marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(463回目)その3:この国のアイデンティティー(憲法改訂と天皇の改元について少し)

2017-12-09 20:40:29 | 日記
 表題の(  )内の今の考えはこの程度という少し恥さらしのところですが、主旨から言えばどうしても触りは書留めて置かなくてはと思ってしまう。その前に、何でもキリスト教は正しいのか、と考えられる方がおられれば、やはり御自分が思われているキリスト教とは何かと考えられることをお勧めする・・・と偉そうに書いてたのはいいいが、これは難しい。全てのしがらみから解放されてと書いても、まずは本当は自分の言葉で直接、ぶつかって見なければ分からないのだが、先の『日本の思想』(丸山真男 著)の Ⅲ思想のあり方についてあるように”人間はイメージを頼りにして物事を判断する”からである。
◆それは、人の思いは結果として現れ、それが組織だって善きにも、あるときは悪さもおこすという具合だからだ。キリスト教国西欧の歴史の悪さを見よという具合である。しかし・・・だ。実のところ、この国の自国の歴史は全て教えられていないのである。おそらく知ってもそれを受け入れる考えを支える土台が鍛えられていない。東日本大震災の傷跡も見たくもないとのニュース。何度、痛い目にあっても自分が嫌なものは嫌なのだと。で、いいとこどりで考えたいのだ。この国だけでもないだろうが多数ある。12月8日は、1941年(昭和16年)に日本がアメリカとイギリスに宣戦を布告した「 開戦の日」、いわゆる太平洋戦争の開戦日。このとき、この地方でのニュース、日本で最後に空襲が行われたところで近くのお寺で戦争のむごさを学ぶというので、子供達が爆風で落とされたといわれ、首の無い六地蔵のさんお前で手を合わせている。
◆この地蔵の首については嘘である。心情的な事柄に如何に嘘が舞い込むかのいい例である。日本中では”日本むかし話”でも知られる六地蔵さんの首がないのが、あちこちで見られるはずだ。これは、日本の歴史で日本全国で起こった”廃仏毀釈”で落とされたものだと・・・これは、実は田舎の寺の若い住職に教えられたものである。確かに戦火に遭わなかった田舎のお寺の地蔵も首が無くなっていた。田舎の墓に登る道を中に「上」(カミ)の、「下」(シモ)のと言っていたが、お墓に着く前に12体の六地蔵が小屋に並んでいる。「上」に住んで居た僕の田舎のミツ婆さんは、”罰当りめ”と「上」の地蔵の首を守ったそうだ。だから、「上」の六地蔵の首はきちんと今もついている。「下」の地蔵の首は全てない。僕は田舎の墓に行くといつも六地蔵のことでミツ婆さんを思い出す。
◆人は、その善い面として仕組みになったことは当たり前のように体験していてるのだが、それは実は多くの人の願いや努力の上になされた来たものなのだ。それに対し、悪い面は誰にでも敏感に共有化することができ、しかも人は誰しもが批判家になれば優位性の気分的は持てる意味合いから、簡単に唾棄すべきこととして共有化できる訳だ。子供達のいじめについても似たものだろうと。客観的に自己を見つめるには、”人はいかなる生き物か”というような土台が無ければならないだろう。ここに医学的な進歩で人の作りの機能面の研究はなされてもそれを総じて支える一貫した普遍的なと言えば話は大げさになるが、その言葉がない。先の著作に従えば、価値の歴史的蓄積という契機はすべり落ちてしまうのである。(p23)これはキリスト教で言えば「人間の罪」の概念に拘わるもである。
◆天皇制についてはその有りようで日本のアイデンテティーが保たれてきたきたことは疑いようがない(賛成とか反対とかではない)。しかし、伊藤博文が日本の国の「機軸」のない憲法政治に対して、にわかに恣意的に神道からみで、「我が国にありて機軸とすべきは、独り皇室あるのみ。・・・」(p30)としてヨーロッパ文化千年に渡る「機軸」をなしてきたキリスト教の精神の代用品を兼ねるべくにわか国家体制の創作、しかも隣国までその強制範囲を広げていこうとしたことは、思想も何もあったものではなかったという、しかも心情がらみでその分離も定かで無く、情の世界に流され、未だ「機軸」が見えようで見えないのはどうしたものかと思うのだ。・・・ 

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