ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

民主党四考

2005年09月21日 | 政治・経済

(一)     民主党に対する失望

岡田民主党には失望した。岡田克也氏が党内に存在する旧全逓の影響色濃い労働組合の郵政民営化反対勢力を押さえきれなかったからだ。郵政民営化の党内の反対勢力をコントロールできないで、年金や医療の改革はできない。

 

最終的な問題は、民主党と自民党という政党組織の中で、そのトップである小泉純一郎氏と岡田克也氏の改革に対する意識が、どちらが強いものであるかという差である。改革に向けた信念の強度の違いである。指導者の意思、それが政党を規定する。

 

郵政民営化反対派の亀井氏や、また、それを支持する西尾幹二氏や中西輝政氏などの尊敬すべき極右系の学者たちは、小泉首相の改革の意思を「狂信的」だとして、貶めようとさえしているが、私はそうは思わない。小泉首相にせよ、竹中平蔵大臣にせよ、郵政民営化の日本の経済構造に対する、さらには政治構造の改革におけるその意義を理性的に認識したうえで主張している。その論理的な帰結をきちんと了解した上での主張であれば、それは「狂信」とは言わない。

 

論理を持って反論せず、あるいはできないからこそ、大衆の感情に訴えて貶めようとするやり口のように思われる。学者に相応しくないと思う。

 

民主党は将来の日本の二大政党の一翼を担うべき責任を託された政党だと思っている。経済構造において勤労者、消費者と、資本家、経営者との利害が矛盾し対立している以上、基本的に民主党は消費者、勤労者の利益を代弁すべきだと思う。しかし、今回の郵政民営化問題は、国家国民の普遍的な利益として、国益として追求しなければならないテーマである。そのことを岡田民主党は理解せず、労働組合の特殊利益を擁護する立場に終始している。これでは、国民は民主党を選択することに躊躇するだろう。

 

郵政民営化問題は、それが国家国民の普遍的な利益として認識できているか否かという認識能力の問題であり、また、意思として岡田克也氏の改革の意思と小泉首相の改革の意思のどちらが強いか、信念が深いかという問題である。一部の学者や反対派から『狂信的』と揶揄されるくらいの確信がなければこの改革はやり遂げられない。岡田氏にはこの『狂気』がない。

 (05/08/12)

(二)  郵政総選挙の真の争点

明日は総選挙の日。すでに8時を30分ほど過ぎているから、総選挙の立候補者たちも、すでに選挙活動を終えているはずである。

今回の総選挙はほとんど「郵政民営化」か「政権交代」かといった観点で論じられるが、そもそも、小泉首相が解散総選挙に踏み切らざるを得なかった経緯から考えるならば、今回の総選挙の真の争点は、自民党に巣食っている、国民全体の利益を犠牲にして一部の利益団体のためにだけ働く族議員を排除して、自民党が国民全体の利益のために働くことのできる国民政党として真に再構築できるかどうか、これが真の争点なのである。

郵政民営化についても、自民党が、国民全体の利益を考える国益本位の国民政党に改革されれば、おのずから実現できる。

 

今回の総選挙は、永年のあいだ一部の利益団体のために、とくに医師会や農協、銀行や一部の大企業に利益偏向して国民全体の犠牲の上に政治を行ってきた政治家や官僚たちの手から、国民全体の利益のための政治を取り戻せるかどうかの、国民の普遍的な意思に基づいて政治を統制できるようにする民主化促進のための総選挙である。

 

国民は、いまだ政府を自らの手で統制する能力を手に入れていない。族議員と官僚たちが、赤坂の料亭などで、夜な夜な酒を酌み交わしながら天下国家を牛耳る政治から脱却できるかどうか、自民党を国民政党に生まれ変わらせて、真の民主的な政府を国民ははじめて手にすることができるかどうかが今回の総選挙の真の争点なのである。

 

田中角栄の系列を引く経世会などに属する政治家が、先に橋本元首相や青木幹雄、野中広務元幹事長などが、日本歯科医師会から一億円の不明朗な政治献金を受けることによって公正な政治をゆがめてきたように、そうした旧態依然とした自民党政治をどれだけ変革できるか、これが今回の総選挙の根本的な争点である。これに失敗すれば、当然に郵政民営化も実現できない。利権政治脱却総選挙である。

 (05/09/10)

 (三)   民主党の大敗

今年の暑い夏をいっそう暑くした郵政総選挙が終わった。政治の季節が終わり、秋風とともに収穫を神様に感謝する祭りが始まる。

 

今回の民主党の大敗を受けて、当然に民主党党内に深刻な反省と総括が行われるだろう。それがどれだけ深く徹底的に行われるか、その能力が民主党にどれだけあるかそれによって、民主党の再生の程度が明らかになるだろう。「能力」「能力」「能力」、能力が全てである。政権を担うことができるのも、その能力があってのことである。

 

今回の民主党の敗北も、民意を洞察する能力がなかったゆえである。民主党の岡田代表がどれだけ主観的に政権交代を望んだとしても、能力なくして、実力なくして政権を担当することはできない。私も今回の郵政民営化に対する民主党の対応を見て、失望し批判した。

 

いわゆる保守派をもって自認する者の中には、民主党に期待を寄せない者が多い。しかし、私は二大政党論者として日本の政治のもう一方の一翼を担う政党として民主党が育つことを期待するものである。岡田代表が「政権交代によってしか本当に政治は変わらない」と言うのは間違ってはいない。自民党は今回の選挙で大きく変わるだろうが、それだけでは政治改革においても限界がある。

 

岡田元民主党代表は、今回の郵政解散総選挙で政権交代を実現できると信じていた節がある。前回の参議院選挙までの民主党の順調な「躍進」で、とくに比例区での得票率の逆転などから、そのように考えていたのかも知れない。

 

しかし、その結果はどうだったか。民主党の惨敗である。
岡田代表は有権者の意識を、国民の動向を、とくに特定の支持政党を持たない、いわゆる無党派層の意向を完全に読み切れていなかった。これは明かに岡田代表の民意の読み誤りであり、これではまだ一国の宰相たる資格はない。


小泉首相が今回の総選挙を「郵政民営化」を争点にしようとしたのに対して、岡田代表は財政再建や年金や教育、外交などいわゆる民主党自慢のマニフェストに基づく多元的な政策論争に持ちこもうとした。

 

しかし、民主党は政権を担おうとしながら、小泉首相の郵政民営化法案に反対を示すのみで、独自の対案を何ら示すことがなかった。選挙戦に入って、この点を自民党に突かれることによってはじめて、ようやく、預貯金額の八百万円、五百万円へ減額することによって郵便貯金の規模を削減するという姑息な案を提示した。さらには「最終的には民営化を認める」という全く受身の姿勢に終始した。


郵政民営化の問題では民主党は全く腰が定まらず、これでは国民を馬鹿にしていると思われてもおかしくはない。国民はこの民主党の姿勢に、特定郵便局の利害を代弁する自民党内の郵政民営化反対派と同じく、郵政労働組合の利害を代弁して国民全体の利益に背を向ける民主党の姿勢を明かに見て取ったのである。

 

確かに、年金改正などでは、民主党は他のどの党よりも内容のある政策案を提示してきた。マニフェストに示している政策案は評価してもよい。しかし、いくら優れたマニフェストで緻密な政策を誇っても、根本の民意を読み取るという核心を外せば、今回の民主党の大敗北に見るように、それこそ絵に描いた餅になる。

 

その根本とは何か。民主党が真に国民政党へと脱皮することである。指導者の優柔不断、無能力によって民主党はまだ脱皮し切れないでいる。これに対し、特定郵便局という利益団体を、集票マシンを切捨ててでも、国民全体の利益を──その多くはいわゆる無党派層と呼ばれる──主眼に置くことによって国民政党に脱皮しようとした小泉自民党は大勝を得た。


民主党が前回まで躍進できたのはなぜか。国民の意思は明かに利権派族議員の巣食っている自民党に代わることのできる政党を求めていた。その期待が民主党に向かって寄せられたのである。それが、この郵政民営化問題で、現在の民主党が国民全体の利益を優先する国民政党になりきれない姿を見て、国民は民主党に失望したのである。

 

今回の郵政解散総選挙は、民営化法案の参議院での否決をきっかけとした言わば突発的なものであった。小泉首相が記者会見で明らかにしたように、参議院での郵政民営化法案の否決を受けて、国民の民意を問うという大義のもとに行われたものである。小泉首相が20年来の確信的な郵政民営化論者であったのに対して、そして、一部の反対者からは狂人扱いもされたのに比べれば、明かに岡田民主党は腰が座っていなかった。この点を民主党は国民に見抜かれたのである。これが民主党の大敗の原因である。

 (05/09/12)

(四)  民主党の再建と政界の再編について

 

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民主党の再建と政界の再編について

2005年09月18日 | 政治・経済

(一)

今回の総選挙では民主党は大敗した。小選挙区制では、得票率以上に獲得議席数に差が出る。自民党に敗北を喫したとはいえ、自民党と民主党との間に得票数でそれほど悲観するほど差があったわけではない。


再建のために、民主党のこれからはどのようにあるべきなのか。先に敗因の分析で明かにしたように、方向性としては民主党が根本的に国民政党へと脱皮することである。


国民政党に脱皮するとはどういうことか。少なくとも自民党は今回の総選挙で、小泉首相の意思によって従来の支持基盤であった特殊利益団体の関係を切り捨てて、国民全体の利益本位の立場に立つ政党になろうとした。自民党は特定郵便局という従来の支持母体の利益に反しても、郵政民営化という国民全体の利益の方向へと軸足を移したのである。


このように特殊利益団体の関係を切り捨ててでも、自民党は国民全体の利益本位の立場に立つ政党になろうとし、また国民もそれを認めて、自民党に勝利を得させた。


もちろん、いまだ自民党には農協や一部の大企業や銀行、金融会社という多くの特殊利益団体の支持を得ているが、少なくとも、今回の総選挙を見ても分かるように、これらの特殊利益団体と国民全体の利益が矛盾し、反する場合には、自民党は特定の利益団体の既得権益よりも、国民全体の利益を優先する国民政党の性格を明確にしはじめた。


これに対し、民主党はどうか。旧社会党勢力の生き残りを党内に色濃く残しており、その支持基盤である官公庁や大企業の労働組合などの特殊利益団体の意向を無視し得ないでいる。民主党はまず国民全体の普遍的な利益を、国益を最優先する政党に生まれ変わり、自民党と同じように、もし国民全体の利益と労働組合などの一部の特殊利益団体の利害が矛盾する場合は、躊躇なく国民全体の利益を優先する政党にならなければならないのである。国民政党とはそのようなものである。


今日労働組合の組織率が低下し、引き続き都市化が進み、無党派層が有権者のなかで比重を増しているとき、このような国民政党に変化しなければ、政権を担うことは難しい。そのためには何よりも民主党の指導者は、旧社会党の勢力を統制し、必要とあれば排除する意思と実力を持たなければならない。


それは、外交・教育・軍事などの国家の根本政策においては現在の自民党とほぼ同じ政策を選択することになる。


これはなにも政権を獲得するために政略的にそうした政策、思想を採用するのではない。現在の菅直人氏や岡田克也氏は左よりの思想に過ぎると思う。これでは国民は絶対に民主党に政権を託すことはできない。前原誠司氏などの、より右よりの(岡田氏らと比較してである)政治家が民主党を指導できるようにしなければならない。現在の自民党とほぼ同じような政策、思想を主体的に確立するのでなければ、国民政党になれず、したがって政権党にもなれないということである。もし、それができないのであれば、政権を担うという大それたことは考えない方がよい。

(二)

岡田民主党では国民政党に成りきれないのは、まず党内の支持基盤である労働組合に対して、小泉首相が特定郵便局という支持基盤を蛮勇をもって切り捨てたようには切り捨てられなかったことである。もう一つは、外交政策において、とくに岡田克也氏はアメリカとの関係について、60年、70年の安保闘争世代の影響を受けてか、意識的無意識的に反米的色彩が見え隠れする。まあ、それは言い過ぎであるとしても、国民政党の指導者は民主主義者であると同時に正真正銘の自由主義者でなければならない。


岡田克也氏は民主主義者であることは認めるるとしても、自由主義についての理解が不足している。そのためにアメリカという国の本質を捉えきれないのである。イラクの撤退を口にするなどというのは、自由主義者のする思考ではない。


世界に自由を拡大しようというアメリカの歴史的使命をもっとよく理解し、さらには、「自由」の人間にとっての哲学的な意義を理解しなければならない。さもなければ、アメリカ人がなぜ基本的にブッシュ政権のイラク侵攻を支持し、北朝鮮への人権法案を制定したか理解できないだろう。日本の民主党の指導者たちは、特にアメリカの建国の精神である「自由の理念」をよく理解しなければならない。自由主義国家であるイギリスと、アメリカの民主党が共和党の対イラク政策にほぼ同調している意味をよく考えるべきである。にもかかわらず、愚かにも岡田民主党は、12月の自衛隊のイラク撤退を口にしている。


対イラク問題や対米政策については小泉首相の選択は基本的に正しいのである。民主党は自民党と対イラク政策で基本的に同調することに躊躇する必要はない。たとい政策を同じくしたとしても、それが民主党の主体的な思想の選択であれば、全然問題はない。むしろ、民主党は、アメリカでは民主党も共和党も国家の外交や教育など国家の基本政策にほとんど差がないことを知るべきである。イギリスの二大政党の場合も同じである。民主党は自民党と国家の基本政策で一致することをためらう必要はない。


それにしても、日本の政治がもっと合理的に効率的に運営されるためには、どうしても、政党を再編成する必要がある。どう考えても、西村慎吾氏と横路孝弘氏が同じ政党に所属することなど本来ありえないのである。少なくとも政党が理念や哲学に従って党員を結集している限り。


日本の政党は理念や哲学に基づいたものにはなっておらず、民主党も自民党も一種の選挙対策談合集団になっていることである。これは日本の政党政治の最大の欠陥である。早く政界は改革されなければならない。


具体的には、自民党と民主党はそれぞれ再度分裂して、自由主義に主眼を置く政治家と民主主義に主眼を置く政治家が、それぞれの理念に従って自由党と民主党の二つの政党で再結集し、二十一世紀の日本の政治を担って行くべきだ。もちろん自由党は経営者・資本家の立場を代弁し、民主党は勤労者・消費者の利益と立場を代弁することになる。そして、自由主義と民主主義のバランス、両者の交替と切磋琢磨によって日本の政治を運営して行くのが理想である。もちろん、自由党も民主党も、両者とも、まず国家全体の利益を、国益を優先する国民政党であることが前提である。

(三)

教育、外交、軍事、社会保障などの国家の根本的な政策では、自由党も民主党も八割がた一致していてよいのである。また、そうでなければ、国民は安心して民主党に政権をゆだねることができない。民主党の新しい指導者たちは、これらの点をよくよく考えるべきだと思う。


岡田克也代表の辞任を受けて、後継者選びが民主党で本格化している。しかし、その経緯を見ても、民主党が、その党名にもかかわらず、日本国民を「民主主義」をもって指導し、教育できる政党ではないことを示している。


党代表の選出にあたって、選挙ではなく、どこかの料亭で、「有力者」(鳩山由紀夫、小沢一郎氏など)が話し合い(談合)によって、決定しようというのだから。

この一件をもって見ても、鳩山氏らの民主主義の理解の浅薄さが分かる。
民主党の幹部の体質の古さは、昔の自民党以上である。


民主主義とは、言うまでもなく、決して党内の個人の意見を画一化することではない。党の構成員の意見が異なるのは当たり前で自明のことである。むしろ、指導者は党員の意見が互いに相違して、議論百出することを喜ぶぐらいでなければならないのに、鳩山氏は、「選挙になると必ずしこりが残るから」という。


党内での多数決意見が組織の統一見解として採用されたからといって、個人は自己の意見を変える必要はない。少数意見の尊重という民主主義の根本が、分かっていないのではないか。


会議のなかの議論を通じて少数意見者に認識に変化があり、自らの意見を多数意見に変更するかどうかは全く次元が異なるのである。納得が行かなければ、多数意見に変更する必要はない。


またそれと同時に、少数意見の持ち主は党内で議決された多数意見には規律として従うという民主主義の最小限のマナーも弁えない者が、民主主義を標榜する民主党の中にいる。


組織としての党の決定に、規律に従うことと、個人の信条として多数意見に反対であることが両立するのでなければ民主主義政党であるとは言えない。この民主主義の基本さえ十分に理解されていないように思われる。だから、鳩山氏や小沢氏は党代表選挙を避けようとするのである。
これでは、民主党は国民に対する民主主義教育という重大な職責さえ果たせないだろう。


民主党は何よりも、識見、モラルともに卓越した真の民主主義者の集団であるべきであるのに、未だそうなってはいない。民主党員が、とくに、その指導者たちが民主主義の思想と哲学をさらに研鑚され、民主党を真の民主主義者の集団として自己教育を実現することによって、国民にとって民主主義者の模範となり、尊敬を勝ち取れるように努めてほしい。そうなれば国民も安心して民主党に政権を託すようになるだろう。


また、自由党の党員もまた、自由主義者として自由の哲学をしっかりと身につけ、国民の幸福にとって不可欠な自由の護民官として活躍することである。日本の政治は一刻も早く、自由党と民主党の二つの政党で交互に担われるようになることを願うものである。国民もこの「政治の概念」をしっかりと理解し、それが実現するように行動すべきだと思う。

05/09/13

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参議院の廃止あるいは議員定数の削減について

2005年09月06日 | 政治・経済

衆議院で五票差でかろうじて可決された郵政民営化法案が、参議院では否決された。日本の政治体制は二院制をとっており、日本国憲法の規定では衆議院は参議院に優越するとされているが、法案成立の再可決要件を衆議院議員の三分の二以上としているために、今日のように多様化した民意のなかで、実際には再可決はほとんど不可能となっている。そのために、本来に期待された衆議院の優越性が保証されず、参議院が実質的に法案成立に重大な障害になりうるという事態が生じている。


日本国憲法が二院制を採用しているのには、参議院によって民主主義の弱点とも考えられる衆愚政治化、「賎民」政治化を予防し、良識と理性を政治に働かせるためであったと考えられる。


しかし、戦後60年経過して、そのような本来の意図から離れて、事実として参議院はいわゆる特殊な利益団体や官僚の利権を代弁する「族議員」の巣窟になってしまっている。あるいは、そこまで言わないにしても、少なくとも、かっては緑風会などの存在によって良識の府であるとされた参議院が、今回の郵政民営化法案の否決などに見られるように、参議院が本当に「良識の府」であるのか、参議院が国民の一般的な意思を真に民意を代弁する制度であるかという、民主主義の根幹に対する疑念が生まれている。


そこで小泉首相は民意を問いなおすために衆議院解散という手段をとらざるを得なかった。そのために要する選挙費用や時間的な損失は計り知れないものがある。しかも、たとえ民意の多数が確認されたとしても三分の二以上の多数を獲得しないかぎり、再度参議院で法案が否決されれば、少なくとも、次の参議院選挙までは、法案の成立は期待できないのである。こうした事態は肯定されるべきか否か。


今回の郵政民営化法案のように、国家の迅速な意思決定が要請され、緊急の国家的な課題についての法案成立が求められているときに、そして、国民の意思が多様化している現代において、参議院と衆議院で表決が食い違ったときに、衆議院での三分の二以上の再可決という要件は、国政運営上の重大な障害となる。深刻な制度的な欠陥、憲法上の不備だと思う。

 

衆議院であれ参議院であれ、国会議員が民意を正しく判断しているかという問題、あるいは、国会議員と民意が異なっている場合、「民意」といわゆる「選良と呼ばれる国会議員の判断」のどちらが正しいのか、また、その是非の判断の基準は何かということがここで問題となっている。


確かに、一般に国会議員は「選良」として専門的な見識と高い倫理性を持っているべきものとされる。今日の社会制度は、複雑で専門的な学識と経験をもった専門家でなければ対応できない場合も多い。


しかし、日本の一部の「官僚」や「族議員」を見ても分かるように、本来、国会議員は国家全体の利益を、国益を追求すべきであるのに、自覚的にか無自覚的にか、国益の犠牲にして、一部の特殊な利益団体の利益を、あるいは、自己の利益を追求するということも起こりうるのである。間接民主主義においては、こうした国会議員の腐敗ということはつねに必然的に生じる。


こうした問題を合理的に解決するためには、政治制度はどうあるべきか。このような問題を反省するとき、民意の尊重という点と現代政治の政治的決断の緊急性からいっても、現行の憲法第五九条第二項の「三分の二以上の可決要件は明かに不合理である。


多くの人がすでに論じているように、「三分の二」は「過半数」にそして、「参議院の廃止」か、少なくとも「参議院定数の半減」が、合理的で効率的な政府の確立に必要な改正点ではないだろうか。

今後の憲法改正においても、参議院の廃止や国会議員定数の削減などとともに大いに議論されるべきテーマだと思う。

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