marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(473回目)『私の人生』(母の証<あかし>:遺品から)

2018-01-04 20:16:15 | 日記
 私の兄弟は七人、腹違いの弟と妹が三人、私は長女。兄は戦死。生母は私が八才の時病死、それは十二月の寒い日に亡くなり、その次の六月に今の母(七十九才)が後妻に来ました。私の幼き頃は、いじけた可愛くない子供だったと思います。継母は連れ子をしてきました。其の子は私より四つ下の四才だったと思います。女の子でせつこといいました。父が其の子をよく可愛がったことを覚えています。でも私には祖母がいていろいろ気を使ってくれていましたが、母の代わりにはならず、今にして思えば私はわがままな子供だったことは間違いありません。十七才の時に一番大好きな兄が戦争に行き、たよりにしていた兄もいなく、私は十九才の時に家を出ました。七年後に今の主人にめぐり逢い結婚しました。
 私は、結婚する前より私を育ててくれた祖母が神を信ずる方で、よく祖母がお祈りしている処を見、私もお祈りすることを教えられました。主人と一緒になり、主人の母と同居する事になり、いろいろなことを教えられました。主人の兄弟は男ばかり三人で、主人は三男です。義父と義母は明治生まれの方で、今の人がよく言う融通のきかない頑固なところのある人でした。でも、義父はよく本を読み勉強する人でした。よく口癖のように人は死ぬまで勉強しなければいけないよと言っていましたし、義母は暇なく手を動かし、いつも何かをしていました。料理はとても上手な方で、よく近所に頼まれて手伝いに行き、料理の先生をしていました。私は義父に注意されたことを覚えています。主人を出世させるのも妻の務めだ。女の人は口をつつしみ何事も出しゃばらず、口はわざわいのもとになる事を、後に役立っています。義母は、私が毎日神様にお祈りする事をとても気に入り、若いのに珍しい事だと言っていました。
義母は、息子の嫁が三人いるので、どの嫁にも厳しかった人ですが、私には特に厳しかったと思います。後に私が一番可愛がられました。義父は三十九年八十才、義母は四十九年八十三才で亡くなりました。
 私の娘と息子は、義父母には異常に可愛がられ、義母なんかは死ぬ間際まで孫の名前を呼んでいました。私は、義父母には私なりに精一杯尽くしたつもりです。今にして思えば孫の成長を見ずして逝かれたことを残念に思います。でも私は、天国で必ず可愛い孫を見守っていてくださる事を信じています。
 私は五十数年の間、多くの方に出逢い、また分かれもしました。その数多くの方に教えられたことが沢山あります。喜びも悲しみも知りました。主イエスを信じて教会の兄弟姉妹にもお逢いすることが出来ました。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。私の人生はこれからだと思っています。今日のこの日は二度と来ません。この時間を大切に、主イエスに感謝し、夫に感謝、子供に感謝、友達に感謝の気持ちを忘れずに精一杯希望を持って生きたいと思っています。

 ”妻たる者よ、主に服(シタガ)ふごとく己の夫に服(シタガ)へ、キリストは自ら體(カラダ)の救主にして教会の首(カシラ)なるごとく、夫は妻の首なればなり。教会のキリストに服ふごとく妻も凡てのこと夫に服へ。”夫たる者よキリストの教会を愛し、之がために己を捨て給いしごとく汝らも妻を愛せよ。キリストの己を捨て給いしは、水の洗いをもて言(コトバ)によりて教会を潔め、これを聖なる者として、汚點(シミ)なく皺なく、凡て斯くのごとく類いなく、潔き瑕なき尊き教会を、己の前に建てん為なり。”(エペソ書五の22~27節)
                  (「ながれのほとり」インマヌエル秋田教会 1982年3月21日発行 あかし集 より)
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 母は、昭和54年7月5日 インマヌエル青森教会にて受洗 
 父が昨年2017年9月5日深夜に亡くなり母は後を追うように12月27日午後3時 旅立ちました。ここに記録を残します。***