ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

護憲派の研究(護憲派の論理)1

2022年04月01日 | 憲法論資料
護憲派の研究(護憲派の論理)1
 
塾長雑感
2022.04.01

第321回 桜とひまわり

伊藤 真

 

 

伊藤塾渋谷校前の桜が満開です。いつ見ても見事で、少し心が癒されます。ウクライナでは大変な状況が続いているにも関わらず、日本の春は穏やかです。コロナも決して油断できませんが、蔓延防止措置が解除された東京の人出は相当なものです。

 

 

 

桜は日本の国花ですが、ウクライナの国花は、何だろうかと調べたら、ひまわりでした。実は伊藤塾のシンボルにしている塾花も弁護士バッジと同じひまわりなのです。映画「ひまわり」も再ブームのようですが、明るいイメージの花だけに映画も今のウクライナの状況も悲しさが際立ちます。ウクライナには、チェルノブイリ(チョルノービリ)原発があるだけでなく、ヨーロッパの穀物倉庫としても重要な国であることは知っていましたが、詳しい歴史や地理だけでなく本当に何も知らないのだなと少し恥ずかしくなりました。そういえば、首都キエフはロシア語発音ではなくウクライナ語に近いキーフと呼ばれるようになりました。正しい発音はクィエィヴという日本語にはない発音で難しいようですが、少なくともロシア語発音でないだけでも意味があります。ウクライナの隣のジョージアもかつてはグルジアと呼ばれていました。当初、ジョージアと聞いてアメリカの州や缶コーヒーを想起してしまった私もえらそうなことを言えません。

 

ジョージアは、黒海とカスピ海の間、トルコの北東に位置する国ですが、北はロシアに接しています。欧米に近づこうとしていたところ2008年にロシアから攻め込まれて、北部の地域を占領されてしまいました。現在でもロシアは軍隊を駐留させて不法占領し続けています。ウクライナと同じようなことが起っていたのですが、当時は今ほど大きなニュースにはなりませんでした。その後2014年のクリミア併合に続きます。

 

ロシア、ウクライナのことのみならず、東欧のことは本当に何も知らないし、今まで関心を持てなかったことを反省しています。世界各地で起こっている紛争に世界中の人々が関心を持ち、必要に応じて批判することはとても重要なことだと思っています。今回のウクライナ戦争に関して、第2次世界大戦後における最大の人道危機という評価があります。そうでしょうか。

 

凄惨を極めたアフガニスタン戦争(2001~2021年)は米国史上最長の戦争でした。米国の嘘で始まったイラク戦争でも数十万人の犠牲者が出ています。シリアからも多くの難民がポーランド、ドイツに押し寄せてきました。これらについては日本でも今のウクライナ戦争ほど関心がなかったように思います。避難民の姿にしても白人だから感情移入しているのではないか、欧州で起こった戦争だから悲劇的状況にこれほどショックを受けるのではないか。無意識の差別意識があるのではないかと自分の中に潜むダブルスタンダードに気づいて怖くなります。また、毎日目にするウクライナの映像を見ても銃を持った戦闘員は男性で、子どもの手を引いて逃げるのは女性ばかりです。たとえ18歳から60歳までの男性はウクライナ国外脱出を禁止される法律があったとしても、その存在を含めてジェンダーステレオタイプを無意識のうちに植え付けられている気がしてここでも怖くなります。

 

それでも日本国内で戦争反対の声を上げ、即時停戦を求めていくことには意味があると考えています。「日本でデモなんかしても、相手国の元首にそんな声など届くはずがない、そんなことで戦争や人権侵害が止まるはずない」という声も聞きます。自分の国のことで精一杯で余裕がないということであれば理解できますが、そうではないようです。「選挙に行っても無駄」という発想と似たところがあるように思います。選挙に行っても何も変わらないと思っている人は、行かなくても変わらないと思い込んでいるようです。しかし、主権者が選挙に行かずに放置しておけば政治はどんどん悪くなります。選挙とは為政者に緊張感を持たせるためにも重要な手段だからです。それと同じように戦争や人権侵害に対し国際社会が批判し声を上げ続けることには重要な意味があります。

 

憲法はその前文で「自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて」と規定して国際協調主義を掲げます。平和や人権という普遍的価値のために、SNSで声を上げたり、デモに参加したり、寄付したりする政治活動は憲法21条1項で保障された重要な権利です。こうした権利を行使できる国で生活することができているだけでも幸せなことなのですから、こうした権利を行使することは恵まれた環境にいる人間の責務だと思います。

 

政治的意見として多様な意見がSNSなどの言論空間に登場して、考える素材を提供してもらえることは、とてもよいことです。仮にその意見の内容が自分の考えと異なっていたとしても、自分の頭で考える訓練のよい材料になります。

 

今回のウクライナ戦争において、民間人も含めて最後まで戦うべきだという意見もありますが、逆に早急に逃げるか白旗を上げて民間人の被害を最小限に食い止めるべきだという意見もあります。感覚的には「ウクライナ頑張れ、負けるな」という声の方が圧倒的のようです。ゼレンスキー大統領を英雄視する声も聞かれます。

 

元大阪府知事の橋下徹弁護士は、テレビで「交渉のためにはプーチンの考えは何なのかっていうことを的確に把握しなければない」「これはあくまでNATOとロシアのプーチンのつばぜり合いの話だっていうことを把握しないと」と発言したそうです。伝聞で申し訳ないのですが、的確な指摘と考えます。橋下氏とは意見が違う点もいくつかあるのですが、立憲主義を堅持する立場を明確にしていて賛同することも多く、私もいろいろ学ばせてもらっている論客です。

 

彼はツイッターでも「いざ戦争になった場合に、戦う一択の戦争指導がいかに危険かということを今回痛感した。停戦協議の中身を見ればこの戦争は政治で回避できた。」と述べています。この戦争が外交の失敗の結果であり、本来はこうした戦争状態に引き込まないことが政治家の職責であることを、府民を守るために私などは想像もつかない政治の修羅場をくぐってきた橋下氏は理解しているのだと思います。

 

私は、何もウクライナ国民に逃げろと強要したり説教しようとしているわけではありません。あくまでも政治家は多様な選択肢の中から最善のものを選ぶことが仕事ですし、その選択肢の中に国民の犠牲を最小限にすることを第1に考えた選択肢もあっていいのではないかと指摘しているだけです。

 

なお、念のために言っておくと、第2次世界大戦後のジュネーブ条約等によって戦闘員と非戦闘員は区別され、戦争においても非戦闘員である民間人は保護されなければなりません。しかし、民間人でも武器を持って戦うと戦闘員と見なされ、相手国兵士はこれを殺傷しても国際法違反にはなりません。ですから為政者は民間人に戦えと命じては絶対にいけないのです。

 

いざ、戦争が始まってしまうと、「市民は武器をとるな、生きるために逃げろ」という呼びかけは本当に難しくなるのだとつくづく思います。第2次世界大戦中に日本の戦争指導者は、国民にお国のために竹やりをもって最後まで戦い抜けと強要しました。桜のように美しく散るとして特攻攻撃を美化しました。当時国民がこれに従ったのは、てっきり皇民化教育のせいだとばかり思っていましたが、違うようです。現在の日本人でも「市民は死ぬな」ではなく「武器を取って戦え」と応援し、そうした国の大統領を英雄視する人が少なからずいるのです。

 

「降伏したらもっとひどい結果が待っているぞ」という言説も戦時中の日本では当たり前のように叫ばれました。沖縄戦ではそうした軍部からの脅しを信じたことで、自決を迫られた住民の悲惨な集団死が起ったことも歴史の現実です。戦争になると本当に同じような光景が繰り返されるのだなと痛感します。最後まで戦い抜くという決意は勇ましくていいのですが、その結果、民間人を含めた多くの人々の命が奪われ、大切な街が破壊され瓦礫の山になってしまいます。侵略者から大切な人を守ると本気で考えるのであれば、闘い続けることがさらに被害を拡大することになる現実にも向き合わなければなりません。私も高校生のころまでは勇ましいことが好きな愛国少年でしたから、今の私を理想主義の夢想家と批判したことでしょう。戦争のリアルを知らずにヒロイズムに憧れる無知な若者でした。なぜ現在のような考えになったかは、またの機会に書いてみます。

 

日本はかつて日中戦争から手を引くことができずに太平洋戦争に突入していきました。戦争は始まってしまうと、多くの兵力を投入して人的損害も経済的損害も生じたのだから、いまさら後に引けないという思いが募り、メンツもあって停戦することがとても難しくなります。ですが、そこをいかに相手との妥協点を見つけて戦争を終わらせるかが政治家の仕事です。

 

このようなことを言うと当事者じゃない外野が他国のことに口を出すなと言われるかもしれません。ですが、当事者ではないからこそ第三者的な立場で冷静に他の選択肢もあると考えてみることは無意味ではないと思っています。当事者には届かない声ですが、それでも私たちそれぞれが自分の頭で考える意味はあります。

 

もちろん国家の主権(最高独立性)は重要であるに決まっています。ですが、国民が死んでしまったら国家そのものが成り立たなくなります。歴史的な経緯は別にして、法学的にはそもそも国家は国民の自然権を護るために創り出したものと考えることができます(ロックの自然権思想)。その国家が国民の命を最大限に尊重しないとすれば本末転倒ではないでしょうか。そして大国に従属するのではなく、中立的な緩衝国の立場を確立し、独立国家としての主権を維持していくことはできるはずです。

 

ウクライナにはNATOの基地もロシアの基地も作らないで中立の立場を選択し、緩衝国として生きていくという選択肢もあるのです。今回のウクライナ戦争の原因の一つがNATOの東方拡大にあるという評価は、けっしてロシア擁護という一方的な見方ではないことは、時間がたてば理解されることでしょう。また、日本の安全保障のあり方としても、勇ましい軍事国家や核共有を目指すのではなく、憲法の理念に従って、周辺国に脅威ではなく「安心を供与」する緩衝国として軍縮や核廃絶を目指すことも選択肢として捨ててはいけません。

 

何もできない自分ですが、日本にやってくるウクライナ避難民の方には何らかの支援をしたいと考えています。そして一刻も早い停戦を願い、ウクライナ国民のことをいつも気にかけていきたいと思っています。ひまわりの花言葉の1つに、「いつもあなたを見ています」というものがあります。塾生、受験生の皆さんのことを最後まで見守っていたいという思いを込めて塾花にしました。

 

今、日本で自分の夢に向かって勉強できることは決して当たり前のことではないと改めて気づき、感謝の気持ちで毎日を過ごしている塾生の皆さんもいることと思います。何か人のためになることをしたいという利他の気持ちは法律家・行政官のエネルギーの源泉です。合格後の活躍をしっかり見据えながら、試験当日まで絶対に諦めないで最後まで頑張って下さい。期待しています。

 

※出典

第321回 桜とひまわり | 塾長雑感 | 塾長雑感 https://is.gd/TBu7Xx

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする