ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十九節[恵みと和解]

2023年03月02日 | 宗教

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十九節[恵みと和解]

§79

Aber die Freiheit des einzelnen Wesens ist zugleich (※1)an sich (※2)eine Gleichheit des Wesens mit sich selbst, oder sie ist an sich gött­licher Natur. Diese Erkenntnis, dass die menschliche Natur der göttlichen Natur nicht wahrhaft ein Fremdes ist, vergewissert den Menschen der göttlichen Gnade  (※3)und lässt ihn dieselbe er­greifen, wodurch die Versöhnung  Gottes(※4) mit der Welt oder das Entschwinden ihrer Entfremdung von Gott zu Stande kommt.(※5)

 

第七十九節

しかし、同時に個人の存在の自由は、本来は自己自身と存在との同一性にあり、あるいは、個人の存在の自由は本来は神的な性質のものである。人間の本性と神の本性は本当は疎遠なものではないのだというこうした認識は、人間に神の 恵み を保証するものであり、そうして人間に恵みを捉えさせることによって、世界と神との和解  が実現し、あるいは、人間の神からの離反が解消するに至る。

 


※1
前節§78で人間が自己を普遍から分離させる自由をもつこと、神から離反する自由をもつ点において、人間の本来性が悪であることが説明されたが、本節の§79においては、同時に人間の個別が本来的に普遍と同質であることが説明される。「人間は神の子である」とも言われるのはこのことである。しかし悟性は、人間の個別と普遍を両立しえぬものとしてしか理解しない。

§ 280b[概念から存在への移行] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/j9SLmx

※2
an sich    
潜在的に、本来的に、即自

※3
Gnade
慈悲、哀れみ、 慈心、 仁恵、恩寵、 恩恵、 祝福、 恵み、至福、仕合わせ

※4
Versöhnung
和解、仲直り、和睦、宥和、償い、慰め

※5
恵みを確信させるのは人間性と神性が無縁なものではないという認識である。この神の恵みを捉えることにおいて、人間と神との和解、宥和が実現する。ここにキリスト教の核心が説明されている。ヘーゲル哲学は神学でもある。

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十九節[恵みと和解] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/KqFH65

 

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「宗教」の善と悪、あるいは人類の「宗教」からの解放

2009年02月10日 | 宗教

 

「宗教」の善と悪、あるいは人類の「宗教」からの解放

宗教ということばを使うと、普通は人は仏教や神道やキリスト教やイスラム教などの世界宗教などを思い浮かべるかもしれない。また、数百年、数千年単位の歴史や伝統をもった宗教、宗派としては、ユダヤ教、ヒンズー教、カトリック教会や臨済宗、日蓮宗や曹洞宗などが無数に存在するし、また、比較的に新興宗教としては生長の家とか創価学会とか、また社会的に問題を引き起こしたオーム真理教などの団体がある。とにかく有名無名を含めて宗教のカテゴリーに属する集団、思想、教条は数多い。また新興宗教に属する集団もいかがわしいものをふくめて無数に輩出している。

新興宗教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%88%88%E5%AE%97%E6%95%99

現代国語例解辞典などは「宗教」について、「宗教とは、神や仏など、人間を超えた聖なるものの存在と意志を信じ、それによって人間生活の悩みを解決し、安心、幸福を得ようとする教え。」というように一応説明しているが、これは普通に流通している「宗教」ということばで懐く観念でありイメージであるといえる。

しかし、宗教をどのように定義するかにもよるけれども、宗教を仮に「個人の人生における究極的な価値と生活態度を規定する思想信条の体系である」とでも定義するなら、共産主義や無政府主義もまた無神論もまた一つの「宗教」と呼ぶことができるだろう。要するに宗教とは、人間の信奉する思想の価値体系として、「価値観に関わるもっとも中心的な思想信条というように広義に解するならば、少なくとも人間であるならば、それを自覚しているか否かは別として、「宗教」をもたない人間はいないと言うことができる。

また、世間では「宗教」と実際に名乗ることはなくとも、事実上「宗教」と同じ機能を果たしている事例は無数にあるのであって、この論考では、宗教ということばを、もっとも広義の意に解して、「宗教」の機能を事実上果たしているものも含めて、広義の意味で「宗教」という用語を使用したいと思う。誤解を恐れずに、無神論や共産主義、無政府主義なども事実上の「宗教」と見なして論考を進めてゆきたいと思う。

現在の北朝鮮などの国家では、その独裁的指導者である金正日などに対して明らかに個人崇拝が行われている。その個人に対する崇拝という点だけを見れば、新興宗教の指導者に対する崇拝も、阿弥陀仏や法華経などに対する崇拝と本質的に変わるものではない。

宗教が非常に頑固な固定観念にとらわれやすいものであることは、特定の宗教信者のもつ一般的な傾向として多くの人々が日常的に経験するところだろう。そして、往々にしてこの頑固な偏執的な固定観念は、狂信にまで人を駆り立てる「危険な」要素をもつ。このことも個人的な体験からも、日本においてもオーム真理教などが引き起こした社会的な事件を見ても、また世界各地で頻発している宗教紛争などの歴史的な体験からも指摘することもできるものである。

アフガニスタンなどを最前線として戦われているいわゆる「テロリスト」たちの多くが「イスラム原理主義者」と呼ばれているように、その兵士たちは狂信的なイスラム教信者であるとされる。もちろん、自己の信奉する神のみを絶対として、他をすべて排斥する狂信的宗教家、狂信的信者は、たんにイスラム教のみならず(その宗教の本質からいってイスラム教にはその傾向が強いと言えるかもしれないが)どのような宗教、宗派にも存在するし、また、新興か伝統的な宗教かを問わず存在する。

自己の宗教以外のすべてを否定し拒絶する宗教信者を「過激派」と呼ぶなら、「過激派」は、その昔にユダヤでイエスを十字架に架けた律法学者たちから、女性信者の腹に爆弾を巻き付けさせる現代のイスラム教指導者、また日本のおいても他宗教や他宗派からの布施を一切拒否した日蓮宗の不受不施派など、古今東西にわたりその類例は無数に存在する。

また、思想がブルジョワ的だという理由で同じ民族の同胞でありながら大量に殺戮したカンボジアのポルポト元首相なども、彼は共産主義者であったが、その本質は、宗教的狂信者一般と何ら異なるものではない。「宗教は阿片である」と断じるマルクス主義信者が、宗教家以上に狂信的である場合も少なくない。

とは言え宗教的な狂信者がすべて害悪をもたらす存在であると断定するのも、それ自体偏見でありまた場合には、固定観念となって真実を見ていない場合も多い。強固な宗教的な信仰の持ち主であっても、インドのカルカッタで貧者の救済に生涯を捧げたマザー・テレサのように、人々から愛され評価された宗教信者も少なくない。昔から聖人とか聖者とか呼ばれた人たちは、多くの人々の救済や福祉に大きな働きをしてきたことも事実である。

そうした一面をもつ宗教が、時には狂信的になり戦争の原因になる。個人や人類の幸福を目的としたはずの宗教が主義思想が、その目的と手段を転倒させ、もっとも倒錯的な狂信になって、この上ない害悪をなす。この論理は何も宗教だけに留まらない。最近の歴史においても、人類の「解放」をめざしたはずの共産主義運動が、この上なき抑圧と不自由をもたらしたのは、私たちが北朝鮮や旧ソ連などの現代史にこの眼で見た歴史の事実である。

こうした事実を見るとき、先ず言えることは、宗教を名乗るか否か、無神論を標榜するか否かにかかわらず、すべての宗教、主義信条においても、「善」が「悪」に転化する可能性をもつという事実である。もちろん、その逆もあり得る。もっとも良いものは、もっとも悪いものである。もっとも純潔なものはもっとも腐りやすいものである。最善のものは最悪のものである。もっとも善きものであるはずのキリスト教といえども、それが最悪の宗教に転化する可能性もある。事実、ニーチェなどは最悪の腐敗に転化したキリスト教に対する批判なのだと思う。

ニーチェとキリスト教

そのもう一つの最悪の事例が、現在もなお戦われているイスラエル・パレスチナ間の宗教戦争である。それは人間が宗教のドグマと狂信の結果としてどれほど悲惨な事態に陥るかの事例である。まことに宗教における偏執ほどに度し難いものはない。イスラム教過激派やユダヤ教過激派信者たちを彼らの狂信から解放し、その偏執を解くのは切実なしかし困難な課題である。世界各地で発生しているヒンズー教と仏教、イスラム教、キリスト教などの諸宗教のあいだの紛争の原因となっている彼らを宗教的な偏執から解放することなくして、平和をもたらすことはむずかしい。



 

 

 

 

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国家の基礎としての聖書

2009年01月27日 | 宗教

 

国家の基礎としての聖書

これまでの論考でも、イスラエルやアメリカについてはその国家の基礎にキリスト教、もしくは聖書のあることについていくどか触れてきた。しかし、聖書やキリスト教を基礎としている国家は、アメリカやイスラエルの二カ国だけに留まるものではない。イギリスもスイスもデンマークもドイツもフランスもフィンランドなども、キリスト教や聖書の倫理を基礎としている。聖書の上に国家を築いている。ヨーロッパ諸国はそのほとんどはキリスト教国家である。

宗教を基礎にもたない国家はない。中国や北朝鮮などのように無神論という「宗教」の上に成立した国家もある。そして、国民生活の質は宗教によって規定される。だから劣悪な宗教の上に立つ国家と国民は不幸である。

たしかに日本では歴史的に伝統的にいまだ国民の圧倒的大多数は聖書やキリスト教とは無縁なところで暮らしている。伝統的な仏教や儒教、神道などの文化の現状からいっても、日本国の基礎が聖書にあるとかキリスト教にあるなど言うことはとうていできない。

日本は黒船ペリー提督がアメリカから来航して国を開いて以来も、和魂洋才を叫んで科学技術文明と精神文明を切り離し、実利的な国民性からも科学技術だけは手に入れても、キリスト教の流入は防ごうとした。しかし、伊藤博文らが制定の労をとった大日本帝国憲法も西洋キリスト教国の立憲君主制にその範をとったもので、すでに立憲君主制自体に西欧諸国の歴史的な由来がある。そして、西洋諸国の歴史からキリスト教を切り離すことはできない。現代においては世界のどの国も聖書とキリスト教の上に立つ西洋文明の影響からまぬかれることはできないのである。

たしかに仏教や儒教を倫理的な基礎としてきた日本には、論語や法華経などのような経典があった。しかし、西洋キリスト教国のように国民の書としての聖書やキリスト教のような日常的で体系的な倫理体系をもっているとは言えなかった。そのために、いわゆる文明開化後の日本において、国民道徳のみだれに直面した山県有朋たち明治政府の指導者たちは、西洋諸国の聖書のような国民道徳の規範ともすべく、教育勅語を儒学者で東大教授の井上哲治郎などに起草させ、それを天皇の権威において公布した。

教育勅語自体は普遍的な一般道徳を述べたもので、神道などの特定宗教に偏ったものではなかった。けれども、かならずしも十分に民主主義的ではない明治政府によって公布されたため、太平洋戦争時に国家主義を助長することになった。そして日本の敗戦後にGHQの占領政策によって失効することになる。

国民に道徳規範を人為的に国家権力の手によって強制することはできない。実際はむしろ逆で、国家が宗教によってその権威と正当性を獲得するものである。国家によって制定された道徳規範は、その国家の崩壊とともに権威と信用を失う。戦後の日本のように敗戦によって道徳の規範である教育勅語が失効してからは、国民は倫理的な価値基準を失って道徳的にもあてどもなく漂流し、その精神的な空白をカルトや新興宗教その他で代用し埋めようとする。

古来あらゆる戦争が民族と宗教の間に生じたように、太平洋戦争もまた宗教観をめぐる戦争でもあった。そして、日本の敗北の結果によって制定せられた日本国憲法には、その思想的な背景も大きく変わることになる。すでに伊藤博文の起草になる大日本帝国憲法そのものも「立憲君主制」というイギリスやプロシアのキリスト教諸国の歴史的産物に範を取ることによって、キリスト教の影響を間接的に受けていたが、戦後の日本国憲法にはその人権や個人の尊厳などの規定において、アメリカ・プロテスタンティズムの思想がより直接的に反映することになる。

だから、ある意味ではすでに日本国憲法の下にある現代日本も、思想的には聖書やキリスト教を基礎としていると言うことはできるが、ただそれが国民的な自覚の上には立っていないという現実がある。

戦後六〇余年をへてもなおそうした現状にあるとしても、事柄の必然性からいっても、いずれ日本国も国家としての基礎を聖書に求めるようになるのは、おそらく時間の問題だと思う。もちろん時間といっても、主なる神の眼には千年も一日のごとしという時間の単位の上での話である。いずれ日本国も国家の土台に聖書を据える時が来る。あるいはすでに来ている。聖書が日本国民の「国民的書物」となる日も近いのではないだろうか。毎冬繰り広げられるクリスマスのお祭り騒ぎもそれを証明している。

 

 

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日本人はすでに究極の自由主義を実現したか

2007年03月06日 | 宗教

以前に私のブログに書いた『公明党の民主主義』という記事にコメントをいただきました。そこでは日本の自由と民主主義のかかえる弱点を論じようとしたものですが、それに対して、あきとしさんという方から、日本ではすでに信教の自由をふくめて究極の自由を実現しているのではないかというコメントがありました。こうした問題について、ふだんから興味をもっておられる方は他にもおられるだろうと思い、いただいたコメントの返事を、新たに記事の形でも投稿することにしました。読者の皆さんの意見なども聞かせていただければ幸いです。コメントをいただいた、あきとしさんご本人のアドレスが分からないので、承認はとっていません。記事は次のリンクにあります。お目通しいただければ幸いです。

『公明党の民主主義』

あきとしさん、コメントありがとう。返事が遅くなり申し訳ありません。ブログを見なかったり、コメントに気がつかなかったりして、返事が遅くなることがあります。ただ、エチケットとして必要とされる返事はするつもりですので、こりずに覗いてみてください。あなたのアドレスがわからないので、少し長くなるかもしれませんが、ここに現在の私の考えを書いておこうと思います。

あなたのお考えの趣旨は、「わが国は多神教であって、すでにそれぞれの宗教は矛盾を解消してしまっているから、宗教改革の必要はない、日本はすでに究極の自由主義を実現している」ということだと思います。
あなたの考えの内容は、

①わが国は多神教で、それぞれの宗教の間の矛盾は解消してしている。
②日本は究極の自由主義を実現している。

の二つ命題として取り出すことができると思います。

それに対し、私がこの『公明党の民主主義』の記事で問題にしたかったことは、公明党の斎藤鉄夫政調会長をふくめて日本国民の「自由」についての「意識」の実際の内容はどのようなものかということでした。そして、一応の結論として見出したのは、公明党の斎藤鉄夫政調会長に典型的にみられるように、日本人の「自由」の意識は、(もし欧米の自由の意識が、出自の本場で、もし、それが普遍的なものであるとすると)、全く違うものになっているというのが、考察の結論でした。ですから、私の結論からは、あきとしさんが仰るような「日本は究極の自由主義を実現している」という見解には同意できないことになります。

その理由としては、次のようなことが言えると思うからです。

まず日本人の「自由」の意識には、キリスト教を信仰することによってもたらされる本来の自由の感覚と意識があるのだろうかという問題です。日本人一般には、キリスト教が本来持つ、神の戒律と人間の原罪との間の根本矛盾の自覚はそれほど鮮明ではないと思います。ですから、その根本矛盾の解消ということから生まれる自由の側面が、日本人の「自由」の意識の中にはないように思います。これは善悪の問題なのではなく、事実としてそうだと思います。

そもそも日本には自由の意識の本来の母胎であると考えられるキリスト教世界を伝統として持っていませんでした。したがって、欧米のキリスト教世界が必然的に到達したのと同じ自由の意識に達するための必然的な背景を日本人は持っていないといえるわけです。ですから日本国民の「自由」についての意識は、この自由の概念の出生地である欧米の本来の自由の意識にくらべれば、そして、西洋人の自由観が普遍的なものであるとすれば、日本人の「自由観」は本来の普遍的な自由の概念に一致していない特殊なものではないか、もっとはっきり言えばゆがんだものではないかということに注意を喚起しようとしたものです。

さらに、日本の多神教の問題ですが、確かに、日本には伝統的に多くの宗教が並存し、民族として、とくに支配的な宗教はもたないのかもしれません。仏教や民族宗教としての神道、それに、擬似宗教としての儒教などがあるかもしれません。そして、近世になって、キリスト教も入って来ました。

日本人の宗教が多神教であり、キリスト教などの一神教とは異なるとは、よく言われますが。私にはまだ多神教と一神教の概念の正確な識別ができません。だから、日本人の宗教意識においては、神々の間の矛盾は克服してしまっているというあなたの考えについて、今のところ、私の考えを述べることはできません。ただ本来の多神教とは、一つの宗教体系の内部に、絶対的な神が存在せず、神々が相対的に存在するような宗教だと思います。ですから、日本人は多くの宗教体系を並存させている多宗教の民族であるとは思いますが、多神教の民族であるのかどうか今のところよくわからないのです。

また、多神教の伝統の世界には、絶対的な人格神は存在しません。それは、神が人間としてのイエスに受肉されて私たちに現われたというキリスト教の独自の存在だと思います。ですから、非キリスト教世界に、人格と人格が対峙する経験はないと思います。そして、プロテスタントの宗教改革とは、直接に「人格」と人格が対峙することが認められることであり、その間に救いの絶対的な要件として教会などの仲介者の存在を必ずしも必要としないことを証明したことであると思います。

本来宗教を信じることによってもたらされる自由を、どの宗教を信じるかの「自由」として、あなたが捉えておられるところにも、あなたの「自由観」が現われていると思います。しかし、それは単なる思想的な、宗教的な無節操とどう違うのでしょうか。そんな疑問をもちました。


自由の問題や、多神教、一神教の問題については、まだ勉強中ですので、今のところ、これぐらいの事しか考えられませんが、ただ、あなたの仰るように、「日本人は、究極の自由主義を実現し、また諸宗教の矛盾を解消してしまっている」などとは、とうてい言えないようには思います。

欧米人の自由観については、以前も一度取り上げたことがありました。参考にしていただければと思います。

 
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小泉首相の靖国神社参拝

2005年10月22日 | 宗教
 

小泉首相の靖国神社参拝が外交問題になっている。小泉首相は公約にしたがって就任以来毎年靖国神社には参拝しているのであって、これまでも靖国神社の参拝も適切に判断すると言っていたのであるから、今回の参拝も当然に予期されたことではある。

哲学に興味と関心のある私のようなものにとっては、小泉首相の靖国神社参拝問題は、国家と宗教の問題として、哲学上の恰好の練習問題でもある。まあ、それは少し不謹慎な言い方であるにせよ、宗教と国家の関係については、終生の哲学的なテーマとして、当然に切実な問題であり続けることには変わりはない。

これまでも、小泉首相の靖国神社参拝問題については、幾度か私自身の見解を明らかにして来た。

「政治文化について」    http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20050731                                               「宗教としての靖国神社①」  http://blog.goo.ne.jp/aseas/d/20050716    
「政教分離の原則を貫く判決に反対する人々」  http://www8.plala.or.jp/ws/e7.html
「靖国神社参拝違憲論争」http://www8.plala.or.jp/ws/e3.html
「小泉首相の靖国神社参拝について」
  http://www8.plala.or.jp/ws/e1.html など。(関心のある方は読んでください)

基本的には考えは今も変わってはいないが、細部において、考えが深まっているかも知れない。今後も、引き続き国家と宗教の問題については、考察してゆきたいと思っている。

結論からいえば、私の立場は、国立の慰霊施設を造るべきだというものである。その理由は、まず、靖国神社が国家に殉じた人々を祭った宗教施設であるとしても、それが軍事関係者に集中していることである。国家のために身命を投げ打った者は、何も軍人のみに限らない。
先の太平洋戦争において国家のために尽くし、その犠牲となった人々は軍人のみに限られない。たとえば、勤労動員中に広島での原爆投下で亡くなられた人々は靖国神社においては慰霊の対象にはなってはいない。また、東京大空襲によって犠牲になられた方々についても同様である。靖国神社を国家的な慰霊施設にするには、そのように公共性に問題があるとも思われる。

もうひとつの理由は、宗教上、思想信条上の問題である。現代民主主義国家としての日本国は、宗教の自由、信仰の自由が認められている。そのために、日本国民は、いわゆる「神道信者」だけで構成されているわけではないということである。なるほど確かに、神道は日本の民族宗教として、日本国民にとっては特別な位置を占めていると言うことはできる。しかし、現代国家としての日本国の国民の中には、キリスト教徒もいればイスラム教徒もいる。また、靖国神社参拝に躊躇する仏教信者もいるだろう。それに無神論者、唯物論者もいる。要するに、現代国家の国民は、その宗教も多様であるということである。国際化した今日はいっそう多様化してゆくと考えられる。

そうした状況では、国家としての慰霊のための施設は、特定の宗教から独立した施設であることが好ましい。靖国神社が特定の教義と儀式を持つ宗教である限り、国家の機関である内閣総理大臣が職責として国家のために殉じた人々のために慰霊する場としてはふさわしくない。

実際に、靖国神社は戦後は一宗教法人になっているのであって、多くの株式会社と同じように、国家とは独立に、自らの宗教活動そのものによって参拝者を増やす努力をしてゆけばよいと思う。その活動の自由は完全に認められている。小泉首相にも、もちろん、一私人として、靖国神社に参拝する自由は完全に保証されている。しかし、国家の機関として内閣総理大臣の立場としての参拝であれば、いくつかの裁判判例で疑念が示されているように問題が多い。

だから、今回の参拝のように、小泉首相が一私人の立場であることをより明確にして、一般参拝者と同じように参拝したことについてはまったく問題はない。もちろん私人小泉純一郎氏と内閣総理大臣は切り離せないから、その影響力は避けられない。それはひとつの限界である。

政教分離の思想は、宗教と国家が癒着することによる自由の束縛、あるいは侵害に対する歴史的な教訓から生まれた。特に西洋では多くの宗教戦争や迫害という歴史が背景にある。思想信条、宗教信仰の自由、言論の自由など、いわゆる「自由」は精神的な存在である人間にとって、基本的な人権の最たるものである。これが侵害されることは、人間の権利の最大の侵害になる。自由の価値を自覚するものは、宗教と国家の分離に無関心ではいられない。特に、わが国のように戦前にいわゆる国家神道として、国家と宗教が深くかかわった歴史的な体験をもつ国家において、また、国民の間に自由についての自覚がまだ成熟していない国においては、政教分離の原則を今後も五十年程度は厳しく貫いて行く必要がある。

宗教は国家の基礎である。だから、真実な宗教である限り、国家は宗教を保護しその宗教活動の自由を保証しなければならない。したがって、靖国神社も他の宗教法人と同様に、国家から税法上その他の特別な取り扱いを受けているはずである。国家は自らの法津に従い、オーム真理教のように違反して敵対的にならない限り、諸宗教に対しては自由に放任し、寛容でなければならない。それがもっとも国民にとって幸福な関係である。

最近の一連の「靖国神社参拝」訴訟で、最高裁をはじめとして、総理大臣の参拝が、国家としての宗教行為に該当するか否かの判断の基準として「目的効果基準」の考え方が採用されているが、これは、判断基準としては必ずしも適正な概念ではない。この概念の根本的な欠陥は、何よりも「何が宗教的な行為であるか」についての判断が、裁判官の恣意裁量に任されてしまうことである。また、それは政教分離の思想の歴史的な由来にも合致していない。あくまで、「靖国神社参拝」の違憲訴訟においては、国家の宗教の分離という観点から、国家の宗教に対する中立性が、違憲、合憲の判断基準でなければならない。

最後に、首相の「靖国神社参拝」が中国や韓国との関係で外交問題にまでなっていることについて。もし、中国や韓国が一私人の小泉首相の思想信条の自由を侵害するものであれば、むろん、私たちは小泉首相個人の信仰上の自由を擁護しなければならない。特に中国など政教分離がいまだ確立しておらず、自国民の宗教の自由をどれだけ保証しているかについて重大な疑念のある国家においては。
しかし、また、先の太平洋戦争において、旧日本軍兵士の一部の間に、実際に国際戦争法規違反の事実があり、アジアの多くの無実の非戦闘員に対して惨害をもたらしたことも歴史的な事実である。その点で太平洋戦争の戦争指導者たちの責任が問われるのはやむを得ない。また、靖国神社にいわゆる「A級戦犯」が祭られていることからくる、そうした誤解を近隣諸国から受けるのを避けるためにも、宗教から独立した、そして、日本国民のみならず、日本国に関係した諸外国民をも含む慰霊施設を用意すべきであると思う。その一つの例として、沖縄の「平和の礎」があると思う。

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