marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

<Ⅲ>PS:首無し地蔵に会いに行く、黒子との対話:親愛なるXへ(その3)

2022-04-05 09:31:06 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

  PS: 知人から、スマホで見たらお前のブログ、タイトルまで消えてたぞ!・・・ということで写真を掲載する。

親愛なるX:首無し地蔵の写真を撮ったのだけれど、見当たらない。こういうこともしばしばで、撮ったはずの写真がすっぽり消えているということが、今まで少なくとも三度あった。

 これは新聞に載ったことだが、県南に銀山跡があって、こういう場所には近辺にお寺が建てられていたものだったが、廃坑になってもその寺は今も存在し、そこの住職が言うには、墓の周辺の写真は撮らないことにしていると。その理由は霊が写るから、という記事であった。こういう記事がまともに掲載される。無論、これに対する記者の評価はなく言われた事実を書いているとうことになるのだろうが。

 専門職の方は、それは何ら不思議なことでもなんでもなく、まさにそれだから、朝夕のお勤めもしているということになるのだろう。前にも書いたが、東日本大震災での避難プレハブにおいて、よなよな空き部屋から大勢の話し声が聞こえてくるというので、坊さんで芥川賞作家の玄侑さんが、きちんと成仏の為のお念仏を唱え霊を鎮めたというお話を伺ったことがある。

 で、僕の経験したその三度というのは、一つ、学生時代、同研究室の学友と工場実習で広島に行ったときだった。まだ、このころはデジカメなどなくフィルムであったのだが、原爆記念館であのドームを背景に撮った写真が一枚も写っていなかったのである。他のは同じカメラで映したものは撮られていたのでフィルムの空回りなどではない。

 二つめ、学生時代、卒業まじかの時、友達の知人である女性がいたのだが、親の紹介で結婚のお見合をいし、相手からとても気にいられたのだが、一度承諾も彼女は結局、やめたいと言い出し、親はたいそう叱られたようなのであった。弟さんがおられ、とてもおしとやかで大人しい方だった。その夜、彼女は村の川に入水自殺をしたのだった。後年、そこにお地蔵さんが建てられたのが、僕は知人とそこを訪れ、その地蔵さんと写真を撮ったのだが、それが写っていなかった。

 三つめは、これはデジカメ時代。シャッターが切れない事態。天気のとてもいい日。市内から家に来る道沿いに戊辰戦争を戦った人々を葬った大きなお寺がある。由緒なるお寺で、入口には石で作られた左右に大きな仁王さんが建てられている。入口左には、人の高さほどのこれも古い大仏さん。このお寺に隣接するもうひとつのお寺の境にクリスチャンのお墓があって、その日は、近くのシスターたちがお墓掃除に来ていたので、キリシタンが処刑された場所が近場にあるのでそのお墓があるか不謹慎ながら尋ねたのだ。韓国の方の殉教のお墓はありますけれど、ということで、殉教された方々はこの墓地ではないなと思った。カトリックは駅裏に大きなお墓があるから、その場所にはミサも行う石のテーブルも造られている。そちらかなと・・・。

シスターが帰られた後、十字架がかたどられたお墓、女性は洗礼名でマグダレーナと書かれたものが多かったが、シャッターを押したのだが切れないのである。3度ばかり行ったが下りなかった。その後、時間が経過し、ようやくおりたが、シャターが切れることを確認し、僕は写真を撮るのを辞めた。

 黒子たちは、今も生きている。黒子の存在幅は非常に広い。それは幽霊というのではなく、幽(ゆう)というものでなく、怖いものでなく、字際に目には見えないが生きてあるものであることを感ずる。それは、天の支持を受けて、人にリーンカーネーションして本人が気がつかない者もいるだろう。時折、働きかけ人の意識に語り掛け考えが変わってくる人もいるだろう。霊にも高尚な霊から低級な霊もいるという訳だ。そして、再度、今生に再生したいと生きている人に働きかけるのである。死後それぞれが、ふさわしい霊界に行くという訳である。向上を求める霊、低級で死後に引寄せられる霊。

 写真に写りたいと願わなかった彼らは、撮らないで欲しいと思ったのだろう。お墓の中から出て、一時それはかくれんぼしているのだからと。

 イエスが、ニコデモにこの地上で起こっていることを語っている場面。「新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」というあの有名なイエスの言葉。ニコデモは答える「こんな年寄りがどうして、また母の胎に戻れましょう」と。

 そこで、イエスはプネウマ(霊)のことを風にたとえて説明する。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことも分らないのか、地上で起こっていることを話しているのが分からなければ、天上で起こっていることを話してもなおさら分からないだろう」と。彼は今も生きて聖霊として語っているというのである。信ずる者には、それが分かるというのである。だから、常につながっておれと語り掛けていると。だから・・・

「いつも喜べ、絶えず祈れ、すべてのこに感謝せよ!」と・・・



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