marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

ヨハネによる福音書(敷衍訳)(第5章9~18節 律法の根底にあるもの)

2016-10-22 22:18:50 | 日記
◆ヨハネによる福音書◆律法の根底にあるもの(第5章9~18節)八木誠一訳(1970年)
9-10:しかしそれはちょうど安息日で、仕事は一切律法によって禁止されている日であった。それでユダヤ人達は病気がよくなった人に言った。
 「今日は安息日である。だから担架を担いで歩くのは違法である」。
11:その人は彼等に答えた。
 「私の病気を治してくれた方が、『担架を担いで歩け』と命じたのです」。
12:ユダヤ人達は尋ねた。「お前に『かついで歩け』と言った人は誰だ」。
13:ところが病気をなおしてもらった人は、それが誰だか知らなかった。イエスは、その場の群衆を避けて、立ち去ったからである。
14:そのあとイエスは神殿でその人をみつけて言った。
 「どうだ。なおったではないか。もう罪を犯してはならない。もっと悪いことになるといけないから」。
15-16:その人は行ってユダヤ人達に「私を癒したのはイエスです」と告げた。それでユダヤ人達は、安息日にそういうことをしたかどで、イエスを迫害しはじめた。
17:イエスは彼等に答えて言った。
 「私の父は今に至るまでずっと働き続けていらっしゃる。だから私も働くのだ」。 
 イエスは神の業はやめた(創世記2・2以下、出エジプト記 20:11 31:17)が、世をたもち、また審く業は続けていることを指して言ったのである。そしてキリストの啓示の業は同時に世に対する審きにほかならない。ゆえにキリストの働きは安息日だからといって止むことはなく、人も安息日だからといってその働きを受けないということはない。
18:しかしユダヤ人には、イエスの言葉は冒涜に聞こえる。イエスは安息日を破ったばかりではなく、その理由として、自分を神と等しくするからである。だからユダヤ人はますますイエスを殺そうと思った。しかし、イエスが神と等しいということは、ユダヤ人が誤解するように、神を無視して自分が神にとって代わるということではなく、全く反対に、彼が神に服従している限り、彼の業は神の業であるということになるのである。しかし神への服従というのは、律法の文字面だけを知って神のリアリティそのものを知らない彼等にとっては、理解できることではない。だから律法の根底にあるものに即して行為したイエスに対するユダヤ人の憤激は、そのまま彼等の不服従を示すことになるのである。

 (<律法の根底にあるもの>の章) ・・・終わり  






















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