marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(612回)  わたしは、彼と共に十字架につけられ、もはや生きてはいない

2020-01-02 16:17:17 | 日記

表題は、新約聖書の手紙を書いた使徒パウロの言葉である。

◆改めて、僕はカミュの小説「異邦人」や米谷みよ子の小説「過ぎ越しの祭」を思い出す。そして何を思うか。まったくだらだらしがちな、年老いて頭も痴呆気味になってきつつ、しかも肉体は刻々、老体から死という無機物に向かおうとしているのに。この肉体からの離脱、しかし、僕らはそれが解放されるまで拘束される今を思う。被創造物は、新しい世界への飛躍のためにこの地上でうごめいて耐えているのであると。

◆生きている限り何をするにもこの身体から解放されることがない。しかし、言われてみれば人は、そのDNAの制限というところまでは考えはしていないものなのだ。考えてどうする。過ぎ去りし事は考えない。これが一番だと思う。それは、できない理由付けを探っているようなものだからなのだ、とAはいう。優位性勝利、誰の前にも障害はない。しかし、最後の敵は彼の内にあり、彼の大脳皮質にありと言おうか。いずれ僕らは消えてなくなるのだ。

◆しかし、我々は、こういうコトバを知っている。すべては空であると。それは諦めか、あるいは自分の前に障害が起こった時の逃避であるのか。しかし、彼を知っているものは、その意味を探ろうとし、理解が得られないときは、それも何らかの意味があろうと委ねるという思考を行う。更に積極的な意味を探ろうとする。「苦しみ、悩みも、又、恵みであると」。さらに、究極的に外部からの死をも受け入れると。この肉体を持っているからこそ感じるもの。彼は、事実死なれたのだから、そして、見て触れるという事実として復活したのだから。

◆それはどういう意味か、彼の死への苦しみ、外部からの肉体的苦痛とともに、言われ無き否定という精神的苦痛、残されたものはもう「死」という沈黙。彼の苦しみへの同期である。彼はこのすべての内外のあらゆる苦しみを受けたのだ、という思い。それが、我らの体のよみがえりにも同期するという。我らは彼の死に預かっているのであると。その、復活に預かるために。わたしがこうして今生きているのは彼を信ずる信仰によって生きているのだ、とパウロは言うのである。・・・ 



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