ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

アメリカ考①

2006年08月31日 | ニュース・現実評論

アメリカ①

アメリカという国は、江戸末期にペリー提督が黒船に乗ってやってきて、鎖国の天下泰平の夢にひたっていた日本人に、蒸気煎茶を飲ませて夜も眠られぬようにした国である。そして、二十世紀に入ってからはこの両国は、太平洋の大波を東西の両岸にはさんで対峙する。やがて両国は国家総力戦を戦い、そして、アメリカは原爆を投下し、日本国憲法を制定するなど勝者として君臨し、日本民族の歴史に未曾有の刻印を残した。

それから半世紀以上も過ぎた今日、日本国は日本国としての真の自由と独立を回復するために、あらためて太平洋戦争前後の歴史を、さらには日本国の近代史そのものを、今一度文明史の視点から、あるいは、民族の精神史、文化史の視点から、より深く相対化し検討せざるえない。そういう歴史的な段階に来たっているようである。アメリカは先の太平洋戦争を通じて、その日本の敗北を通じて、単に経済的のみならず文化的にも精神的にも日本国民に深い爪あとを残していった。日本人はそれゆえにアメリカという国を相対化して本質的に検証し、それを止揚することなくして、真に自由には、日本人にはなれない。

また、今日アメリカは二十世紀の東西冷戦を勝者として勝ち残り、唯一の超大国として二十一世紀にも世界に君臨している。このアメリカと、どのように関わってゆくかは、日本のみならず、世界中の多くの国家国民の切実な課題になっている。

とくに、高度の情報科学技術社会の到来にともない、いわゆるグローバリズムの吹き荒れる世界の中で、アメリカの本質をどのように認識して、国家が主体性を失わず、自由と独立を回復しながら、どのようなスタンスを取ってこのアメリカという国と外交関係を構築してゆくかは、単に経済的のみならず日本国民の文化的精神的状況にも致命的な命運をもたらすことになる切実な問題である。それは、日本人が自己のアイデンティティーを何に求めるかという問題ともかかわる。

アメリカの本質

アメリカという国をどのように認識すべきか。物事の本質というものは、それが発生し誕生した時の性質にもっとも明確に刻印されているものである。

アメリカという国が誕生したのはアメリカ独立革命によってである。その精神は、トマス・ジェファソンらによって起草された『アメリカ独立宣言』の中に表明されている。その精神とは、ピューリタンの思想家であったジョン・ロックの系譜を踏むもので、祖国イギリスの絶対君主制からの独立をめざして、自由と民主主義を国家の原理とすることを宣言するものであった。アメリカとは「自由と民主主義」の精神の母胎から生まれた国である。アメリカはこのような歴史的な、世界史的な使命(規定)を受け取って誕生した国である。

そして、自由と民主主義の精神が経済活動において現象するとき、それは資本主義となる。アメリカは、正しく世界史的な必然をもって、黒船に乗って太平洋の荒波を越え、その大砲によって、300年に及ぶ徳川封建制の天下太平の安眠を貪る日本人の目を覚まさせたのである。

それから百五十年、この国は今現在、二十一世紀の世界にあって軍事的にも経済的にも唯一の超大国として世界に君臨し、その影響力を行使している。さきの二十世紀の末には、朝鮮戦争・ベトナム戦争などを戦い、ソビエト連邦との冷戦に勝利し、さらに、アフガニスタン、イラク戦争など中東に深く足を踏み入れ、9・11以降は、世界に浸透する対「テロ」との戦いの泥沼に足を踏み込まざるを得なくなっている。

その一方で、アジア大陸において13億人の人口を擁し、経済的にも軍事的にも膨張著しい新興の中華人民共和国とは、かって日本が太平洋の両岸でアメリカと対峙したように、必然的にアメリカと対峙し、いずれは、その矛盾によってもたらされる緊張関係がどのような現象を引き起こすかは、この両超大国に挟まれた宿命的な地理的位置にある日本国の命運に深くかかわるものである。

2006年08月28日  

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宗教と国家と自由

2006年08月23日 | 教育・文化
現行の日本国憲法は確かに信仰の自由、宗教の自由、良心の自由などは最高の価値として認めている。だからこそ、私たちは小泉首相の靖国神社参拝を否定しなかったのである。しかし、問題はそこにとどまるものではない。さらに、その信仰そのものの、その宗教の、その良心の「真理性」が問われなければならないだろう。少なくとも、私たちが宗教的に、文化的に高級な自由な人間であろうとする限り、さらにその信仰が「真理」であるかが問われなければならないのである。

「鰯の頭も信心から」という言葉があるが、その宗教が真理であるか、その「良心」の内容が真理であるか、が問われなければならないだろう。オーム真理教や靖国神社や創価学会その他の既成、新興の宗教が宗教として真理であるかが問われなければならない。神戸児童連続殺傷事件の酒鬼薔薇少年ですら「バモイドオキ神」を信仰していたではないのか。単に信じればいいという問題ではない。信じる対象が、真理であるのか、それとも「鰯の頭」その他なのかどうかが問題なのである。

真理以外の対象を崇拝することを偶像崇拝という。そして、宗教の自由とは、いかなる「神」をも信じる自由ではなく、真理を信じる自由のことである。憲法で保証されている言論の自由、宗教と思想信条の自由、良心の自由とは、この真理を信じることによってもたらされる自由のことである。

単に形式における自由のみではなく、その内容の自由が、その真理性が問われる必要がある。小泉純一郎氏をはじめ現代日本人にはこの問題意識がほとんどないのではないか。歌手プレスリーに舞い上がる小泉氏その他の政治家を思想家としてはほとんど評価しないのもそのためでる。そこにあるのは盲目的な「信仰」であり、その神が「鰯の頭」か「バモイドオキ神」か、はたまた「松本智津夫」か「毛沢東」か、その神々の内容こそが問われなければならないという自覚と反省はない。

神について劣悪な観念しかもてない民族は悲惨である。旧約聖書でモーゼやエリヤが異教徒の神々を攻撃したのは、それらの神々が人身御供を要求するような劣悪な神だったからである。モーゼは警告して言った。「あなたの主なる神に対しては、彼ら(異教徒)と同じやり方で崇拝してはならない。彼らは主が憎まれ、嫌われるあらゆることを神々に行ったからである。彼らは自分たちの娘や息子さえ祭壇の火に生け贄として捧げたからである。」(申命記第十二章第三十一節)

哲学者ヘーゲルも言っている。「神について劣悪な概念をもつ民族は、また、劣悪な国家、劣悪な政治、劣悪な法律しかもてない」と。また、「人間が絶対的に自由であることを知らない諸民族は、その憲法上でも、またその宗教上でも陰鬱な生活をしている」と。

キツネやヘビを崇拝する宗教をいまだ脱しきれていない日本国民には、この哲学者ヘーゲル氏の言葉に耳を傾けて、その真偽を検証する価値と必要があるのではないだろうか。

 

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悲しきチャンピオン―――亀田興毅選手一家に見る日本人像

2006年08月10日 | 教育・文化
 


人は独りでは生きられない。だから、人間は社会的な動物であるともいわれる。そのために人間の生活には、社会生活を効率的に快適に営んでゆくために、人と人とのかかわり方を律する何らかのルールや規律が絶対的に必要とされる。歴史のある国や社会であるならば、それが文化や伝統として長い歴史的な時間のなかに、人々の行動様式にまで形成されているはずである。そうしたルールや規律が、言葉(日本語)であり、また、いわゆる道徳とか倫理とか呼ばれるものなのだと思う。

言葉と同じように、その文化や伝統における倫理や道徳が消滅していることをまぎれもなく示したのが、先のライト・フライ級世界タイトルマッチ戦に見られた亀田興毅選手とその兄弟一家ではなかっただろうか。

全国ネットのテレビ局TBSはドラマ仕立てで、それを全国に放映してくれた。このドラマのテーマは亀田選手で、ストーリィは、勝利者チャンピオンの「個性」である。チャンピオンでありさえすれば、いちいち他人の眼や思惑など知ったことか、「カラスの勝手でしょ」ということのようだ。個性や自由という言葉も実に軽くなったものだ。

確かに、どんなに振舞おうが、それは亀田選手の自由で、それは彼の個性かもしれない。まして、彼はテレビ局やジムの周囲の大人たちからの奨励もあり承認も得ているのだから。このようにして現在および将来の日本人は、自分たちの身近にさらに多くの亀田選手のような個性を、これからも隣人としてもち、付き合ってゆくことになる。

とは言うものの、亀田選手の周囲に集うスポーツ関係者たちには想像力や論理的に推測する能力に欠けているのではないだろうか。もしそうなら、とうてい真の強者にはなれないのではないかという印象をもった。本当の強者となるには高度の想像力や論理的な能力が必要であることは、先のドイツ・ワールドカップ戦でのジーコ・ジャパンチームの惨めな敗北で分析したところである。(「日本サッカー、対オーストラリア初戦敗退が示すもの」)おなじスポーツであるプロボクシングにおいても論理的には同じことが(さらにいえば、国家や国民についても)言えると思う。

残念ながら、この程度の知性では、歴史に残るような本当に強いチャンピオンとして名を残せないのではないか。流れる川の浅瀬のあぶくのように、はかなく消えて行くのみであるのかもしれない。あるいは、ひょっとして、面白くはかなきチャンピオンの象徴として名を残すのかもしれない。だから何となく悲しいのである。そして、彼はまた日本人のチャンピオンでもある。

このチャンピオン戦の放映で、ダウンを奪われた相手のベネズエラのランダエタ選手から亀田選手が判定勝を勝ち取ったシーンでは、瞬間最高視聴率は、52.9%にも上ったそうである。だから、興行的には大成功だったといえるかもしれない。

しかし、物事は短期的にばかりではなく、長期的にも見なければならない。テレビ視聴者の93%が、亀田選手の敗北を確信する中で、ベネズエラのランダエタ選手にではなく、2対1で亀田選手に勝利を宣告したジャッジの判定が、ボクシングというスポーツの品位と信用をなくして、やがては、このスポーツの長期の衰退を招くことにはならないかと思う。杞憂であればいいのだが。


それにしても、テレビ局というメディアは、こうしたスポーツイベントに、どこまでかかわることができるのだろうか。私のような門外漢の素人にはよく分からない。しかし、亀田兄弟選手のリング場の内外での派手なパフォーマンスに、マスコミ関係者が全く無関係であるようにも思えない。


チャンピオン戦前夜の選手の体重計量記者会見で見られたのは、亀田興毅選手がチキンの腿肉をしゃぶり、ランダエタ選手の顔のフライパンをへし曲げるというパフォーマンスだった。そこにあるのは、ファン心理をあおって視聴率を稼ぎ出そうという魂胆をさらけ出した周囲のマスコミ、ボクシング関係者その他のマモニズム、黄金崇拝者たちの姿ではないだろうか。まあ堅いことは言わず、面白ければよいとするか。


いずれにせよ、こうして彼らによって作り出された虚像の新チャンピオンは、やがて、その実力を天下の衆人の眼の前にあっけなくさらすことになるだろう。実力をもって勝ち取るのではないとすれば、チャンピオンベルトを果たして何時まで腰に巻いていられるだろうか。それとも亀田興毅選手はウルトラマンのように変身できるのか。

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桜井ファンダさん

2006年08月08日 | ニュース・現実評論

桜井ファンダさん、コメントありがとうございました。

http://blog.goo.ne.jp/askys/cmt/9fc08c3d7ba2883c383b7411ad5103b4
その中に、

>靖国問題で産経、朝日などとありますが朝日はともかく産経は靖国では正道を行っていると思ってますが。
日経と産経を間違われたかと、、<

というご意見がありましたが、間違ってはいません。
ただ、このブログの記事を書いていた時点では、まだ日本経済新聞のいわゆる「富田メモ」のスクープ記事と、それを利用した小泉純一郎氏の「靖国神社参拝反対」キャンペーン、および、そのための天皇陛下の政治的な利用については、それほど露骨にはなっていませんでしたので、新聞社の名の中に、朝日と産経の二紙の名前しか挙げてはいませんでした。

その後の日本経済新聞の「富田メモ」を利用した小泉純一郎氏の「靖国神社参拝反対」キャンペーンと、そのための露骨な天皇陛下の政治的な利用を見れば、当然に産経、朝日の他に日本経済新聞の名も含めねばならないとも思います。

これらの新聞社は「立憲君主制」の意義と価値を正しく理解していないと思います。天皇陛下ご自身の政治的な利用は厳に慎まなければならないと思います。これを犯すことは国民の幸福のためにならないと思います。

また、私が朝日のほかに産経も取り上げたのは、私の小泉純一郎氏の靖国神社参拝を肯定する理由が産経新聞とは異なるからです。

産経新聞は、小泉首相の「内閣総理大臣の資格における参拝」を、いわゆる公的参拝に賛成し、さらにはそれを促進しようとしているのですが、私の立場は、政教分離の立場から、小泉首相による靖国神社の公的参拝には反対しているからです。

私が小泉氏の靖国神社の参拝を支持しているのは、小泉純一郎氏個人が「私人としての参拝」を明言しているからなのです。
私が、小泉純一郎氏の「靖国神社参拝」を肯定しているのは、すべて、「信教の自由」「思想信条の自由」などという「自由」を擁護する立場からです。信教の自由は人間の尊厳の最たるもので、この自由の破損は人間にとって深刻な悲劇になるという認識があるからに過ぎません。小泉純一郎氏の個人的な「靖国神社信仰」の自由は、どんな新聞社の干渉からも、また、いかなる諸外国の干渉からも守られなければならないと思うからです。

ですから、小泉純一郎氏の「靖国神社参拝」に反対はしませんが、私は国立墓地の建設に賛成の立場です。
http://blog.goo.ne.jp/aseas/d/20051024
この点で、桜井ファンダさんと立場が異なるかもしれません。
(桜井ファンダさんのサイトもわからず、トラバもできないので、ここに書きました。)

 

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