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ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

日本国の洗濯と人を見る眼

2007年07月03日 | 政治・経済

後任防衛相は小池百合子氏 参院選前、首相に痛手(朝日新聞) - goo ニュース

日本国の洗濯と人を見る眼

指導者の資質として、まず第一に挙げるべきは、「人を見る眼」ではないだろうか。国家や企業などの組織の指導者は、自ら個別具体的な業務に直接従事するわけではない。指導者の仕事は、業務の分業に応じて、いわゆる人材として、それぞれにふさわしい能力を持った人間を見つけ選び出し、時には人材を育成して、適材適所に配備する。そうして、彼らをいわば道具として手段として用いて、国家なり組織なりの理念、目的を追求し、実現してゆくことになる。そのときに、指導者は瞬時にその人間の資質と能力を的確に判断する能力がなければならない。この能力がなければ、人材の適材適所への配置もできず、したがって、国家や組織の所期の目的も遂行することができない。指導者に必要な能力は、何よりも「人を見抜く能力」「人を見る眼」ではないかと思う。


安部晋三内閣が発足して、九ヶ月を経た現在、先に松岡利勝農水相が「緑資源機構」にからむ汚職疑惑で自殺し、そして、今度は久間章生防衛相が「原爆投下しようがない」発言の責任をとって辞任した。そして、その後任に、小池百合子首相補佐官(54)を充てることを決めた。4日の午後にも皇居で認証式が行われ、正式に就任するそうである。


このたびのこの安部首相の泥縄式の人事を見ても、安部首相の指導者としての「人を見る眼」に深刻な懸念を抱かざるを得ない。少なくとも、前の小泉首相のときは、幹事長に武部勤氏を据え、金融相、あるいは財務相には慶応大学の教授だった竹中平蔵氏を内閣に組み入れて、かねてからの持論であった「郵政改革」断行しようとした。また、作家の猪瀬直樹氏を道路民営化諮問会議の議員に採用するなどしてそれなりに事態の打開を図ろうとした。それらはいずれもきわめて中途半端な成果に終わったとはいえ、そこには小泉純一郎氏の「人を見る眼」というか直覚的な政治的な勘が、小泉氏なりの見識が働いていたと思う。


「英雄のみが英雄を知る」とか「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」とか「下僕に英雄はいない」ということわざがあるが、それらは要するに、人は誰でも自分の器量に応じてしか他人を判断できないということである。同等以上の人物については、判断能力は及ばない。これは類は友を呼ぶということでもある。ある人間を判断するのに、その人の奥さんや友達を見ればその人となりがわかるように、安部晋三氏の人としての資質は、安部内閣を構成する政治家たちを見れば大体わかる。そして、今回の新人事で、小池百合子新防衛相を通して安部首相を資質を見てみると、安部内閣の成立以降もこの九ヶ月ウォッチングを続けてきて、残念ながらもうこれ以上に、安倍晋三氏に期待はできないという思いが強い。


しかし、自民党に彼に代わる人材はいない。政界にもいるようには思えない。それほどに日本の政界には、いや政界だけではなく、ちょうど香川県の早明浦ダムのように、日本国全体に真の英雄が、すぐれた人材が枯渇し始めているのかも知れない。これこそ、日本国の真の危機というべきだろうか。


少なくとも一国の国防の軍事指導者は並みの人物で務まるポストではない。高度の見識、経験、能力を必要とする。国民から尊敬され憧憬される軍隊を持たない国家に品位と安定はない。その人事を誤れば、潜在敵国からは侮られ、同盟国からは不信を買い、部下の軍人武官からは軽侮を買って、その文民統治の原則にもひびを入れかねない。安部政権については「論功行賞のお友達内閣」とうわさされてもいるようだけれど、安倍首相の頭の中にある選択肢に、志方俊之氏や森本敏氏などの名前が浮かぶことはなかったのだろうか。人事に同じ失敗は許されない。

「日本国の洗濯」は他の誰かを指導者に選ぶことによって、また、もう少し遠い先の課題として、期待すべきかも知れない。さしあたっては、現在の自民党と公明党による連立内閣与党を、まず野に下して壊し、それを契機に、自民党を結党以前の自由党と民主党に分割分離して、自由主義と民主主義の理念の実現を、それぞれ自由党と民主党に担わせる。それによって、日本においてもまともな政党政治を実現させてゆくことだと思う。来る参議院選挙を日本の政治の再編成の始まりにしたいものだ。日本の政治家たちにも、茶番劇のお笑いはこの程度にしてもらい、子供の政治から大人の政治へと、品位と落ち着きと本当のユーモアの余裕の政治を早く見せてほしい。

 


歴史のIF

2007年06月14日 | 政治・経済

歴史のIF

個人の歴史と同じように、人類の歴史もまた繰り返すことの出来ない一回性のものである。
そして同時に、個人と同じように、人類もまたその歴史の途上でさまざまな岐路に立たされる。右へ行くべきか、左に行くべきか。

他の動物と異なって人間の特性がその自由な意志の選択にあることも事実である。「あれかこれか」の選択も、善悪の選択も人間の自由な意識の選択による。そこに正常な成人には責任問題も生じる。動物や子供にはこの自由がないから責任問題は問われない。しかし、人間の個々のその選択は自由であり偶然であるとしても、その結果の集積は人類の歴史的な必然として認識される。


だが、人間のみがその想像力によって、時間と空間の制約を乗り越えて、過去の選択を反省することもできる。私が今興味と関心を駆り立てられる問題の一つに、中国の現代史の問題がある。とりわけ、中国大陸に毛沢東の共産党政府が樹立される前に、中国共産党と蒋介石の国民党政府との内戦で、もし毛沢東の共産党中国ではなく、孫文の三民主義を引き継いだ蒋介石の国民党政府が中国大陸に支配権を確立していれば、現在の東アジアはどのようなものになっていただろうかという問題である。

21世紀の初頭に生きる私たちには、あれほど多くの「人民」がその革命と実現のために苦闘してきた共産主義国家の多くが、世界の国々から、その歴史から姿を消しつつあることも知っている。そして、現代では多くの旧社会主義国家において、自由と民主主義の名の下に市場主義、資本主義が取り入れられつつある。そして周知のように、中国もまた改革開放路線を選択し、社会主義市場化によって経済的にはきわめて奇形ながらも、いわゆる「資本主義国家」と実質的には変わらないようになっている。

むしろ、共産党政府の独裁によって政治的に自由に解放されていないがゆえに、「資本主義」が本質的にもっている弊害がいっそう深刻化しているようにも見える。共産主義が本来目指したはずの「人民」の経済的な平等も形骸化し、むしろ、他の民主主義国以上に、経済的な格差も深刻化しているという。共産党幹部らの深刻な腐敗なども漏れ伝えられてくる。


現代中国の重要な国策の一つに「一人っ子」政策がある。その膨大な国民人口を生産能力で養ってゆくことができないがゆえに取られた政策である。現代中国においても多くの共産主義国の事例にみられたように、共産主義は貧困の普遍化を招いただけで、国民の経済的な生産能力の増大に失敗したことは事実である。もし中国が、蒋介石の国民党政府が国内戦に勝利をえて、「資本主義的な生産様式」でもって、もっと早期に国富の増大に成功していたなら、現在のような厳しい「一人っ子政策」を余儀なくされていただろうか。

多くの人が見たと思うけれど、先日にどこかの民放テレビ番組で、中国の「一人っ子政策」の現状が報道されていた。伝統的に男尊女卑の傾向が強く、また、国民の老後の社会保障政策の貧困もあって、中国ではこの「一人っ子政策」の結果、男女の出生比率のバランスが大きく崩れてきているのだという。その結果、女の子だとわかれば、暗黙のうちに堕胎させられたり、捨て子にされたりして孤児になったりすることもあるという。

2007年5月18日の夜に、遼寧省瀋陽市で黄秀玲(ホワン・シューリン)さんが農薬を飲んで自殺したことが先の報道番組で報じられていた。わずか14歳の少女だった。学校の成績も好かったと言う。生まれてまもなく、彼女は実の両親から養子に出され、またその養父の病気のために、新しい養父母の元で暮らすことになった。しかし、その養父母も貧しく、秋冷さんはわずかのお金を持たされて、買い物に行かされたときに、空腹に耐えられず、そのスーパーでわずか15円のパンを万引きし、見つかって店の前に立たされたという。彼女の屈辱はどれほどのことだっただろうと思う。こうした事件も人類の間に起きている多くの悲劇の小さな一つにすぎないのかもしれない。

それにしても、現代中国が歴史的に迂回することなく、もっと早い時点で豊かな社会を実現することができていれば、この黄秀玲さんのような死はなかったのではないか思うことである。しかし、それも所詮はむなしい歴史のイフに対する想像に過ぎない。


記事報道
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070523-00000003-rcdc-cn

 


政治家と国民の茶番劇

2007年06月13日 | 政治・経済

「政治とカネ」法改正案を可決 衆院政倫特委(朝日新聞) - goo ニュース

政治家と国民の茶番劇

相変わらず、おかしくも哀れな政治家たちの茶番劇がくり広げ続けられる。国民もまた自分たちの利害に直結する年金問題には眼の色変えて確認に走り回るのに、それよりもはるかに深刻で根源的な政治資金規正法改正案の問題については、いっこうに関心も盛り上がらない。

政治資金管理団体の事務所費、光熱水費などの支出透明化を図る政治資金規正法改正案が13日に、衆院政治倫理確立・公職選挙法改正特別委員会において、自民・公明両党の賛成多数で可決された。この改正案は14日の衆院本会議でも可決されるらしい。

それなのにマスコミの多くも、黄金の腐臭の漂う政治資金の使途明細の実情を明らかにしようという意欲を欠いている。そして、公明党もまた、「一万円以上」の領収書添付は「現実的」でないなどと言い訳して、どこかの宗教団体の「先生」の清濁併せ呑む太っ腹の偽善ぶりを見習っている。一万円以上の領収書の添付では、政治で飲み食いができなくなるからだ。今もなお日本の政治は、飲み食いがらみで動いている。

電気会社であれ自動車会社であれ、普通の企業であれば、一円単位の領収書もきちんと保存して、税金の算定に使うではないか。なぜ、政治団体にそれができないのか。

それは、先に緑資源管理機構の汚職疑惑で自殺した、松岡利勝農林水産大臣の例に見るように、日本人においては政治が、エロとタカリと同じ次元でとらえられているからである。このような政治文化が背景にある限りは、日本国民の政治家の腐敗を「憤る」ようなそぶりも、その偽善ぶりがただ醜いだけである。

先進的なビジネスの世界と同じように、一銭一厘の領収書をきちんと管理する乾いた風が、政治の世界にも吹き込まない限り、腐ったどぶのようなじめじめした陰気な汚臭から、政界の住人たちが解放されることはない。この点で政治屋たちは、つねに競争にさらされている経済界と比べて、まだ100年前の昔の封建社会にちょんまげのままに暮らしている。


国民もまた、葬式などで、政治家などの「名士」などからの弔電などを貰って喜んでいるかぎり、こんな事大主義的国民性の日本人の体質だから、政治家の連中にもお金がかかり、「ザル法」の政治資金改革法を国会に提出してお茶を濁しても、懲りることも恥じることもないのである。まさに、この国民にして、この政治家ありである。西洋のことわざにあるように、「国民は自分たちにふさわしい政治しかもてない」のである。その意味で、一国の政治は、その国民の映し鏡である。汚い政治家から弔電を貰うのを故人は恥じるほどでなければならないのに。

もし政治家に少しでも謹慎するつもりがあるなら、たとえば清水市と合併した静岡市のように、市議会議員の政務調査費が6万円だったものが、合併時と昨年の2回にわたる増額で4倍の25万円にもなったような、国民をなめきったような焼け太りの決議は行なわれないはずである。いまだなお多くの地方自治体においても「政治家」たちの政務調査費の使途は非公開が認められたままである。

今回の政治資金規正法案については、一万円以上の支出について領収書の添付の義務づけ、また資金管理団体だけではなく他の政治団体も規制の対象とする民主党の提出した法案の方がはるかに妥当である。実際、資金管理団体だけを規制しても意味がない。民主党元党首の岡田克也氏が今回の政治資金規正法案で、「首相の張りぼて改革の典型だ」と批判するのも当然である。

ただ、民主党も修正案に応じて妥協する姿勢を示すのではなく、どこまでも自分たち政治家自身に厳しく律する姿勢を示してほしかった。そうして民主党の政治家たちが本当に生まれ変わったことを国民に証明して行けば、近い時点で必ず民主党に支持が集まるだろう。民主党が国民の付託にこたえきれていない現状の責任は大きいのである。

現在の民主党の党首小沢一郎氏の政治に今一つ私が共感できないのは、氏の政治理論以前に、氏の政治家としての体質に不信感を持っているからである。小沢一郎氏の政治家としての体質は、田中角栄の系譜にあると見ているからである。現在の政界の住人たちに、「政党助成金」によって濡れ手に粟の弛緩した金銭感覚に手を貸すことになったのも、小沢一郎氏の「功績」によるものである。また法的に問題ないからといって、政治資金管理団体の巨額の不動産を所有して、腐敗体質の与党にすらつけ込まれているのも小沢一郎氏である。

 

 追加07/06/26

   政治の貧困

   民主党の再建と政界の再編成について

   自由と民主政治の概念

   民主党四考

   民主主義と孤独 

  


「議論となる要点」について、 pfaelzerweinさんへ。

2007年04月27日 | 政治・経済

「議論となる要点」について、 pfaelzerweinさんへ。

pfaelzerweinさん、コメントありがとうございました。

先日の私の「ドイツ文化と日本文化」の小論が、趣旨の不明確な取り留めのない駄文であったために、テーマの整理に余計な苦労をおかけしたかもしれません。そこでのテーマは「日本において民主主義の可能性はあるか」というもので、さし当っての私の結論は、「そのための前提としては、日本国民の宗教改革が必要である」というものでした。

とりあえず、pfaelzerweinさんがコメントで提起された論点について、さらに逐条的に私の考えを書いておきたいと思います。こうしたテーマに興味を持たれる方もおられるかと思い、新しい記事として投稿しました。くどくなるかもしれませんが、お許しください。


①ヨーロッパの集合体は、その個の特徴を際立たせながらキリスト教的「文化的共通性」でEUとして存在していないか?


ヨーロッパの諸民族、ドイツ、イギリス、フランス、スペイン、イタリア、ポーランドなどは、それぞれに民族的な特徴を際立たせていると思いますが、一方で、キリスト教という伝統的な「文化的共通性」も保持している点も、これらヨーロッパ諸国の特徴であると思います。私の論考ではヨーロッパ諸民族の個性を強調しましたが、それは、キリスト教という共通の文化的土壌の存在を否定するものではありませんでした。むしろ、キリスト教の普遍性は、それぞれの民族の特殊性、個別性を十分に発展させるところにこそあると思います。

②東アジアは、儒教的な世界観の文化的共通性を強調して大東亜共栄圏の集合体とすることが出来るか?

これだけ思想や価値観の多様化した現代およびこれからの将来においては、「儒教的な世界観の文化的共通性」を土台として、東アジアの共同体を形成するのはむずかしいだろうと思います。共同体の形成の前提としては、やはり、キリスト教の完成とその帰結としての「自由と民主主義」が原理になるだろうと思います。
        
参照  北東アジアの夢


③近代化の手順として、立憲体制の確立は、また国体をその基礎においたのは、主体的な導入への苦肉の策ではなかったのか?


明治維新とその後の「大日本帝国憲法」の制定による、日本の立憲君主体制の成立は、その議会制民主主義という点で、多くの特殊日本的な欠陥と弱点を抱えてはいたものの、それは「主体的な導入への苦肉の策」というよりも、やはり日本が選択せざるを得なかった必然的な政策だったと思います。現代の国家は、その歴史的、伝統的制約の中で、民主主義体制としては、大統領制か立憲君主制を選択するしかないのだろうと思います。

④インドや香港、フィリッピンなどの植民地は、近代的国家で日本より民主化している(いた)のか?

私の伝えたかったことは、インドや香港、フィリッピンなどの植民地化された国民や民族の国家や民主主義は、日本と比較して、それらの民族固有の伝統文化の基盤の弱さのゆえに、十分な主体性を欠いたものとなったのではないかというものです。植民地化されたこれらの国々の民主主義は、その民族固有の精神を失った、あるいは少なくともそれらを十分に媒介しない、いわば植民地的「民主主義」になっているのではないかというものです。だから、肯定的な評価ではなく、むしろ否定的なものです。それは、日本が欧米文化を翻訳を通じて受け入れたのに、それらの国では、旧主国の言語である英語を通じてそのまま直接に受け入れたことにも現われています。

⑤敗戦によって否定されたのは、「自由と民主主義」への動きでなく、時代遅れの植民地主義やそのもの国体ではないのか?


その通りだと思います。明治の「自由民権運動」や大正時代の「普通選挙運動」は決して、否定されてはいないし、否定されるべきものでもないと思います。問題にしたいのは、戦後の日本の「民主主義体制」が、太平洋戦争の日本の敗北によって、占領軍によって直接的にもたらされたものであって、明治の「自由民権運動」や大正時代の「普通選挙運動」などの日本国民の主体的な運動の延長として獲得されたものではないというこの一点です。

⑥戦後の民主主義は、戦前の民権運動などとどのように違うのか?少なくとも天皇制を自ら護持した一方、そこに文化的な主体性は本当になかったのか?


これは⑤の論点ともダブりますが、「天皇制を自ら護持」するなど「文化的な主体性は」日本国民にまったくなかったと言おうとするものではありません。ただ、日本の戦後の民主主義で問題にしたい点は、マルクス主義のいわゆる「ブルジョア国家性悪説」の影響もあるせいか、あるいは戦前の軍国主義の反動のためか、それが「国家意識」を否定するか、もしくは喪失していることと、戦後日本人の植民地文化的なアメリカ型民主主義の浅薄で表面的な模倣です。


⑦欧米諸国の価値観とは「自由と民主主義」を指すのだろうが、その刻々と変化し変遷する価値観を、どのようにして確認して現実化していくのか?


「自由と民主主義」は欧米諸国の価値観ではあると思いますが、それは決して特殊な、すなわち、欧米諸国の独自の「固有の」価値観であるとは思いません。「自由と民主主義」は、民族を超越した普遍的な価値観であると考えています。それは、キリスト教が特殊な民族宗教でないのと同じだと思います。
また、「自由と民主主義」の現実化の問題については、それはキリスト教が実質的に日本国民の支配的な宗教となることによって実現されると思います。


⑧キリスト教の意識なくして、「自由と民主主義」が無意味か?そもそも宗教改革の意味と近代の「自由と民主主義」は同義か?むしろ出自はフランス革命や市民革命ではないのか?


キリスト教の意識なくして、「自由と民主主義」は無意味だとは思いません。なぜなら、民主主義とは「完成された」キリスト教のことだと考えるからです。民主主義においてキリスト教はアウフヘーベンされていると思います。民主主義は世俗化されたキリスト教でありながら、キリスト教とは独立したそれ独自の価値を形成していると思います。
また近代の「自由と民主主義」の真の出自は宗教改革であると思います。イギリスの市民革命は、この宗教改革の上に成立した政治革命であると思いますが、フランス革命や日本の「戦後民主改革」は「宗教改革」なき単なる政治革命であり、そうした革命は、フランス大革命や毛沢東の「文化大革命」、北朝鮮の「千里馬運動」などに同じ運命をみるように、誤ったものです。

⑨大ドイツ統一の市民革命が頓挫して、プロテスタンティズムの自由主義や工業化へと向けられたドイツが進むのも結局は遅れた植民地主義ではなかったのか?

ドイツでは、プロテスタンティズムとして宗教改革は実現しましたが、イギリスやフランスのような市民革命、政治社会革命、民主主義革命には失敗しました。それが、ドイツがナチスドイツのような全体主義、民族主義に傾斜してゆく原因になったと思います。

⑩プロテスタンティズムの実現として最も代表的なのは英米の社会や経済ではないのか?

宗教改革(プロテスタンティズム)の上に立脚した政治革命(名誉革命や独立革命)を実現したのはやはり英米で、その社会と経済が代表的であると思います。中国やフランスやロシア、ドイツ、日本等のそれは、宗教改革なき政治革命か、あるいは政治革命なき宗教改革という点で、典型的概念的ではないと思います。


⑪消費社会としての日本や、躍進する中国の精神的な基盤や世界観は、プロテスタンティズムの影響を受けていないのだろうか?また、そうした批判が出ない理由は何処にあるのか?

現代の日本や中国などの諸国が、政治的な統治原理として民主主義を標榜しているかぎり、その「精神的な基盤や世界観」において、プロテスタンティズムの影響を受けていないことなどありえないと思います。現代民主主義そのものがプロテスタンティズムの帰結であると考えるからです。それに、グローバリズムの嵐は、アメリカ・プロテスタンティズムを源流としています。プロテスタンティズムの影響は世界史的なもので、どのような個人、民族、国家もその影響からのがれることはできないと思います。

 

以上pfaelzerweinさんのさまざまな問題提起について、さし当って私の考えるところを記しました。これまで、こうしたテーマでブログを書いていても、なかなか議論の成立しないのは、日ごろ残念に思っている点です。これは、日本の学校における民主主義教育の未熟と無能力の問題として、とくに政治家、学校関係者などに深刻に自覚して欲しいと思っているところです。それを補うものとしてこのようなネットにも、教育改革の一つの可能性を見出せればよいのですが。

pfaelzerweinさんのお住まいのドイツでは、その民主主義やブログ上の議論の実情はどのようなものでしょう。私のドイツ語や英語の語学が弱く、せっかくインターネットという手段を手にしながら、まだ直接に海外に発信して議論できないのは残念に思っています。

なお、私のブログ上での議論についての考え方は、次の記事に書いてあります。(ブログでの討論の仕方)

少しくどくなりましたが、とりあえず、pfaelzerweinさんの提起された論点について、逐条的に私の考えを書いておきました。また興味の持てるテーマがあれば議論しましょう。また、これからも引き続きあなたのブログで、ドイツからの風を極東の日本にもお送りください。

                                             そら(私のHNです)

 


ドイツ文化と日本文化

2007年04月25日 | 政治・経済

 

ここしばらく、個別・特殊・普遍の論理を事物の発展の中に検証しているが、特に人類の精神の発展について考察しているときにやはり興味がもたれるのは、人種や民族のそれぞれの精神の特殊性についてである。民族の精神をもっとも個性的に発展させているのはヨーロッパの諸民族であるように思われる。ドイツ、イギリス、フランス、スペインなどは、それぞれに民族的な特徴を際立たせている。

それと比較して、東アジアの諸民族の文化、特に中国、朝鮮、日本のそれぞれの文化は、それぞれの個性よりもむしろ共通的な性質の方が濃厚であるように思われる。これらの後方東アジア人、モンゴル人種の文化的な共通点は、儒教文化圏として、その特殊性を包括的に捉えることができるのではないだろうか。いまだなお、これらの諸民族においては、戦前の日本の天皇制軍国主義や毛沢東の文化大革命、北朝鮮の個人崇拝などに見られるような、家父長制的な精神構造がなお支配的であると思われる。

それにしても、これらの民族精神を根本的に規定する要素は何かという問題については、繰り返し問う価値のある興味あるテーマであると思う。民族精神の形成においては、その地理的な条件や気象条件などの自然的な条件がやはり決定的であると考えられるけれども、宗教などの人文的な条件も大きな影響をもっていると見なさざるを得ない。

いわゆる市民社会を、マルクスの用語で言えば資本主義社会をもっとも早く発展させたのはヨーロッパであり、とくにその経済的な背景としてイギリスの産業革命は世界史的にも特筆されるが、この市民社会の発展と膨張は、必然的に人類の諸民族のすべてを同一の世界史の土壌にのせることになった。現代においては、グローバリズムとして、世界史の新たな質的発展の段階に入ったと思われる。

ユーラシア大陸の極東に位置する日本も、ぺリー提督の黒船来航以来、精神文化においても科学技術においても、欧米文化の圧倒的な影響下に置かれてきた事実は、現代日本人の生活に見るとおりである。

それでも百年や二百年ぐらいの歳月は、民族精神の変化や変質に要する時間としては十分ではない。ただ、議院内閣制や民主主義を導入しても、一方において象徴天皇制を保持しているように、日本人の精神的な民族的な特徴に本質的な変化はないと思われる。

それに対して、インドや香港、フィリッピンなどの植民地化された国民や民族の場合は、精神的にもより本質的に欧米の影響を受けやすかったといえる。香港人やフィリッピン人が、キリスト教の洗礼名を公的に使用していることなどがその端的な例である。

ただ、日本人の場合は、キリスト教の受容においても、過去の仏教や儒教の受容の場合と同じく、島国という特性もあって、他の大陸諸民族や熱帯、亜熱帯民族に比べても、その文化的な受容は、伝統的にも地理的にもきわめて主体的に行われたといえる。

ただ、今日の現代日本の、とくに太平洋戦争の敗北という未曾有の歴史的な混乱の後に生きる現代日本人の民族的な精神的な混乱状況は、もっとはっきりいえば、その腐敗と退廃の文化状況は、戦後の日本人が、その政治的な、文化的な歩みを、十分に主体的に進めることができなかったことに根本的な原因があるように思われる。

その意味で、現在の半植民地的な文化的状況から、真に日本に文化的な主体性を回復するためにも、現在の安倍内閣が目指しているような、憲法改正を契機とする戦後の連合国占領統治体制からの脱却は、その目的とするところは評価はできる。ただしかし、問題は、安倍晋三氏の目指すいわゆる「美しい国」のその具体的な内容である。その回復しようとする政治と文化状況の内容である。

確かに、安倍晋三氏は「自由と民主主義」を否定はしていないし、むしろ、欧米諸国とその点で、価値観を共有してゆくことを明言さえしている。それは肯定できるとしても、問題はその方法論である。

安倍晋三氏は、その保守的な思想の動機としては、岸信介や安倍晋太郎という保守的な政治家を、たまたま祖父、父に持ったこと以外に見当たらないのである。氏の「自由と民主主義」に何となく浅薄さを感じる理由である。

自由も民主主義も、思想的な出自、宗教的な出自としては、事実としてキリスト教を背景にもっている。にもかかわらずキリスト教の自由と人権意識なくして、「自由と民主主義」が論じられているように思う。そのせいか、非キリスト教徒の「自由と民主主義」論に直観的に胡散臭さを感じる。丸山真男氏や樋口陽一氏の「民主主義論」についても同じである。

おそらく、宗教改革という文化革命を日本国民が通過しないかぎり、そして、実質的にプロテスタント・キリスト教が日本国の支配的な宗教とならない限り、日本国民は主体的に「自由と民主主義」を国民自身のものにできず、したがって真に「美しい国」も現実的な可能性を持ち得ないのではないのかと思う。

だから、いくらスローガンとして「美しい国へ」を、掲げようと、日本国が真の自由と民主主義国家に生まれ変わることができず、民主主義の奇形とも言える現代全体主義への変質の可能性は、消えてなくならないのである。

とくに現代日本の政治家、教育者、マスコミ関係者たちの、「自由と民主主義」についての、その宗教的、思想的な未成熟と教養の不足は、日本国民にとって根本的な欠陥となって、悪循環を再生産しているように思われる。ドイツやイギリスやデンマークやオランダは、いずれもプロテスタント諸国である。そうした諸国の精神的、文化的な特質を、日本国民が民族の精神として主体的に自らのものにするに至るまでは、それらを手にすることはできないのではないかと思う。個別・特殊・普遍の論理を検討する中で、それぞれの民族の精神、それぞれの国民のもつ精神について思い至るとき、このような印象をどうしても拭い去ることができない。

参考    toxandoriaドイツの旅行記 

      日本の内なる北朝鮮 

 


小泉首相は英雄か

2005年10月01日 | 政治・経済
 

およそ英雄とか偉人と呼ばれる人は、彼と同じ時代を生きた人々の、民衆の求めているもの、欲しているものを、しかも、彼らが言葉に言い現せないものを、彼らに代わって言い表わし、また、それらを実行して実現すると言われる。

だとすれば、先の郵政総選挙で国民の圧倒的な支持を受けて自民党を勝利に導き、構造改革を進め、郵政民営化を実現しようとしている小泉首相は英雄なのではないだろうか。

小泉首相までの日本の内閣総理大臣は、率先して指導力を発揮しようとせず、官僚のお膳立てにのって、一部の階層や利益団体の利益を代弁するだけで、切実な民衆の声を、国民の声を聞き届ける耳を持たなかった。その一方で、野党も空念仏を唱えるばかりで、国民の付託にこたえようとする真摯さもなく、野党の地位に安住し、その無能力、無責任を恥じようともしなかった。

官僚や一部の族議員がその特権をほしいままにする中で、国民は高い道路通行料を支払わされ、今の世代だけでは到底払いきれない膨大な借金を子供たちに付け残すという国家財政の破綻を前にして、不幸な国民は、いったい誰に、どの指導者に自分たちの未来を託してよいのか途方に暮れていたのである。

そうした情況の中で小泉首相はそれまで誰も手をつけようとしなかった、「道路公団」や「郵政公社」の民営化という困難な課題に取り組もうとした。たしかに、これまでの首相職を担ってきた歴代の自民党の総裁の中では、誰一人、時代の声を聞き取る耳を持つものはいなかった。彼らに比べれば小泉首相は英雄としての要素を多く持っていると言える。

何ら為すすべを知らない、統治能力を失ったかのような政府や官僚たちに代わって、それまで永田町では変人と言われ、それまで権力の中枢を担ってきた田中角栄の派閥系統からは遠く位置して来た、群れない一匹狼のこの小泉首相に、自民党総裁選挙でようやく国民は希望を託そうとした。

 

しかし、小泉首相は党内の族議員や官僚たちの厚い壁に阻まれて、彼の構造改革路線は、道路公団や郵政公社の改革でも、妥協に妥協を重ねて来た。しかし、それでもなお、小泉首相の言ういわゆる「抵抗勢力」は、首相の妥協に満足せず、ついには、参議院で「民営化法案」を葬り去ることによって、ついには小泉首相の政権さえ潰しにかかったのである。

 

さすがにここに至って、小泉首相は「抵抗勢力」との妥協を断念せざるを得なかった。この点で、先の郵政総選挙は首相にとっては受身の選挙であった。もし、小泉首相の改革の意志が強固で、妥協を許さないものであったなら、国民の民意を問う総選挙は、もっと早い段階で行われ、自民党ももっと早く分裂せざるを得なかっただろう。

 

要するに私の言いたいのは、小泉首相が英雄としての資格を持つためには、もっと改革の意志が強固で、より妥協なきものでなければならなかったのではないかということである。

とはいえ、これまでの首相の中で、小泉首相ほどはっきりと国民の声を聴こうとした首相はいなかった。民主主義がたとえ一国の国是になったとしても、国民の意志を、民意を実現しようとする指導者が、英雄がいなければ、それは、建築されない家屋の青写真に過ぎない。英雄をもち得ない国民ほど不幸なものはない。小泉首相はそのことも明かにしたのではないだろうか。

いずれにせよ、小泉首相についての歴史的な評価については、もちろん私のような一個人の賢しらしい判断ではなく、後世と歴史そのものが行うだろうが。

 


民主党四考

2005年09月21日 | 政治・経済

(一)     民主党に対する失望

岡田民主党には失望した。岡田克也氏が党内に存在する旧全逓の影響色濃い労働組合の郵政民営化反対勢力を押さえきれなかったからだ。郵政民営化の党内の反対勢力をコントロールできないで、年金や医療の改革はできない。

 

最終的な問題は、民主党と自民党という政党組織の中で、そのトップである小泉純一郎氏と岡田克也氏の改革に対する意識が、どちらが強いものであるかという差である。改革に向けた信念の強度の違いである。指導者の意思、それが政党を規定する。

 

郵政民営化反対派の亀井氏や、また、それを支持する西尾幹二氏や中西輝政氏などの尊敬すべき極右系の学者たちは、小泉首相の改革の意思を「狂信的」だとして、貶めようとさえしているが、私はそうは思わない。小泉首相にせよ、竹中平蔵大臣にせよ、郵政民営化の日本の経済構造に対する、さらには政治構造の改革におけるその意義を理性的に認識したうえで主張している。その論理的な帰結をきちんと了解した上での主張であれば、それは「狂信」とは言わない。

 

論理を持って反論せず、あるいはできないからこそ、大衆の感情に訴えて貶めようとするやり口のように思われる。学者に相応しくないと思う。

 

民主党は将来の日本の二大政党の一翼を担うべき責任を託された政党だと思っている。経済構造において勤労者、消費者と、資本家、経営者との利害が矛盾し対立している以上、基本的に民主党は消費者、勤労者の利益を代弁すべきだと思う。しかし、今回の郵政民営化問題は、国家国民の普遍的な利益として、国益として追求しなければならないテーマである。そのことを岡田民主党は理解せず、労働組合の特殊利益を擁護する立場に終始している。これでは、国民は民主党を選択することに躊躇するだろう。

 

郵政民営化問題は、それが国家国民の普遍的な利益として認識できているか否かという認識能力の問題であり、また、意思として岡田克也氏の改革の意思と小泉首相の改革の意思のどちらが強いか、信念が深いかという問題である。一部の学者や反対派から『狂信的』と揶揄されるくらいの確信がなければこの改革はやり遂げられない。岡田氏にはこの『狂気』がない。

 (05/08/12)

(二)  郵政総選挙の真の争点

明日は総選挙の日。すでに8時を30分ほど過ぎているから、総選挙の立候補者たちも、すでに選挙活動を終えているはずである。

今回の総選挙はほとんど「郵政民営化」か「政権交代」かといった観点で論じられるが、そもそも、小泉首相が解散総選挙に踏み切らざるを得なかった経緯から考えるならば、今回の総選挙の真の争点は、自民党に巣食っている、国民全体の利益を犠牲にして一部の利益団体のためにだけ働く族議員を排除して、自民党が国民全体の利益のために働くことのできる国民政党として真に再構築できるかどうか、これが真の争点なのである。

郵政民営化についても、自民党が、国民全体の利益を考える国益本位の国民政党に改革されれば、おのずから実現できる。

 

今回の総選挙は、永年のあいだ一部の利益団体のために、とくに医師会や農協、銀行や一部の大企業に利益偏向して国民全体の犠牲の上に政治を行ってきた政治家や官僚たちの手から、国民全体の利益のための政治を取り戻せるかどうかの、国民の普遍的な意思に基づいて政治を統制できるようにする民主化促進のための総選挙である。

 

国民は、いまだ政府を自らの手で統制する能力を手に入れていない。族議員と官僚たちが、赤坂の料亭などで、夜な夜な酒を酌み交わしながら天下国家を牛耳る政治から脱却できるかどうか、自民党を国民政党に生まれ変わらせて、真の民主的な政府を国民ははじめて手にすることができるかどうかが今回の総選挙の真の争点なのである。

 

田中角栄の系列を引く経世会などに属する政治家が、先に橋本元首相や青木幹雄、野中広務元幹事長などが、日本歯科医師会から一億円の不明朗な政治献金を受けることによって公正な政治をゆがめてきたように、そうした旧態依然とした自民党政治をどれだけ変革できるか、これが今回の総選挙の根本的な争点である。これに失敗すれば、当然に郵政民営化も実現できない。利権政治脱却総選挙である。

 (05/09/10)

 (三)   民主党の大敗

今年の暑い夏をいっそう暑くした郵政総選挙が終わった。政治の季節が終わり、秋風とともに収穫を神様に感謝する祭りが始まる。

 

今回の民主党の大敗を受けて、当然に民主党党内に深刻な反省と総括が行われるだろう。それがどれだけ深く徹底的に行われるか、その能力が民主党にどれだけあるかそれによって、民主党の再生の程度が明らかになるだろう。「能力」「能力」「能力」、能力が全てである。政権を担うことができるのも、その能力があってのことである。

 

今回の民主党の敗北も、民意を洞察する能力がなかったゆえである。民主党の岡田代表がどれだけ主観的に政権交代を望んだとしても、能力なくして、実力なくして政権を担当することはできない。私も今回の郵政民営化に対する民主党の対応を見て、失望し批判した。

 

いわゆる保守派をもって自認する者の中には、民主党に期待を寄せない者が多い。しかし、私は二大政党論者として日本の政治のもう一方の一翼を担う政党として民主党が育つことを期待するものである。岡田代表が「政権交代によってしか本当に政治は変わらない」と言うのは間違ってはいない。自民党は今回の選挙で大きく変わるだろうが、それだけでは政治改革においても限界がある。

 

岡田元民主党代表は、今回の郵政解散総選挙で政権交代を実現できると信じていた節がある。前回の参議院選挙までの民主党の順調な「躍進」で、とくに比例区での得票率の逆転などから、そのように考えていたのかも知れない。

 

しかし、その結果はどうだったか。民主党の惨敗である。
岡田代表は有権者の意識を、国民の動向を、とくに特定の支持政党を持たない、いわゆる無党派層の意向を完全に読み切れていなかった。これは明かに岡田代表の民意の読み誤りであり、これではまだ一国の宰相たる資格はない。


小泉首相が今回の総選挙を「郵政民営化」を争点にしようとしたのに対して、岡田代表は財政再建や年金や教育、外交などいわゆる民主党自慢のマニフェストに基づく多元的な政策論争に持ちこもうとした。

 

しかし、民主党は政権を担おうとしながら、小泉首相の郵政民営化法案に反対を示すのみで、独自の対案を何ら示すことがなかった。選挙戦に入って、この点を自民党に突かれることによってはじめて、ようやく、預貯金額の八百万円、五百万円へ減額することによって郵便貯金の規模を削減するという姑息な案を提示した。さらには「最終的には民営化を認める」という全く受身の姿勢に終始した。


郵政民営化の問題では民主党は全く腰が定まらず、これでは国民を馬鹿にしていると思われてもおかしくはない。国民はこの民主党の姿勢に、特定郵便局の利害を代弁する自民党内の郵政民営化反対派と同じく、郵政労働組合の利害を代弁して国民全体の利益に背を向ける民主党の姿勢を明かに見て取ったのである。

 

確かに、年金改正などでは、民主党は他のどの党よりも内容のある政策案を提示してきた。マニフェストに示している政策案は評価してもよい。しかし、いくら優れたマニフェストで緻密な政策を誇っても、根本の民意を読み取るという核心を外せば、今回の民主党の大敗北に見るように、それこそ絵に描いた餅になる。

 

その根本とは何か。民主党が真に国民政党へと脱皮することである。指導者の優柔不断、無能力によって民主党はまだ脱皮し切れないでいる。これに対し、特定郵便局という利益団体を、集票マシンを切捨ててでも、国民全体の利益を──その多くはいわゆる無党派層と呼ばれる──主眼に置くことによって国民政党に脱皮しようとした小泉自民党は大勝を得た。


民主党が前回まで躍進できたのはなぜか。国民の意思は明かに利権派族議員の巣食っている自民党に代わることのできる政党を求めていた。その期待が民主党に向かって寄せられたのである。それが、この郵政民営化問題で、現在の民主党が国民全体の利益を優先する国民政党になりきれない姿を見て、国民は民主党に失望したのである。

 

今回の郵政解散総選挙は、民営化法案の参議院での否決をきっかけとした言わば突発的なものであった。小泉首相が記者会見で明らかにしたように、参議院での郵政民営化法案の否決を受けて、国民の民意を問うという大義のもとに行われたものである。小泉首相が20年来の確信的な郵政民営化論者であったのに対して、そして、一部の反対者からは狂人扱いもされたのに比べれば、明かに岡田民主党は腰が座っていなかった。この点を民主党は国民に見抜かれたのである。これが民主党の大敗の原因である。

 (05/09/12)

(四)  民主党の再建と政界の再編について

 


民主党の再建と政界の再編について

2005年09月18日 | 政治・経済

(一)

今回の総選挙では民主党は大敗した。小選挙区制では、得票率以上に獲得議席数に差が出る。自民党に敗北を喫したとはいえ、自民党と民主党との間に得票数でそれほど悲観するほど差があったわけではない。


再建のために、民主党のこれからはどのようにあるべきなのか。先に敗因の分析で明かにしたように、方向性としては民主党が根本的に国民政党へと脱皮することである。


国民政党に脱皮するとはどういうことか。少なくとも自民党は今回の総選挙で、小泉首相の意思によって従来の支持基盤であった特殊利益団体の関係を切り捨てて、国民全体の利益本位の立場に立つ政党になろうとした。自民党は特定郵便局という従来の支持母体の利益に反しても、郵政民営化という国民全体の利益の方向へと軸足を移したのである。


このように特殊利益団体の関係を切り捨ててでも、自民党は国民全体の利益本位の立場に立つ政党になろうとし、また国民もそれを認めて、自民党に勝利を得させた。


もちろん、いまだ自民党には農協や一部の大企業や銀行、金融会社という多くの特殊利益団体の支持を得ているが、少なくとも、今回の総選挙を見ても分かるように、これらの特殊利益団体と国民全体の利益が矛盾し、反する場合には、自民党は特定の利益団体の既得権益よりも、国民全体の利益を優先する国民政党の性格を明確にしはじめた。


これに対し、民主党はどうか。旧社会党勢力の生き残りを党内に色濃く残しており、その支持基盤である官公庁や大企業の労働組合などの特殊利益団体の意向を無視し得ないでいる。民主党はまず国民全体の普遍的な利益を、国益を最優先する政党に生まれ変わり、自民党と同じように、もし国民全体の利益と労働組合などの一部の特殊利益団体の利害が矛盾する場合は、躊躇なく国民全体の利益を優先する政党にならなければならないのである。国民政党とはそのようなものである。


今日労働組合の組織率が低下し、引き続き都市化が進み、無党派層が有権者のなかで比重を増しているとき、このような国民政党に変化しなければ、政権を担うことは難しい。そのためには何よりも民主党の指導者は、旧社会党の勢力を統制し、必要とあれば排除する意思と実力を持たなければならない。


それは、外交・教育・軍事などの国家の根本政策においては現在の自民党とほぼ同じ政策を選択することになる。


これはなにも政権を獲得するために政略的にそうした政策、思想を採用するのではない。現在の菅直人氏や岡田克也氏は左よりの思想に過ぎると思う。これでは国民は絶対に民主党に政権を託すことはできない。前原誠司氏などの、より右よりの(岡田氏らと比較してである)政治家が民主党を指導できるようにしなければならない。現在の自民党とほぼ同じような政策、思想を主体的に確立するのでなければ、国民政党になれず、したがって政権党にもなれないということである。もし、それができないのであれば、政権を担うという大それたことは考えない方がよい。

(二)

岡田民主党では国民政党に成りきれないのは、まず党内の支持基盤である労働組合に対して、小泉首相が特定郵便局という支持基盤を蛮勇をもって切り捨てたようには切り捨てられなかったことである。もう一つは、外交政策において、とくに岡田克也氏はアメリカとの関係について、60年、70年の安保闘争世代の影響を受けてか、意識的無意識的に反米的色彩が見え隠れする。まあ、それは言い過ぎであるとしても、国民政党の指導者は民主主義者であると同時に正真正銘の自由主義者でなければならない。


岡田克也氏は民主主義者であることは認めるるとしても、自由主義についての理解が不足している。そのためにアメリカという国の本質を捉えきれないのである。イラクの撤退を口にするなどというのは、自由主義者のする思考ではない。


世界に自由を拡大しようというアメリカの歴史的使命をもっとよく理解し、さらには、「自由」の人間にとっての哲学的な意義を理解しなければならない。さもなければ、アメリカ人がなぜ基本的にブッシュ政権のイラク侵攻を支持し、北朝鮮への人権法案を制定したか理解できないだろう。日本の民主党の指導者たちは、特にアメリカの建国の精神である「自由の理念」をよく理解しなければならない。自由主義国家であるイギリスと、アメリカの民主党が共和党の対イラク政策にほぼ同調している意味をよく考えるべきである。にもかかわらず、愚かにも岡田民主党は、12月の自衛隊のイラク撤退を口にしている。


対イラク問題や対米政策については小泉首相の選択は基本的に正しいのである。民主党は自民党と対イラク政策で基本的に同調することに躊躇する必要はない。たとい政策を同じくしたとしても、それが民主党の主体的な思想の選択であれば、全然問題はない。むしろ、民主党は、アメリカでは民主党も共和党も国家の外交や教育など国家の基本政策にほとんど差がないことを知るべきである。イギリスの二大政党の場合も同じである。民主党は自民党と国家の基本政策で一致することをためらう必要はない。


それにしても、日本の政治がもっと合理的に効率的に運営されるためには、どうしても、政党を再編成する必要がある。どう考えても、西村慎吾氏と横路孝弘氏が同じ政党に所属することなど本来ありえないのである。少なくとも政党が理念や哲学に従って党員を結集している限り。


日本の政党は理念や哲学に基づいたものにはなっておらず、民主党も自民党も一種の選挙対策談合集団になっていることである。これは日本の政党政治の最大の欠陥である。早く政界は改革されなければならない。


具体的には、自民党と民主党はそれぞれ再度分裂して、自由主義に主眼を置く政治家と民主主義に主眼を置く政治家が、それぞれの理念に従って自由党と民主党の二つの政党で再結集し、二十一世紀の日本の政治を担って行くべきだ。もちろん自由党は経営者・資本家の立場を代弁し、民主党は勤労者・消費者の利益と立場を代弁することになる。そして、自由主義と民主主義のバランス、両者の交替と切磋琢磨によって日本の政治を運営して行くのが理想である。もちろん、自由党も民主党も、両者とも、まず国家全体の利益を、国益を優先する国民政党であることが前提である。

(三)

教育、外交、軍事、社会保障などの国家の根本的な政策では、自由党も民主党も八割がた一致していてよいのである。また、そうでなければ、国民は安心して民主党に政権をゆだねることができない。民主党の新しい指導者たちは、これらの点をよくよく考えるべきだと思う。


岡田克也代表の辞任を受けて、後継者選びが民主党で本格化している。しかし、その経緯を見ても、民主党が、その党名にもかかわらず、日本国民を「民主主義」をもって指導し、教育できる政党ではないことを示している。


党代表の選出にあたって、選挙ではなく、どこかの料亭で、「有力者」(鳩山由紀夫、小沢一郎氏など)が話し合い(談合)によって、決定しようというのだから。

この一件をもって見ても、鳩山氏らの民主主義の理解の浅薄さが分かる。
民主党の幹部の体質の古さは、昔の自民党以上である。


民主主義とは、言うまでもなく、決して党内の個人の意見を画一化することではない。党の構成員の意見が異なるのは当たり前で自明のことである。むしろ、指導者は党員の意見が互いに相違して、議論百出することを喜ぶぐらいでなければならないのに、鳩山氏は、「選挙になると必ずしこりが残るから」という。


党内での多数決意見が組織の統一見解として採用されたからといって、個人は自己の意見を変える必要はない。少数意見の尊重という民主主義の根本が、分かっていないのではないか。


会議のなかの議論を通じて少数意見者に認識に変化があり、自らの意見を多数意見に変更するかどうかは全く次元が異なるのである。納得が行かなければ、多数意見に変更する必要はない。


またそれと同時に、少数意見の持ち主は党内で議決された多数意見には規律として従うという民主主義の最小限のマナーも弁えない者が、民主主義を標榜する民主党の中にいる。


組織としての党の決定に、規律に従うことと、個人の信条として多数意見に反対であることが両立するのでなければ民主主義政党であるとは言えない。この民主主義の基本さえ十分に理解されていないように思われる。だから、鳩山氏や小沢氏は党代表選挙を避けようとするのである。
これでは、民主党は国民に対する民主主義教育という重大な職責さえ果たせないだろう。


民主党は何よりも、識見、モラルともに卓越した真の民主主義者の集団であるべきであるのに、未だそうなってはいない。民主党員が、とくに、その指導者たちが民主主義の思想と哲学をさらに研鑚され、民主党を真の民主主義者の集団として自己教育を実現することによって、国民にとって民主主義者の模範となり、尊敬を勝ち取れるように努めてほしい。そうなれば国民も安心して民主党に政権を託すようになるだろう。


また、自由党の党員もまた、自由主義者として自由の哲学をしっかりと身につけ、国民の幸福にとって不可欠な自由の護民官として活躍することである。日本の政治は一刻も早く、自由党と民主党の二つの政党で交互に担われるようになることを願うものである。国民もこの「政治の概念」をしっかりと理解し、それが実現するように行動すべきだと思う。

05/09/13


参議院の廃止あるいは議員定数の削減について

2005年09月06日 | 政治・経済

衆議院で五票差でかろうじて可決された郵政民営化法案が、参議院では否決された。日本の政治体制は二院制をとっており、日本国憲法の規定では衆議院は参議院に優越するとされているが、法案成立の再可決要件を衆議院議員の三分の二以上としているために、今日のように多様化した民意のなかで、実際には再可決はほとんど不可能となっている。そのために、本来に期待された衆議院の優越性が保証されず、参議院が実質的に法案成立に重大な障害になりうるという事態が生じている。


日本国憲法が二院制を採用しているのには、参議院によって民主主義の弱点とも考えられる衆愚政治化、「」政治化を予防し、良識と理性を政治に働かせるためであったと考えられる。


しかし、戦後60年経過して、そのような本来の意図から離れて、事実として参議院はいわゆる特殊な利益団体や官僚の利権を代弁する「族議員」の巣窟になってしまっている。あるいは、そこまで言わないにしても、少なくとも、かっては緑風会などの存在によって良識の府であるとされた参議院が、今回の郵政民営化法案の否決などに見られるように、参議院が本当に「良識の府」であるのか、参議院が国民の一般的な意思を真に民意を代弁する制度であるかという、民主主義の根幹に対する疑念が生まれている。


そこで小泉首相は民意を問いなおすために衆議院解散という手段をとらざるを得なかった。そのために要する選挙費用や時間的な損失は計り知れないものがある。しかも、たとえ民意の多数が確認されたとしても三分の二以上の多数を獲得しないかぎり、再度参議院で法案が否決されれば、少なくとも、次の参議院選挙までは、法案の成立は期待できないのである。こうした事態は肯定されるべきか否か。


今回の郵政民営化法案のように、国家の迅速な意思決定が要請され、緊急の国家的な課題についての法案成立が求められているときに、そして、国民の意思が多様化している現代において、参議院と衆議院で表決が食い違ったときに、衆議院での三分の二以上の再可決という要件は、国政運営上の重大な障害となる。深刻な制度的な欠陥、憲法上の不備だと思う。

 

衆議院であれ参議院であれ、国会議員が民意を正しく判断しているかという問題、あるいは、国会議員と民意が異なっている場合、「民意」といわゆる「選良と呼ばれる国会議員の判断」のどちらが正しいのか、また、その是非の判断の基準は何かということがここで問題となっている。


確かに、一般に国会議員は「選良」として専門的な見識と高い倫理性を持っているべきものとされる。今日の社会制度は、複雑で専門的な学識と経験をもった専門家でなければ対応できない場合も多い。


しかし、日本の一部の「官僚」や「族議員」を見ても分かるように、本来、国会議員は国家全体の利益を、国益を追求すべきであるのに、自覚的にか無自覚的にか、国益の犠牲にして、一部の特殊な利益団体の利益を、あるいは、自己の利益を追求するということも起こりうるのである。間接民主主義においては、こうした国会議員の腐敗ということはつねに必然的に生じる。


こうした問題を合理的に解決するためには、政治制度はどうあるべきか。このような問題を反省するとき、民意の尊重という点と現代政治の政治的決断の緊急性からいっても、現行の憲法第五九条第二項の「三分の二以上の可決要件は明かに不合理である。


多くの人がすでに論じているように、「三分の二」は「過半数」にそして、「参議院の廃止」か、少なくとも「参議院定数の半減」が、合理的で効率的な政府の確立に必要な改正点ではないだろうか。

今後の憲法改正においても、参議院の廃止や国会議員定数の削減などとともに大いに議論されるべきテーマだと思う。


民主主義の人間観と倫理観──より良き民主国家建設のために①

2005年07月21日 | 政治・経済

 

民主主義の人間観と倫理観──より良き民主国家建設のために①

民主主義の倫理観や人間観について述べようとすると、「民主主義に倫理観や人間観があるのですか」と問われたりする。もちろん、他の多くの重要な社会思想と同じように、民主主義にも、人間観や倫理観は含まれている。結論からいって、歴史的にも社会的にもこれほど重要な役割を果してきた民主主義のような思想に人間観や倫理観が含まれないと考えるほうがおかしいのではないでしょうか。こんな質問を受けること自体、日本の民主主義の伝統の浅さや、学校での民主主義教育の貧しさを推測させるものと思います。

民主主義とは、語源からすれば、民衆の権力、人民の支配と言う意味ですが、起源としては、古代ギリシャが考えられています。しかし、現代の民主主義は、古代ギリシャではなくフランス革命とイギリス・プロテスタンティズムに直接の根拠を持つと考えられます。そして、ことばは同じ民主主義であっても、フランス革命の人民主権の色彩の強い政治的民主主義と、個人の尊重や社会構成員の権利の平等を強調するプロテスタントの社会的民主主義は区別されるべきでしょう。

民主主義とは、基本的人権の尊重や法の下の平等、納税や兵役の義務などといった個人と共同体の関係のあり方を規定する倫理観や人間観の体系といってよいと思います。この民主主義は、経済的弱者や被抑圧者を母胎とする思想であるいえます。今日の社会に当てはめれば、勤労者や一般消費者の論理を代弁する価値観といえます。

それに対して、 自由主義とは、簡単に定義すれば、人間の欲望を無制限に追及することを肯定する人生観、倫理観といえます。この思想は、歴史的には産業ブルジョアジーの考え方として登場したものであり、したがって、この主義は、今日の社会では、いわゆる資本家=生産者の論理を代弁することになります。

こうした自由主義観や民主主義観は、これらの思想の母体となった特に欧米では自明の前提だったのではないでしょうか。そして、逆にこうした本質的な理解を欠いたままに、浅薄な議論が行われてきたことが、日本で「民主主義」の信用を貶めることになったのではないでしょうか。不幸なことだとも思います。

ところで、民主主義の倫理観についてですが、これは日本国憲法においても「納税の義務」、「教育の義務」、「労働の義務」「生存権や財産権の保障」などに現われています。これらは共同体の個人に対する義務や個人の共同体に対する義務を規定したものです。納税の義務や労働の義務や教育の義務は比較的にわかりやすいと思います。国民の国家や共同体に対する倫理的義務を示しています。封建時代の年貢制度などと比較されると民主主義の倫理観がどのようなものであるかわかると思います。

儒教道徳を根底にした封建社会の倫理とは違って、民主主義には「個人としての尊重」や「基本的人権の尊重」や「法の下に平等」「他者の自由の尊重」といった人間観、倫理観が根底にあります。これらの権利義務は強制によるものではなく、民衆の多数決原理によって自ら制定した法律に基づく自発的意思によるものです。 

中でも、民主主義国家の国民の国家に対する倫理的な義務を規定した納税の義務などについては、日本では、ほとんどが「源泉徴収」によって行われているので、国家や公共団体に対する国民の倫理的な義務は自覚されにくくなっていると思います。全国民が一律に「収入の10パーセント」を納付することなど、税制を根本的に簡素化し、また源泉徴収制度も廃止し、国民の自主的な納付制度に改革すれば、国民の民主的な自覚も少しは高まるかもしれません。 

そして、国民の国家に対する倫理的な義務の最たるものである「兵役の義務」があります。しかし、日本国憲法には、その成立の特異性ゆえに、「兵役の義務」については規定されていません。民主主義にとってあまりにも自明な「兵役の義務」が規定されていないのです。本来、民主主義国家では、国民は何よりも、国家国民のために、自ら国防の任務を負うのです。

                
封建社会や絶対主義国家では、武士や軍隊が主君である大名や天皇のために国防の使命を負いましたが、民主主義国家では国民全体が国民自身のために、その責任を担います。国防のために兵役の義務を果すことは、民主主義国家の国民にとってはあまりにも自明のことです。兵役に従事し、身命をとして国家国民のために奉仕すること、これ以上の倫理的義務があるでしょうか。封建社会や絶対主義国家には、国民全体にこうした意識はありません。そして、現在の日本人の「民主主義」には、この倫理観が完全に欠落しているのです。

民主国家の事例としてスイスが取り上げられますが、スイスの国防の実体は、「軍事国家」といえるほどのものです。これが、歴史的に典型的な民主主義国家の実際です。「徴兵制」(正しくは志願制兵役)や「愛国心」などというと、いわゆる「右翼的な思想」の専売特許のように思われていますが、論理的に考えて、民主主義国家の国民の愛国心ほど強いものはありません。もしそうでないとすれば、その国家は名目はとにかく、実質的には「民主主義国」ではないのです。なぜなら、民主主義国家であるほど、その政府は、国民に奉仕する存在となり、また、その国家は一般国民にとって暮らしやすい幸福な国になるからです。国家や政府からの恩恵を十分に自覚している国民は、なにも政府から強制されることがなくとも、もっとも愛国的な国民になります。

また、民主主義は伝統文化を尊重するものです。その倫理観からも、私たちの祖国と祖先の、動かすことのできない過去の伝統文化を、その宗教や習俗を尊敬し愛することのない民主主義があるのでしょうか。民主主義の原則が、単に空間的にだけではなく時間的にも歴史的にも貫かれれば、当然の論理的帰結としてそうなります。「戦後の民主主義」が、日本の伝統文化を破壊しているというのは、民主主義の思想の本来的な欠陥から来るのでしょうか。あるいは、民主主義を、浅薄にしか理解しなかった国民の、特に自称左翼の責任でしょうか。 

こうした民主主義観が真に基礎を得るには宗教が必要なのですが、残念ながら、日本ではその基礎を欠いていたといえます。宗教抜きの民主主義は、今日の日本のような「欲望民主主義」「悪平等民主主義」になりがちです。明治の指導者は、民主主義の人間観や倫理観を拒絶して、あるいは理解しないで、天皇制や「教育勅語」などによって、当時の道徳的危機を打開しようとしました。その結果が、民主主義国イギリスとの同盟ではなく、ヒットラーとの同盟となったのだと思います。この歴史的教訓を、それは歴史的必然と言ってよいと思いますが、深く学ばないと、かってのドイツと同じように、再び同じ結果を招くことになると思います。                               


特に、日本の民主主義は、太平洋戦争による敗北を契機に日本国民に導入されたために、多くの点で、歪曲され、浅薄化していると思います。というよりも、民主主義の概念が、いわゆる左翼から右翼まで混乱しています。イギリス・プロテスタンティズムを基盤とする「社会的民主主義」については、古代ギリシャ民主主義やフランス革命の「政治的民主主義」と区別するために、これを「共和主義」と呼んだほうがよいかもしれません。いずれにせよ「民主主義とは何か」という本質的な論議と認識をいっそう深める必要があると思います。

 

そして、民主主義には、多くの伝統的な宗教や倫理道徳にも共通する、もっとも普遍的な人間観や倫理観が含まれているのですから、国民はこの民主主義の倫理観、人間観によって自分たち国民を教育すればよいのです。確かに、民主主義には、「あなたの父母を敬え」とか「殺すなかれ」とか「盗むな」といったこと細かな倫理規定まで含むものではありませんが、しかし、基本的人権の尊重とか、個人の尊厳、少数意見の尊重というような根本的な倫理観は含まれているのです。 

そうして国民全体の民主主義についての認識を高め、民主主義によって自己教育を深めて行きながら、同時に、民主主義政治が衆愚政治や全体主義に反転することを防いでゆく必要があるのですが、それには、民主主義の概念を国民全体で深く体得しつつ解決して行くしかないと思います。これはプラトン以来の人類の困難な課題なのかも知れません。ニーチェの思想やマルクス主義などの「全体主義」も、その解決法が正しいかいなかはとにかく、端緒は衆愚政治に対する抵抗でした。

 
歴史的には民主主義はプロテスタント・キリスト教の論理的帰結、もしくはその完成、もしくはその世俗化であるともいえます。ですから、そこには当然、キリスト教の倫理観、人間観が内容的に保存されているのです。ですから、民主主義は、宗教という形式を止揚した「宗教」ともいえます。(宗教をどのように定義するかによりますが)この点については、 私は実証的な歴史学者でもないので、論理的に推測するしかないのですが。とはいえ、民主主義の倫理観や人間観は、最も普遍的で、多くの伝統的宗教や倫理道徳の最大公約数としての意義ももっています。

 
最後に、 さらに逸脱するかも知れませんが、 大学や教育者、政治家、公務員、そして国民自身の責任として、学校教育における正しい民主主義教育の必要について主張したいと思います。最近一部の人には評判の悪い、古色蒼然とした「民主主義」ですが、そのせいか、人間観や倫理観としての観点からの民主主義教育の重要性が自覚されてもいず、実行もされていません。これは学校で「道徳の時間」に民主主義の訓練がほとんど行われていないことにもあらわれています。

共産主義者の「民主主義観」に対する大衆の健全な反感が、民主主義の健全な育成の障害になったのかも知れません。共産主義者の「唯物論人民民主主義」は、個人としての人格を尊重せず、学問、宗教、思想信条の自由を尊重する精神を欠き、自己の思想を相対化して反省することを知らない、全体主義的で狂信的なものだからです。

いじめの問題も学力低下の問題も、「クラス共同体」の問題として、子供たち自身が民主主義の精神とルールに従って、自主的に主体的に問題解決に取り組むための民主的な訓練の機会として活用すべきなのですが、指導者や学校に、そのような問題意識がありません。単に学校や教師自身の問題として、あるいは、その生徒個人の問題として扱われています。その結果、子供たちの倫理観も人間観も深まりません。「クラス共同体」の問題として、社会や共同体の倫理の問題としてクラス全体で主体的に取り組み解決しようという自覚も姿勢も欠いています。今日のこのような学校現場や、また日本社会全体としての一般的な道徳的危機を、正しい民主主義の人間観や倫理観の普及と徹底以外にどうして正しく解決できるでしょうか。

そして学校教育の現場では「政治活動」と「政治教育」とが混同され、はっきりと区別されてきませんでした。「政治活動の禁止」という名目で「政治教育」まで否定され行われてこなかったのです。確かに、学校教育においては、特定の価値観にしたがった「政治活動」は完全に禁止される必要があります。しかし、「政治教育」は、つまり民主主義の制度とその精神、その倫理観と人間観はあらゆる場面で教育され、民主主義の能力は訓練される必要があります。

いじめの問題や、生徒自身の学力の問題なども、生徒自身の参加と自治の精神を活用して、民主主義的に解決する能力を高めるよい機会になります。そのためには、なによりも特に学校関係者が 民主主義の制度と精神を、実際に活用し運営する「能力」として普段に高めてゆく必要があると思います。

学校でのこの民主主義教育の充実が、今日の「郵政民営化問題」や北朝鮮や中国などの「非民主的国家」との外交のあり方、「北朝鮮の拉致被害者の救済」といった、政治的な課題に対する国民の問題解決能力を高めることになります。年金問題や少子高齢化問題といった政治的課題についての、国民の判断能力や問題解決能力を高めることになります。

そして、今日の政党政治を、利権がらみの錯綜し閉塞したものから、もっと合理的なものに再編して行く必要があります。先にも述べたように、今日のいわゆる「市民社会」は、基本的に生産者、資本家と消費者、勤労者の利害の対立と調和の上に構成されているのですから、生産者、資本家の利害を代表するのか、それとも、消費者、勤労者の利害を代表するのか、政治家にその旗幟を鮮明にさせ、それぞれの旗幟にしたがって、自由党と民主党に結集させ、民主主義の原理にたつ二大政党が国家と国民のために、政治の質を競いあわせるようにするのです。そのためにも、現在の自由民主党は、解体されて、自由党と民主党になり、現在の岡田民主党をも巻き込んで、今一度政界が再編成される必要があります。

そして、生産者、資本家の利益を代弁する自由党と消費者、勤労者の利益を代弁する民主党のそれぞれが国民のための政治を目指して競争し合うことです。
それが、劣悪な政治という長年の不幸から国民を救うことにもなると思います。

 2003/08/20