ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

景観条例

2008年05月26日 | 教育・文化
日本の都市や農村の景観の醜さについては、これまでに私も何度か論及したことがある。また海外旅行者が旅行先で撮ってきた写真やテレビ番組などで放映される西欧や北欧における都市や農村の景観の美しさと見比べて、わが国の都市や農村における景観の醜さについては体験的にも語ってきた。

国民住宅(フォルクスハウス)――日本の科学と公共の意思(2007年07月19日)
 
春の歌(2008年04月01日)

竹を切る(2008年01月20日)

toxandoriaさんとの議論(2007年05月15日)

冬枯れの大原野(2007年01月20日)

二本の苗木(2006年01月06日)

個人的にはこの狭い日本国から外には出たことはないものの、欧米の、とくに西欧や北欧における都市および農村の景観美に、なぜ日本の景観は及びもつかないのか、とくに都市景観についてははるか足下にも及ばないのはなぜか、という昔から抱いてきた問題意識もある。それがたとい観念的なものではあるとしても。

居住空間の一つとしての景観の差異が、いったい民族や人種の資質による先天的な差異によるものなのか、宗教や文化的な質のちがいに起因するのか、あるいは、政治や経済上の原因によるのか、現在のところ、その根本的で決定的な理由を見いだし得ていない。

おそらくそれは、それらすべての複合する要因によるのだろうと推測はしているが、その中でも民族の資質と宗教文化の質的相違によるところが大きいのだろうと考えている。

というのも、とくに日本の都市空間などは、「アジア的都市景観」とでもいいうるほどに、特殊な傾向を帯びているからである。日本の都市空間は、韓国や香港などの都市空間とも共通していて、その雑然とした混沌の特質はアジア的とでもいいうる特殊性をもっているからである。

しかし、わが国においてもさすがに最近になってこの特殊な傾向は反省されて、西洋や都市政策との比較対照の観点からも、景観問題として自覚されるようになってきた。国家の政策の問題として、景観問題の改善に意識的に取り組まれるようになってきた。

とくに歴史的に画期的になったのは2003年7月に国土交通省によって「美しい国づくり政策大綱」が提示され、それに基づいて、景観法が2004年6月に公布されたことである。これによってようやく日本における景観問題の取り組みが始まったといえる。また、最近では全国に先駆けて、今年の二月に京都で景観条例が可決され、歴史的な都市の景観保護にさらに強力な取り組みが行われることになった。それは同時に看板などの商業施設やマンションの立地条件、建て替えの際の高さ規制など、多くの利害関係者の関心と議論を引き起こすこととなった。

近所の大原野あたりについても、もっと美しくあってしかるべきこの景観が、かならずしも十分に守られてはいないなどという現実がある。それはただに政治や行政の拙劣さに起因する問題ではなく、国民の意識や、教育、芸術文化の資質の問題、さらには民族性の問題として自覚し改善されてゆくべきものでもあると思う。景観問題は民族の精神状況が外化したものに他ならない。

取り分けて深刻なわが国のこの景観問題を国家の問題の一つとして考え、わが国の都市及び農村の抱える景観問題を改善してゆくことを、たといライフワークそのものではないとしても、せめてサブライフワークとしてぐらいに、問題の所在の研究とその改善にいささかでも取り組み貢献してゆくべきかとも思っている。
 
 
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理論と実践

2008年05月21日 | 文化・芸術

このブログの記事の中には、いくつかの独自の見解が含まれていると思う。とくにヘーゲルの概念論については、マルクスや「唯物論者」たちなどによって浅薄に誤解された概念観を訂正して、ヘーゲル自身のありのままの概念観を把握しようとつとめた。私の知る限りでは、これまで日本の大学教授や哲学者の中にも、まだ誰も私の示したような概念観を展開した者はいないように思う。

もちろん、それもまだ極めて未熟で内容も不十分であることはわかっているけれども、根本においてはこれまで誰も示さなかった独自の新しい解釈を示しているとは思う。この「概念」についての研究の充実と深化は引き続きこれからの課題でもある。

政治理論の面でも、自由主義者の集結する自由党と民主主義の思想に生きようとする者の集結する民主党によって、理念実行実現型政治に転換することを主張しているのも独自の見解だと思う。自由党と民主党による政権交代可能な政党政治については誰もが着想しそうなことだが、それを明確に定式化して主張した者はいなかったのではないだろうか。考え方や原理は単純であるけれども、それを理念として自覚し実行してゆく意識と能力をもった政治家が出て来ないだけだ。また世界と日本の歴史的な方向としてはそれしかないと思う。

そして、自由と民主主義の理念を深化させながら、人類は少しずつ自己を解放してゆく歴史になるのだと思う。

19世紀、人々は共産主義革命に、未来の明るい生活の展望を見いだそうとした。しかし、人類の解放を目指したこの運動も一世紀も経たぬうちに完全に挫折する。その後をうけて、フランシス・フクヤマの『歴史の終焉』という本も出たが、人類の将来は、自由と民主主義を模索しながら、その方向に進んで行くと思われる。理念としての自由と民主主義の必然性の解明が課題である。とくに、民主主義の否定的な限界こそ明らかにする必要がある。民主主義をただに「信仰」することなく。「信仰」にはすべからく注意深くあらねばならない。

 

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12歳ボウイの民主主義

2008年05月01日 | 教育・文化

12歳ボウイの民主主義

先の衆議院山口第二区補欠選挙で民主党推薦の候補が二万票の大差で勝利を収めた。この勝利は日本政治の改革の端緒となりうるものとして評価し得るものであることは先に述べた。それを実行できるかどうかは国民の力量次第である。この選挙の勝利の要因は、一つはガソリン税の暫定税率の問題と一つは選挙の直近でにわかに焦点として浮上した後期高齢者医療制度の問題が民主党候補に有利に働いたからである。とくに、後者の問題で、ほんらいは保守党の支持基盤である老年者が民主党支持に回ったことが大きいと思われる。

予想された通り4月末のガソリン税の暫定税率復活を含む改正租税特別措置法は衆議院で自民・公明の多数によって再可決されたけれども、それにしても、その際に民主党は本会議に欠席し、そればかりか、衆議院河野議長を議長応接室に閉じこめようとした。いかにも大人げないことをやる。なぜ小沢民主党は出席して反対の意思表明を議場で行わないのか。

いくら自分たちの意見に反するから反対だといって、それを議長の入場阻止という実力行使で阻もうというのは、いくら何でも子供っぽい。国会議員という「選良」ですらそんなことだから、子供から右翼左翼の暴力集団に至る大人まで、自分たちの異なる意見を暴力で阻止しようという傾向が日本国民からなくならないのだ。

これでは占領後の日本で、「日本の民主主義は12歳の少年のそれだ」とマッカーサーに言われた時代から、ほとんど進歩がみられないのである。こんなことをやっている政治家は国民に民主主義を指導し教育する資格もない。いくら科学や経済で一流と言われようが、政治文化や精神文化がこんなに三流四流の子供の文化では、前者の没落も眼に見えている。

道路特定財源の問題にしても後期高齢者医療保険の問題にせよいずれも、それらはかっての高度経済成長期においてはまだ潜在的であった矛盾が、経済の成熟化、日本の政治経済制度の老朽化によって矛盾が顕在化し深刻化してきたものである。国民の階級各階層間での矛盾が深刻化しているためである。

この矛盾を正しく解決しうることは、そうした国内矛盾を弁証法的に解決できる能力をもった政治家にしかできない。小手先で解決できる段階ではないのである。明治維新に匹敵する国家の改造が行われなければ解決しない。そのためには、現在の官僚政治を根本から改造し、地方の人材育成を図って地方行政の質を高め、道州制を制定して税金の合理的な配分のシステムを構築してゆかなければならない。

それによって、これまで長年の間地方でガソリン税を飯の種にして道路を造ってきた土木建築業者たちに時代の変化を理解させ、それの代わる産業として、とくに海外との競争に応じられる新規農業やバイオ関連産業などを開発し、また半導体・環境その他の最先端技術工場を地方に導入して行くことなどによって産業と雇用の機会をつくって、それらの業者たちを新しい産業分野に移行させてゆく措置を政治家は執らなければならないのである。いつまで愚行を繰り返すつもりか。そのうちに小松左京ではないけれども、日本は沈没することになるだろう。

 

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