ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

環境テロリスト

2008年01月25日 | ニュース・現実評論

日本の調査捕鯨船に対して、アメリカの環境保護団体の活動家たちが妨害行動に出た。何度も繰り返される事件ではあるけれども、グリーンピースなどに所属する暴漢たちの引き起こすこのような事件は不愉快である。そこに感じられるのは、欧米人の「傲慢さ」だろうか。もちろん、一部の環境テロリストのこうした愚行を一般の欧米人にまで一般化するのは適切ではないだろうが、HUMBLEな欧米人の存在の一方で、このような狂信的な「動物愛護主義者」を生むのもまた、ニーチェの思想などと同じく「キリスト教」文化の反面なのだろうかと思ったりもする。とくにプロテスタント国にその傾向は強いのかも知れない

自己の信条のみを絶対視して、自分と異なった考えや価値観を持つ人たちを、無反省に排斥する人たちの多くが、特定の何らかの宗教や信仰や「主義」を持つ人たちなどに多く見られるように思われるのも、人間の悪しき性の一面なのだろうか。

牛や豚や鶏を食べるのはまったく問題がなくて、鯨を食べるのは悪いという根拠を合理的に説明してもらいたいものだ。もちろん、種の絶滅に向かうような乱獲は認められるはずもないが、十分に生態系の維持に問題ないかぎり、鯨を食料とすることに何ら問題はないはずである。それは、私たちの国の伝統的な食文化でもある。

私たちにとって固有の価値ある文化は守らなければならない。そのためには言論によって合理的に反論しなければならないが、ただ、単純にオーストラリア人や欧米人の人種的な偏見などといたずらに関連づける人もいるようだが、それも短絡にすぎるし必ずしも正しくないと思う。感情的になって話を飛躍させることなく、ねばり強く言論と論理の正しさのみで反捕鯨国の世論を克服してゆくしかないと思う。

 

外交:調査捕鯨、妨害防止を申し入れ

 外務省は23日、日本の調査捕鯨船が環境保護団体「グリーンピース」から燃料補給の際妨害を受けたことについて、同団体が乗り組んだ船の旗国オランダに、再発防止の措置を講じるよう申し入れた。児玉和夫外務報道官が会見で明らかにした。妨害行為は、反捕鯨団体「シー・シェパード」に次ぐもの。「シー・シェパード」の件では、拘束されたメンバー2人のうち1人がオーストラリア人のため、高村正彦外相は22日、オーストラリアのクリーン貿易相との会談で「国内法に基づく適切な対応」を要請した。

毎日新聞 2008年1月24日 東京朝刊

日新丸への妨害 

反捕鯨で儲ける

 

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日本国の衰退と復活

2008年01月22日 | ニュース・現実評論

世界市場「独歩安」日本 政治・行政不況追い打ち(産経新聞) - goo ニュース

日本国の衰退と復活

どんな歴史の本を読んでも、そこには多くの国家や民族の栄枯盛衰が語られている。個人や企業におけると同様に、国家や民族においても、その隆盛と衰退は避けられない。ただ哲学的な歴史家はそこに何らかの法則性を探ろうとする。個人にせよ企業にせよ、民族にせよ、国家にせよその栄華と没落は何に起因するのか。

短期的な視点から見ても、経済や景気の循環や一国の株価の動向と同じように山もあれば谷もある。最近のニュースを見ていると、最近の日本は長期的な停滞傾向に入っているようである。

小泉元首相が「改革なくして成長なし」 とか「官から民へ」という派手なキャッチフレーズを掲げて登場したとき、国民は圧倒的な支持を与えた。経済改革は竹中平蔵氏に丸投げすることで、郵政民営化や道路改革を実行しようとした。そして、それらの改革の試みが少なくとも国民や海外の投資家に夢を与えていた間は、日本の株価も復活し、失業率や倒産件数も改善された。雑誌「エコノミスト」ではビル・エモット氏らによって「日はまた昇る」として日本経済の力強い復活を語られもした。

しかし、小泉改革も「官僚」や「族議員」らの抵抗にあって、中途半端に終わるか挫折におわり、その傾向が、小泉内閣の後を引き継いだ安倍晋三前内閣の政治姿勢によってさらに決定的になったとき、安倍前内閣は国民の支持を失い、安倍晋三氏は政権を投げ出すしかなかった。安倍前内閣の崩壊の理由は、安倍晋三氏の個人的な病状によるものではなく、根本的には、郵政造反議員の復活や農水大臣の松岡利勝氏や赤城徳彦氏らの族議員、二世議員たちのカネをめぐる政治倫理の問題や国家公務員制度や経済に対する改革姿勢の後退が国民に見抜かれ見放されたことによるものである。

そして、安倍内閣の後を引き継いだ福田康夫氏とそれを選出した自由民主党の党略によって、内閣と与党の改革姿勢の頓挫と小泉政権時代のいわゆる「守旧派」の復活が決定的になった。

道路族の古賀誠氏が自民党の選対委員長に就任し、岐阜一区においては「小泉改革」の女刺客とまで揶揄された佐藤ゆかり氏が「国換え」となり、郵政改革で守旧派とされた野田聖子氏が公認候補として復活するなどして、一時は少なくとも表面的には「自民党をぶっ壊す」という改革姿勢を明確にして登場した「小泉改革」の流れは、ほぼ完全に息の根を止められたことが明らかになった。

小泉内閣が登場するまで「失われた十年」として、日本社会をおおっていた閉塞感が再び芽を伸ばしはじめたようである。それは現在の自民党と公明党による福田政権与党の政治姿勢と決して無関係ではない。日本の政治の、談合型利益誘導政治は完全に温存されたままであるし、公務員制度やマスコミ業界の改革もほとんど手着かずのままである。

改革の方向としては決して難しい問題ではない。政党再編によって、政治をまず利益誘導型政治から理念追求型政治へと根本的に変換することである。そして、新しい日本国のビジョンを明確にすることである。日本国の追求すべき理念とは何か。それは「自由」と「民主主義」である。この一見古くさい理念を新しく復活させることである。それは政治家の仕事でもある。これらの理念は、それだけの永久的な価値をもっている。

日本国の閉塞状況は、何よりも戦後民主主義の硬直した政治体制によって、国民の間に、経済の領域のみならず、政治、教育、文化芸術などあらゆる分野で、「自由」な創意工夫の気風が失われているからである。また似非「改革」が、国民の階層・階級の間の流動化を促すことにならずに、むしろ格差の拡大と固定化につながることになっているからである。

そして、真実の「民主主義」が政治においても教育においても、経済においても実行されていないがゆえに、国民の間には正義の倫理感は失われ、犯罪も増加し、国民生活のあらゆる側面においてセーフティ・ネットワークも確立されずに、国民は生活の不安におびえることになっている。

今さらに、国家の目的理念を「自由」と「民主主義」に確定して、それを全国民で追求するべきである。それが挫折した安倍晋三氏の「美しい国」の復活にもつながる。「自由」の拡大をめざして政治と経済を改革し、正義の実現をめざして、戦後日本の似非民主主義から転換して、真の「民主主義」を追求することだ。それによって、国民の不安と退廃の解消をめざすべきである。

具体的にいえば、「自由」と「民主主義」のそれぞれの理念の追求は、現在の利益談合政界を一度ご破算にして「自由党」と「民主党」に再編することによって実現される。そして、各議員の哲学に応じてそれぞれの政党に所属し、そこで真実の「自由」と「民主主義」を国民のために研鑽し追求してゆくことである。原理は単純で難しい話ではない。国民と政治家の自覚と実行力のやる気の問題である。そうして、「自由」と真の「民主主義」を求めることである。

まず「神の国」と「神の義」を求めよ。そうすれば、国民に必要なものはみな加えて与えられるだろう。

 

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人間と自然

2008年01月15日 | 日記・紀行

人間と自然

山へ畑仕事に出かけたりすると、様々のことを考えさせられる。たとえば、人間の健康や病気とその医療の問題などもある。また、さらにはより根本的に、人間と自然との関係、あるいはもっと広い意味での自然に対する人間の使命という問題もある。人間が自然の中から発生した意義と目的の問題である。

現代医学が発達して、今日では科学技術の結晶のような最先端の医療技術が受けられる。もちろん、そのために現代医学による治療には莫大な費用を要する場合がある。しかし、そうした一方でその高度化した医療の恩恵を被るべき人間自身の生命力は、肉体のみならず精神的にもむしろ退化していると見るべきではないか。

もちろん、病気に対する治療法の研究に最先端の科学技術を応用することに、反対するつもりはまったくない。

ただ、病気に対する治療法を研究する以上に、人間にとっての健康な生き方、病気にかからない生活の研究と実行、また予防医学の徹底にこそ重点を入れるべきだと思う。研究の対象と方向が根本的に誤っているのではないか。また、そのこと自体がすでに人間の「病」ではないか。

多くの病気や不健康は、人間のサイドからの理由によるもの、宗教的に表現するなら、「死」のみならず「病」もまたその多くは「罪」によってもたらされるにちがいない。

そして、人間の健康を考える時に、「自然」はつねに還るべき原点であると思う。

現代の日本のみならず、それは世界に共通する現象だろうけれども、社会問題として、医療・年金・保険など制度上の問題がある。それらは、もちろん、人間の福祉に大きな意義をもっていることは確かだけれど、また、多くの問題も抱えていること、むしろ「麻薬のような堕落作用」の潜んでいることは、政治や経済との関連においても明らかである。そういう意味でも今ひとたび、いわゆる「生き方としての資本主義」や「社会のあり方としての資本主義」が根本的に批判される必要があるのかもしれない。

それは、たんに肉体的だけではなく精神的な「人間の解放」の問題である。だが、人間は何から「解放」される必要があるのか。「金」か「罪」か。どのようにして。

写真は、麦踏みをへて成長する麦の芽。

 

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トラックバックありがとう

2008年01月07日 | Weblog

toxandriaさん、トラックバックありがとうございました。
明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしく。
あなたのブログへも折りに触れ訪問させてもらっています。

昨年はドイツ旅行の記念写真も楽しませていただきました。とくにハイデルベルグの写真は、なまじっかにヘーゲルなどをかじっている関係で、ハイデルベルグ大学の教授に就任してからヘーゲルはどのあたりを散策していたのだろうかとよけいな空想が働いたりしました。(日本の都市の品格がヨーロッパに追い付き追い抜く日が来るのだろうかと思うとため息が出ます。)

また、晩秋の京都を訪れた写真もあって、近くに暮らしている私などよりももっと京都の秋をご存じかも知れないと思ったりしました。

toxandriaさんのブログ記事ももちろん読ませていただいていますが、今ひとつあなたの思想の核心をつかみ切れていないようです。あなたの博識についてゆけない面もあるのでしょうが、本質をつかむには、もう少し時間的にも「あなたの現象」を体験する必要がありそうです。論評はそれからにさせてもらいたいと思っています。

ただ正月2日の記事で「権力の可視化」をテーマとされているようですが、政治権力の構造をもふくめて、真実の明るみに出るのはよいことだと思います。可能な限り、政治家や「官僚」たちが秘匿している情報や真実も公開されてゆくことが望ましいと思います。その意味でも、インターネットの普及は「権力の可視化」にも少なからず貢献するのではないでしょうか。悪は闇を好み、公正は光を愛するということでしょう。多くの正確な情報によって、私たちの認識できる現象が全面的になるだけ、より的確に本質が客観的に明らかになりますから。

先のブログでも少し触れましたが、小沢一郎氏の「国連信仰」は、民主党が弱小政党の間はさほど問題ではありませんでしたが、昨年の参議院選挙のように多数を占めると、国家の主権を危うくしかねません。できればこの問題についても論評したいと思っているのですが。小沢民主党の「テロ対特措法」などへの対応についての見解なども、toxandriaさんをはじめ、ブログ上に記事を掲載されておられる方がいらっしゃれば、トラックバックなどで教えていただけるとありがたいです。

コメントとして書かせてもらおうと思いましたが、あえて記事にしました。本年もまたtoxandriaさんのご活躍を期待します。

 

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明けましておめでとうございます

2008年01月02日 | 日記・紀行

明けましておめでとうございます

2008年、平成二十年の幕開けです。今年もまた希望に満ちた明るい充実した一年になりますように。今年は子年だそうです。平安時代には、正月の初子の日には、野山に出て小松を引いたり若菜を摘んだりして楽しむ習慣があったそうです。春の七草もまもなくです。七草粥など味わえればと願っています。そういえば、昨年の秋の七草には、撫子と女郎花には出会えませんでしたが。ところで「子子子子子子子子子子子子」。さて何と読むでしょう。小野の篁さんに聞いてください。

    

            初音

昨年も私なりにメッセージを送り続けました。もちろん笛は吹けども踊らずであるのはヨハネやイエスの時代以前からのことです。エチオピア人がその黒い肌を、豹が斑の皮を変えられないように、人間もその本性は変わりません。だから何も驚くには当たりません。それでも、世界や現実は、自称平和主義者や理想主義者が考えるはるか以上に、理性的なものです。然るべくしてそうなっています。そして、世界史の歩みはゆったりとしたものですが、その目的は貫徹されます。

その社会にどんなに科学技術の知識や物質の富に豊かになっても、精神の根幹が腐っていれば没落は免れません。それは世界と日本の社会の現実が示している通りです。そして日本の復活の鍵がどこにあるのか誰もがわかっているのに、まだそれを実行できません。

個々人の小さな思惑をはるかに越えて、世界史は進んで行きます。昨年の世界の基本的な変化は、ロシア、中国、インドが目覚ましい経済的発展を成し遂げ、それに応じてアラブ産油国がオイル高騰景気に沸いた一年だったことでしょう。またアメリカ国民の奢れる消費生活がサブプライム問題として神に裁かれようとしています。昨年末にはパキスタンではブット前首相が民主主義のために殉じました。日本国民も現在の民主主義が有名無名の多くの人の血と汗によって勝ち取られたものであることをいつも思い出す必要があるでしょう。

小沢一郎民主党党首はいつまでも国連信仰の夢から覚めることはなく、福田康夫氏には国民を幸福にするほどに政治理念に力量はありません。学力低下は何も日本の中学生、高校生や政治家たちだけの話ではありません。とくに日本の指導者を指導すべき大学および大学院の学力と志の劣化が日本社会の危機の背景にあります。今日の大学の人材の枯渇とその品格の衰えを見るべきだと思います。そこには戦後世代の精神を自明のものとして、それを越えた時代と人格を思考するだけの想像力はありません。

政治の世界でも、自由と民主の理念に従って政界を民主党と自由党とに再編成するのではなく、小沢氏と福田氏は、愚かにも政治家の談合と切磋琢磨なき癒着によって、日本国を茹で蛙のような安楽死への道に開こうとしました。日本の談合文化がすべて悪いとは言いませんが、その悪しき一面の現れたのは事実です。

ところで私にとって青春の日々に、伝道の書や箴言などが聖書への入門書となりました。これからも聖書と共に生き、そこから慰めと歓びを得て、そして、さらに聖書が日本国民の書となり、いっそう品格に富んだ国家と国民になりますように。このブログがそれにいささかでも寄与することができればさいわいです。

伝道の書第三章、第七章から

善き日々は歓び楽しめ、悪しき日には深く考えよ。神は両者を併せて造られた。人には誰も行く末のことはわからない。

人の子の苦痛に満ちた労役がいったいなんの益があるというのか。
彼に課せられた骨折りを私は見てきた。神はすべてを時にかなって美しく造り、彼らの心に永遠の思いを与えられた。それでも人は誰も神のなさる業を初めから終りまで見届けることはできない。・・

私は知っている。神のなさることは永遠に続くことを、それには何も足すことも引くこともできないことを。ただ人は神のみを畏れよ。

幸福と真実の民主主義は小さな少数者のグループにおいて、しかしそれも、ただ比較的に相対的に実現されるだけのものかもしれません。絶対的な理想は、ただ天上にある神の国においてのみ実現されるもので、しょせんこの地上では実現されることはないのでしょう。ですから、私たちはせめて片手に持てるものだけでも十分に歓び満足すべきものだと思います。

私にも、皆さまにとっても、本年もさらにいっそう充実した時間の
訪れますように。そしてブログでの議論も活発な充実したものとして、ともに民主主義の文化を研鑽してゆきましょう。

 

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