラックバックなどで教えていただけるとありがたいです。

コメントとして書かせてもらおうと思いましたが、あえて記事にしました。本年もまたtoxandriaさんのご活躍を期待します。

 

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信仰深くあること──人間は生まれながらにしてカトリック教徒である

2005年05月13日 | Weblog


西洋には「人は生まれながらにしてカトリック信者である」ということわざがあるらしい。ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が死去して、新しい法王の選挙が話題になったとき、そんなことわざを思い出した。手元にあることわざ辞典には、この事項の説明がないので、その意味する正確なところはよくわからない。誰か知っておられれば教えていただきたいと思う。


ただ、このことわざからわかることは、西洋社会においては、カトリック教が浸透していて普遍的であったこと、また、カトリック教徒であることは出生によって規定されていること、そして、「人間は本質的にはカトリック教徒である」という人間観が示されているらしいことである。


もしこのことわざの解釈が大きく誤っていないとすれば、「人間は本質的にカトリック教徒である」とはどういうことなのだろうか。カトリック教会では、その教義や信仰の内容は、ローマ法王をはじめとする神父さんら聖職者によって、組織として教会の権威として確定されている。そして、原則的にカトリック教会は過つことがないと考えられているから、信者は安心し信頼して、自分自身の信仰の内容を教会に決めてもらうことができる。そうして、カトリック信徒の家庭に出生した者は、精神的に新たに生まれ直すことなく、そのままカトリック教徒として生きることになる。したがってある意味では気楽である。何が善であるか、良心に反するか反しないのかなど、あれこれくよくよ、自分で思い悩んだりすることも無い。教会が自分の信仰の世話をしてくれるし、神父さんに自分の懐疑を解いてもらえる。自分の頭で何が真理であるかを見極める苦労もない。またその能力がなくとも、教会に世話してもらって、信仰を維持してゆくことも出来る。ただ信じていれば良い。


このように、人間には他者の支配を喜んで受け、外的権威を自ら進んで肯定する傾向があるという意味で、「人間は生まれながらにしてカトリック教徒である」といえるのかもしれない。しかし、何の論証もなく、自己の良心のみを最終的な決定権者とすることもなく、外的な権威に盲目的に依存させるような信条や宗教は本質的に不自由な宗教であり信条である。


何が真理であるかを、独立した自分の良心や判断で確かめようともせず、外的な権威に依存して決定するこうした傾向が人間には本質的にある。それをこのことわざは示している。確かに信仰深くあることは、魂の救済と深い倫理性を養う上で意義があるとしても、それが感情の枠から出ようとしない限り、他者との対話や共同性から閉ざされて、狂信性を帯びる恐れはある。そして、人間のこの傾向が、教祖や教義に対する盲従と盲信に結びついたときにいっそう危険なものになる。「信仰深くあれ」という名目で疑うことが禁じられ、その教義ついて自己の良心に照らして独自に思考し、批判的に吟味する道が閉ざされている場合には、そして、その信仰が、殺人を肯定するような教義を持つ宗教によるものであれば、いっそう危険なものになる。ここでは信仰深くあることは戒められなければならないのである。


もちろん、信仰上においてだけ、単なる教義上だけで殺人や窃盗を肯定しているのであれば、犯罪は構成しない。しかし、その狂信的な教義を実際に実行すれば、当然に刑法上の犯罪を構成し、不法行為として国家の法規範に抵触し、その犯罪は国家権力によって糾されることになる。


その端的な事例となったのが、オーム真理教事件である。多くの高学歴の青年が、松本智津夫という教祖の狂信的で愚かな教義を盲信盲従して、殺人という犯罪を犯し、他人の人権を最大限に侵害するばかりでなく、自らの貴重な人生をも棒に振ってしまった。ここには「人間は生まれながらにしてカトリック教徒である」ということわざに示されるような、外的な権威に盲従盲信する人間の本質的な傾向が、現代においてもなお顕著であることが示されている。価値観や判断能力を独自に確立することの難しさという普遍的で原理的な人間の能力の問題と──これは人類の動物としての資質の到達水準を示している──、さらには、国家や社会の組織や制度の発達の程度、一国の学術文化教育の水準の問題として、日本の公教育がかかえる特殊な問題が存在している。


人類がまだサルからそれほど進化していないのだとすれば、それは、人類の現時点で到達している能力と資質の問題だからどうしようもない。しかし、国家や社会の制度、教育の問題などは、少なくとも、それらを改革することによって、人間社会の抱える問題を解決できる場合が少なくない。日本の公教育はどうかといえば、事実として、「生まれながらのカトリック教徒」を育てているのではないだろうか。あるいは、太平洋戦争前の、権威を疑うことを許さず、自主的な思考を育成してこなかった皇民教育をいまだ克服できないでいるか。


少なくとも、特定の教義や個人に盲従して、その支配に自己をゆだねる精神構造をもった、上祐史浩や村井秀夫のような市民、国民の発生を可能にしている。また、政治家も教育関係者も、そうしたオーム真理教事件の根本原因を正確に認識しておらず、この事件が何よりも日本の公教育の欠陥による失敗であるという深刻な事実認識もない。そのために、同種の事件の再発の可能性の根を摘むことができないでいる。植物の種が存在する限り、日光や土壌など条件さえそろえば、芽は必ず吹きかえすのである。


上祐や村井などが、早稲田大学や大阪大学、東京大学といった教育機関に学び、そして、その多くが理工系学部出身者であったことは看過されるべきことではない。そこに深刻な教育上の欠陥が存在していると見るほうが自然である。日本の民主主義教育の未熟と奇形を見るべきかもしれない。この事実を特に日本の教育関係者と政治家は深刻に受け取るべきである。


国民の自己教育の欠陥は、さらに、北朝鮮や中国などの全体主義的な独裁国家などとの外交問題の対処の仕方に、また、オーム真理教(「アーレフ」に改名)や共産党や創価学会などの個人崇拝の問題が発生しやすい全体主義的な組織や団体に対して、どのように対処して行くべきかという内政的な問題の処理方法にもつながってくる。民主主義的な国家の外部と内部に存在する、そうした反民主主義的な政治団体や宗教組織に対して、民主的な国家や国民はどのように適切に対処してゆくのかという根本問題が含まれている。


ヨーロッパ中世のように、いまだ権威や教祖に喜んで自己の支配をゆだねる「カトリック教徒」の多いわが国において、いったいどのような思想と価値観で国民は自己を教育し、どのような原理で国家や社会を組織し統治運営すれば、より高い自由と真理と善の実現した国家と社会を享受しうるのか、そして最大多数の国民の幸福を保証できるのか。国民一人一人の良心と判断で考えたいものである。

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花の命

2005年04月14日 | Weblog
命のはかなさは桜の花にたとえられる。本当にそのとおりで、たった一日見なかっただけなのに、あれほど満開だった桜の花が、今朝見るとすでにほころび、その花々の間から新芽が見える。朝晩はまだしも、昼中はすっかり寒さも和らぎ、春爛漫の時期に入る。


桜の花のことで西行のことを思い出し、久しぶりに彼の歌集を開いた。釈迦入寂と時を同じくして如月満月のころに、かねての願いどおりに桜の花の下に逝った西行らしく、桜を愛でた歌には事欠かない。

自然が春の命に脈動する様子を歌ったのは次の歌である。花と鳥が、春の到来を受けて共に和して生命を謳歌する。ここに植物と動物がこぞって神の創造を賛美する姿を見る。


70  白川の  春のこずゑの  うぐいすは  花のことばを  聞く心地する
  

平明な歌で、何の注釈もいらない。花の名所で有名な京都白川を通り過ぎようとした時のこと、桜の梢で囀っている鶯の鳴き声を聴いたとき、あたかも桜が私に語り掛けて来るような気がしましたよ、という。単純なことばで、美の極地を現す。


今年も西行を忘れずにやって来た春を前にして、あらためて、彼の精神的な内面を知らされるのは次の歌である。俗名佐藤義清は武士の身分も妻子をも棄て、その名の通り、西方浄土を求めて旅に出た。そうして、この世の思い煩いをすっかり棄てて自由な身になったはずなのに、桜の花に対する執着だけは棄てきれないでいる。そして、あらためて、煩悩の源である自分の心の執着の深さに気づかされて歌う。

76  花に染む  心のいかで  残りけん  捨て果ててきと  思ふわが身に

花に執着する心がどうしてこんなに強く残っているのでしょう。すべてを振り捨てて出家してきたと思っていた私でしたのに。

もちろん、春を感じさせるのは、花ばかりではない。雨も、しとふる春雨もさらにしみじみと春の物思いに耽けさせる。岸辺にうな垂れ、風に乱れる新緑の柳は、自由になろうと釈迦の跡を慕って出てきたのに、かえって在家のときよりもさらに矛盾する西行の心を思い乱させる。

              雨中の柳

53  なかなかに  風のほすにぞ  乱れける  雨に濡れたる  青柳の糸

しっとり雨に濡れて岸辺に佇んでいるみずみずしい新緑の柳を、風は親切に吹いて乾かせてあげようとしてくれるのですが、そのためにいっそう柳の心は思い乱れるのです。
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ホリエモンとユダヤ人

2005年04月03日 | Weblog
ライブドアの社長、堀江貴文氏すなわちホリエモン氏には何かユダヤ人と共通する点があると思う。これは一見奇妙な連想に思われるかも知れない。ユダヤ人はその宗教的な理由から彼らの言う異邦人の社会になじめず、既存の体制、社会から絶えず抑圧され迫害を受けてきた。そして、ホリエモン氏がテレビや新聞などのマスコミに登場し、そこで発言するのを聞くにつれ、総体的に浮かび上がってくるのは、いわゆる既成秩序というか既成体制に対するホリエモン氏の反感のようなものである。ホリエモン氏はネクタイを決して締めない。それは氏に似合わないということもあるかも知れないが、同時に彼にとってネクタイは搾取の象徴のように受け取られているらしいことである。


ホリエモンとユダヤ人も何らかの理由で、共同体から疎外されてきたこと、その結果として、共同体に対してかなり屈折した感情を持っているらしいと感じる。ホリエンモン氏の生育環境について詳しいわけではない。氏はかって、「この世で金で買えないものはない」と発言したそうである。そして、家賃二百万円とかの豪壮なアパートに住んでいる。もちろんそんなことは、成金趣味の下品な行為にしか見えず、インドネシアのスカルノ元大統領の愛妾だったデビ婦人の成金特有の悪趣味と同じように不愉快にしか思わない。


堀江氏は大きな富を所有している。しかし、彼にとって彼の富は、ちょうど貧者のあるいは疎外者の裏返しの富であって、多くの場合、貧困に悩み、そのゆえに社会から疎外されてきたことに対する一種の見返しの手段としての富のように思われることである。彼は、その富によって、かって彼を疎外し仲間はずれにしてきた(時にはいじめにも遭ったのかもしれない)社会、あるいは学校に意趣返しをしたいのかも知れないと思った。ユダヤ人に金持ちが多いのも論理的には同じ理由によると考えられる。これは私の直感的な印象であって、明確な証拠があるわけではない。


ただ、はっきりしていることはホリエモン氏には国家や民族や地域社会といった共同体に対する親愛感というものがあまり感じられないことである。これは韓国のマスコミに、日本企業の買収を勧めたことにも現れている。ここには、かって教育大付属池田小で多数の児童を殺傷して死刑になった宅間守や神戸児童殺傷事件を引き起こしたサカキバラ少年に共通する土壌があるのではないだろうか。社会や国家に対する敵意や憎悪が犯罪という行為にまでいたらなくとも、既存の体制を自分の信じる金の力で変えたい、それによって、かって自分を見下した社会に意趣返しをしたい。そういう潜在意識がホリエモン氏にあるのではないだろうか。


これも現代資本主義に特異な社会現象のひとつだと思う。しかし、一方で資本の論理によって社会のグローバル化がいっそう進展してゆくことが予想される中で、こうした事件は、ホリエモン氏のように取り立ててニュースに取り上げられることもないくらいに、いずれ日常化してゆくことが予想される。あるいはすでに日常化しているともいえる。今回は、買収の対象がフジテレビであったこと、堀江氏がたまたまマスコミの「寵児」だったことによる。事実、この事件を契機に、ホリエモン氏の兄貴分である、ソフトバンクインベストメントの北尾氏の存在が明らかになった。


グローバリズムは国家や民族の垣根を取り払う。そこには多くの場合、剥き出しの資本の論理が現れる。二十一世紀の国家と民族が直面せざるを得ないひとつの問題であるといえる。



ホリエモンとユダヤ人(2)
2005年08月13日 / 時事評論


もちろん、グローバリズムの否定的な側面のみを強調するのは、公平な見方ではない。物事は弁証法的に見なければならない。すなわち、物事には肯定面もあれば否定面もある。逆に伝統的なもの民族的なものがすべて無批判に肯定すべきもの優れたもの、すべて保守すべきものという見方も一面的に過ぎる。


むしろ、多くの場合、社会や人類は過去や伝統を否定しつつ発展してゆくものである。特に、日本の伝統や過去の文化、習俗に不合理なもの不効率なもの、不平等なものなども少なくない。たとえば、太平洋戦争前に存在した小作人制度や貧困からくる人身売買にも等しい公娼制度、これは江戸時代から続く日本の悪しき伝統以外の何ものでもない。もちろん、封建社会には、現代のような衆愚政治はなかったかも知れないが、その権威主義、事大主義、身分制の不自由は今では想像もできないものだろう。福沢諭吉の自叙伝などを読めばその消息もよくわかる。


ホリエモン氏のグローバリズム、その変革の意思にも肯定的な側面をみなければならない。彼は現代日本の抱えている多くの不合理、不効率を必ずしも明確に理論的に、あるいは思想的にきちんと定式化して、改革しようとしているのではないかも知れないが、彼がいわば本能的に直感的に示している改革の意思は、肯定的に評価できるものも少なくない。それは、日本の政治や行政の現実が多くの点で、国際的な標準にも達しておらず、それが国民や消費者の一般的な利益に反しており、一部の利益団体や既成団体の既得権益を守るだけのものになっている場合も少なくないからである。

日本がアメリカの国務省の人身売買監視室から、強制労働や性的搾取に関する行政の取り組みが不十分であるとして、監視リストの対象になっているように、グローバル化することによって、日本国民が国際的な福祉水準に達するという側面も少なくないということである。むしろ、グローバル化が日本国民にとって一般的な利益になる場合が多い。


IT技術や国際電話、また、今回ホリエモン氏が参画を狙っている、マスコミや放送は、まだまだ規制の多い分野であり、もっと自由に開放することが、国民の利益になる場合が少なくない。テレビ、ラジオ、新聞その他のマスコミ関係にも、ホリエモン氏のような成金趣味の人間であっても、自由に参入し、その競争の中で、国民が取捨選択する選択肢が増えたほうが、業界、国民の双方にメリットとなる。ホリエモン氏がフジテレビの筆頭株主になって、その「支配権」を牛耳るかどうかは別にしても、多くの新しい挑戦者が、テレビ、新聞、ラジオなどの沈滞化し停滞した業界に新風を吹き込むのは、むしろ歓迎すべきであるのかも知れない。

また、ホリエモン氏が乗り込むことによって、崩れるような企業の文化、伝統といったようなものなら、所詮その程度のものとして崩壊したほうがましだともいえる。


2005/04/02
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太平洋戦争をどう評価するか

2005年03月31日 | Weblog

太平洋戦争をどのように評価するか、という問題に決着をつけることは大きな課題だった。これは、単に歴史の問題だけではなく、現在の政治的な選択の問題、価値観の問題でもあるからだ。そして、この問題が困難な問題であるのは、私達の同一の民族の、父祖の政治的な行為を、まさしく、どう評価するかということにかかわってくるからである。


特に太平洋戦争の敗北によって、日本が民主化されたという側面は紛れもなく事実であるのだから、民主主義をどう評価するかにしたがって、私達の父祖、同じ民族の選択と行為を否定することにもなるからである。民主主義を肯定するなら、戦前の父祖たちの選択を、軍国主義、全体主義として否定せざるを得ない。
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雨降り

2005年03月28日 | Weblog
今日は雨が降った。午後の5時が過ぎても、小ぬか雨が降り続く。洗車して車検に出す予定だったが中止する。明日は晴れるようである。

このブログでは、日常私たちの手に入れることのできるニュースを追いながら、アメリカの国際戦略を中心にして、可能な限り、国際情勢の分析を心がけて行きたいと思う。そして、少しでも世界に対する認識が深まることを願っている。

世界を動かしている根本的な要因は何か。人間の欲望である。人間の欲望には物質的な欲望と精神的な欲望があるが、人類全体としてみるとき、後者が圧倒的に、根源的な要因である。マルクスはその唯物史観で人間社会を、上部構造と下部構造として把握し、根本的な規定要因は後者であるとした。下部構造とは人間の経済行動のことである。マルクスの世界観を受け入れているわけではない。しかし、彼の科学研究の成果は原則において承認できる。


現在のイラク戦争の根本的な動因は、イラクにおける石油利権をめぐる闘争と見る見方が、この戦争の本質をもっとも的確に捉えていると思う。フセインの独裁体国家とアメリカというの民主主義体制の国家の間に生じた石油利権をめぐる闘争である。アメリカの中東民主化政策も決して偽りではない。しかし、根本的動因は前者にあるということをきっちりと抑えておかないと、国際情勢の本質を掴みそこなうことになる。


これは国家と国家との間の戦争の原因をどこに求めるかという問題にもつながる。太平洋戦争は、アメリカを中心とする欧米列強と日本の中国大陸を巡る利権の対立が根底にあった。


アメリカはイラクを民主化することによって、特に石油に対する利権を手中にしたことになる。もちろん、民主化は促進されるべきものである。石油利権をめぐる戦争という悪によって、民主化という善が実現されてゆく。これもヘーゲルのいう歴史の狡知、理性の狡知、神の計り知れぬ知恵ということになるのかも知れない。


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竹島問題

2005年03月24日 | Weblog
これからは国家と国家の間の領土問題は、戦争などの武力による手段ではなく、国際司法裁判によって決着をつけるのが一番よい。
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どこにいる大和撫子

2005年03月19日 | Weblog
撫子は私の好きな花の一つである。一番好きな花かと問われると、必ずしもそうも断言できない。桜の花も好きだし、菊も、ダリアも、リンドウも、キキョウも、蘭も皆それぞれの趣があって好きである。しかし、撫子は、大和撫子を連想させることもあって、取り分けて好きな花の一つである。初夏の堤や海辺で、草むらの影にひっそりと咲いている撫子に出会うと、その清楚な美しさについ足を止め、見つめてしまう。



  放つ矢のゆくへたずぬる草むらに見いでて折れるなでしこの花

 
                    (草径集 大隈言道 なでしこ)


それにしても、なぜ大和撫子と言うのだろうか。どうして、日本の女性が撫子に結び付けられたのか、いつ、誰の発想に拠るのか調べようがなく私には分からない。しかし、撫子と日本の女性が結び付けられた大和撫子という可憐な言葉は本当に美しく、また、日本の女性にとっても名誉な言葉だと思う。


それにしても、最近残念に思うことは、この大和秋津島から、本当に大和撫子がすっかりいなくなってしまったように思われることだ。本当に美しいと思う大和撫子に、すっかり出会わなくなったと思う。現代の女性には失礼かも知れないが。寂しいし、残念なことである。どうしていなくなったのだろう。本当の大和撫子はどこに行ってしまったのだろう。西洋タンポポに土着の日本タンポポが追い払われたように、戦後の圧倒的なアメリカ文化の、洋風文化の流入によるものだろうか。


大和撫子の伝統はそんなに浅く、弱いものだったのか。もちろん、こんなことを言っても、現代の日本女性には一笑に付されるのが落ちだということも良く分かっている。しかし、私はこの事実を哲学の問題として考えて見たいのである。


まず、私が何に美を見出しているのか。また、美とはなにか。それを哲学的に理論的に考察することはここではできない。ただ、この国から内面的な精神的な深さを感じさせる女性がすっかりいなくなってしまった。それは、真の宗教がこの国から蒸発してしまったことに起因していると思う。真の宗教こそが、女性を内面から本当の美人に作るのである。その宗教が亡くなってしまったからなのだ。心に赤いバラ黒いバラを咲かせている女性がどこにもいなくなってしまったのである。


しかし、私はまた楽観している。キリスト教の真理が不滅であるように、この国においても、やがて可憐な大和撫子が復活すると信じている。ただ、儒教や神道の仏教の土壌の中から芽を出すのではないと思う。そうではなく、古臭い伝統主義者から蛇蝎のように嫌われたキリスト教の、そのキリスト教婦人の中に、大和撫子の再生を見ることを。


まもなく春が来て、きれいな桜が咲く。そして、また日本の初夏がやってくる。そのとき、どこかの浜辺で、岸辺で、ひっそりと咲いている大和撫子に会えるかも知れない。


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