ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

事故汚染米問題と日本の農業政策、あるいは霞ヶ関行政

2008年09月18日 | 政治・経済

 

汚染米の早期売却を指示 農水省、各地方事務所に(共同通信) - goo ニュース

 

三笠フーズという会社が、中国から輸入した事故・汚染米を、さまざまな企業や卸会社に転売したことが問題になっている。本来なら、この「事故米」なるのものは、食料品として消費者に供給されてはならなかったものである。転売先には病院や学校まで含まれ、給食や誕生祝いの赤飯にまで供されたという。また、その他にも焼酎や和菓子の原材料にも使われたらしい。このような事件に見られる、太平洋戦争敗戦以降の日本国民の道徳的な退廃は、国民の間に国家意識のほとんど失われてしまっていることとも無関係ではない。国家意識なくして真正の倫理もないからである。

日本において毎回繰り返される商品偽装・偽造の問題の一つではある。人間から悪の問題を切り離すことはできないとは言え、現在の日本にはあまりにもこうした不正問題が多すぎるのではなかろうか。人間性悪説に立って、犯罪を誘発することのないような行政の制度設計が望まれる。これらの偽装偽造犯罪は、個々人が魔にとらわれて偶然に起こす犯罪であると言うよりも、むしろ、本質は行政の構造問題であると考えた方が正しいと思う。

こうした一連の問題の根本に政府及び行政官庁の公正さとその管理能力の問題が存在しているからである。公務員が国民や消費者のサイドに立って、すくなくとも生産者と消費者の間の中立な審判者として監督管理するのではなく、生産者の側に立つことによってみずから利得をはかり公正であるべきルールを歪めている。

汚染米のみならず、教育の汚染もある。大分県の教育委員会を舞台とする贈収賄汚職の問題で、昨日逮捕された、県教育委員会の教育審議監、富松哲博容疑者などがその端的な例である。もっとも公正であるべき教職員の人事選考で、能力ある合格水準に達した教職志望者を排除して、校長や教頭らの子息や姻戚関係者に縁故で下駄を履かせて不正に合格させる。富松某らの「教育審議監」はいったい何を「監査」していたというのか。この問題もまた政治家の二世議員を輩出する同じ文化的土壌の上に開いた醜く腐った花である。

こうした問題はいずれも、政府や行政の管理行政能力に大きく関係しているように思われる。以前にもたびたび取り上げられたC型肝炎訴訟問題で、厚生労働省の役人たちがフィブリノゲン製剤を投与されC型肝炎を発症した患者のリストを隠匿していたことがあった。また、防衛省の守屋武昌前防衛次官が出入りの業者からゴルフ接待を受けていた。その構図はまったく同じである。公務員や官僚が「国家」や「公共」などの普遍的な利益のために私心なく働くという意識はとっくに失われ、本来の「官僚」の精神もない。地位と職権を自らの私的利害のために歪めるという構図のみが残されている。

政治家や高級公務員の定数を減らし、これらを名誉職として、公的な「Noble Oblige」の高貴な公的精神をもった者だけが従事できるようにならなければだめで、現在のように、私益をむさぼる政治家や官僚を国民が馬鹿にするようでは、誰も幸福になれず世界の笑いものになるだけだ。

今回の事故米・汚染米の問題では、「三笠フーズ」のような地方の零細企業だけが人身御供にさせられている。例によってマスコミも表面的な「小さな悪事」のみを大げさに取りあげることによって、本当の真実から、「根底にある大悪」から国民の目を逸らす役割を担っている。マスコミの無力と退廃もともに問題にしなければならないのではないだろうか。

今回の事故米・汚染米の問題の背景には、日本の農業行政の根幹的な問題がからんでいる。それは国内農業の国際競争力の強化や改革に取り組もうとせず、じり貧に陥りつつある現在の農政を糊塗し続けているという自民党政府の無為無策という現状がある。

日本政府は国内農業の保護を図るために、農産物の貿易自由化に背を向けて、国内米作農家の保護を優先するという名目で――それは自民党の農林関係族議員や農協の利害と一致しているのだが――そのために、ウルグアイ・ラウンドの交渉で一定量の米の輸入を義務づけられることになった。その結果として、外国との自由な競争によることなく、汚染米や事故米の温床となるような米を中国やベトナムその他の国から一定の割合で輸入せざるをえなくなっている。そのことこそが諸悪の根元なのに、その問題の根幹にほとんど誰も触れようとせず、枝葉末節の「三笠フーズ」という中小企業のバッシングに終始している。

もちろん、この会社の不正行為を見逃せるものではないが、一方で農林水産省は、400社にのぼるこの事故・汚染米の転売先企業を公表することによって自らの作為不作為の監督責任をカモフラージュしようとしているように見える。そうした表面的で現象的な事柄に眼を奪われて、誰もこの問題の根幹にある中央集権的な農業政策、監督官庁体制の問題を論じようとしない。

現在の中央官庁が行っているような中央集権的な北海道から九州沖縄に至る細々とした輸出入業務などの管理監督実務は、地方政府に本来任せるようにすべきだろう。そして地方政府の間で消費者、国民のために競争を行わせて、中央官庁としてはそこに不正取引が行われていないか、安全衛生上に問題がないかなど管理監督業務に徹するだけでよいのである。

「市民社会」と「国家」というそれぞれの空間を峻別し、原則として「市民社会」の自治の問題は「地方政府」に任せ、「中央政府」は国防、治安、司法など、真に普遍的で根幹的な問題にのみ関与して、政治と行政における「地方」と「国家」の役割分担を(東京も「地方」にすぎない)合理的かつスリムなものにして行く必要がある。それにしても国家のビジョンを明確に語れる政治的な指導者がなぜ現れないか。連邦国家を建設するくらいの改革がなければ、現代日本の抱える根元的な矛盾は解決されない。

今日のような情報や交通の発達している時代に、北海道から九州まで各都道府県の細かな輸出入の実務にまで口を挟み、また、そこから官僚としての利得をかすめようとするから、問題が頻発して絶えることがないのである。

現在の官僚行政から不正と無理無駄の非合理を排除して行くためにも、道州制の構築を全国民の当面の主要課題として行く必要がある。現在の農業や教育行政のように、遠く離れた東京から、大阪や九州の農業や教育にまで細々と容喙することによって利権を手放そうとしないから問題が起きるのである。現在の中央官僚が握っている権限を大胆に地方に移譲して、地方政府の自治能力の養成訓練を始めなければならない。まともな地方政府の建設がいそがれるのである。

またそれは単に農林水産省のみにとどまらない。厚生労働省、文部科学省、国土交通省などすべての省庁について言えることである。今日の日本の統治行政機構は明らかに至るところ制度疲労を来している。

とはいうものの、その一方で将来の地方政府の母胎ともなるべき、現行の都道府県行政の実態といえばどうか。大分県の教育委員会の教育審議監、富松某容疑者や大阪府の第三セクターの赤字や20億円にのぼる裏金問題に見るように、現在の霞ヶ関中央政府以上に惨憺たるものである。

 

 

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戦争はなぜ起きるか

2008年07月25日 | 政治・経済

 

hishikaiさん、丁寧なご説明ありがとうございました。「日本の伝統的な土俗的天皇信仰」が、やがて西欧列強との対決や日米開戦に帰結するというあなたのお考えの趣旨は理解できたと思います。

「日本の伝統的な土俗的天皇信仰」が、「戒律を廃した法の不在という「思考形式」」として拡大し普遍化し、やがてそれが漱石や伊藤博文らの天皇観をも淘汰してゆき、国民大衆の狂信的な排外主義として拡大し帰結したためだと理解しました。

ただ、このあなたの見解は、「国民大衆の下層からの強力な天皇信仰」が日米開戦の主要因と見ているらしい点では、日本国憲法の前文でも主張されているような「政府の行為によって」「再び戦争の惨禍が起こることのないやうにする」という戦後のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が公式見解として打ち出している認識とは異なっているようです。

GHQが自らの憲法草案に織り込み、憲法の前文で厳かに宣言しているように、(それは単なるレトリックなのかも知れませんが)、日米開戦の主要因は、国民大衆にではなく政府(の指導者たち)にあると見ているように読むことも出来ますから。

日米戦争や日中戦争のように、「戦争がなぜ起きるか」という問題はそれほど難しい問題ではないと思います。それはちょうど、蛇や鷹などの生物が互いの生存を賭して戦うのと本質的には変わらないと思います。人間も含めイヌやブタなどの動物たちと同じように、現代の国民国家も、それぞれ本質的に排他的な独立した個体だからだろうと思います。

だから、戦争の本質を、国民大衆や哲学者、政治的指導者、好戦的な軍人などの、国民国家を構成する要素に見るのではなく、「国民国家」の存在自体が本質的にもつ論理に見るべきだろう思います。確かに、国民大衆や哲学者、政治的指導者、好戦的な軍人などは、国民国家を構成する重要な要素だと思いますが、それぞれの運動は本質的に偶然的です。ただそれらの集積が一つの必然として戦争が発生するのだと思います。

だから、hishikaiさんのように「伝統的な土俗的信仰習慣」の筋から日米開戦を見る見方も、私のように、国民の民主主義の能力から日米開戦に至る筋を見る見方も、かならずしも間違ってはいないと思います。戦争の要因は単一にとどまらず、さまざまの偶然的な複合的な要因が集積して、その結果、国家自体の論理として必然的に戦争が生じるのだと思います。

ただ、今のところ、その中でも、国家を構成する「市民社会」の論理、「人間の欲望」の論理、マルクス流に言えば、「資本主義の論理」がやはり、近現代の戦争の論理をもっともよく説明するのではないかと考えています。

                                       そら(ANOWL)

 

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自由民主党の解体と戦後日本の終焉

2008年04月29日 | 政治・経済

補選敗因は「後期高齢者」…でも制度見直しせず 町村氏(朝日新聞) - goo ニュース

今回の衆議院山口県第二区補欠選挙における自由民主党の敗北は、歴史的に大きな意味をもつものと考える。また、日本国民はそれを歴史的に意義のある転換点として行く必要がある。

どのようにして、この補欠選挙の民主党の勝利を、歴史的な転換点の始まりとして行くべきか。それは、この選挙を自由民主党の政党としての崩壊の始まりとして行くことによってである。

自由民主党こそが、日本の戦後政治の大枠を作ってきた。良くも悪しくも、この政党が太平洋戦争の敗北後の日本の命運を握ってきたといえる。たしかに、吉田茂以来、戦後の日本の平和を実現し、経済大国に作り上げてきたその功績は正当に評価されるべきだろう。しかし、また現在に至るこの政党による官僚政治の行き着いた否定的側面こそが、日本社会の行き詰まりの根源になっている。この政党を崩壊させることによって、真実の意味で日本の戦後体制を壊滅させ、日本国の再生の契機として行く必要がある。

戦前の翼賛体制主義者と右翼暴力団によって創設されたこの偽善的な自由民主党の崩壊は、日本国にとっては真実の自由と民主主義の出発点になる。この自由民主党が崩壊することによって、現在の小沢民主党の解体をも巻き込んで、日本の政界は再編される必要がある。それによって、日本の政党政治が、従来の道路族にみられるような利益談合型政治から、自由と民主主義を追求する理念実現型政党政治へ転換して行かねばならない。そのためにも現在の政界は、自由主義者の結集する自由党と民主主義者の結集する民主党へと分裂し、また再編されなければならない。

それと同時に、敗戦後のアメリカ統治による戦後日本の東京裁判体制をも哲学的に清算し、戦前を引きづった官僚政治国家体制の根本的な改造も実行して行かなければならない。東京裁判のような戦勝国、占領国の手による裁判ではなく、日本国民自身の手によって戦前の政治家、軍人たちの日本国民に対する過失と犯罪を法廷の場で検証することによって、日本国民自身が太平洋戦争を今一度総括し清算してゆく必要がある。

日本国の国家体制を大日本帝国憲法下の戦前の体制に還元し、戦後にアメリカによって実行された民族解体、国民意識のアメリカナイズ化、植民地的政治体制を清算して、日本人自身の手による主体的な国家改革の端緒として行く必要がある。それによって醜悪な戦後政治体制を清算し、真実の自由民主主義国家体制がどのようなものであるかを、日本国民に実感できるものにしてゆかなければならない。

 

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『法の哲学』ノート§1

2008年04月25日 | 政治・経済
『法の哲学』ノート§1

この『法の哲学』の緒論で、まずヘーゲルは「哲学的な法律科学」が考察の対象としているのは、「法(Recht)=正義」の「概念(Begriff)」、およびこの概念が現実に具体化してゆくその過程であることを明らかにする。

この節の中の補注で、ヘーゲルはイデー(理念)を概念と言い換えている。科学の対象である概念は、普通に人々が考えているような「悟性規定」ではなく、この概念は現実において具体化して行くものである。この概念をわかりやすく説明するために、ヘーゲルは心と身体をもった人間という表象にたとえる。概念が人間の心であるとすれば、概念の具体化されたものが身体にほかならない。

心も身体も同じ一つの生命ではあるが、しかし、心と身体は区別されてもいる。

またさらに、概念とその現実化、具体化を種子と樹木にもたとえている。
概念とは樹木の全体を観念的な力として含んでいる萌芽(種)であり、それが完全に具体化されたとき、現実の樹木全体になるのである。人間の概念は心であり、樹木の概念が種子である。

それに対して、法の概念は自由であるとヘーゲルは言う。そして、この法の概念である自由が具体化され実現されたものが、現実の国家であり憲法であり民法や刑法などの法律の体系である。ヘーゲルの「法の哲学」は、この自由の概念が具体化され必然的に展開されてゆく過程そのものを叙述し論証してゆくものである。

やはり、ここで注意しなければならないのは、ヘーゲルにおいては「概念」という用語が、普通に一般の人たちに使われているような「単なる悟性規定」の意味ではなく、やがて萌芽から樹木全体にまで進展してゆく可能性を秘めた観念的な種子として、理念と同義に使われていることである。

そして、それが現実に具体化されて存在と一つになった概念、それが理念である。だから理念とは単なる統一ではなく、概念と実在の二つが完全に融合したものであり、それが生命あるものである。
 
 
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樋口陽一氏の憲法論ノート(1)

2008年03月31日 | 政治・経済

樋口陽一氏憲法論ノート(1)

憲法学者の「権威」である樋口陽一氏が、日本人の人権意識の確立に大きな貢献をされていることはたかく評価しうるものです。しかし、それでも氏の人権論は、国家論との関係でいささか問題を感じるところがあり、樋口氏の論考について出来うる限り検証してみたいと考えています。単なるノートに過ぎないですが、いつか、この検討をまとめられる日が来ると思っています。そして、何よりも樋口氏の憲法論の検討を通じて、現行日本国憲法の問題点を検証してゆければと思っています。多くの方がこうした議論にも参加していただければと思います。

参考資料

 樋口陽一 争点と思想(樋口氏の憲法観と論点がまとめられてあります)http://www.geocities.jp/stkyjdkt/issue.htm

(樋口陽一氏の文章)>>マークはその引用個所。

> 

「おしつけられた憲法」という言い回しは1945-46年の具体的な制定過程についてだけでなく、立憲主義の内容そのものが少なくとも17世紀以来の西欧文化によって非西欧文化圏に「おしつけられ」ているのだという抗議を含意している。

 日本の改憲論はまだ近代立憲主義の枠内での可能な複数の選択肢を提示するという段階までには 達していない。

 主権原理の転換と政教分離の導入による神権天皇制の存立根拠の否定と神権天皇制と結合した皇軍そのものの解体の立憲主義にとっての不可避性、その必然的結びつきを解いてよいほどまでに「戦後」が終わったか。 「南京事件は無かった」「大東亜戦争は解放戦争だった」という言説が大きな抵抗にあうこともなく行われている日本はまだ「戦後」を終えることができないでいる。

 憲法論の内部問題としても思想・表現の自由とそれを制度的に担保すべきはずの司法の役割が自由の支えとしてのとしての非武装平和主義をとりはずしてよい程度まで成熟したか。 憲法九条は国家の対外政策の条件というより自由の条件として絶対平和主義を説いている。

 戦後日本で憲法九条は社会全体の非軍事化を要請する条項として批判の自由を下支えする意味をもつ

 第九条を争点の中心とする日本国憲法は戦後日本にとって個人の尊厳を核とする「近代」を日本社会が受容するため必然のもの。

 西洋近代の人権=立憲主義は自国の総力をあげた戦争に対してもそれを「汚れた戦争」として弾劾する、精神の独立と表現の自由を可能とするものであった。(アルジェリー・ベトナム反戦)しかし戦争そのものを否定するものではなかった。

 憲法九条はそのような西洋近代の内側で個人の尊厳をつきつめる観点から批判する意味を持っている。憲法九条の理念を個人の尊厳の核心とする近代立憲主義は自らに必然のものとしてあらためて 選び取り直すことが求められている。

ここでの樋口氏の論考に対する批判:

大学で説教する一個の憲法教科書のなかで理想論を語るのであれば、どんな理想を語っても許されるだろう。しかし、一国の、しかも諸外国との排他的な諸関係におかれている現実的な国家における憲法のなかでは、一国の憲法のなかで理想論のみを語って現実を没却することは、国民に対する責任の放棄以外のものではない。樋口氏が「戦後日本で憲法九条は社会全体の非軍事化を要請する条項として批判の自由を下支えする意味をもつ」というとき、彼は、国際的な諸国家間のさまざまな諸関係の葛藤のもとにおかれている日本の現実を忘れて、実現される見込みもない「自由の条件として絶対平和主義」の空想を語って反省することもない。

自国の戦争に対する批判は、たとえ、現行憲法の第9条がなくとも認められるべきであることはいうまでもない。しかし、だからといって日本国民の個人的な自我の弱さや批判的な精神の弱さを、現行憲法第9条によって補足しようというのは、筋が通らない。

自国の国家政策に対する国民自身の批判的な精神の確立についての問題は憲法第9条の条項とは切り離して議論されるべきである。

一般に樋口氏の論考に感じられる問題点は、理想主義的な憲法学者としての氏の主張はとにかくとしても、それをストレートに、国家の現実の憲法の中に持ち込もうとしていることである。現在の世界史の段階では、国際社会に信頼して(国連に信頼して?)、そこに自国の安全の保障を求めようとする現行日本国憲法の前文の精神の空想性とその現実的な帰結こそが批判的に検証されなければならないのではないだろうか。

憲法九条は国家の対外政策の条件というより自由の条件として絶対平和主義を説いている。

ここにもすでに樋口氏の限界が出ている。樋口氏は、憲法が単なる憲法学者の理想を語る作文でもなければ、単なる哲学的作品であってはならないという基本的なことすら忘れてしまっているようだ。憲法学者の私的な研究論文や哲学的著作であるならば、いくらでも好きなだけ「軍事力の放棄を、自由の条件としての絶対平和主義を説いて」理想を語ることも許されるだろう。しかし、いざ一国の憲法となると別である。憲法にあっては、哲学的な抽象論や理想論を語るよりも、むしろ国際的な「対外政策の条件」を主たる考慮において規定しなければならないのである。ここにも、樋口氏の現実的政治家ではありえない空論的学者の虚しさ、現実的な国際関係を無視した憲法学者の空論的無能力が出ている。

いずれにせよ、樋口氏の「平和主義」や「人権主義」は、人間性善説の上に構築された理論で、人間性悪説を十分に検討されているようには思えない。少なくとも、人間性悪説に立ったものではない。

  (次回より樋口氏の著書に直接当たって検討して行きたいと思います。)

 

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国家の選択――マルクス主義か、ヘーゲル主義か

2008年02月20日 | 政治・経済

この二十一世紀の時代に生きる私たちの世界を見回して見ると、とくに、世界に存在する国家の姿を見ると、国家の形というものもそれほどに多くあるわけではないことがわかる。いくつかの形態に集約されているといえる。

その代表的なものがアメリカに見るような「大統領制民主主義国」である。共和主義国家といってよい。フランスやドイツなどはこれに準じる国である。

また、中華人民共和国のような「人民民主主義国」がある。これも民主主義の特殊な形態とも言えるが、かっての共産主義国に見られる国家形態である。1989年のベルリン壁の崩壊以後は東欧をはじめとして、この国家体制は世界的な規模で崩壊していった。そして今では北朝鮮やキューバ、中国などいくつかの国にその形をとどめているだけである。

そして、今ひとつの国家形態としてはイギリスに典型的に見られるような「立憲君主国」がある。その多くは北欧諸国に見られ、デンマークやスェーデン、ノールウェイなどの国がそうである。わが国も一応、「立憲君主国」と言われている。

これらの国家形態にイスラム教色の加わったイスラム共和国などがあるが、現代国家の基本的な国家形態は、この三つに分類できるといえる。ただ、そこに軍事独裁国家なども含まれるが、人類の歴史の大局的な流れから言えばそれは例外的で特殊なものである。

この三つの国家体制に共通して言えることは、それらがいずれも民主主義の具体化された特殊な形態であることだ。いずれも近代現代の進展に応じて形成されてきた歴史的な産物でもある。

そして民主主義の出現でもっとも象徴的な世界史的事件がフランス革命であって、この政治的事件は思想が政治革命を主導した点においても画期的なものだった。

こうした人類の歴史を大局的に見れば、それは民主主義の発展の歴史ともいえ、哲学者のカントなどはそれを洞察して自由の実現こそが人類の歴史の目的であるととらえることになった。ヘーゲルもそれを受けて、自由を理念としてとらえなおした。たしかに世界史を観察してみればそうした哲学者の認識も承認できる。

民主主義や自由の理念は以上のように、実際にも三つの特殊的な国家形態として具体化されているといえる。そして、カントの後を受けてその歴史の進展を、一つの必然として論証しようとした哲学者にヘーゲルとマルクスがいる。その歴史的進展の論理を明らかにしようとしたものが前者にあっては『法哲学』であり、後者においては『資本論』だった。

そして、ヘーゲルが『法哲学』において「立憲君主国家」こそが近代の理念であることを論証したのに対して、マルクスは『資本論』においてプロレタリアートの独裁の必然性を論証しようと試みた。だから、世界史の現代はなお、この二人の哲学者の論証の正否の承認をめぐる闘争の舞台であるともいえる。そして、ヘーゲルの真理観からいえば、概念に一致した存在こそが真理であり、真理のみが歴史のなかにつらぬかれることになる。二十世紀の現実の世界史は、人民民主主義の崩壊で幕をおろすことになったが、共和国と立憲君主国は存続している。それはなによりも人民民主主義国家が国家の概念に一致しなかったからではないか。

ベルリンの壁が崩壊したあと東欧諸国に見られたような社会主義国のドミノ倒しの要因について、計画経済がその効率性において市場主義経済に敗北したことに求める論調が多かった。たしかにそれも一つの理由であるには違いない。しかし、もっと根元的な要因としては、やはり、自由の問題を見なければならないと思う。カントがその人類史の考察で結論づけたように、自由は歴史の目的である。にも関わらず、人民民主主義国は立憲君主国以上の自由を実現することが出来なかったからである。マルクス主義の人民民主主義国では、市民の自由に意義を認めず、それを否定的にのみとらえたために、人民民主主義国家は国家としてそれを真に止揚することが出来なかったからである。

だから現代においてもなお、いやむしろ人民民主主義国家の限界の見えている現代だからこそ、あらためて家族、市民社会、国家の論理を明らかにしたヘーゲル主義は生きかえる。ヘーゲルの国家のみが市民社会を正しく止揚するものだからである。
マルクス主義かヘーゲル主義か、その選択の問いは今も生きている。

 

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民主主義の概念(2)  兵役の義務

2007年08月30日 | 政治・経済

民主主義の概念(2)  兵役の義務

少し以前に、pfaelzerweinさんが、ドイツやスイスでの国民の兵役の義務についてのブログ記事、兵役任意制度の存続論 を載せられていたのに関連して、あらためて、民主主義国家における国民の兵役の義務について考えてみたいと思う。これは民主主義の原理を考えることでもある。

ここでの論考の多くの目的は、事物の概念自体について論じようとするものであり、たといもし現実を論じるとしても、それは概念なり理念なりの関係において考察されるものである。だから、たとえば国家について論じる場合もそうである。究極的にはそれは、私自身の「国家」の概念を明らかにしようとするものであり、多くの政治評論家のように、現実の国家についての評論に終始するものではない。ただもし、現実の国家に対する批判があるとしても、その概念とのかかわりにおいて論じられる。

主たるテーマがあるとすれば、それは国家の「概念」であって、必ずしも「現実」の国家ではない。また、それに対する批判があるとしても、もちろん、国家概念に立脚するものである。概念を概念として確立していない評論家、思想家は、現実に追従するのみで、現実を指導することも、批判的な観点を持つこともできない。


もちろん、思想家、理論家は、究極的にはつねに、その「国家概念」なり国家の理念の真理が現実において実現されることを、つまり、思想が現実において実現されることを念頭にはおいている。しかし、たとえもし、その思想なり、哲学が実現されなくとも、その理念についての、概念についての研究はそれ自体として価値は失われるものではない。


ここでの考察は、概念の概念としての研究を本質的な目的とするものであって、必ずしも、現実を究極的な目的とはしてはいない。言ってみれば、理想は理想であって、たとい、それが現実において実現されることがなくとも、その理想自体の価値がなくなるわけではないのである。「概念」の国家、「理念」の国家とは、いわば、「天の国」であって、イエスが「御国の来たらんことを」と祈ったように、もともとそれは、「地上の国」よりもはるか高みに立つものである。天国においては、そこでのどんな小さな人でも、地上のヨハネよりも大きいとされている。

今ここで、もし、国民の「兵役の義務」について、あるいは、「国民皆兵制」の問題について論じるとしても、ただそれは、民主主義の概念からはそれが必然的に帰結するものであるというその論理を明らかにするだけである。それはまたもちろん一方においては必然的に、日本国憲法下の日本国の現実が、事実としてどれほど真実の民主主義の概念から離れたものであるかを承認させることにもなる。しかし、現実が概念に近づくほど、現実は理想に近くなる。


もちろん、現実は現実であって、概念なり理念なりを、つねに純粋に実現できるものではない。それゆえにこそ現実は現実であって、理念ではないのである。理想の民主主義がすでに現実に実現されているのなら、すべての理論家、哲学者は失職してしまうことになるだろう。

しかしまた、現実は理念なり概念に導かれるものである。理念なき国家は、広い大洋で北極星を指針に仰がない船のようなものである。それでは進むべき進路を確認することはできない。そして、国家の運命は、現代においてはそれは国民自身の運命でもある。だから、安倍首相の「美しい国」のような、低級な「理念」にしか導かれないような国家と国民は、それだけ、貧弱で低劣な国家生活しか持ち得ないのである。それが真実であることは、日本国民の現実の生活によって証明されているであろう。貧弱な国家理念しか持ち得ない国民は、それにふさわしい国家生活しか持ち得ないのである。

戦前の大日本帝国憲法下の日本国民にあっては、文字通り「天皇の兵卒」として全国民は徴用されて天皇の兵士となった。戦前の日本はその意味で全国民に兵役の義務があり、国民は一定の年齢に達すると、兵役の義務を果たした。全体主義であれ民主主義であれ、国民は国家に従属する存在であって、国家は国民に奉仕を求めうる権利を持つ点については変わりはない。

戦後のマッカーサーのGHQによって、「民主化」は促進されはしたが、民主主義が全体主義に思想的に勝利したかどうかについて、思想上の問題ではあるだけに分かりにくい。軍事的な問題とは異なって決着は就いたわけではないと思っている。今でも事実上思想戦は戦われている。もちろん歴史的には、全体主義国家は民主主義国家に、軍事的に敗北したのは事実ではあるけれども。


ただここで、大日本帝国憲法下の軍隊についての私個人の私的な見解を付け加えて置くならば、多くの国民が「帝国臣民」として徴兵検査を受け、またいじめやリンチが多発したいわれる階級制度の厳格な当時の日本の軍隊の抑圧的で非人間的な性格については、まったく肯定できないし、もしそれが事実の性格の軍隊であれば、敗北し崩壊して当然であると考えている。

しかし、だからといって、現行の日本国憲法下の日本国が、国家として、また、「民主主義」国家として肯定しうるかというと、決してそうではない。日本国憲法によって規定されている日本国の現実も、きわめて欠陥の多い国家体制であるという認識を持っている。

その象徴的な事実の一つが、国家の防衛にあたる国民の「兵役の義務」について、それを少なくとも現行憲法の第18条に違反する奴隷的、苦役的な労役とみるような憲法解釈であり、そうしたゆがんだ国家観である。このような異常な国家観、奇形的な国家観の現実が戦後60年も放置されてきたのである。わが国が、どんなに異常な民主主義観の上に成立した国家であるかということが、こうした一事においても明らかであるだろう。

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三流国家としての日本の現状

2007年08月20日 | 政治・経済

防衛次官人事、「内閣は死に体」=民主・渡部最高顧問 (時事通信) - goo ニュース

小池防衛相、去就に注目 擁護論と批判、どうする首相(産経新聞) - goo ニュース

人事混乱「大臣よく選ばないと」=自民・舛添氏 (時事通信) - goo ニュース

三流国家としての日本の現状

安倍晋三首相が小池百合子氏を防衛大臣に任命するという人事を発表したときに懸念していたことが現実になりつつある。

              日本国の洗濯と人を見る眼

これでは一国の防衛が成り立つはずもなく、ますますもって日本は諸外国から軽侮と軽蔑の対象になるだけである。北朝鮮から核ミサイルの一発でも発射されてはじめて、退廃した国民は眼を覚まし、日本国も再生しうる機会を持ちうるのかも知れない。

マッカーサーによる戦後のGHQの日本統治の戦略が功を奏して、いよいよ日本は亡国の坂道を降り落ちつつあるということだろう。歴史の時間を1941年12月8日にまで巻き戻し、そこから日本の歴史を改めて歩み直す必要がある。

 

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参議院選挙の投票基準

2007年07月31日 | 政治・経済

領収書添付、全団体1円以上=政治資金規正法を再改正-自民方針 (時事通信) - goo ニュース

参議院選挙の投票基準

ある新聞社の掲示板で、参議院選挙の投票基準について、ある読者が次のような意見で投稿していました。それに対し私の投票基準は少し異なっていたので、以下のような意見を投稿しました。

引用>

あなたは投稿№00120.で 国政選挙について


社会保険庁の問題や「政治とカネ」の問題で、選んではならないと思う。権力闘争のためのスキャンダルで選んではならないと思います。
日本の将来の安全保障と繁栄をどう進めるのか、日本が毅然とした国になるためにはどうすべきか、という視点で選ぶべきだと思います。

と述べられていますが、私の考えは少し違います。『政治とカネ』で、さらには『酒と女』できちんとできない政治家は、『日本の将来の安全保障と繁栄』を確立することも『日本を毅然とした国』にすることもできないと思います。『政治とカネ』は、そこに政治家の人格と品格が現れる根本です。ですから私は『政治とカネ』の問題で政治家を選びました。そして、この『政治とカネ』で倫理を確立することが、憲法問題以上に、日本を戦後レジームから、さらには封建日本レジームから脱却させることであると考えています。ですから、私は今回は『政治とカネ』で投票しました。

>終わり

この問題は、どのような人間観を持つかにもよると思います。人間の能力と倫理の関係です。高い倫理には高い能力が伴うと原則的にはいえると思いますが、しかし、両者の間には必然的な関係がないというのが人間たるゆえんかも知れません。

極めつきのやり手で高度の手腕、力量があっても、平然と賄賂のやり取りをしながら、泰然としている人格もあります。また「英雄、色を好む」という言葉もあり、武家社会の人格を色濃く残した明治の政治家、伊藤博文などは「酔うては枕す窈窕たる美人の膝、醒めては握る堂々たる天下の権」と詠じているようです。同じ「長州」の後輩である安倍晋三首相も祖父の岸信介氏と同じく、清濁併せ呑む「大きな器量」の持ち主であることをめざしているのかも知れません。

また、真実のほどは分かりませんが、乃木希典将軍はその高潔な人格ほどには、軍事的指導力においては卓越していなかったともいわれています。

ところで、今日の日本の根本問題の一つに公務員制度の制度疲労の問題があり、いわゆる官僚の早期退職制度や「天下り」などによる弊害が国家の中枢を蝕みはじめています。とくにキャリア制度が破綻をきたしているのだと思います。いわゆる「高級」公務員のモラルも、地に落ちはじめているのではないでしょうか。公務員全体のモラルと士気を向上させるためにも、公務員制度の根本的な改革が必要であると思います。

とくに戦前の全体主義的な「愛国心」の反動か、公益よりも私利私益を優先する戦後の風潮が国民、政治家、公務員などに顕著であるとすれば、そうした状況下にあっては、「政治とカネ」を選挙の投票基準とすることも悪くはないと思います。事実、今回の選挙では多くの国民がそうしたのではないでしょうか。そして今回の選挙結果によって、国民の意思が少しは自民党指導部にも通じたようです。

安倍晋三首相は選挙の敗北を受けて、政治資金規正法案の再提出も考慮に入れているようですが、姑息だと思います。安倍首相の「美しい国」の「概念」には、「武士は食わねど高楊枝」とうい武士道の片鱗すら含まれていなかったようです。

 

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国民住宅(フォルクスハウス)――日本の科学と公共の意思

2007年07月19日 | 政治・経済

                          

        

国民住宅(フォルクスハウス)――日本の科学と公共の意思

新潟でまた地震があった。日本はそもそも地震列島とも呼ばれ、大陸プレートと海洋プレートがひしめきせめぎ合う地殻の上に国土がある。その上に生活する国民の運命の悲哀というべきか。いや決してそんなことはない。科学の発達した今日、地震による死亡事故などの大半は、国家と国民の危機管理能力の欠陥による人災である。

地震列島はその一方で、豊かな天然地下温泉を湧き出し、変化に富んだ美しい自然景観を造りだす。その天然の恵みは決して小さくはない。地下マグマの自然エネルギーを善用活用して国民の幸福に役立てるか、それとも、その前に、無力に手をこまねいて地震災害被害に泣くかは、国家と国民の危機管理能力しだいであるといえる。

日本などのような地震国では、そして、これほど深刻な環境問題を抱え込んだ現代においては、原子力発電以上に、国家プロジェクトとして強力に地熱発電の研究・開発に取り組まれるべきものである。地熱エネルギーの最大限の有効利用に取り組むべきである。そうしたことができないのは、科学技術などのハードの未発達に原因があるいうよりも、国家の組織機構に、政治や教育といったソフトに、国家の頭脳、その指導性に欠陥があるためである。経済産業省や国土交通省などの各省庁を横断して、欠陥の多い原子力発電に代わるものとして、地熱発電や太陽光発電、風力・海洋エネルギー発電などに強力に取り組まれていてよいはずである。

十余年前の阪神淡路大震災で、当時の村山富市首相の対応の遅れによる震災被害の拡大の教訓がいまだ十分に生かされていないように思われる。地震が起きてからの事後危機管理も充実させる必要のあることはいうまでもないが、不備を感じるのはとくに「事前の」危機管理である。

それにしても、ひとたび地殻が変動し、大地が揺らぐたびに家屋は倒壊し、そのために多くの犠牲者が出るというのはあまりにも惨めである。先の阪神淡路大震災でも、多くの家屋が全壊半壊し、その倒壊によって多くの人々が圧死した。そして、それに引き続く火災によっても多くの人が犠牲になった。今回の新潟沖地震ではそれほど多大な人的被害は出てはいないが、阪神淡路のような地震が来れば、日本のどこであれ、またふたたび家屋倒壊などに起因する大災害になりかねない。現代のような科学技術の発達した時代において、そうした人的被害を防ぎ得ないというのは、天災ではなく行政の不備による人災と考えるべきであろう。その根本的で重要な対策の一つに、住宅、工場、公共施設のさらなる耐震構造化を進めてゆく必要があると思う。

二十一世紀に入ろうという現代において、住宅家屋の倒壊による圧死というような後進的な災害が現代において繰り返されてよいのかという率直な印象を受ける。地震による被害が深刻なものになるのは、根本的には旧来の日本家屋の耐震構造があまりにも脆弱で、かつそれが放置されたままであるためである。それは素人目にもあきらかだろう。商店街を歩いてた婦人が商店の倒壊により下敷きなったり、また、お寺の屋敷が倒壊して老人が下敷きになって死亡するなどというのは決して天災などではない。商店や寺屋敷の建築物が耐震構造になってさえいれば防ぎえた人災である。

自然の威力を前に右往左往させらるのが人間の尊厳であるとは思わない。地震であれ台風であれそうした自然の威力に対抗し克服してゆくところに人間の尊厳があると思う。人間は神の子であり、「空の鳥と地の獣は海の魚とともにすべて人の手に委ねられている」(創世記9:2)。人間は自然の奴隷ではない。

国家の危機管理の問題である。危機管理には、事前危機管理と事後危機管理がある。以前と比較すれば改善されてきているとはいえ、とくに地震やテロ、戦争などの対策において、首相を頂点とした統一性のある事前・事後の危機管理対策が十分に構築されているとは思えない。とくにあまりにも貧弱なのが、「事前の」危機管理対策である。国家の頭脳としての意思決定と、その全国津々浦々への迅速な伝達を担う神経組織が十分に効率よく組織立てられているとは思えない。
 
これだけ国内に地震災害が多発することがわかっているのにもかかわらず、いまだ住宅や工場、原子力発電所などの公共施設の耐震化が十分に進んではいないようである。日本には地震に弱い老朽木造住宅がまだ1,000万戸あるともいわれている。建築基準法は改正されてきているとはいえ、こうした現状が放置されているのも、国家の危機管理能力の低さの現われではないだろうか。。

こうした事前の危機管理対策が不十分であるとしても、それは日本の科学技術が未発達であるためではない。それよりも、縦割り行政や、公務員制度、旧弊の都道府県制度といった、危機管理を支える国家組織や体制機構など、政治や行政の劣悪さに起因する部分がはるかに多いのではないだろうか。国家を一個の有機体として、どれだけ美しく完全で効率的な国家体系にしてゆくかは国民自身の課題である。

その中でも、とくに緊急性のあるのは、震災による死亡事故の原因の大半を占める、旧来の木造日本家屋の老朽化した脆弱な住宅の耐震対策である。この弱点を克服しえていれば、地震後の火災発生件数も含めて、震災による圧死や焼死などの死亡者数もはるかに少なくなると思われる。

伝統的な木造家屋の耐震構造の弱点や欠陥を克服するために、国土交通省や産業経済省などが結集して、国家的な規模で「国民的家屋」のモデルを開発すべきではないだろうか。それによって、震度8ぐらいの地震にも十分に耐える耐震構造を持ち、生活上の利便性、効率性も極めつくし、なおかつ伝統的な日本建築の美しさも生かした、日本の風土、自然景観とも調和したモデル住宅建築を、国民住宅(フォルクスハウス)として、二十か三十程度も提示できないものだろうか。それを国家プロジェクトとして、安藤忠雄氏などの建築家をはじめ、美術家、耐震工学者、宮大工など国家の頭脳を総結集して設計できないはずはないと思う。必要なのは強力なリーダーシップである。

かって、ヒトラーのナチス・ドイツの下で、国民車(フォルクスワーゲン)とアウトバーンが整備されたという。ナチスドイツの国家犯罪は真っ平ごめんであるとしても、日本においても、国民住宅(フォルクスハウス)が構想されてもよいのではないかと思う。それが普及すれば、少々の地震にもびくともしない国民性が培われるとともに、何よりも、この上なく醜くなった現代日本の自然景観、都市景観の改善が見られるようになるはずである。

そうして現代日本人の殺伐とした精神構造を反映するかのような、むき出しの電柱と電線と雑然とした雑居住宅の醜悪さそのものも改善され、癒されてゆくのではないだろうか。それとも願わくは、地中海の美しい海に照り映えるギリシャの町並みと同じ美しさを、この日本に再現することを夢見るのは、かなわぬ一夜の夢物語に過ぎないか。

柏崎刈羽原発の防火体制 05年に不備と指摘 IAEA(朝日新聞) - goo ニュース

「補強する金なく」高齢者の家に犠牲集中…中越沖地震(読売新聞) - goo ニュース 

 

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