ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

花の命

2005年04月14日 | Weblog
命のはかなさは桜の花にたとえられる。本当にそのとおりで、たった一日見なかっただけなのに、あれほど満開だった桜の花が、今朝見るとすでにほころび、その花々の間から新芽が見える。朝晩はまだしも、昼中はすっかり寒さも和らぎ、春爛漫の時期に入る。


桜の花のことで西行のことを思い出し、久しぶりに彼の歌集を開いた。釈迦入寂と時を同じくして如月満月のころに、かねての願いどおりに桜の花の下に逝った西行らしく、桜を愛でた歌には事欠かない。

自然が春の命に脈動する様子を歌ったのは次の歌である。花と鳥が、春の到来を受けて共に和して生命を謳歌する。ここに植物と動物がこぞって神の創造を賛美する姿を見る。


70  白川の  春のこずゑの  うぐいすは  花のことばを  聞く心地する
  

平明な歌で、何の注釈もいらない。花の名所で有名な京都白川を通り過ぎようとした時のこと、桜の梢で囀っている鶯の鳴き声を聴いたとき、あたかも桜が私に語り掛けて来るような気がしましたよ、という。単純なことばで、美の極地を現す。


今年も西行を忘れずにやって来た春を前にして、あらためて、彼の精神的な内面を知らされるのは次の歌である。俗名佐藤義清は武士の身分も妻子をも棄て、その名の通り、西方浄土を求めて旅に出た。そうして、この世の思い煩いをすっかり棄てて自由な身になったはずなのに、桜の花に対する執着だけは棄てきれないでいる。そして、あらためて、煩悩の源である自分の心の執着の深さに気づかされて歌う。

76  花に染む  心のいかで  残りけん  捨て果ててきと  思ふわが身に

花に執着する心がどうしてこんなに強く残っているのでしょう。すべてを振り捨てて出家してきたと思っていた私でしたのに。

もちろん、春を感じさせるのは、花ばかりではない。雨も、しとふる春雨もさらにしみじみと春の物思いに耽けさせる。岸辺にうな垂れ、風に乱れる新緑の柳は、自由になろうと釈迦の跡を慕って出てきたのに、かえって在家のときよりもさらに矛盾する西行の心を思い乱させる。

              雨中の柳

53  なかなかに  風のほすにぞ  乱れける  雨に濡れたる  青柳の糸

しっとり雨に濡れて岸辺に佇んでいるみずみずしい新緑の柳を、風は親切に吹いて乾かせてあげようとしてくれるのですが、そのためにいっそう柳の心は思い乱れるのです。
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ホリエモンとユダヤ人

2005年04月03日 | Weblog
ライブドアの社長、堀江貴文氏すなわちホリエモン氏には何かユダヤ人と共通する点があると思う。これは一見奇妙な連想に思われるかも知れない。ユダヤ人はその宗教的な理由から彼らの言う異邦人の社会になじめず、既存の体制、社会から絶えず抑圧され迫害を受けてきた。そして、ホリエモン氏がテレビや新聞などのマスコミに登場し、そこで発言するのを聞くにつれ、総体的に浮かび上がってくるのは、いわゆる既成秩序というか既成体制に対するホリエモン氏の反感のようなものである。ホリエモン氏はネクタイを決して締めない。それは氏に似合わないということもあるかも知れないが、同時に彼にとってネクタイは搾取の象徴のように受け取られているらしいことである。


ホリエモンとユダヤ人も何らかの理由で、共同体から疎外されてきたこと、その結果として、共同体に対してかなり屈折した感情を持っているらしいと感じる。ホリエンモン氏の生育環境について詳しいわけではない。氏はかって、「この世で金で買えないものはない」と発言したそうである。そして、家賃二百万円とかの豪壮なアパートに住んでいる。もちろんそんなことは、成金趣味の下品な行為にしか見えず、インドネシアのスカルノ元大統領の愛妾だったデビ婦人の成金特有の悪趣味と同じように不愉快にしか思わない。


堀江氏は大きな富を所有している。しかし、彼にとって彼の富は、ちょうど貧者のあるいは疎外者の裏返しの富であって、多くの場合、貧困に悩み、そのゆえに社会から疎外されてきたことに対する一種の見返しの手段としての富のように思われることである。彼は、その富によって、かって彼を疎外し仲間はずれにしてきた(時にはいじめにも遭ったのかもしれない)社会、あるいは学校に意趣返しをしたいのかも知れないと思った。ユダヤ人に金持ちが多いのも論理的には同じ理由によると考えられる。これは私の直感的な印象であって、明確な証拠があるわけではない。


ただ、はっきりしていることはホリエモン氏には国家や民族や地域社会といった共同体に対する親愛感というものがあまり感じられないことである。これは韓国のマスコミに、日本企業の買収を勧めたことにも現れている。ここには、かって教育大付属池田小で多数の児童を殺傷して死刑になった宅間守や神戸児童殺傷事件を引き起こしたサカキバラ少年に共通する土壌があるのではないだろうか。社会や国家に対する敵意や憎悪が犯罪という行為にまでいたらなくとも、既存の体制を自分の信じる金の力で変えたい、それによって、かって自分を見下した社会に意趣返しをしたい。そういう潜在意識がホリエモン氏にあるのではないだろうか。


これも現代資本主義に特異な社会現象のひとつだと思う。しかし、一方で資本の論理によって社会のグローバル化がいっそう進展してゆくことが予想される中で、こうした事件は、ホリエモン氏のように取り立ててニュースに取り上げられることもないくらいに、いずれ日常化してゆくことが予想される。あるいはすでに日常化しているともいえる。今回は、買収の対象がフジテレビであったこと、堀江氏がたまたまマスコミの「寵児」だったことによる。事実、この事件を契機に、ホリエモン氏の兄貴分である、ソフトバンクインベストメントの北尾氏の存在が明らかになった。


グローバリズムは国家や民族の垣根を取り払う。そこには多くの場合、剥き出しの資本の論理が現れる。二十一世紀の国家と民族が直面せざるを得ないひとつの問題であるといえる。



ホリエモンとユダヤ人(2)
2005年08月13日 / 時事評論


もちろん、グローバリズムの否定的な側面のみを強調するのは、公平な見方ではない。物事は弁証法的に見なければならない。すなわち、物事には肯定面もあれば否定面もある。逆に伝統的なもの民族的なものがすべて無批判に肯定すべきもの優れたもの、すべて保守すべきものという見方も一面的に過ぎる。


むしろ、多くの場合、社会や人類は過去や伝統を否定しつつ発展してゆくものである。特に、日本の伝統や過去の文化、習俗に不合理なもの不効率なもの、不平等なものなども少なくない。たとえば、太平洋戦争前に存在した小作人制度や貧困からくる人身売買にも等しい公娼制度、これは江戸時代から続く日本の悪しき伝統以外の何ものでもない。もちろん、封建社会には、現代のような衆愚政治はなかったかも知れないが、その権威主義、事大主義、身分制の不自由は今では想像もできないものだろう。福沢諭吉の自叙伝などを読めばその消息もよくわかる。


ホリエモン氏のグローバリズム、その変革の意思にも肯定的な側面をみなければならない。彼は現代日本の抱えている多くの不合理、不効率を必ずしも明確に理論的に、あるいは思想的にきちんと定式化して、改革しようとしているのではないかも知れないが、彼がいわば本能的に直感的に示している改革の意思は、肯定的に評価できるものも少なくない。それは、日本の政治や行政の現実が多くの点で、国際的な標準にも達しておらず、それが国民や消費者の一般的な利益に反しており、一部の利益団体や既成団体の既得権益を守るだけのものになっている場合も少なくないからである。

日本がアメリカの国務省の人身売買監視室から、強制労働や性的搾取に関する行政の取り組みが不十分であるとして、監視リストの対象になっているように、グローバル化することによって、日本国民が国際的な福祉水準に達するという側面も少なくないということである。むしろ、グローバル化が日本国民にとって一般的な利益になる場合が多い。


IT技術や国際電話、また、今回ホリエモン氏が参画を狙っている、マスコミや放送は、まだまだ規制の多い分野であり、もっと自由に開放することが、国民の利益になる場合が少なくない。テレビ、ラジオ、新聞その他のマスコミ関係にも、ホリエモン氏のような成金趣味の人間であっても、自由に参入し、その競争の中で、国民が取捨選択する選択肢が増えたほうが、業界、国民の双方にメリットとなる。ホリエモン氏がフジテレビの筆頭株主になって、その「支配権」を牛耳るかどうかは別にしても、多くの新しい挑戦者が、テレビ、新聞、ラジオなどの沈滞化し停滞した業界に新風を吹き込むのは、むしろ歓迎すべきであるのかも知れない。

また、ホリエモン氏が乗り込むことによって、崩れるような企業の文化、伝統といったようなものなら、所詮その程度のものとして崩壊したほうがましだともいえる。


2005/04/02
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