ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

民主主義の概念(2)  兵役の義務

2007年08月30日 | 政治・経済

民主主義の概念(2)  兵役の義務

少し以前に、pfaelzerweinさんが、ドイツやスイスでの国民の兵役の義務についてのブログ記事、兵役任意制度の存続論 を載せられていたのに関連して、あらためて、民主主義国家における国民の兵役の義務について考えてみたいと思う。これは民主主義の原理を考えることでもある。

ここでの論考の多くの目的は、事物の概念自体について論じようとするものであり、たといもし現実を論じるとしても、それは概念なり理念なりの関係において考察されるものである。だから、たとえば国家について論じる場合もそうである。究極的にはそれは、私自身の「国家」の概念を明らかにしようとするものであり、多くの政治評論家のように、現実の国家についての評論に終始するものではない。ただもし、現実の国家に対する批判があるとしても、その概念とのかかわりにおいて論じられる。

主たるテーマがあるとすれば、それは国家の「概念」であって、必ずしも「現実」の国家ではない。また、それに対する批判があるとしても、もちろん、国家概念に立脚するものである。概念を概念として確立していない評論家、思想家は、現実に追従するのみで、現実を指導することも、批判的な観点を持つこともできない。


もちろん、思想家、理論家は、究極的にはつねに、その「国家概念」なり国家の理念の真理が現実において実現されることを、つまり、思想が現実において実現されることを念頭にはおいている。しかし、たとえもし、その思想なり、哲学が実現されなくとも、その理念についての、概念についての研究はそれ自体として価値は失われるものではない。


ここでの考察は、概念の概念としての研究を本質的な目的とするものであって、必ずしも、現実を究極的な目的とはしてはいない。言ってみれば、理想は理想であって、たとい、それが現実において実現されることがなくとも、その理想自体の価値がなくなるわけではないのである。「概念」の国家、「理念」の国家とは、いわば、「天の国」であって、イエスが「御国の来たらんことを」と祈ったように、もともとそれは、「地上の国」よりもはるか高みに立つものである。天国においては、そこでのどんな小さな人でも、地上のヨハネよりも大きいとされている。

今ここで、もし、国民の「兵役の義務」について、あるいは、「国民皆兵制」の問題について論じるとしても、ただそれは、民主主義の概念からはそれが必然的に帰結するものであるというその論理を明らかにするだけである。それはまたもちろん一方においては必然的に、日本国憲法下の日本国の現実が、事実としてどれほど真実の民主主義の概念から離れたものであるかを承認させることにもなる。しかし、現実が概念に近づくほど、現実は理想に近くなる。


もちろん、現実は現実であって、概念なり理念なりを、つねに純粋に実現できるものではない。それゆえにこそ現実は現実であって、理念ではないのである。理想の民主主義がすでに現実に実現されているのなら、すべての理論家、哲学者は失職してしまうことになるだろう。

しかしまた、現実は理念なり概念に導かれるものである。理念なき国家は、広い大洋で北極星を指針に仰がない船のようなものである。それでは進むべき進路を確認することはできない。そして、国家の運命は、現代においてはそれは国民自身の運命でもある。だから、安倍首相の「美しい国」のような、低級な「理念」にしか導かれないような国家と国民は、それだけ、貧弱で低劣な国家生活しか持ち得ないのである。それが真実であることは、日本国民の現実の生活によって証明されているであろう。貧弱な国家理念しか持ち得ない国民は、それにふさわしい国家生活しか持ち得ないのである。

戦前の大日本帝国憲法下の日本国民にあっては、文字通り「天皇の兵卒」として全国民は徴用されて天皇の兵士となった。戦前の日本はその意味で全国民に兵役の義務があり、国民は一定の年齢に達すると、兵役の義務を果たした。全体主義であれ民主主義であれ、国民は国家に従属する存在であって、国家は国民に奉仕を求めうる権利を持つ点については変わりはない。

戦後のマッカーサーのGHQによって、「民主化」は促進されはしたが、民主主義が全体主義に思想的に勝利したかどうかについて、思想上の問題ではあるだけに分かりにくい。軍事的な問題とは異なって決着は就いたわけではないと思っている。今でも事実上思想戦は戦われている。もちろん歴史的には、全体主義国家は民主主義国家に、軍事的に敗北したのは事実ではあるけれども。


ただここで、大日本帝国憲法下の軍隊についての私個人の私的な見解を付け加えて置くならば、多くの国民が「帝国臣民」として徴兵検査を受け、またいじめやリンチが多発したいわれる階級制度の厳格な当時の日本の軍隊の抑圧的で非人間的な性格については、まったく肯定できないし、もしそれが事実の性格の軍隊であれば、敗北し崩壊して当然であると考えている。

しかし、だからといって、現行の日本国憲法下の日本国が、国家として、また、「民主主義」国家として肯定しうるかというと、決してそうではない。日本国憲法によって規定されている日本国の現実も、きわめて欠陥の多い国家体制であるという認識を持っている。

その象徴的な事実の一つが、国家の防衛にあたる国民の「兵役の義務」について、それを少なくとも現行憲法の第18条に違反する奴隷的、苦役的な労役とみるような憲法解釈であり、そうしたゆがんだ国家観である。このような異常な国家観、奇形的な国家観の現実が戦後60年も放置されてきたのである。わが国が、どんなに異常な民主主義観の上に成立した国家であるかということが、こうした一事においても明らかであるだろう。

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三流国家としての日本の現状

2007年08月20日 | 政治・経済

防衛次官人事、「内閣は死に体」=民主・渡部最高顧問 (時事通信) - goo ニュース

小池防衛相、去就に注目 擁護論と批判、どうする首相(産経新聞) - goo ニュース

人事混乱「大臣よく選ばないと」=自民・舛添氏 (時事通信) - goo ニュース

三流国家としての日本の現状

安倍晋三首相が小池百合子氏を防衛大臣に任命するという人事を発表したときに懸念していたことが現実になりつつある。

              日本国の洗濯と人を見る眼

これでは一国の防衛が成り立つはずもなく、ますますもって日本は諸外国から軽侮と軽蔑の対象になるだけである。北朝鮮から核ミサイルの一発でも発射されてはじめて、退廃した国民は眼を覚まし、日本国も再生しうる機会を持ちうるのかも知れない。

マッカーサーによる戦後のGHQの日本統治の戦略が功を奏して、いよいよ日本は亡国の坂道を降り落ちつつあるということだろう。歴史の時間を1941年12月8日にまで巻き戻し、そこから日本の歴史を改めて歩み直す必要がある。

 

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法律家と精神分析家の貧しい哲学―――光市母子殺害事件

2007年08月05日 | ニュース・現実評論

差し戻し審で「責任問えぬ」(中国新聞) - goo ニュース

             

法律家と精神分析家の貧しい哲学―――光市母子殺害事件

弁護士や裁判官、また心理学者、精神分析学者たちの裁判に関する最近の法曹関係者の言動やまた判決などを読んでいると、どうも首を傾げざるを得ない場合が少なくない。先に最高裁判所が、検察の上告に対し広島高裁の判決を破棄し、審理を差し戻した「光市母子殺害事件」もそうである。高等裁判所の裁判官の判決に問題があったから、上級審の最高裁判所が審理のやり直しを命じたといえる。死刑廃止論を主義としているというこの少年犯罪者の弁護団たちの弁護内容にも疑問を感じる。

裁判官が教育カウンセラーになったり、精紳分析家になったり、福祉士になったり、人権論者になったりしては、裁判は裁判であることができない。裁判が裁判であるうるためには、裁判の正しい概念を確立しておかなければならない。このことは、裁判官のみならず弁護士や検察官たちにも、さらには精神鑑定者などを含めて法曹関係者がその職業的な義務を果たしてゆくために必要な前提としておかなければならないことである。また、弁護人の使命は犯罪者の人権の擁護であってもいいが、法律家の人権擁護は正義概念と矛盾するものであってはならず、裁判において重すぎることも軽すぎることもない「正しい刑罰」を期待することによってこそ、犯罪者の人間としての尊厳も真の人権も擁護できるのである。いたずらにただ刑罰は軽ければよいとする弁護人は「八百代言人」でしかない。

                裁判官の人間観

それにしても、裁判の概念や正義の概念は法律学そのものからは導き出されない。正しい人間観、正しい哲学から導き出されるものである。この根本的な前提を誤ると法律家は正しい判決を下すことができず、正義は損なわれ、国民大衆や被害者の正義感や道徳感情は傷つけられて、社会の倫理の基礎を損なうことになる。

西洋の裁判所の建物には、テミスの女神像が正義の女神として飾られている場合が多いらしい。この女神は帯で目隠しをし、右手に剣を帯び、そして左手には天秤を下げている。この女神像には深い真理が象徴されているのではないだろうか。正しい裁判観、正義観を持つ者のみが、この女神の象徴の謎を解くことができるのかも知れない。

女神が右手に剣を持つのはなぜか。剣は権威の象徴であろう。正義が剣をもって実行されるべきことを示している。女神が左手に天秤を提げているのはなぜか。それは、犯罪によって損なわれた正義が正しく回復されるためには、犯罪者によって損なわれた正義に等しい応報の刑罰が執行されなければならないことを示している。それによって、はじめてテミスの女神の持つ天秤の釣り合いが取れて、損なわれた正義が回復する。犯罪者に加えられる刑罰は、重すぎても軽すぎてもいけない。その犯罪の内容にふさわしい刑罰が、犯罪者自身に加えられてはじめて正義は回復し、被害者は癒され、また犯罪者自身も人間としての尊厳を回復する。

それでは正義の女神が帯で目隠しをしているのはなぜか。その理由はよくわからない。その理由を知っておられる方が読者におられれば教えていただきたいと思う。ただ、愚考するに、それは、正義を回復する場である裁判においては、感覚器官に惑わされてはならず、ただひたすら理性による論理の判断にのみ拠らなければならないことを示すためではないだろうか。

人間のみが裁判にかけられ刑罰を執行されるのはなぜか。「善悪についての正常な判断」のできない精神異常者や動物は裁判にはかけられない。犯罪は精神病者や心神耗弱者が起こすのではない。善悪を知る判断力をもった人間が起こすのである。犯罪は「正常な」精神能力をもった人間によって犯されるのである。

そして、この光市母子殺害事件やとくに多くの少年犯罪事件などで、判決に当たるべき裁判官や弁護人に見られる問題点は、彼らの刑罰観である。彼らにとっては、刑罰は犯罪によって失われた正義を回復して、天秤の平衡を回復するためではなく、刑罰の威嚇によって、社会を犯罪という災害から予防するためであったり、あるいは、刑罰という「教育」によって、犯罪者の人格を教育し矯正するためであったり、人権と称して犯罪者の権利を擁護するためであったりする。

そこには、テミスの女神が掲げている、失われた正義を刑罰によってその天秤の均衡を回復するという刑罰観、裁判意識はない。彼らのような刑罰観によっては被害者、遺族と社会大衆の正義感情は平衡を保つことができず、損なわれて傾いたままである。その正当な憤激は、正しく職務を遂行しない「法律の専門家」である裁判官や弁護人、さらには検察官に向けられることになる。

このたびの司法改革で、市民が裁判に参画するようになったことは、従前のわが国の裁判制度からすれば大きな進歩である。長期かつ多数の場合においては、市民や国民大衆のほうが、裁判官や弁護人などのいわゆる「法律の専門家」や、多くの市民の失笑を買って「精神分析学」なるものの信用をまったく失わせるような鑑定書を書く心理学者や大学教授たちにもまさって、裁判と正義の概念にかなった判断を示すものである。

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